たまたまの思ひ出

AKTY

たまたまの思ひ出

 日が落ちてからも暑さは地表にとどまったままで、少しも過ごしやすくならない。せっかく仕事終わりに自宅でシャワーを浴びて、くつろいだ服に着替えてからやってきたというのに、もうシャツはじっとり湿っている。早く涼しい店内に入って一杯やりたいものだ。今日は久しぶりのことだからと妻のGOサインが出ており、存分に楽しむことができる。出掛けに小遣いまで持たせてもらった。理解ある家族に恵まれたことをありがたく思う。

 学生時代の友人・花岡から連絡がきて、久しぶりに飲みに行こうという話になったのは昨日のことだ。急な話ではあったが、妻も見知っている花岡の誘いなので、意外とすんなり許可が下りた。そうとなったらこういう時は洒落た店になんかは行かない。金のなかったあの頃よく通ったチェーンの居酒屋で待ち合わせる。前にやつと飲みに行ってからもう一年以上は過ぎただろうか。さすがにアラフィフになろうかというこの年齢でそうそう気安く遊びにはいけない。特にこの一年あいつは私生活で忙しかったようだ。仲間内の噂として伝え聞いている。

 居酒屋に着くと花岡はもうメニューを開いてあれこれ注文していた。前に見た時より全体的に一回り引き締まって精悍に見える。そういえばその時健康診断の結果がどうだって話をしたな。一念発起して運動を始めたと言っていた記憶がある。あれからまだ続いているのだろうか。飽き性のこいつにしては珍しいことだ。生ビールで乾杯した後さっそくその話を振ってみる。花岡はニヤリと笑って言った。

「意外と性に合ってたんだな。毎日コツコツ続けてるよ。特に今度独りになってからはさ、家族の目も気にしなくてよくなったから、部屋でパンツ一丁でドタバタやってんだ」

「ジムとかそういうとこに通ってるわけじゃないんだ?」

「最初の頃はね、家の近くのフィットネスジムに通ったこともあったけどさ。なんか嫌になっちゃったよね。俺はどうも自分がせっせと何かやっているところを他人に見られるのが嫌みたいなんだ。家族に見られるのも嫌で、部屋にこもってちまちまやってたからね」

「でも家だとやれること限られてるだろ。道具揃えたりしてるのか?」

「ダンベル程度はいくつか買ってみたけどね。まあ今はいろいろあるんだよ。YouTubeで動画探したりさ。お前あれだ、HIITって知ってるか?高強度なんとかかんとかトレーニングってやつ」

「さあね、よく知らないな」

 その時花岡が注文した料理がやってきた。全体的に油分の少ないヘルシー系。昔は揚げ物が好きだったはずだが、食事面でも気を使っているのだろう。まあ年齢的に私もそんなには食べられなくなっているが。

「すごいな。全部さっぱりしたものばかりじゃん。サラダまで頼んでるなんて昔のお前だったら考えられないだろう」

 花岡はまたニヤリと笑う。

「まあな。なんか自然とこうなっちゃったんだよな。年齢のせいもあると思うけどね。それよりも身体になんとなくでも良さそうなものを選んじゃうんだ。たぶん肉体に意識が向くようになってるんだと思うよ」

「はあ~、そういうもんなんだなあ。俺も少しは見習わないとだなあ」

 そのような話をしながら、途中で日本酒に切り替えて杯を重ねていった。花岡の健康的な生活も酒を控えるという方向へは行っていないのかもしれない。それとも久しぶりに昔の仲間と会うことで、今日だけリミッターを解除したのだろうか。私も最近はめっきり酒量が減っていたのが、今日はいつもと違っていた。飲むごとに頭が冴えてくるような感覚がある。まだ若かったあの頃の記憶につられて、身体も張り切ってしまっているのかもしれない。

 お互いもう十分に出来上がった頃、花岡はふと次のように話し始めた。

「あのさあ、さっき話が途中になったのあっただろ?HIITってやつ」

「ああ、言ってたな。なんか運動なんだろ?」

「そう、一つの運動をね、例えば腕立て伏せとかスクワットとかあるじゃん?ああいうのを一分とかやるわけ。まあ同じ運動でもいいし、いろんな動きを組み合わせたのでもいいんだけどね、とにかく短時間全力で動くんだ。それを何セットか続けるの。俺の場合はさ、YouTubeで20分間HIITとか30分間HIITみたいな動画探してさ、それ見ながら真似してやるんだけどね」

