第35話 あしたもあそぼうね ― ハッピーエンド ―

夜明けの廃都。

ビルの谷間を風が渡り、金色の光が静かに揺れていた。

双極光銃ツインレイ・アークの銃口が、闇を切り裂く。

そこに立っていたのは、怪人ではない。白いコートにピンクのエプロン――ひとりの保育士。マリア先生だった。

「さあ、ミラちゃん。帰りましょう」


「マリア先生……私、先生を撃ちたくない!」


「ふふ……ちがうのよ、ミラちゃん。

 私はね、泣けなくなった子たちを、みんな“安心の夢”に帰してあげたいの。」


「安心の……夢?」


「そう。もう戦わなくていい、怖くない場所。

 あなたも一度、そこで眠ったでしょう?」


ミラの瞳がわずかに揺れる。

保育園、毛布、やさしい声――記憶が心の奥からじんわりと溶け出す。


「……でも、世界まで眠らせちゃだめ。

 人は、痛みの中でも生きていくんだ。」


「痛みなんて、いらないわ。」


マリアがガラガラを持ち上げる。

黒い鈴の中で光が脈打ち――音が落ちた。


――ユラン。ユラン。


懐かしい。

でも、その優しさが痛い。


(だめ……近づけないで、先生……)

【ミレイ】『……ねぇ、きこえた。あったかい音……いこう?』

(ミレイ、待って。いかないで!)

【ミレイ】『だっこ、してもらえる……あの毛布のにおい……』


――ユラン。ユラン。


音が重なるたび、ミレイの声が少しずつ鈴の音に似ていく。

その声にはもう、ミレイ自身の意志がほとんどなかった。

やさしさが、まるで透明な糸のように――彼女の心を静かに操っている。


ミラは唇をかみしめる。

マリアの微笑は、それを知っているかのように静かに深まった。


「ねえ、ミラちゃん。世界はね、眠るたびにきれいになるのよ。

 誰も泣かなくなる。だから、先生はただ、それを広げたいだけ。」


「やめて……先生……それ、だめ……!」

「怖がらないで。これはあなたを“守る音”よ。」


ミラの手が震え、銃口がわずかに下がる。


「……っ、違う……今の私は、もう泣かない……!」

「泣かない子は、いい子。――そう、言われてきたんでしょう?」


その言葉が胸を突く。

『ミラちゃん、泣かないの、えらいね』――叔母の声。

保健室の灯り。マリア先生の微笑。

沈めていた記憶が、泡のように浮かぶ。


(やめて……思い出させないで……)

【ミレイ】『だいじょうぶ、こわくないよ。――視線の先に、せんせいがいる』


「ねえ、ミラちゃん。」

マリアの声が少し低く、優しく沈む。

「“泣かない”あなたは、本当に強かったのかしら?」


――ユラン。ユラン。ユラン。


音がまた落ちる。

世界が波打ち、景色が滲む。銃が重い。

心臓の鼓動が、子どもの頃の速さになる。


〈もうがんばらなくていい〉――誰かの声が、胸の奥で囁いた。


「……やだ……やだよ……がんばれるもん……!」

「無理しなくていいの。ね、力を抜いて。」


(先生……やめて……)

【ミレイ】『せんせい……』――最初の一歩が音になる。


「……せん……せい……っ」

声が震え、言葉がほどける。

「……んぇ……せんせぇ……」


マリアが静かに近づき、腕を広げた。

その瞬間、ミラの世界は“声とぬくもり”だけになった。


淡いルビーの髪を照らしていた光が、やわらかくとろけていく。


指先が銃を離れる。

金属の冷たさが溶け、泡のような軽さだけが手の中に残る。

代わりに伸ばしたのは、助けを求める手。


「ねえ、せんせぇ……あのとき、だっこしてくれたよね……」

「ええ。あのときも、泣きながら私の腕を掴んだわ。」


「……もう私は大人なの……」

「大人になんて、ならなくていいの。

 あなたはまだ、“泣きたかった子”のままよ。」


マリアが静かに目を閉じる。

掌の中で、黒いガラガラが低く震えた。

鈴の奥に閉じ込められた光が、脈打つたびに膨らんでいく。


「光よ、痛みを包み、

 泣く子の心を眠りへ還せ。

 罪も涙も、やさしさに変えて――リグレス。」


その声は呪文というより、

子守唄のように静かで、やさしく、世界の傷を撫でるようだった。


次の瞬間――

闇に淡い光が広がり、空気がふるえる。

鈴の中から“音”が生まれ、波紋のように街を包む。


――ユラン。ユラン。


その音がひとつ落ちるたび、薄明がやわらかく歪む。

【ミレイ】『……せんせい……ここ……あったかい……』

(ミレイ、戻って――!)

