第6話「桜坂サクリファイス」

 二〇二六年四月。

 仙台の空気は春めいていた。とはいえ朝はまだ肌寒く、風が背を撫でた瞬間にくしゃみが出る。朝靄が煙る中、白夜堂はひっそりと営業を再開した。

 シャッターを押し上げると、金属音と共に埃と古紙の匂いが満ちる。手慣れた狭さに、愛しい古書たち。懐かしい感覚で、ようやく“日常”へ戻った実感が湧いた。


 近づく最初の足音。

 陽光に、白いスプリングコートが揺れる。


「お久しぶりです。会いたかった……」


 綾子だ。声はわずかに震えている。大きな黒い瞳が輝いていた。

 恭介は瞬きを忘れた。胸の内側がきゅっと締め付けられる。罪悪感の底に沈めていた記憶が、一気に浮上した。


「私もです。綾子さん」


 自分でも驚くほど素直に言葉が零れた。接客スマイルではない、人の目を見て返す笑みだった。


「営業再開のお祝いです!ささやかな品ですが……どうぞ!」


 彼女が差し出したのはステラおばさんのクッキー。甘い匂いが袋越しに広がる。一体いつ、こちらの好物を知ったのだろう。考えるほど気恥ずかしい。


 花の話。春の話。最近の話。話題は尽きない。恭介は、他人との会話がこんなにも温かいことを忘れていた。


「折角だから、今度ゆっくりお話したいですね」


 綾子の表情が、雪解けのように和らぐ。


「そうだ。一緒に桜を見に行きませんか?」

「え、私なんかが……いいんですか?」

「勿論!私は恭介さんとお花見がしたいです」


 心臓がどくりと打つ。

 店主と依頼人。彼女とはその程度の距離だと思っていたのに。踏み込みすぎだという常識の囁きはか細く、儚かった。


「久々にまとまった休みが取れるんです。いかがですか?」


 息を呑んだまま、恭介は頷く。


「……場所のご希望はありますか?よければこちらでお探ししますよ」


 自分にできる精一杯の返答だった。その言葉だけで十分だったらしく、綾子の笑顔がぱっと花咲いた。



***



 閉店後の白夜堂はひんやりしていた。

 恭介は自室でコーヒーを口にしながら、クッキーを一つ割る。舌に広がる上品な甘さ。空腹の胃袋がゆるやかに落ち着いていった。


 ノートPCを開き、検索窓に文字を打ち込む。

 “桜 穴場 東北”

 “混雑 少ない 花見”


