第2話 着信
5月5日 午前9時25分
「…………ハッ!今何時!」
カイトは椅子から跳ねるように背もたれから飛び上がる。彼は昨夜の二時から睡魔に呆気なく犯され、つい呑気に寝落ちしあろう事か遅刻し、大慌ての様子。現時刻は普通ならば講義が割り当てられている時間だ。
(やっべ遅刻だ!)
カイトは焦って早急に講義室に向かう準備に移行する。衣服を一切着替えず、専門書と書類をショルダーバッグに詰めて肩に掛ける。急いで居室を抜けようと扉の前に踏み込んだが、扉に貼り付けたカレンダーが目に入る。
「今日日曜日だった……よかったぁ」
5月6日は日曜日、通常なら学生は休日である。カレンダーを今一度確認した後、カイトは体から力がストンと抜け落ち、膝から床に崩れ落ちた。
「はぁ」(てか書籍の文章書き終わってない)
けれどそれも束の間の落ち着き、その先には書籍の出版諸々の課題が待ち構えている。
(早く文章作成、編集を完成ないと間に合わん、けど面倒くせー。論文も研究の書類もまとめにゃならねえし)
カイトは心底面倒臭そうに、重い腰を上げむくりと立ち上がり、ちぢれた後頭部の髪を掻きむしって文机に向かうと、
「おはようございます」
「ん?」
可愛らしくその上、麗しさまで感じられる快活な声が軽やかに耳に流れ込む。背後を振り向くと、一人の若年の女性が純黒のトートバッグを肩に掛け、自ら開けた居室の扉の外側の方からカイトへ目線を向けていた。
「おう、おはよう『イトウちゃん!』。今日は随分早いじゃない」
カイトは先程と、うってかわって快然な挨拶を返す。
「そうですかね?いつも通りの時間帯だと思いますが…ところでさっきの物音」
「あぁ俺が床に膝落ちた時の音だよ。その前に今日も助手として従事してもらうから、よろしく頼むよ」
カイトは隠す気もなく言うと、イトウは目を窄めた。
「まぁ、今日もよろしくお願いします」
と言う彼女は自分専用のデスクにバッグを据えた。イトウは今年このバレンテネシア大学の卒業生だ。この大学の学生の場合、大抵どこかの会社に就職するが、彼女に至っては大学の一職員として勤務する道を選び、教授やその他職員の研究や学生の指導を円滑に進めるサポートを行うアシスタント、いわゆる助手として勤めている。
「あ!本の文章まだ書き終わってないんですか?」
彼女は昨夜から電源を付けたままのパソコンの画面から映るカイトの骨身惜しまず打ったであろう、未完成の文章に興味津々に飛びついた。
「あぁ、昨夜は寝落ちしちゃって」
「ちょっと読ませてください」
キーボードの隣にある無造作に放置されたカーソルを器用に手繰り、はじめのページから昨夜作成したページを隅々まで斜め読みする。カイトは自ら作った文章に目線を一点も逸らさず凝視するイトウの様子から、文の感想の方に意識が行き、固唾を飲んだ。長々とした文章を早々にイトウは読み終えると、カイトに顔を向き合わせ、溌剌とした笑顔でこう言った。
「途中から整合性がないですね!」
「うっ!」
何気なく口から発される舌剣がカイトの胸に突き刺さり、カイトは胸に手を止血するかのように押し当てた。その間にイトウは気にせず
「もっと、ここら辺とかタメになる事例挙げてみるとか、論文は素晴らしい出来なのに、それに…先生らしくないですね。古代生物の復元に反対、とかあんまり主張してないだなんて。論文書く時は特に強調しまくってるのに」
イトウは不思議がるように言った。
「結論ら辺に、論説立ててくつもりだよ。全く助手に指摘される准教授とか」
前のめりの姿勢を立て直してから、自分に呆れ果てるカイトに、イトウは含み笑いを返した。
「他の教授の方々に見られる前に、今日中に大体の部分は終わらせた方が良いですよ」
「いや、みんな各自、事情があって今日は研究室にいるのは俺と君だけ………ん?」
突然、部屋中に甲高く騒音が鳴る。どこからなのか、答えは明瞭だ。
「電話機からか?」
「これから鳴ってますね」
イトウもカイトと同じ方向に顔を向けた。
それはカイトのデスクの端っこに淋しげに配置され、ほぼ置物と化していたコードレスの固定電話機からの音であった。カイトはいたくひっかかりを感じる。カイトがバレンテネシア大学の古生物学部の教員として着任した当時からこの電話機は机に据え置かれていたが、研究室での研究や学生の教育に携わり、殆どの時間を研究室で費やした中で、一度も電話機からの着信など微塵もなく、ほぼオブジェの類のようだった。受話器の据え置き台は傷や汚れが
「とりあえず、俺出てみるわ」
カイトは進言し、率先して電話を掛けるのを試みた。恐る恐る受話器に手を掛け、耳に当て語りかけてみる。
「もしもし……どちら様で」
「あ、お忙しいところ失礼致します。バレンテネシア大学、古代生物学部に教授としてご所属になさる、カイト・アンダーソン准教授はそちらにいらっしゃいますか?」
返ってきたのは懇切丁寧な口調の若い男性の声。カイトはすかさず男性の声に応答する。
「あ、そのカイト・アンダーソンは俺です」
「左様でしたか!失礼しました」
「まぁこの研究室に常駐してるのは普段、俺だけですから、その前にどちら様で?」
「私、"ゴードンコーポレーション"、技術開発部の者なんですが、早々に恐縮ですが少々お時間頂いてもよろしいでしょうか」