【ミレイ】『やだ……いっしょに、こっちおいで……』


光はミラの胸へ届いた。

まるで心臓の奥に直接“なにか”が触れたよう。

胸の奥がきゅっと縮み、熱と冷たさが同時に流れ込む。


「……あ……あつ……」


保育園の廊下。やわらかなカーテン。毛布の匂い。

“やさしい記憶”の粒が体の中に沈んでいく。


呼吸が浅くなり、指先が震える。

銃を握っていた手が、無意識に開く。

意志よりも先に“安心”が支配し、世界の輪郭が崩れた。


「……や……だ……からだが、あったかく……」

声が震え、音が幼くほどける。

ミラは自分でも気づかないうちに、

“戦う手”ではなく“抱かれたい手”を前へ差し出していた。


リグレスの光は、その手を包むようにふわりと脈打つ。

「……せんせ……あたし……こわれちゃう……」

「こわれていいのよ。こわれた先に、本当の“あなた”がいるんだから。」


ミラの足がふらりと揺れ、膝をつく。

双極光銃ツインレイ・アークが手から滑り落ち、バブルガンの形に戻る。


その瞬間、視界の奥に光の残像が走った。

 銃を落とした指が震え、瞼の裏に、文字の波が流れ込んでくる。


【匿名】“結局、自分のことしか守れなかったんだよね。”

【解説風】“誰も彼女を責めないの、変じゃない?”

【まとめ】“双極光銃ツインレイ・アーク、正義を演じる少女の虚像。”


