ブスの美学と神喰う女

星森 永羽

ブスの美学と神喰う女





「美園さん、美園 椿(ミソノツバキ)さん。診察室2番へお入りください」


 久しぶりに戻ってきた田舎で、同姓同名の人間がいるなんてことはありえない。


 私の中にいる──記憶の棚に並んでいる──美園 椿(ミソノツバキ)と今、呼ばれた、その人間の顔がどうしても一致しない。


 白い肌。整った鼻筋。艶のある黒髪。雑誌から切り取ってそのまま歩いてきたみたいな存在感。


 だけど「はい」と答えた声には、どこか昔の響きが混じっていた。


「……椿?」


 振り向いた彼女の赤い唇の端が、クっと上がった。


 その笑い方には、昔から私が知っている何かが宿っている気がして、でもそれを手繰れば薄っすらと心許ない。






 診察が終わって、私たちは近くの喫茶店に入った。


 窓際の席。湯気の立つ紅茶。会話はぎこちなくて、懐かしさと違和感が交互に来る。


「整形した?」


 私はカップを置き、単刀直入に尋ねた。


 目の前にあるのは“椿”の名を借りた完璧な顔で、その完璧さが私の胸の中を冷たく削っていく。


 彼女は一瞬だけ目を伏せ、でもすぐにあの笑みを浮かべた。


「努力よ。葵(アオイ)とは差がついたわね。同じブス仲間だったのに」


 その言葉、軽やかに嘲るようで、その重みは尋常じゃない。何かを隠すような空気。それが胸に冷たい波を打ちつけた。


 私は、笑い返す代わりに自分の手の中の湯気を見つめた。


 昔の私なら、ついでにあの笑顔を取り戻す方法を聞いたかもしれない。


 今はただ、腹が立つだけだった。










 最初に気づいたのは、通勤路の小さな祠だった。


 毎朝、私はそこに手を合わせていた。


 ある日、そこがただの空き地になっていた。


「取り壊された…?」


 誰も気にしていない。


 町内掲示板にも何も書かれていない。


 まるで最初から存在しなかったかのように消えている。



 次に消えたのは、近所のお地蔵さんだった。


 子どもたちが帽子をかぶせていた、あの優しい顔。


 ある朝、台座だけが残っていた。



 テレビでは、伝統行事の中止が相次いでいると伝えている。


 理由は人手不足や予算の都合。でも私の肌感覚は違った。何かが、確実に失われている。



 椿に観るたび美しさを増していく。


 肌はもっと艶めき、瞳はさらに輝き、声の響きは胸の骨まで振るわせる。


 祈りめいた賞賛のコメントが彼女のSNSを満たしていく様は、まるで信仰だ。


 だけど、その瞳の奥には、私には何も映っていないように見える。空洞だ。光を受けてきらめくけれど、中身はない。


 私はそれを見て、背筋が冷たくなるのを止められなかった。










 スマホの通知が鳴る。


「日経平均、今年最大の下落」

「離島にミサイル着弾、政府は沈黙」

「文化財の火災、原因不明」


 指が画面をスクロールするたびに、何かが冷たく濡れている錯覚に襲われる。


 現実のニュースと、椿の完璧な自撮りが交互に表示される。


 彼女の写真に付く「いいね」は、信者の数のように増えていく。



 その日の夕方、スーパーからの帰り道で、裏道に立つおばちゃんたちの立ち話が耳に入った。


「となり町の神社、また1つなくなったんだって」


「え? あの古いとこ? うちの近くも、いつの間にか鳥居が消えててさ……」


「最近なんか変よね。空気が乾いてるっていうか……」


 私は立ち止まり、空を見上げる。


 雲が妙に薄い。風が通り過ぎるだけで、何も残さない。空気そのものが希薄になっていくような感覚だ。


 静かに。


 誰も気づかないほど静かに、この国の縁を見えない鼠が齧っている。


 私は自分の胸の内で、小さな怒りと不安が膨らんでいくのを感じていた。










 夜、眠れずにスマホを眺めていると、椿の最新の投稿が目に留まる。


「美しさは、祈りの結晶」