「うわ、それってめっちゃキツそうじゃん」

「ああ、キツいんだよ。ほんとに全力でやるからな。ひとりでやってんだから手を抜くのはいくらでもできるけどな、全力でやるのがいいんだ。」

「うへえ、俺は無理だわ」

「俺はそのHIITをさ、ほぼほぼ毎日やってるのよ。一応その日の調子に合わせてさ。ほんとにキツい種目ばっかりのやつから、割と緩めのやつとかね。それこそYouTubeにはいろんな動画あるからさ」

 ここで花岡は一拍間を取って、少しだけ声のトーンを落とした。

「あのな、俺気が付いちゃったんだよね」そう言って三度ニヤリと笑う。「今って夏だからさ、すっげえ汗かくんだ。パンツまでぐっしょりよ。俺って運動部じゃなかったしさ、体育の授業くらいでしか運動してこなかったわけ。だから全然気が付かなかったんだけどね⋯⋯」

「なんだよ、やけにもったいぶるなあ。さっさと言えよ」

「あのな、金玉って汗かかねえんだよ」

「は?」

「だから金玉は汗かかねえんだって。運動したあとにぐっしょり濡れたパンツをさ、ちょっと適当に洗濯機にひっかけたんだ。今って俺独りだからさ、フリチンで家の中うろついても平気なの。それで水分取りながら何気なく脱いだパンツ眺めてたら、全体はぐっしょり濡れてるのに股の部分だけ乾いてんだよ。ちょうど金玉の部分がさ、エアポケットみたいにさ」

 なにやら秘密の相談ごとめいた声色で何を言うかと思えば、あまりのくだらなさに花岡の顔をジッと見つめてしまった。いやたしかに学生の頃はこの手のしょうもない話を仲間内で競うように披露していたのだが、我々はもう四十半ば、アラフィフになろうかという年齢なのだ。そんな私の反応も意に介さず、花岡はさらに続ける。

「これに気づいた時なんだか虚しい気持ちがしたんだよなあ。最初はねよく分かってなかったんだけど、よくよく考えたらこれは虚しさだってね。こう、長年の友に裏切られたみたいなさ」そう言って花岡は悲嘆に暮れるかのように、わざとらしく肩を落とした。

「いや、全然わかんないんだけど、なにいってんの?」

「だってよー、俺たち男の子はよ、精通してからこっち金玉の求めるところに従って行動してきたわけじゃない?」

「いやいや、そんなことない⋯⋯まあ全然ないとは言わないけど、さすがにもう少し理性的だったわ」

「そうか?いろいろ失敗してきただろ?俺はあるよ、金玉由来の失敗。まあそれで金玉の衝動で動かされたと思ってたのによ、当のお金玉様は汗一つかかずにクールにあらせられたわけだ。これってひどい裏切りだろ?」

「ああ、んー、まあ言わんとすることはなんとなくわかった」真面目に聞くだけ時間のムダだと。

「金玉の衝動に駆られて一生懸命腰を振って汗かいてた時も、この金玉の野郎はよお」

「もういいって」

 まさか本気でカッカきているわけではないと思うが、花岡だからなあと、熱弁する中年男の様子をうかがう。そういえばこいつ幾分スッキリして学生時代のフォルムに近づいたけど、髪の毛はけっこう薄くなってるなあ。もともとデコは広い方だったけど、今ではその範囲もさらに広がっている。特に額の両サイドがアグレッシブに頭頂へと切れ込んでいた。まあ年取ったんだよな。こいつなんて運動して引き締まってるからいい方で、こんな品評している俺なんか、髪の量こそ減ってないが、腹も出て、もっと老けて見えるだろう。私がそんな思いを抱いてる間も花岡は金玉にグチグチ文句を言っている。

