魚とアクトレス

Tom Eny

魚とアクトレス

魚とアクトレス


朝の光が窓から差し込むと、彼女は問う。


「昨日、私は何色だった?」


脳の奥で古いフィルムが一瞬で燃え尽きるような、乾いた音がした。七人の少女の脳から、昨日の記憶と個性は消え去った。少女は自分の両手を広げ、それが誰の手であるか確信が持てない。紅、橙、黄、緑、青、藍、紫。色の名だけが残り、自分が何の個性を持っていたのか、自信がない。役割を拒否することは、誰にも認識されない**「無」という名の恐怖**だった。


廊下に並び立つと、母は七つのマグカップをテーブルに置いた。母の眼差しは慈愛に満ちていたが、なぜか不安に揺れているように見えた。(多分、お母さんは、私たちが誰だか分からなくなるのが怖いんだろう)と、少女は漠然と感じた。


「さあ、今日の紅(こう)」


母が呼んだ瞬間、少女はビクッと震え、前に出た。


「は、はい!私が、紅です!」


心は叫ぶ。(違う、私は昨日、魚が苦手な**「緑」だったはずだ。この名前と役割だけが、私という存在の唯一の証明**なの…!)


母は、彼女の前に、湯気の立たない真っ黒なコーヒーのマグを置いた。その苦い焦げた匂いは「紅」の個性を暗示したが、少女の本質には合わない。パンに塗られた魚の生臭いパテが、嗅覚を攻撃した。その粘つく臭いは、彼女の内側で拒絶の警報のように鳴り響いた。


「今日の紅は、遅刻するわよ。早くしないと、ハルくんに話しかけられないわよ」


少女は魚のサンドイッチを口に押し込む。吐き気がする。この苦痛は、ハルという外部からの承認を得るための、耐え忍ぶべき試練だった。


偽りの演技と本質の解放


学校に着くと、少女はハルのクラスの廊下へ向かった。ポケットから**「ハルくんマニュアル」**と書かれたメモを取り出して確認する。―『ハルは情熱的でアグレッシブな女性が好き』―。


少女は、喉の奥が砂で擦れるような感覚を無視して、大声で話し、大袈裟に笑った。その高すぎる笑い声は、自分自身の耳に不協和音として響いた。


ハルが通りかかった。彼は一瞬「紅」に視線を向けたが、すぐに隣にいた「青」の役の少女に話しかけた。


「やあ、青。この前のディベート、すごく論理的だったね」


少女は愕然とした。魚のパテのねっとりとした味が喉の奥で逆流し、耐えきれず廊下に吐き出してしまった。鉄のような酸っぱい匂いが辺りに広がる。役割を吐き出した後の少女は、全身の力が抜け、床の冷たい感触だけが、自分がここにいるという唯一の真実だった。


ハルが優しく手を差し伸べた。


「君は、誰?……いや、誰でもいい。僕は今日、知的な君(青)が好きだと思っていたけど、君のその辛そうな表情を見たら、急に君が愛おしくなった。演技じゃなくて、君の本質が、僕の心を捉えた」


――一瞬、廊下のすべてが静寂に包まれた。彼女の内面の「緑」が、その言葉を反芻した。


ハルの言葉は、彼女の内面の「緑」に届いた。


「私…私、あなたのことが…」


その時、廊下の角から、別の七つ子、「黄(き)」の役の少女が現れた。


「ハルくん!私、あなたのために情熱的になったのよ!」


ハルは目を見開いたまま、愛の対象がグラつくことに耐えられないように、自己嫌悪に顔を歪ませた。彼は僕らの混乱の原因が彼自身だと気づいたように見え、恐怖に駆られて何も言わずにその場から逃げ去った。


無と、自分で選び取る色


ハルの逃亡は、七つ子の心を完全に打ち砕いた。


その夜、七人は母の前に並んだ。


「お母さん」。「紅」の役だった少女が、震える声で言った。「明日、私に紅と呼ぶのはやめて。私、紅じゃない。私は…私は何者でもない」


他の六人も、涙を流しながら訴えた。「お母さん、もう私たちに役割を与えないで!」


母は泣き崩れた。「ごめんなさい…ごめんなさい…。私、誰が誰だか…本当に分からなかったのよ。\n\n**――母の嗚咽だけが、部屋に響いた。**\n\nこの不安を、あなたたちに役割を与えることでしか、私はごまかせなかった」


翌朝、マグカップからは甘く、優しく立ち上るミルクティーの湯気が漂っていた。その匂いは、強すぎる個性を持たず、誰もが安心して受け入れられる、温かい味だった。誰もが「無」になったことで、彼女の心臓は初めて、無理のない一定のリズムで打った。


少女は、マグカップに手を伸ばし、自らの手で**「緑」のクレヨンを握った。その色は、森の奥の静寂と安心感**を連想させた。その瞬間、彼女の背筋に、何か正しいものを掴んだ確かな熱が走った。


結び


数年後、大学のキャンパスで。


彼女は、ハルの隣で談笑していた。彼女自身が選んだ緑色の小さなバッジが、キャンパスの陽光を反射して静かに輝いていた。かつて負わされた「紅」の重圧も、魚の生臭さも、そこにはない。ただ、彼女自身の呼吸だけが流れていた。


「君、魚のサンドイッチの匂いがしてた時の顔、覚えてる?」ハルが笑った。


彼女は微笑み返し、「さあ、どうだろうね」と答えた。\n\nハルは静かに理解した。(ああ、彼女はもう、役割を演じていない)。


ハルが愛したのは、あの日の吐き気に崩れた**「緑」という本質か? それとも、必死に演じた「紅」の偽りの情熱**だったのか?


――誰にも分からない。そして、彼ら二人は、もうその答えを求めない。


彼女たちは知っている。


愛とは、相手に『紅(アピール)』のラベルを貼ることではない。


個性とは、誰かに与えられた『青(知性)』を演じることではない。


では、今、あなたは、自ら選んだ何色を身に着けているか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魚とアクトレス Tom Eny @tom_eny

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