 宮城県内は避けたい。殺人犯への好奇の視線はまだ厳しく、生々しかった。せめて人目のまばらな場所に。


 検索結果に、福島県の母成峠が浮上した。

 淡い桜と静かな山道。写真を眺めるだけで肩の力が抜ける。ここなら綾子も穏やかに過ごせるはずだ。

 だが、スクロールした先の関連ニュースで指が止まる。

 死亡事故。暴走族同士の競走で、車ごと転落。坂では魔に魅入られたように速度が出ることから、族の間では“魅魔坂”と呼ばれていると記事は記していた。

 不吉な名前に喉が乾いた。画面の奥から怪異の気配が滲む。背筋の中心がひりつく。


 ……偶然だ。

 事故は人知の範疇だ。


 そう繰り返し、理性で蓋をする。

 口コミは「昼は桜の名所」で埋まっていた。ならば明るい時間に行って帰ればいい。

 ブラウザを閉じる瞬間、胸中で何かが蠢く。今や懐かしささえ覚える疼き。耳元で低い呼吸のようなものが響き、すぐに頭を振った。

 営業を再開したばかりで疲れているだけだ、と自分に言い聞かせた。食器を片付け、消灯して布団へ潜り込む。


 瞼の裏に母成峠の桜が揺れる。

 その奥で、獣の影が花弁を踏み荒らした。


 胸のざわつきを残したまま、甘い約束を抱いて眠りに落ちた。



***



 デート当日。

 春の陽射しが柔らかな午前、恭介は綾子を助手席に乗せ、レガシィB4を走らせた。街の喧噪が遠ざかり、仙台宮城ICのゲートが近づく。


「高速道路ってワクワクしますよね。ユーロビートでもかけましょうか」


 彼女はシートに身体を預け、楽しそうに笑う。


「やめてくださいよ……事故りそうで怖いです」

「ふふっ、冗談ですよ」


 瞳の奥に、わずかな刺激への期待。

 見た目よりずっと大胆な人なのだと感じた。

 ――もっとも、少し危うくなければ、自分のような“衝動持ち”とは並べないのかもしれない。

 道路脇の防音壁が流れ、山影が迫ってくる。郡山市・片平付近に差しかかった頃、視界の端に異様な建物が立ち上がった。

 石造りの塔に剥がれたペンキ。かつてのお城風ラブホテルの廃墟だ。


 空気が一瞬固まる。

 和やかなデートから一番遠い風景。


 取り繕う言葉を見つける前に、綾子が笑った。


「子供の頃は遊園地だと思ってました。ああいうの」

「奇遇ですね。私も同じでした」

「もう、恭介さん。“私”は堅苦しいですよ。少しくらい砕けてください」

「う~ん……じゃあ、俺……?」

「急にワイルドになりましたね……ふふ」


 からかう声とは裏腹に、照れの混じった響き。

 一人称を変えろと言われても無理だった。何せ小学生時代、憧れの作家のインタビューを真似て以来ずっと「私」なのである。故に畏まった認識はなく、三十路の現在も自然に用いていた。


 だが会話を重ねるほど、綾子の笑みは柔らかくなった。高速を降り、山道を越えて、花霞に包まれた母成峠へ到着した。

 桜は満開だった。

 地面に積もる花弁、白い光を返す斜面。お弁当を広げて、ただただ静かな一時を過ごした。


「来年もここでお花見しましょうね。恭介さん」


 温かな声が、冷えた胸の奥に触れる。

 穏やかで、満たされて、痛い。


 ――自分に、こんな時間が許されるのか。


 目頭が熱い。峠を抜ける風が桜を揺らし、淡い影が二人の足元に落ちた。

 駐車場へ戻る途中、怒声が割り込む。


「……やべーよ!木田きだ、自首しなって!」


 若い男たちが坂の道中で揉めている。幸せな空気を台無しにする光景に、恭介は眉を顰めた。

 風向きが変わり、鉄の匂いが乗る。

 刹那、血塗れの少年が走り出てきた。特攻服に茶髪。頬に裂傷、胸元にべったりとした暗紅。何より異様なのは纏う雰囲気だった。

 背中に、黒と薄紅が混ざった影が貼りついている。木田と呼ばれた彼が歩くたびに垂れた尾を引きずり、車のブレーキじみた金属音を立てていた。


「木田!目を覚ませ!魅魔坂の“魔”に取り憑かれてるって!」

「うるせぇ……オレは正気……正気だ……」


 うわ言のように呟き、縋りつく仲間を蹴り飛ばす暴走族の高校生。


「そこの眼鏡のお兄さん!助けてください!」

「わ、私!?」


 族の一人に名指しされ、思わず跳び上がった。傍らの綾子に通報を任せ、止めに入る。


「うるせぇ!!」


 だが恭介の加勢は無力だった。木田の体当たりで簡単に体勢が崩れる。

 もみ合う足元でアスファルトが揺らめいた。反物のように長い黒と薄紅の影がぐじりと蠢き――隣にいた彼女へと伸びる。瞬きの隙に、血まみれの手が華奢な肩を掴んでいた。


「きゃあっ!」

「サツを呼ぶならこいつも道連れにしてやる!」


 綾子は車へ押しやられ、ドアが閉まった。エンジンが吠え、尾灯が遠ざかる。


「待て――!」


 恭介はレガシィへ飛び込み、アクセルを踏んだ。だが距離は縮まらない。対向車のライトに怯み、足が鈍る。これ以上やれば事故か逮捕は確定だ。それでもブレーキは踏めなかった。


「もっと早く……! でないと……!」


 間に合わない。

 掌が震え、呼吸が乱れる。

 胸の奥で別の律動が膨らむ。


 ――私なんてどうなってもいい!


 彼女を救いたい。

 その想いだけが頭を支配する。


 焦燥が極みに達した瞬間……世界が反転した。


 闇が落ちる。畳の匂い。

 四畳半の足元、視界を塞ぐ鉄格子。

 格子の向こうに自分と同じ顔の男が立っている。ただ一つ違う、金色の瞳が笑った。


「借りるぜ、少しの間」


 ガシャンと牢の扉が閉まる。

 目の前が白く爆ぜ、恭介の意識が沈む。


 ――外側の“彼”が刮目した。


「綾子を返せ!!」


 金光が弾け、レガシィB4が飛んだ。


 恭介は自我の底で、内なる神の覚醒を初めて体感していた。思考が異様に冴え、五感が極端に澄み渡る。路肩のガードレール、ステアリングのブレ。全てが一本の線に収束していた。