「金玉由来の失敗といえばさ、そもそも結婚からしてそうなんだよ」

 そう言われて花岡の元妻みさきちゃんの顔が頭に浮かぶ。飛び抜けて美人というわけではないが、人懐っこく優しそうな笑顔が仲間内でひそかに人気だった。彼女は大学の二学年後輩で、たしか四年の夏休み頃から付き合っていたんだったか。花岡は我々の世代には珍しく、要領よくさっさと就職を決めていた。あの頃私は就活でひぃひぃ言ってたから、そういえばふたりの馴れ初めを花岡の口から直接聞いたことはなかった。

「お前四年の時から付き合ってたよな。まったくお前はよお、俺たちみんなそれどころじゃなかったってのに。金玉よりお前にムカつくわ」

 花岡は私の悪態をふんと鼻で笑う。

「まあそう言うな。俺は俺でいろいろあったんだから」

「いろいろねえ。傍からは順調にうまいことやってたように見えたけどな」

「表に出さなかったんだよ。ほら、俺ってカッコつけだから」

「もうカッコつけなくてもよくなったのか?」

 私の言葉を念入りに検討するみたいにじっとこちらを見つめたあと、花岡はニッコリ笑った。

「ああ、もう今更だろ。この歳で独り身になっちまったんだからさ」

 こいつ最初からこっちの話をするつもりだったんだなと私は思った。その話の枕に金玉を持ってくるあたりさすが花岡ではあるが。そりゃそうだ、この一年で大きく人生が動いたのだ。たまっているものもたくさんあるんだろう。今日は全部聞いてやるかと覚悟を決める。

「だいたいお前さ、俺から口説いたと思ってるだろ?違うからな」

「え?いやだってお前結婚式の時⋯⋯」

 結婚式の時スクリーンに流れたふたりの思い出ビデオ、たしかあの中でナレーターが新郎が猛プッシュしたとかなんとか言っていた記憶がある。私たち出席した友人一同みんなそうだと思っていたから、別に驚きもなく、酔いに任せて野次を飛ばしたんだった。

「あれはほら、体裁を整えたんだよ。まさか新婦が誘惑したとかあの場で言えないだろ」

「誘惑ってお前⋯⋯」 

 元妻みさきちゃんのイメージに似つかわしくないその単語に私は困惑した。あんな真面目そうな娘が誘惑?いやまあ、たしかに女は表裏で全然変わるというのは私だって少しは経験してきたことだが、それでもにわかには信じられなかった。このタイミングだから花岡が大げさに言っているだけだろう。

「誘惑してきたんだよ。俺がそう思ったとかそういう話じゃねえぞ。もっと露骨に誘惑してきたんだ。さっきの金玉由来の失敗談だよ」

 ますます信じられない。露骨に誘惑?私の脳裏にセクシーな下着を身に着けた学生時代のみさきちゃんの像が浮かぶ。素朴な笑顔を浮かべる彼女の顔がボディから浮いて、まるで下手なアイコラのようだ。

「俺だけ就職決まってさ、あの頃もっぱら後輩たちと遊んでたんだよね。お前ら全然付き合ってくれなかったから。それでグループで海行ったり山行ったり?けっこう楽しくやってたわけ。で、あいつともあくまでグループ内の付き合いだったんだけど、海行ったあとくらいだったかな、二人で遊びに行きませんかって誘われたんだ」

「なんだよ、その程度の話かよ。誘惑なんて言うからどんなだって思えば、そんなもん普通のアプローチじゃねえか。もっと言葉選べよ」私は軽く憤慨して苦情を言った。

「誘惑はここじゃねえよ。まあ聞けよ。誘われてそりゃあもちろん俺はノリノリよ。当時彼女いなかったし、正直あいつのことちょっといいなって思ってたよ。だからすぐさまデートをセッティングしたんだ。映画見に行って、街をぶらついて、ちょっといい店で食事して、の黄金パターンだよ。お前もやったろ?」

 やったなあと、そのパターンで攻略しようと試みた幾人かを思い出した。面白みはないが無難なプランだ。映画の好みだけが問題だが、そこは素直に女の子に聞いて合わせればいい。基本貧しい学生だから失敗は許されない。確実に成果をあげるにはトリッキーさは必要なかった。

「デートは完璧だったね。もうなんでも立ててくれるんだ。こいつはいい娘だって思った。なにやっても全部喜んでくれるしね。食事の時も話が弾んでさ、とくに就活の話を聞きたがったから俺も得意になってペラペラ話したっけ」