カイトは受話器越しの男の発言に
「え、ええと、ちょっと待ってください。あの…あれ…本物ですよね?」
「ああ突飛な電話にも関わらず話を手前勝手に進展させてしまい申し訳ございません」
「はぁ、いえいえ、こういう手口の迷惑電話とかしょっちゅうで、いやぁ夢かと思いましたよ。ハハハ」
電話相手の
(何を話してるんだろう?本物?って)
会話を遠巻きに見るイトウはカイトのいかにもな強張った微笑みに心がざわついた。
「あの、こちらからも少しお時間よろしいでしょうか?」
「ええ問題ありませんよ」
「ありがとうございます」
相手の快い声を聞く取り、カイトは電話を空を切る速さで耳元から腰あたりまで下して、視線を送るイトウに冷や汗を垂らし一言告げる。
「ごめん、電話相手と少し話があるから外に出てるわ。そこの論文とかの書類すまんけど片しといて」
「…了解しました」
カイトは居室を抜けて出ていったが、イトウはまだ釈然としない様子であった。
「それで、どのような要件で?」
カイトは大学の屋上駐車場の塔屋付近で電話の続きを進めていた。屋上駐車場は教員よりも学生の利用頻度が高い。その分休日の場合、人気も少なくなる。声量が大きくても気兼ねなく対話ができるのは非常に好都合である。駐車場は静かで、二台の車のみ慎ましく駐車している。
「率直に申しますと、我が技術開発部の実施する視察会にご来臨いただけないかと思案し、お伺い致しました」
「視察会?どうして俺なんかに」
カイトは眉間にしわを寄せ、首を傾げていた。
それに電話相手の男は切り返すような速さで理由を説明した。
「私たち技術開発部は、学者様や専門家様に手当たり次第アポイントメントを取っておりまして、カイト様も博士号を具有していると耳にし、視察会に是非ご参加いただかないかと、このようにお電話差し上げております」
男は流暢に事の動機を説明した。カイトは腑に落ちたのか、小刻みに頭を振る。けれど話の曖昧な点に、カイトは男に早々と聞き返す。
「それで、視察会とは何を…、設備や機械の安全性の確認とか、あいやそれだと俺を呼ぶ理由がないですしね」
カイトがぎこちない語り口で言うと、電話越しからフフっというほくそ笑む声が聞こえた。
「長い話ですよ。ご存知かと思いますが、技術開発部は医療や美容で使用する薬品や食品の開発のみならず、動物や植物の復元や繁殖にも携わっております」
男は得々と自慢するような口調で語った。
「そういえばぁそうでしたね。…もしや新たに復元した動物を」
カイトは察するように、少し間を空けて喋る。それとは対照的に男は合間を入れずに更に輪をかけ話を発展させる。カイトは口を閉ざし、下唇を口の中に押し込んだ。
「お察しがいい…と讃えたいところですが、ちょっと間違い。もう数歩先の段階に突き進んだ内容ですよ。あなたにご視察願いたいのは、
(熱っ!)
男の口達者な雄弁はピークに達し、言葉の情熱は、カイトの持つ受話器本体にも伝わる。手に持つのもやっとなぐらい熱は増し、カイトは我慢の限界で、辛くも指先だけで受話器を掴む事ができた。カイトは状況的にやむを得ず、男の願いを内に秘めた戸惑いごと飲み込んだ。
「わかりました…それじゃあ、その代物の概要は?」
「全てをお話しては、面白みも新鮮味もなくなってしまいますので、展示物の情報はまた当日の際に…、ちなみに視察会は1ヶ月後に実施する予定ですが、差し支えないでしょうか?」
「はい…」
淀みなく
「ありがとうございます!いやはや、此度はお電話ご対応くださり、感謝致しました。それではまた今度、グッドバ」
「あ…」
男側が切ったのか、はたまた電話機が強制的に切ったのか不明なタイミングで通話が途切れた。カイトは電話機特有の機械的な話中音が鳴った途端、張り詰めた五臓六腑が段々と暖かになるのを全身に感じた。それと受話器は帯びた熱を解こうと、次第にゆっくり冷たくなっていく。
「ハァッ、1ヶ月後か」
カイトはカレンダーの前に立った時より勢いよくため息を吐いて、それとなく上空に顔を向けた。埃の塊を想起させる曇り空は灰雲、白雲を混ざらせ、または共存させてブーンの町一帯を覆い尽くしている。
「やだなぁー、バイオ企業の研究所なんていつぶりだろうな」
カイトはまるで辟易してるかのような顔で、握っている受話器を不意に見つめた。なんとなくだが、カイトは一つ疑念を抱く。
「それにしてもどうして、この電話機に?」
(それに俺の他にも博士号持ってるやついんのに)
「うーん……展示品……」
カイトは唸り声を上げ、受話器を握る力を強め、もう片方の手で顎に手を当てた。さっきから疑問が増えて悩む一方で、カイトは男の言葉を咀嚼、反芻し自分なりの答えを導こうと、自問自答を繰り返しても、確信の持てる妙案は結局求められない。脳を酷使したあまり、無意識に手は顎から額へと移り変わる。その瞬間、一陣の風が隙を突いてカイトの頬と目を貫通する勢いでぶつかった。カイトは強烈な一撃にカイトは我に戻ったのか、驚き混じりの気の抜けた表情になった。
DAINAMAN:ダイナマン 小悠 @Kodamayuhi2525
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