第三章 さよなら、竜宮シティ

 竜宮での暮らしは、夢のようだった。


 朝は珊瑚の光で目覚め、昼は魚たちが運ぶ泡のベッドで昼寝をする。

 夜になれば、街全体が青い光を放ち、クラゲの電飾が空を泳いだ。

 この世界では、誰も怒らない。誰も責めない。

 ただ、静かで、穏やかで、永遠のように続く毎日。


 浦島太郎は、いつしか笑うようになっていた。

 会社のことも、金のことも、誰にどう思われるかも、もうどうでもよかった。


 乙姫はいつも傍にいた。

 時々、彼に質問をする。

 「地上の風は、どんな匂い?」

 「空って、本当に触れないの?」

 そんな無邪気な問いに、浦島は笑いながら答えた。

 「風は……自由の匂いがするよ。痛いほどにね」


 乙姫はそのたびに、少し寂しそうに微笑んだ。



 ある夜、竜宮の海に“ノイズ”が走った。


 まるで壊れかけた電波のように、街の光が一瞬だけ点滅する。

 海の流れが止まり、魚たちの群れが静止した。

 乙姫の顔が曇る。


 「……やっぱり、来ちゃったんだね」

 「何が?」


 「あなたの“現実”が。地上であなたを探してる人がいる」


 浦島の心が揺れた。

 「俺を探してる?」

 「ええ。会社の同期。あなたの母親も。

  みんな、あなたがいなくなった海岸に花を置いてる」


 心の奥で何かが弾けた。

 忘れていた名前、声、匂い。

 すべてが、泡のように蘇ってくる。


 「でも……俺は、あっちではもう必要ない人間だ」

 浦島は俯いた。

 乙姫は静かに首を振る。


 「必要かどうかなんて、他人が決めることじゃない。

  あなた自身がどう生きたいか、それだけでいいの」


 彼女の言葉が、胸に刺さった。



 竜宮の海が、少しずつ崩れていく。

 塔が溶け、光が海に吸い込まれる。

 まるで“夢”が終わるみたいだった。


 乙姫は、小さな箱を浦島に差し出した。

 透明な貝殻でできた箱――玉手箱。


 「これを持っていって。地上に戻っても、開けちゃだめ。

  それを開けた時、あなたが“本当に何を望んでいたか”がわかるから」


 浦島は頷いた。

 そして乙姫の瞳を見た。

 その瞳の中には、涙が浮かんでいた。


 「君は……ここに残るのか?」

 「私は、“ここ”そのもの。あなたが帰ると、私は消える。

  でも、それでいいの。

  海は、もともと誰かの悲しみから生まれた場所だから」


 浦島は言葉を失った。

 ただ彼女の手を握り、静かに言った。


 「ありがとう。生きてみるよ、もう一度」


 乙姫は微笑んだ。

 「それでいい。――おかえりなさい、浦島太郎」



 目を開けると、海辺だった。


 朝焼けが水平線を染め、潮の匂いが鼻をくすぐる。

 手の中には、冷たい貝殻の箱。

 スーツはボロボロで、靴もない。

 でも――生きていた。


 海辺には、誰もいない。

 ただ、波の音だけが寄せては返す。


 浦島はしばらく、玉手箱を見つめた。

 開けるな、と言われたけれど、胸の奥がざわめく。

 彼はそっと蓋を開けた。


 中から、青い光が溢れ出した。

 海の匂い、乙姫の声、そして、彼がこの世界で過ごした記憶が一瞬にして蘇る。


 ――ありがとう。

 確かに、彼女の声が聞こえた。


 気づけば、頬を伝う涙が止まらなかった。

 それは悲しみではなく、あたたかい再生の涙だった。


 浦島は立ち上がり、水平線の向こうを見た。

 太陽が昇る。

 新しい一日が始まる。


 「……もう一度、生きてみよう」


 潮風が頬を撫で、彼の背中を押した。

 足跡が、濡れた砂の上にひとつずつ刻まれていく。


 その先に、まだ見ぬ“令和の地上”が広が

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

令和版・浦島太郎 パンチでランチ @panchi_de_ranchi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る