 得意になってペラペラ話す当時の花岡の姿が目に浮かぶ。まさに今目の前にいるコレを参照すればいいだけだ。

「そのままバーに行ってね、彼女もけっこうグイグイ飲むんだ。それで店出て、さあ次はって、俺もだいぶ期待してたんだけどさ、そしたら向こうからちょっとどこかで休んでいきませんかって」

 自慢じゃねえか。全然面白くない。なんだそのうらやましいシチュエーションは。私が血ヘド吐く思いで就職活動していた裏で、こいつはなんて楽しい大学最終年を過ごしていやがったことか。微かにながら抱いていた同情心が消えてしまいそうだ。

「ベッドでのことを詳しく話しはしないけどさ、むこうがかなり積極的にリードしてきたよ。もちろん俺の金玉も張り切っちゃって⋯⋯とその時は思ってたんだけどな。まあそれでホテル出てから付き合ってくれって、俺から言ったんだ」

「おう、それでめでたしめでたしってわけか。胸クソ悪い」

「でもな、今思えばだよ、あいつは俺に惚れてて誘ってきたわけじゃないんだよ。付き合い始める前からやたらと俺の就職先について聞いてきてたからね。大企業ってわけじゃないけど安定した良い会社だよ。今でも世話になってる。あいつはさ、あの氷河期時代にさ、さっさと就職決めて遊んでる、俺のそこを評価したんだよ」

「それはいくらなんでもうがった見方すぎじゃないか?まあもし仮にそうだったとしてもさ、別にそんなおかしな話じゃないよ。賢く世の中渡ってんだ」

「そりゃそうだ。俺も別に責めてるわけじゃない。俺だって相手の中身だけで付き合ったりしないしな。俺の金玉は巨乳が好きなんだ。あいつはその点ちょっと物足りなかったけどな。これはあくまで今思えばって話だよ。結婚生活全体を通しての失敗談の頭の部分だ」

 

 さっき覚悟はしたものの、これは長くなるなと思った。言いたいことがたまりにたまっているみたいだ。ならばと河岸を変えることを提案した。ここの近くに行きつけのと言うほどではないが、あまり客の多くない静かなバーがある。居酒屋の会計をきっちり割り勘で済ませてそこへ向かう。バーはやはり空いていて、話をするにはちょうどいい雰囲気だった。二人ともウイスキーのロックを注文し、それをちびちびやりながら話を続ける。

「それで付き合い始めてから、結婚するまで四年くらいだっけか。よく続いたもんだよな。社会人と大学生って生活リズムっていうか、そういうの全然合わないだろ」

「そうなんだよ。特に社会人二年目がね、ほんと忙しくってさ、全然会えなかったんだ。すれ違いってやつ?向こうも四年で忙しかったからね」

「そういう時期も乗り越えて結婚までいったんだろ?大したもんじゃないか」

「まあそうなんだけど、これもいろいろあったんだよ。誰にも話したことないんだけどな」

 景気づけにか残りのウイスキーをぐっとあおり、同じ物を注文する。飲み物が届くとまたちょっと舐めて、話しを続ける。

「あの時ほんとにもう仕事仕事でさ、分かるだろ?二年目でようやく仕事を任せられることが増えていって、俺も本腰入れてやってやるって気になってるからさ。プライベートなんて全然省みないわけよ。彼女にメールもろくに返さない」

「ああ、あるあるだな。できること増えて仕事が面白くもなっていくんだよな。若い体力に任せて勢いでガーッとな」

「そうそう、そんな感じでな、まあそんな時だよ、あいつ浮気してたんだ」

 あまりに予想外の暴露話に耳を疑う。浮気なんて私の知る彼女からは想像できない。

「はあ?嘘だろお前、みさきちゃんそんなことしねえだろ」と、とりあえず否定してみる。

「いや、してたんだって。これは疑いとかそんなんじゃなくてちゃんと本人が認めた確定事項な」

 他人の女なのにまあまあ大きなショックが襲ってきた。さっきからずっと、これまで抱いていたみさきちゃん像が崩れていっている。動揺を隠せないまま、なんとか立て直そうと疑問を投げかける。

