プロローグ ー 月の尾に抱かれて ー


夜の森は静かに、月の光を湛えていた。

 梢を渡る風が、鈴のような音を立てる。草の露が冷たく、肌を撫でた。


 ――ここは、どこだろう。


 目を開けると、満ちた月がまぶしく照っている。

 地面は白く、砂でも雪でもない、光の粒のようなものに覆われていた。

 立ち上がると、どこまでも風の音しかない。


 そのとき、ふわりと――空気が震えた。

 金の毛が、風の流れに逆らうように揺れた。

 現れたのは、一匹の狐。

 しかし、それは“狐”というにはあまりに荘厳で、神々しかった。


 九つの尾。

 その一本一本が夜の闇を払うように光を放ち、まるで月の欠片が舞っているかのよう。

 瞳は深い琥珀色で、燃える火とも、深い水底の光とも見える。

 姿は大きくもあり、小さくも見える。

 見る者の心に映るままに形を変える――そんな存在だった。


 結音(ゆの)は息をのんだ。

 けれど、恐怖はなかった。

 胸の奥のどこかが懐かしく、温かく、涙が出そうになるほどだった。


「……あなたは、誰?」


 その声に、九尾はゆるやかに尾を揺らした。

 そして、低く、美しい声が風を伝って響く。


「問うのはおまえか。

 この地に流れ着いた魂よ――何を求めてここへ来た?」


 言葉が胸の奥に響く。声というより、心の奥に直接触れてくるようだった。


 結音(ゆの)は、ゆっくり首を振る。


「わからない。ただ……懐かしい匂いがして……あなたに、会いたかった気がするの」


 九尾の瞳がわずかに揺れた。

 その目に、どこか人のような温かさが宿る。

 尾のひとつがそっと伸びて、結音(ゆの)の頬に触れた。


 柔らかく、ふわりとした感触。

 驚くほど温かくて、まるで春の陽だまりのよう。


 結音(ゆの)は思わず笑みをこぼした。


「……ふわふわ。やっぱり、こういうのが好き」


 九尾は目を細めた。

 その仕草が、まるで人が微笑むように見えた。


「恐れぬのか。我の尾に触れる者など、幾百年ぶりだ」


「怖くないよ。だって……あなた、きれいだもの」


 結音(ゆの)の言葉に、九尾は少しだけ尾をたたんだ。

 そして、ゆっくりと形を変えていく。

 光の粒が舞い、毛並みがほどけ、やがてそこに――

 金の髪をした青年が立っていた。


 月明かりの中で、彼は狐の耳を残したまま、静かに結音(ゆの)を見下ろす。

 その瞳は、先ほどと同じ琥珀の光を湛えていた。


「……おまえ、人の身を持ちながら、この地の気を恐れぬ。奇しき女だ」


「あなたも、人の姿になれるんだね」


「望む形を取るだけのこと。我が名は……いずれ語ろう」


 青年の声は風に溶け、尾のように流れていく。

 その瞬間、森の奥から低い唸り声が響いた。

 土が震え、木々がざわめく。


 遠くで、六つの頭を持つ巨大な影が蠢くのが見えた。

 闇より深い鱗、雷を孕んだ瞳――

 封じられた大蛇の気配。


 九尾が片手を挙げると、金の火が風に散り、影を押し返した。


「……奴が目覚めようとしている。おまえが来たことで、世界の均衡が揺らいだのかもしれぬ」


 結音(ゆの)は胸に手を当て、静かに呟いた。


「……龗(おかみ)の神さまの気配が強くなった気がする」


 九尾の瞳が細くなった。

 その名を知る者など、この地にはもういないはずだった。


「おまえ――何者だ?」


 結音(ゆの)は、少しだけ笑った。

 どこか懐かしさを滲ませて。


「たぶん……前の世界で、あなたたちを信じていた人間」


 九尾はしばらく彼女を見つめ、やがて月を仰いだ。


「ならば――おまえの来訪も、運命のひとつかもしれぬ」


 尾のように伸びた光が、結音(ゆの)の体を包み込む。

 その温もりに意識が薄れていく。


 最後に聞こえたのは、九尾の声だった。


「――眠れ、結音(ゆの)。夜明けとともに、再び目覚めよ」


 月光が柔らかく降り注ぎ、世界が白く溶けた。


 次に目を覚ますとき、彼女はもう“転生者”として、新たな地に立っているだろう。





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千年狐譚(せんねんこたん) ―転生の巫女と六つ首の王― 月灯 @tsuki_akari_guide

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