クラウス・ラインハルト野戦日誌


1942年10月23日(金)


朝、曇り。瓦礫の街の中に配備された。

住宅街は既に形を保っていない。屋根は落ち、窓は全て割れている。

我々はその廃墟の中に陣地を築いた。

敵との距離はわずか80メートル。

夜、初の小規模な交戦。

ロシア兵は暗闇の中で奇妙な叫び声を上げてきた。

撃ち返す。手が震えた。

士官学校で習った射撃とは違う。人が倒れるたび、心臓が冷える。




1942年10月25日(日)


弾薬の補給が遅れている。

水も不足。パンは湿ってカビ臭い。

だが誰も文句を言わない。言葉を交わす気力も失っている。

工場の煙突からは黒い煙。

その影の中から、敵の狙撃兵がこちらを狙っている。

外に出るのは死を意味する。




1942年10月27日(火)


上空にJu 87 スツーカが飛来した。

それは我々にとって唯一の“味方”の音だ。

しかし爆撃は住宅街のさらに向こう。

ここには来ない。ここは“忘れられた前線”だ。

夜、敵が迫撃砲を撃ってきた。

レンガ壁が粉々に砕ける。

耳鳴りが消えない。

それでも私は日誌をつける。

理由は分からない。ただ、生きている証を残したい。




1942年10月29日(木)


ヨーゼフ伍長が死んだ。

頭部を狙撃された。話している最中だった。

彼は立ったまま崩れ落ちた。

目を閉じてやることすらできなかった。

外に出れば、次は俺だ。

血が床にしみ込むのを、ただ見ていた。




1942年10月30日(金)


敵との距離はさらに近くなっている。

瓦礫の影からロシア兵の息づかいが聞こえる。

夜になると呻き声と叫び声が交じる。

人間の声というより、獣の鳴き声のようだ。

手榴弾を投げ、撃ち、叫び、倒れる。

これが戦争なのか?

士官学校で教えられたものとは違う。

現実はもっと、汚くて臭くて、音が重い。




1942年11月1日(日)


食料は尽きた。

敵の死体から缶詰を奪う者もいる。

私はそれを見ても何も思わなくなった。

人の形をしたものを“資源”としか見られなくなっている。

クラウス、

お前は本当にまだ“人間”なのか?




1942年11月2日(月)


敵は住宅街の角まで来た。

小銃の照準越しに敵兵の瞳が見える。

一瞬目が合った気がした。

そして私は引き金を引いた。

その夜、吐いた。

しかし朝になると、もう何も感じなくなった。




1942年11月4日(水)


仲間はもう5人しかいない。

無線は沈黙した。

支援も、撤退命令も、何も来ない。

雪が降ってきた。

白い雪が血を覆い隠していく。

死体の上にも、銃の上にも、焼けた壁の上にも。

戦争を“きれい”に見せようとするかのように。




1942年11月5日(木)


雪が止まない。

仲間の声が聞こえなくなってから、

もうどのくらい経ったのだろうか。

銃を握っていないと、不安になる。

自分がもう“いない”ような気がしてくる。

銃だけが、私の輪郭だ。

私はもう何の為に戦っているのか分からない。

もし誰かがこれを読むなら、伝えてほしい。覚えていて欲しい。

たとえ、名も、顔も、記録も、すべて消えるとしても――

私は確かに、ここに“いた”ということを。

少尉クラウス・ラインハルト。

ただの一人の兵士だったと。


______________________________________

【記録者注】

この日誌は、11月7日に瓦礫の住宅街で発見された。

クラウスの遺体は見つからなかった。

しかし、彼の銃とヘルメット、そしてこのノートが残っていた。






                                     完

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永久凍土の下には・・・。 科学部の長 @kinntyann0515-2023011327

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