「でもお前、仕事忙しくてプライベートもなにもなかったんならどうやって気づいたんだよ?」

「タレコミがあった」

「え?」

「タレコミだよ。あいつの同級生の女が教えてくれた。いやあ、ほんと意味わかんねえよな。なんでそんなこと知らせてくるのか未だに分かんねえわ。なんなんだろうな?」

「その娘がお前に気があったとか?」苦々しい気分で応える。

「いや、そういう感じでもないんだよなあ。別にその後なにも言ってこねえし」

「分かんねえな」

「分かんねえ」

 異性の人間関係なんて分からないもんだと、つくづく思い知らされた気持ちだった。一方でこの同性の花岡との間に「分からない」という点で連帯する感情が芽生えてきて、実に気持ちが悪かった。ああ本当にお前というやつは分かりやすくていいな。

「まあそれでだ、俺はその時完全に終わったと思ったんだよね。そりゃあショックだったけど、仕事のことで頭の中の大部分が占められていたからね、ダメージはそんなになかった。ここはきっちり終わらせてさ、俺は仕事に生きるぞ―って覚悟決めたんよ」

 実際そうだったんだろうなと私は思った。たしかにこの花岡という男、妙に思い切りのいいところがある。もうダメだと諦めがついてしまえば、すぐに次の方へと目を向けただろう。しかし⋯⋯

「じゃあなんで別れなかったんだ?」

「それが金玉なんだよ」我が意を得たりといった表情の花岡。「俺はきっちり別れるためにあいつの家に行ったんだ。それで事実を問いただしてさ、むこうは寂しかったんだって言うんだね。相手は高校時代の元カレだそうで、同窓会かなんかで再会して焼けぼっくいにってやつだ」

「はあ~マジか~、みさきちゃんがなあ」そう嘆きながらも、まああるかとも思う。ベタベタな話ではあるのだ。その手の話はけっこうよく聞くし、私自身同窓会などに参加する時、少しくらいは期待していたりもする。実現したことはないのだが。

「別れるつもりで行ってるからね、ほっといた俺も悪かった、じゃあさよならで終わる予定だったの。でもさ、あいつ泣きながら縋りついてくるのよ、捨てないでって。出来心だったんだって。俺はまあどうでもいいんだ、もう終わりだから。だけどね、あいつだんだん密着してくるわけ。こう、泣きながら激しくね。そしたら俺の金玉が囁くのよ、やっちまえって」

 私はいろいろ聞かされて複雑な感情を抱きつつ、花岡の目を見た。濁りのない真摯な瞳。こいつ本気だと戦慄する。

「あとは金玉の言うがままに、流れでやっちまって、朝を迎える頃にはなんとなあく関係が修復されていたってわけだ」

「はあ、それが金玉由来の失敗の二つ目ってか」

「そう、ここは人生の分岐点だったね。ここですんなりお別れしてた世界線ってのもあったと思うよ」その可能性の世界を想像したのか、花岡は遠くを見るように目を細める。

「でもそうはならなかった、と」

「そうなんだよなあ。この後あいつ改心したんだって態度でさ。俺もなんか金玉に火がついたのかなんなのか、それからは割とマメに会うようになったんだよな」

「で、結婚してなんやかんやで二十年近く連れ添ったのか」

「まあな、その間まったく何もなかったわけでもないけど、不思議とうまくやれてたよなあ。最後の最後で俺がやらかさなきゃな」

 花岡のやらかし、そうだそれそれ、そういうのを聞きたいんだ。結局ここまでただのモテエピソードじゃないか。もっと酒の肴になるようなのを聞きたいんだ。

「なになに、お前やらかしちゃったの?何やったんだよ、お前よお」

 はしゃいだ様子の私を見やって、花岡はふぅと息をついた。空いたグラスの氷をガリッと噛み、立ち上がる。バーテンに手を振ってハンドサインで追加の注文をしてから手洗いへ向かった。

 ちょっと調子に乗りすぎたかもしれないと反省した。そうだあいつにとって楽しい話なわけがないのだ。あいつが昔から変わらないあの感じだったから軽く見てしまったが、ことは二十年連れ添った相手との別れなのだった。我が家の明かりが脳裏に浮かぶ。そしてその明かりがすべて消えた様を想像してみる。真っ暗な玄関の鍵穴を手探りで探す自分。ああ、いけない、気分が落ち込んできた。だが花岡は今まさにこの暗闇の中にいるのだ。