 九〇キロ、百キロ、百十キロ。

 車は天井知らずに加速する。金色の瞳が走行ラインを射抜き、対向車の軌道を読み切る。峠の風が車体を揺らしても、“彼”は迷いなくアクセルを踏み増した。

 レガシィB4の下に、影が擦り寄る。重油じみた黒と薄紅の塊が、煙を引いて輪転部に絡みつく。魅魔坂の“魔”の眷属だ。


「邪魔だ」


 “彼”はハンドルをわずかに傾ける。タイヤが悲鳴を上げ、横滑りしたボディが眷属を踏み潰した。車底から柔らかいものを噛み砕くような手応えが伝わる。


 ――私にはこんなこと、できない。


 牢の奥で、恭介は歯噛みする。“彼”の豪胆と執念は常軌を逸していた。両手は空なのに、掌には合革の感触がしっかりとある。

 アクセルは緩まない。今や速度は一二〇キロを越え、ガードレールが線になって流れていた。

 前方に赤いテールランプ。

 木田のセダンだ。リアバンパーを引きずり、ふらつく走り。ガス欠寸前だ。


「追い詰めた」


 “彼”が唇を吊り上げる。

 セダンは蛇行しながら先のお城風ラブホテル廃墟の駐車場へ滑り込んだ。

 ブレーキランプが絶えた。木田は綾子を建物内へ無理矢理連れ出す。


「逃がすかよ」


 レガシィB4は減速しない。勢いのままゲートを破り、ロビー跡に突入した。

 壁が潰れ、ボンネットから白煙が上がる。だが“彼”はすでにドアを蹴り開けていた。


「恭介さん!助けて!」


 薄暗いエントランスの奥、崩れたカウンターの影で綾子が叫ぶ。肩口のブラウスが血で滲む。その後ろで木田がか細い身体を抱えつけ、ナイフを突きつけていた。


「彼女を返せ。今なら腕一本で許してやる」


 静かな声に、濃密な殺気が混じった。


「来るなぁぁ! 動いたら女を殺す!」


 鋭い刃先が首筋へ沈み、赤い線が浮かぶ。

 卑劣な一手が、“彼”と内側の恭介を同時に逆上させた。


 床を蹴る音がひとつ。

 距離が、一瞬で詰まる。


 長い足が弧を描き、ナイフを持つ手首を払い上げた。刃物が虚空へ跳ね飛び、遠くで硬質な響きを立てる。


「がっ――!」


 悲鳴が出るより先に、木田の身体が宙を舞った。

 胸ぐらを掴んでフロアへ叩きつける。ひしゃげたソファとテーブルの残骸が砕け散る。

 “彼”の指が特攻服越しの腹に食い込み、そのまま抉り上げた。


「ぎゃあああぁぁ!!」


 汚い絶叫が鏡張りの天井に反響する。

 だが祟り神の手が握るのは、臓物ではない。

 黒と薄紅の影だった。

 ぬるりと伸び続ける塊。全長三メートルほどの、鞭のような胴体。その先端に歪んだ顔を貼り付けた、峠の“魔”本体だ。

 呆然とする木田の横で、“彼”は異形の首根っこを掴み、床へ叩きつけた。


「速さが好きなんだろ?」


 帯状の質量を靴底で踏み潰しながら囁く。


「ならじっくりと……なぶり殺してやる」


 “彼”は魔を仰向けに倒し、腰で押さえ込んだ。

 指が肉もどきに沈む。

 硬質な芯を掴んで裂く。

 塩辛い水と、骨片じみたものが飛び散った。

 つんざく悲鳴。

 廃墟の壁が震え、恭介の鼓膜も灼かれる。


 ――やめろ。やりすぎだ。


 殺したら比留野村の二の舞だ。胃の奥が冷え、同時に熱くなる。だが“彼”は止まらない。


「最高……もっと聞かせろよ」


 拳が、肘が、指先が、影を砕くたびに快感が走る。吐き気と陶酔が同じ場所で混ざり合った。

 骨を叩き割る音、筋が千切れる手応えが容赦なく神経を侵してゆく。異形の身体が折れ、潰れ、形を失っていく抵抗、何もかもが心地よい。


 ――ああ。この感触だ。


 怪異への怒り。ねじ伏せる快楽。

 全てが自分の感覚だと理解させられる。

 私は暴力が大好きだ。今まで嫌悪していたのは、単に味をなのだ。

 大義名分を掲げ、敵を痛めつける行為が、これほど病みつきになるとは……。


「まだ動けるじゃねぇか」


 かろうじて蠢く残骸を足先で転がす。細い悲鳴が漏れた。


「声が枯れたら、終わらせてやるぜ」


 “彼”は殴り、踏み抜き、引き千切り続けた。

 叫声はやがて湿った呼気に変わり、最後には無音となる。


 息絶えた魔は、桜の花弁のように霧となって散った。


 夕景の光が割れ窓から差し込み、征服者の肩を照らす。

 遠くからパトカーのサイレンが接近する。


「どうだ。殺さずにおいてやったぜ」


 “彼”は汗濡れのセミロングヘアを掻き上げた。指先には暴力の余韻が熱として残っている。


