赤に舫う

虹乃ノラン

赤に舫う

 草いきれが死体の吐息のように鼻を刺した。

 ドアを開け、車を降りる。一番安かった軽自動車を駅前のレンタカー屋で借りた。あとで迷惑をかけることになる。担当者は妙に愛想よく、旅行ならと青のミニバンを勧めてきたが断った。ひび割れたコンクリートに足を下ろすと、割れ目から茫々と突き出した夏草が俺を絡めとるように腕を伸ばしてくる。それを足先で払いのけながら先へ向かった。俺がここに来たのは、この場所が「出る」と噂の心霊スポットだからじゃない。ただ、死ぬのに相応しい場所だと思ったからだ。

 すぐに、蝉時雨に包まれた木造の廃校舎が現れる。すっかり剥げ落ちた白いペンキ、斜めに折れた窓枠。陽に焼けて黒ずんだ木材には蔦が絡んでいる。屋根はまだ形を保っていたが、ところどころ大きく抜け落ち、むきだしになった梁は裸の肋骨のように空を仰いでいた。俺にはそれが、閑けさに取り残された巨大な獣の死骸にしか見えなかった。

 リュックには新品の登山用ロープが入れてある。色は赤。今日のためにわざわざ上等な道具を選んで買った。人生という登山に失敗した男が命を預けるには、皮肉なほど頑丈なロープ。だが、これで失敗するわけにはいかない。失敗はもう、十分にやった。

 鎖を跨ぎ、破れたフェンスを潜り抜けたせいで、汗ばんだ掌に鉄錆が張りつき、いくら擦っても落ち切らない。リュックを担ぎ直すたび、カラビナがカチャカチャと鳴った。流しで茶碗を洗う程度に軽くて乾いた音だ。

 いつしか母は台所に立たなくなった。よく世話を焼く明るい性格だったが、人目を避けるように家に閉じ篭ってからはあっという間に弱っていった。俺が高校を出る頃には殆ど話さなくなり、ついには入浴もままならなくなった。医者は鬱だといって薬を処方したが、自分では飲まない。ただぶつぶつと名を呼んでは、思い出したように泣くばかりだった。


(どうして雲って形が変わるの?)


 また妹の声が聴こえる。小学校の帰り道、赤いランドセルを跳ねさせながら訊いた真帆の顔。俺は空を見上げて答えた。


(風が押すんだ)


 正確じゃないが、そのうち理科でやるだろう。真帆は「ふうん」と笑って納得した。


(どこまでいくのかな?)

(さあね、ついていってみたら?)


 真帆は流れる雲を飽きずによく見ていた。ゆったり泳ぐ雲を追いかけるように、川沿いの土手を駆けた。夕陽に透ける赤いランドセル。おさがりのシャツは首元が開けがちで、肩ベルトがよく肌に食い込んでいた。白くて柔らかな幼い肌。その背中でランドセルの金具が「かちゃん」と鳴る――あの音は、俺と真帆の会話の余白にいつもぶら下がっていた。

 あれから三〇年、遠く記憶の彼方に追いやっていたあいつから、突如として届き始めたメールを俺はまだ一度も開いていない。


「……さて、と」


 誰に聞かせるでもなく、声が勝手に漏れた。

 校庭の端に立ち、先を阻む雑草の海を見つめる。校庭はもはや校庭ではない。セイタカアワダチソウは膝まで伸び、雲梯は傾き、掲示板には内容などとうに失われた紙片だけが、白さの残滓を曖昧に留めたまま風化して張りついている。かつて子供たちの歓声が響いた場所。今は、蝉と風と俺だけだ。

 死に場所の候補を探して俺は歩いた。どこだ、どこが相応しい? 大丈夫だ。じっくり吟味するだけの時間はある。焼却炉はダメだ。低すぎるし、錆びきっている。校旗を掲げるポールは逆に高すぎて足場に困るし、なんとか括りつけたとしてもロープごと滑り落ちるかもしれない。渡り廊下の手すりは恐らく俺の体重を支えきれずに崩壊して地に落ちる。

 本命の体育館は後回しにし、校舎に向かう。昇降口のガラスは盛大に割れていたが、ガラス片は脇に寄せられていた。ハクビシンはそんなことはしないだろうから、どうせ肝試しに忍び込んだ人間の姿をしたイタチの仕業だろう。まあ丁度いい。体よくそいつらが俺の死体を見つけてくれれば、蛆や野生動物に食い荒らされる前に回収されるかもしれない。