 戻ってきた花岡は、届いていたウイスキーのグラスをカラカラ回してから一口啜る。

 そして⋯⋯

「まあぶっちゃけて言うと浮気しちゃったんだ。今度は俺が」ペロリと舌を出す花岡。

 そんなことだろうと思っちゃいたが、テヘペロじゃねえよ、クソムカつくわという思いの丈を全力で顔に出し、花岡を見る。ただの酔っぱらった中年男がニヤニヤ笑っている。ついさっきまで引き締まって精悍な印象だったのが、今や金玉そのもののように見えた。

「そうそう、その顔。バレた時あいつもそんな顔してたわ。でもよお、しょうがねえじゃんよお」

「相手は?」

「会社の若い娘なんだよなあ」さらにニヤニヤと笑う。「と言っても新卒じゃなくて中途採用だから三十路は過ぎてんだけど。なんか一緒に働いてて気が合っちゃってさあ。彼女も別に真剣な恋愛ってわけでもないんだぜ?もっとこうサバサバした娘なんだ。家庭を持つより仕事で生きたい、みたいな」

「えらく都合のいい相手がいたもんだな」いちいち癇に障る野郎だ。

「都合がいいと言えば、まあそうなんだけどさ。でもどっちかって言うと俺のほうがマジだったよなあ。だってさあ、俺の金玉好みの巨乳ちゃんなんだもんよお」金玉がだらしなくしなびたような顔。

「はいはい、それでなんだって?」

「俺だって家庭があるし、一応大事にも思ってるからさ、いいと思っても行動に移すってわけじゃなかったんだ。まあ今度もむこうからの誘惑だよね。仕事終わりになんとなく飲みに行って、帰りにちょっと家に寄っていきませんかって」

 なんだってこんな男がいつもこんなに女にモテるのか、腹立たしくてしょうがなかった。冗談めかしてでしか顔に出さないように努めていたつもりだが、内心は濃い目の嫉妬心がドロドロと渦を巻いていた。

「それからちょくちょく彼女の部屋に寄ってくようになったんだよね。最初は俺もラッキーってくらいの軽い気持ちだったんだけどさ、なんせ身体の相性が抜群によくってさあ。だんだんハマっていっちゃったんだ」スケベな記憶を再生したのか、金玉そのものになった男の顔のテカリが増した。

 もうかなりうんざりしているのだが、ここからが大事なんだと我慢して続きを促す。

「それでみさきちゃんにはどうやってバレたんだ?」

「まあ明らかに俺変わっていってたからね。ほら、前会ったときさ、俺、健康診断が悪かったから運動始めたって話しただろ?あれほんとは嘘なんだ。本当は彼女にかっこいい姿見せたくってさあ、それで気合入れて肉体改造始めたんだよね」はあ~とため息をつく。「思えばこの運動習慣だけが今度のことで得た唯一の良いことかもなあ」

 なるほど、たしかに花岡が自分の健康を気遣ってこんなに頑張るなんて、少しばかり違和感があったのだ。女絡みということならすんなり飲み込める。花岡の言い分通り、金玉の衝動に従ってのことだったか。いい女に刺激されて、テストステロンドバドバ漲って、それはさぞかしトレーニングも捗ったことだろう。

「今までぜんぜんやってこなかった運動始めるわ、鏡なんか見てちょっとオシャレに気を使うわ、帰りが遅い日が増えるわで、そりゃ、あいつもなんかおかしいって思うよね。それでどうも興信所に依頼したみたいでさ、彼女のマンションに入っていくとこの写真とかさ、バシッと突きつけられたってわけよ。いやあ参ったね」

「修羅場ってやつだな。それですんなり別れることになったのか?」

「いやいや、俺これでも家庭を大事にしてるって言っただろ?もうひたすら平謝りだよとにかくもう謝って、謝って、謝り倒したよ。でもダメだったんだなあ」

「許してもらえなかったわけか」

「言っちまえば、これでイーブンなわけだろ?あいつも浮気したことあったんだからさ。だから本気で誠意を示していればいつか許してもらえると踏んでたんだけどな。むこうはさっさと弁護士連れてきて、慰謝料だなんだの離婚の手続き進めていっちゃうんだよなあ。もうなんだってんだよなあ」