「だからまた呼んでくれよ。なぁ……」


 最後の一言だけ、沈んでいた。脅しでも挑発でもなく、赦しを乞う声に似ていた。


 金光が消え、瞳が黒に戻る。

 膝が崩れかけたが、どうにか踏みとどまった。


 まず木田だ。足を引きずりながら近づき、首筋に指を当てる。


 脈はある。


 ――よかった。気絶しているだけだ。


 ほっと一息つく。比留野村の二の舞はなんとか避けられた。


「恭介さん!」


 泣き声が近づく。崩落した壁の影から綾子が駆け寄り、震える手で腕を掴む。


「助けてくださり、本当にありがとうございます……!」


 肩口に温い滴が落ちる。

 恭介は上手く笑えず、ただ頷いた。


「ところで……あなたは、誰と戦ってたんですか?」

「え」


 喉が詰まる。

 視線だけを廃墟の隅へ滑らせる。さっきまで玩具にしていた怪異は、煤と焦げ跡だけを残して消えていた。


 確かに見ていたのに。“彼”の奥から。殴打のリズムも、骨が砕ける快感も、全て指先の記憶として染みついている。なのに、映像だけが朽ちたフィルムのように曖昧だった。


「……とにかく、一件落着だね。あとは管轄に任せ――」


 言いかけたところで、サイレンが一段と大きくなった。割れた窓の向こうで赤色灯が跳ねる。


「警察だ! 動くな!」


 ライトが一斉に照射される。防刃ベストの警官たちが散開し、一人が木田の傍らで脈を確認した。


「対象一名、生存。母成峠の殺人事件の被疑者、木田陽一よういちで間違いない」


 無線が飛び、別の隊員が床のナイフを証拠袋へ収める。


「通報者は君か?」

「……いいえ。彼女です」


 安堵でへたり込む綾子へそっと目配せした。

 事情聴取は簡略だった。母成峠で血塗れの少年を目撃したこと、確保を試みたこと、綾子を人質を取られて追跡したこと。全て正直に話した。その係官曰く、彼は先の死亡事故の件で暴走族仲間と口論になり、衝動的に殺害したという。理不尽な状況にようやく合点が行き、口元が緩んだ。


 気を失った木田が担架で運び出されるのを見届けた瞬間――


「北条恭介さんだな?」


 名指しで呼ばれ、顔を向ける。中年の警部補らしき男が書類をめくりながら近づいてきた。


「あなたを道路交通法違反の疑いで現行犯逮捕する」

「は?」

「一般車両での危険な追跡、それにこの建物への突入。幸い人的被害はなかったが……だからこそ、今のうちに止めておく必要がある」


 頭に血が上った。


「そんな……殺人犯を捕まえたんですよ!?チャラにしていただけませんか!?」


 思わず声が荒くなる。綾子が横で肩を跳ねさせた。


「悪いが、法律は法律なんでね」


 警官は淡々とした口調で告げる。

 冷たい金属が手首に触れた。カチリという音と共に、両手が背中側で繋がれる。


 ――また暴れても、罪が重くなるだけだな。


 “彼”を呼べば手錠など簡単に千切れる。だがやれば罪状が増えるだけ。地上で生きる限り、罪悪感からは逃れられない。


「あははは……」


 乾いた笑いが溢れる。恭介は大人しく連行された。綾子の「また、戻ってきてくださいね」という涙声だけが、ふらつく足を支えていた。


 外へ出ると、夕暮れの桜が風に舞っていた。

 大破したレガシィB4が花弁とガラス片に埋もれている。

 パトカーの透明板に、黒々とした格子の影が重なる。


(牢って、外にも内にもあるんだな……)


 鉄格子付きの後部座席に押し込まれる。結局、あの『牢』は何だったのだろうか。車がゆっくりと発進する。穏やかな運転で、鼓動がようやく恭介本来のリズムに戻っていった。


 ――日本各地の心霊物件を回り、怪異を調伏する『祓い屋』。


 酒田の廃旅館で、あの脂ぎった社長が楽し気に話していたことが脳裏をよぎる。当時は冗談じゃないと切り捨てた。が、実際は社会の裏側から新たな道を示されていたのだ。


 暴れたのは“彼”。だが快かったのは自分。

 荒事を知らなかった頃には帰れない。ならばせめて、向ける先を選ぶしかない。


 聴取が終わったら河本へ連絡しよう――。


 鉄格子越しの夕闇の中で、恭介は静かに唇を結んだ。

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黄昏異聞 恭介調書 十二月一日千里 @shiwasuda_senri

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