 耳の奥でノイズが弾けた。

 見ないはずの画面が、頭の中で勝手に開いていく。

 光る文字が、息の隙間に入り込む。

 呼吸のたびに、誰かの嘲りが胸を掻く。


「……もう、やだ……」


 ミラの声が震えた。

 その小さな呟きに反応するように、街の灯りがふっと弱まる。

 “がんばらなきゃ”“正しくなきゃ”――その言葉が、

 彼女の心を縛っていたことをようやく理解する。


 銃口の重さよりも、言葉の重さのほうがつらかった。

 画面の中の見えない誰かより、

 先生の声のほうが、ずっと現実だった。


「……せんせ……ミラ……つかれた……」

「うん、もういいの。たくさん頑張ったものね。」


抱きしめられた瞬間、世界が光に溶ける。

音も風も消えて――ただ、やさしい鼓動だけが残る。


光があふれ、体を包む。

輪郭がやわらぎ、髪が短く、声が細く震える。

骨のひとつひとつがきらめきながら“思い出”に戻っていく。


「……せんしぇ……ミラ……もう……わかんな……ぃ……」


世界は金色の光のなかでやさしく縮まり、

恐怖も理屈も“先生の手のひら”へ吸い込まれていく。

その瞬間、ミラは“ヒーロー”でも“少女”でもなく――ただの子どもになった。


抱き上げられたその体は、以前よりもさらに小さく、軽かった。

マリアの腕の中でおさまるように変わったその姿は、

まるで“あの頃”の夢の中にいた幼いミラそのものだった。


「……しぇんしぇ、ミラ……ちっちゃくなっちゃった……」

「ええ、でもね、それでいいの。もうひとりじゃないから。」


「……しぇんしぇ……ミラ、もう……おねえさんじゃなくていいの……?」

「いいのよ。泣いて、笑って、甘えて……それがいちばん“あなた”なんだから。」


「……んぅ……しぇんしぇ……」


言葉はもう、ただ“先生の匂いがすき”と伝える音。

小さな手が胸元をぎゅっと掴む。それは二人の合図。

マリアもそっと腕を回し、同じ強さで“ぎゅっ”と抱き返した。

頬をすり寄せ――「んふ……あったかい……」


「ふふ……上手にもどれたね。

あぁ、ミラちゃん。よく頑張ったわ。

――もう大丈夫――ほんとうに、いい子。」


マリアはそう囁き、額にそっと唇を寄せた。

音もなく触れたその一瞬に、夜の風がやさしく鳴った。

それは口づけではなく――再びこの世界へ“還った”命への祝福だった。


彼女の手がミラの髪を撫でる。

「……恋しかったのね。――あの感触。」


ミラの唇が、小さな指に触れ、ちゅっちゅと甘えるように動いた。

息がかすかに抜けて、あたたかな音が空気にほどけた。

まつげの影が頬に落ち、くわえた指先をそっと噛むみたいに押し当てて――ふう、と小さな吐息がひとつ。


「ずっと大人のままで、がまんしてたものね。

 泣きたいときも、寂しいときも、こうして甘えることすらできなかったでしょう?」


ミラの口元が、ちゅっ……と小さく音を立てた。

マリアはそのたびに髪を撫でながら、静かに続ける。


「いいのよ、ミラちゃん。

 今はもう、我慢しなくていいの。

 その小さなゆびで安心できるなら、それが“あなた”の強さなの。」


そう言ってマリアはふと、袖の先を見つめた。

長すぎる布が床に垂れ、ミラの小さな足を包み込んでいる。


「まぁ……こんなに大きなお洋服じゃ歩けないわね。」

「……うん……おようふく、おっきいの……」


ミラが袖をつまむと、指先がふるふると震える。

その仕草があまりにも幼くて、マリアはやさしく微笑んだ。


「大丈夫。これも新しい生活の準備よ。

 セラフィン先生が、あなたの帰りを信じて用意してくれたの。」


手のひらの中で光がふわりと揺れる。

その光がやわらかな布に変わり、ミラの体を包み直していく。


重たかったコートがほどけ、

水色のスモックと紺色のスカートが花びらのように現れた。

胸元には小さなひよこのマーク。


想定よりもミラの体は小さく、服は少しブカブカだった。

まるで、成長を見越して少し大きめに買われた服のよう。

けれどその余りが、かえって可愛らしく見えた。

未来までも包み込むような、やさしいブカブカだった。


「……かわいいの……」

「ねっ。いまのあなたにぴったりよ。」


マリアはそっと懐から何かを取り出した。

リボンの先に、透明な小さなおしゃぶりが揺れている。


「ねえ、ミラちゃん。これも、あげるわ。」

「……これ、なぁに?」


「安心の魔法。――お指、疲れちゃうでしょ。」


マリアがそっと唇の前におしゃぶりをあてる。

ミラは少し戸惑ったように目を瞬かせ――

次の瞬間、自然に口を開いて受け入れていた。


――ちゅ。


静かな音が夜の空気に溶ける。

ミラはおしゃぶりをくわえたまま、

マリアの胸にぎゅっとしがみついた。

小さな指がエプロンの胸元を掴み、

もう離すまいとするように。


マリアはその背中をやさしく撫でながら微笑む。

「ちゅっちゅ、上手ね。ふふ……そう、もういいの。

 これはどちらかが救う愛じゃない。お互いを許し合う、両思いの愛なのよ、ミラちゃん。」


ミラはおしゃぶり越しに、

「ん……」と小さな声を漏らした。

頬をすり寄せながら、ゆっくり目を閉じる。


マリアの胸の鼓動が、ミラの鼓動と重なっていく。

二人の間に流れるぬくもりは、言葉よりも深い。

光がふわりと舞い、世界が静かに金色に染まった。

やがて、その金色はゆっくりと薄れ、空の端が白みはじめる。

――けれど、ミラの瞼はもう、その光を最後まで追えなかった。


ミラはまどろみの中で、小さく笑う。

「……ねぇ、しぇんしぇ。あしたも、あそんでくれる?」

「もちろん。朝になったら、おさんぽもしましょう。」

「やったぁ……しぇんしぇ、だいしゅき……」

「先生も、大好きよ。」


抱き上げられた体がふわりと軽くなる。

マリアはそのまま胸に抱き寄せ、耳もとで囁いた。

「もう、おやすみの時間よ。……ねぇ、聞こえる? 風のうた。」


――ユラン、ユラン。

やさしい鈴の音が、空気の奥で揺れる。


♪ ねむれ、やすらぎの子どもたち

  夢のなかでも光の庭で

  あしたも、みんなで あそびましょう ♪


ミラはおしゃぶりをくわえたまま、胸に顔をうずめた。

「……うん……まま……」


マリアは頬を寄せて微笑む。

「いい夢を見てね。ずっと、保育園で暮らしましょうね。」


――ユラン。ユラン。


街の灯りが静かに落ち、音だけが残った。

眠るミラの髪を撫でながら、マリアはそっと目を閉じる。


「おやすみ、ミラちゃん。……いい夢を、ずっとね。」


鈴がひとつ、夜空に落ちた。

その音に、やわらかな響きが重なる。


――カラン。


【ミレイ】『……せんせい……ここが、わたしたちのおうち……』


(……ミレイ……)


……いっしょにいこ……みんなのところへ……。


二つの声は同じ温度で重なり、

先生の腕の中で小さく溶けた。


光はやさしく揺れ、朝の息が世界を満たしていく。


――あしたも、あそぼうね。



断章:終焉あしたもあそぼうねの歌


(ミラ)

朝の光が まぶしくて

あの日の夢を 思い出す

泣いたことを 隠してきた

強くなれと 言い聞かせながら


(マリア)

あなたの涙が 恋しかったの

世界が冷たくてもいい

わたしの胸で 泣けるなら

それがいちばん あたたかい


(ミラ)

救うたび ひとりになって

声も出せず 笑ってた

でも あなたの手に触れたら

勇気よりも やさしさを知った


(マリア)

抱くたびに 罪がほどけて

わたしも 救われていく

だれかの母で ありたかった

あなたの名を 呼びながら


(ふたり)

光と闇が よりそって

涙の奥で 微笑むの

これは救いじゃない

赦しのかたち


(ミラちゃん)

もういちど ないていい……?


(マリア先生)

ええ、いいのよ。

もう がんばらなくて いいの。


(ミラちゃん)

……せんせい、ぎゅってして……

(マリア先生)

おいで、ミラちゃん。ここが おうちよ。


(ミラちゃん)

せんせい……あったかい……

(マリア先生)

ふふ、ゆめのなかでも あそべるわ。


(ふたり)

ひかりと ねむりの あいだで

てとてを つなぎながら

だきしめることが ゆるしになる

それが――わたしたち


(マリア)

あしたもあそぼうね


(ミラちゃん)

……うん……まま……



ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございます。

このお話が、誰かの「やさしくなれる時間」になれたら嬉しいです。

また別の世界で、お会いしましょう🌸

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あしたもあそぼうね ―やさしくて、ふしぎな、ほいくえんのお話― とろ @toro_novel

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