第2話
「おなかすいた〜……」
夕暮れ時、こむぎの哀愁漂う嘆きに共鳴するようにお腹が鳴る。
おにぎりを忘れた。それだけで世界が少し寂しく見えてしまう。
あの時、寝坊をしなければよかった。後悔だらけのこむぎが、深いため息をついた時。
「……パン?」
ふんわりと鼻をくすぐるのは小麦の焼けた香ばしい香り。誘われるようにふらふらと近づいていくと辿り着いたのは、小さなパン屋さんだった。
可愛らしい黒猫の看板が、このお店が黒猫屋だと教えている。年季の入っているガラス越しに映るのは、数が少なくなっても誇らしげに並ぶ色とりどりのパン達。
だからだろうか。こむぎは気づいたらお店の扉を開けていた。
お店の中に入ると扉につけられていたベルが、チリンチリンと鳴り響く。柔らかそうなパンを、小さな人形達はセピア色を纏いながら優しげに見守っている。
オレンジ色の光も相まって感じたことのない昭和へ、タイムスリップしたような気がした。
「いらっしゃい」
店の奥から腰の曲がったおばあちゃんがゆったりとした動きで、こむぎに微笑む。
こむぎはおばあちゃんに軽くお辞儀をし、ここまで来て買わないのもなと思い、トレーとトングを手に取る。
どれも綺麗に焼かれ、丁寧に包まれている。おばあちゃんが一つ一つ包んだのだと思うと、どれも素敵に見えてしまう。
棚に並ぶ小物たちが、この店が長年愛されてきたことを静かに語る。
米じゃないのに、目が奪われていく。こむぎにとってそれが不思議で仕方がない。ただ単にお腹が空いているだけじゃ説明つかない。
すっかりこむぎは黒猫屋に惹かれていた。
「これにしよっと」
トングで取ったのは胡麻が散りばめられた素朴なあんぱん。ネットにあげたって、誰も振り向いてくれなさそうなあんぱんに、こむぎは一目惚れしていた。
「ありがとうね。また来てくれるとうれしいわ」
会計をする際に触れ合う手と手。一瞬の出来事なのに、おばあちゃんの手はとても暖かくて、頼もしさが伝わってくる。
「こちらこそありがとう。また来ます」
また会いたいなと思ってしまった。だからか、だからこそ、無意識に約束してしまったのだろう。
明日にはまたおにぎりを食べているはずなのに。
無責任なことを言ってしまったと、こむぎはほんの僅かな罪悪感を抱えて、店を後にする。
行儀が悪いのは分かっていたけど、待ちきれなかった。あんぱんを袋から取り出す。
ぱくりと一口食べた瞬間、こむぎは恋に堕ちる。
ふんわりとした生地からは小麦の香りが鼻を駆け抜けていき、歯切れがいい。ほんのりと塩味が効いたあんこは、甘さは控えめで舌を喜ばせる。上に乗っていたゴマも食感のアクセント。
まるで洗練されたオーケストラの音色を聞いたように心地が良い。間を空けずにまた一口、また一口と夢中に食べてしまう。
「あっ、もうない」
手元に残ったのは、何もない袋だけ。その事実に虚しさを覚えたのは勘違いなんかじゃない。
「初めてだ。パンが美味しいと思えたの」
有名なパン屋のパンを父が知り合いに貰った時すら、やっぱり米がいいと思いながら食べていたのに。黒猫屋のパンは、今からでも引き返したいぐらいに食べたくて仕方がない。
もし人生で後悔した事を挙げなさいと問われた時、こむぎは黒猫屋に行かなかった時間だと答える自信がある。
「……明日も買っちゃおう」
明日にはおにぎりがあるのに、もうあんぱんのことで頭がいっぱい。
お腹も心も満たされるなんて、忘れ物さえも、きっとこの出会いのためだったんだ。
こむぎは明日が早く来たらいいのにと鼻歌を奏でて、軽やかに家まで帰って行く。
初めての恋を捧げたパンは、人生に彩りを与えた代わりに、いつか来る切なさも一緒にプレゼントされた事を知らずに。
見えない黒猫屋の看板は、悟ったように微笑んでいた。
カシスオレンジの空へ、パンの香りが風に消えていった。
世界で一番おいしいパンの作り方 多田羅 和成 @Ai1d29
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