 すっかりしょげかえってしまった花岡の様子に少しだけまた同情心が湧いてきていた。これが自分のことだったらと思うと笑ってはいられない。

「結局慰謝料がっぽり取られてさ、家も追い出されて、踏んだり蹴ったりってやつだよ。まあいま思えば子どもができなかったことだけが救いかもなあ。子どもいたらああだこうだともっとややこしいことになってただろうし」

「子どもがいたらみさきちゃんも離婚踏みとどまってくれたかもしれないぜ」

「あー、そういう考え方もあるか。確かにそうだったかもしれないなあ⋯⋯あっ、そういえば俺の金玉肝心のそっちの仕事は果たしてねえんじゃんよ。お前ほんとムカつくわ。なんだお前、どのつら下げてぶらさがってんだあ、おい!」

「まあでも、いいんじゃねえの。これで堂々とその巨乳ちゃんと付き合えるわけだろ?」微かな憐憫から慰めの言葉をかける。

「そう思うじゃん?ところがだよ、離婚したってなると彼女ぜんぜん相手してくれなくなったんだよね」

「は?なんでよ?」

「つまり彼女はね不倫の関係ってのがよかったんだよ。結婚願望とかないからさ、深い関係になりたくないわけ。家庭持ちの男とドライな関係でいたかったんだな。そういう相手だと思って俺と付き合ってたのに、俺がしくじっちゃったってことだ」

「はあ、そりゃあなんというか、とことん災難だな」

「まあいいんだ。もう諦めはついた。独り身の暮らしもそう悪くないしな。フリチンでうろつけるし」

 そう言って笑う花岡からはどこか清々しさが感じられた。しかしすぐに真剣な顔で声をひそめる。

「あのな、実はここからが話したかったことなんだ。つい一週間前これに気がついてから、誰かに話したくてしょうがなかったんだ。だから今日お前を呼び出したんだよ」

「なんだよ、まだあるのかよ。もう金玉の話はいいよ」

「実はさ⋯⋯ついつい元嫁のインスタ覗いちゃったんだよね」

「は?なんでよ、そんなに未練があるのか?」

「そういうわけでもないんだけどさあ、なんていうか気になっちゃったんだなあ。今どうしてるかな、元気でやってるかなって」花岡はバツが悪そうに首の辺りを揉みながら弁解した。

「いやそれが未練だろ」

「まあそうかもしれんがね、それで見てみたらあいつ友だちと旅行に行ったって写真上げてんの。グループ旅行みたいだったけどね」

「へえ、元気でやってんだな」

「そう、元気でやってんだ。だってよお、あいつの隣誰がいたと思う?」

「誰よ?」

「高校時代の元カレ。どうよ、怖くね?」

「怖い」


 店を出るとようやく涼しくなっていて、夜風が気持ちよかった。花岡もたまったものを吐き出せて気分がいいらしい。酒の力という以上に元気で、なぜか屈伸運動などしている。まさかここから走って帰るなんてことはないだろうが、なにせ花岡だ。自分の年齢など忘れてしまったのかもしれない。

 そういえば⋯⋯と、ある光景が浮かんできた。あれはたしかまだ大学生になってすぐの頃だ。仲良くなったばかりの仲間たちで飲みに行って、何件かハシゴしたあげく、終電がなくなってしまったんだった。その時花岡が言ったんだったな。歩こうぜ、と。若かりし頃のありがちな思い出だ。あの時は何駅分歩いたんだったか。歩くのに向いていない履物のやつから脱落していったんだ。最初は私だ。大学生になって色気づいて、新品でゴツ目のブーツなんて履いてたから。後で散々からかわれた。

 さすがに今、花岡が歩こうぜ、と提案してきても付き合えないなと思った。もうそういう年齢じゃない。社会に出てからここまで、まあまあ無難にやってきたのだ。

 たぶん花岡はこれからも私のやらないこと、やれないことをやっていくんだろう。独身に戻って、年齢の割に体力も向上してて、なぜか女にモテる。そういう生き方をうらやましくも思うけど、我が身の平穏さをありがたくも思う。まあそのうちまた花岡が何かやらかして話を聞かされるだろう。それを楽しみに待つくらいで十分だ。

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