 その言葉に、妙な違和感を覚える。私の胸の奥がざわつく。


 昔の記憶がふと蘇る。


 小学校の帰り道、椿と一緒に寄った、誰にも気づかれない忘れられた祠。苔むして、誰も手を合わせない神様。


 あれも、今はもうない。


 嫌な予感がした。




 翌日、図書館で調べ物をする。ページをめくるたび、見出しが私の鼓膜を叩く。


×××

「忘れ神」──放置された神社の神は祟りを起こすことがある。


「神喰い」──古代の禁術。忘れ神を喰らって力を得る。

×××


 ページを追ううちに、椿の言葉と彼女の美しさが頭の中で重なる。


 ……あれは偶然なんかじゃない。彼女は、神を喰っている──それが「努力」の正体なのだ。


 神が消えるたびに、椿は進化していく。肌の艶、瞳の輝き、声の響き。どれも神々の残滓が宿ったものだ。




 その夜、夢を見た。


 椿が祠の前で微笑み、神像を口に運ぶ。


 彼女の瞳は──空っぽだった。











 夜、私は椿のあとを静かに尾行していた。


 ヒールの音が、廃れた神社の石段にコツンコツンと響く。


 誰もいるはずのない場所の空気が、何かを孕んでいる。


 椿は境内の奥へ進み、祠の前で立ち止まった。


 空気が変わる。


 風が止み、音が消え、世界全体が息を潜めるみたいに沈黙した。


 彼女が祠に手をかざし、低く呟くと、祠の中から淡い光が漏れ、神像がゆっくりと崩れ始めた。


 その光が椿の身体に吸い込まれ、彼女の肌はさらに輝いた。


 私は息を呑んだ。


 ……これが“神喰い”だ。


 怒りと恐怖が一緒に燃え上がる。


 私は走り寄り、彼女を問い詰めた。


「あんたが神を喰ってるせいで、この国が壊れていってる。祠も神社も、全部消えてる!」


 振り返った椿は微笑んだ。その笑い方は、小さな石を胸に投げつけられるように冷たかった。


「違うわ。私が喰ってるのは“忘れ神”よ。誰も祈らなくなった神々。感謝されない存在。

そんなもの、残ってても意味ないじゃない」


 私は言葉の刃を探した。


 だけど彼女は続けた。声には諦観が混じっている。


「でも感謝を取り戻せば、神々は戻ってくる。あんたの中から出られる!」


 その瞬間、椿の瞳が冷たく光った。


「それが叶わないから、こうしてるの。神々が出て、どうするの? また忘れられるの? また捨てられるの? 何度、同じこと繰り返すの?

日本人が神を忘れたのよ。私のせいじゃない。私は、ただ美しくなってるだけ」


 その言葉は水底から響く鐘のように、重く、冷たい。


「……何だって、そんなに美しくなりたい?」


「小学生のとき、男子に『妖怪』って呼ばれた。

中学では、告白したら『鏡見てから言え』って笑われた。

高校では、写真に勝手に『ブス』ってタグつけられて拡散された。

就活では、面接官に『第一印象が大事だからね』って言われて落とされた」


 言葉が空気を濁らせる。私の耳の奥で、過去の嘲笑が再生されるようだ。


「だから私は、美しくなるしかなかった。神を喰ってでも」


 その瞬間、理性が切れた。拳が彼女の頬にめり込んだ。


「ぶへっ……何すんのっ?! あんた、頭おかしいんじゃ──」


 私は声にならない怒りで殴り続ける。


「やるんなら直接、本人にやり返せ。関係ない人を巻き込むな」


「っうるさい! あんた、なん──」


 次の拳が彼女の声をかき消す。私の手は止まらなかった。


 椿の完璧な顔が歪み、崩れて、血と涙で濡れていく。


 美の偶像は、私の拳で地に落ちた。


 ああ、バカバカしい!



「顔なんかな! 殴れば皆、同じだ!」









□完□








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ブスの美学と神喰う女 星森 永羽 @Hoshimoritowa

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