 音楽室は防音のために配管が特殊らしい。給食配膳室には太いダクトがあるはずだ。理科室は防火対策が必要だから頑丈なはずだ。高さ、太さ、強度。首を吊るには十分かを測るように、俺は一階から順に回っていった。

 廊下は薄暗い。埃と黴の臭いが漂い、鼻腔がざらついた。窓から射す細い光の筋に塵が舞っている。どこか甘ったるく、抗生物質を呑んだあとの尿のような臭いがして、喉の奥がねばついた。野生動物がどこかに巣を作っているのかもしれない。一歩踏む床がギィと鳴るたびに「まだお前には重さがある」と告げられるようで苛立った。重さは落ちるために必要だ。俺は今、その計算しかしていない。


 ――かちゃん


 なにか音がした。カラビナが立てる音に似ていた。その音に誘われるように先へ進む。

 ザザッ……視界が一瞬ザッピングした気がした。昨夜は睡眠薬を二倍量呑んだ。運転前にエナドリを胃に流し込んだが、まだ薬が残っているのかもしれない。ノイズが消え去ると、階段の上から小石が一粒、音もなく落ちてくる。それを跨いで二階に上がった。

 廊下の先に、赤いランドセルを背負ったおかっぱの女の子が立っていた。白いブラウスに紺のスカート、丸い襟には赤い花の刺繍がひとつ。ランドセルの肩ベルトには、カッターでついたような目立つ傷があった。半分透けた躰が蜃気楼のように揺れる。女の子はすうっと腕を伸ばすと、突き当たりの教室を指差し、中へ入っていった。無意識に後を追う。鍵は壊されて扉は開いていた。小さな机と椅子が、不自然なほど整然と、主の帰りを待つ忠犬のように並んでいる。女の子はその中ほどで、教卓を向いて立っていた。黒板にはうっすらとチョークの跡。

 女の子がすっとこちらを向いた。ただじっと俺を見つめる。その瞳はガラス玉のように昏く透き通っていて何の感情も映していない。赤いランドセルが不意に滑るように光る。


「……迷子か?」


 バカな言葉が出た。こんな場所に子供がいるはずない。少女が首をこてんと傾げた。口許から、ぽろりと何かが落ちる。雲が太陽を隠し、教室が影に沈む。俺が瞬きをした次の瞬間――その子は消えていた。

 小さな白い石がまた一粒、床の上を跳ねて足先に転がる。斜めに射す光の柱に漂う粉塵と、耳の奥を塞ぐ蝉の声が戻ってくる。心臓が騒いだ。俺は認められたのか? この世ならざるものに迎え入れられたかのような高揚感と安堵に近い感情が湧いた。大丈夫だ。俺は死ねる。死にに来た人間が幽霊に怯えてどうする。もうすぐ仲間じゃないか。俺は自嘲気味に笑い、そこを離れた。

 汗を拭いながら体育館へ向かう。張りついたシャツがひどく不快だった。ロープの強度は足りている。もやい結びもマスターした。あとはもやう先だけだ。外壁の下部には、地面すれすれに横長の窓が連続して並んでいた。採光のために造られたものだろうが、今はすでに半分以上がひび割れ、ガラスには苔が這っている。そこをバールで叩き割って体が通れる穴を作り、頭を突っ込むと茶色い空間が広がっていた。埃の溜まった板張りに這い出て、上を見上げる。

 体育館の壁の高みには、人ひとりがやっと通れるほどの細い通路がぐるりと走っていた。思った通りだ。ただ高窓のカーテンを閉めるためだけに設けられた無人の回廊。当然手すりがついている。舞台袖にある扉を開けると、瞬間的に影がザッと四方に散った。巣作りするには最高の場所だ。キイィと音を立てて扉が閉まる。ひどく暗くて狭いが、目はすぐに慣れた。天井には滑車が張りつき、幕を降ろすための巻き上げハンドルや、照明を扱う操作盤が壁に並んでいた。それらの前を素通りして、回廊へと続く狭い梯子を上る。


 細長いミラーのような隙間を潜ると、そこに圧倒的な見晴らしがあった。数十メートルに渡る空間が足元に広がっている。暗い梁の影が通路の下に格子のように落ち、それがさらに何筋もの光の柱を眩しく際立たせていた。通路はまっすぐ歩けないほど狭いが、軋むことはなく意外なほど頑丈だった。身体を横にしながら歩を進める。南側からの日差しを正面に受け止める北側の通路までくると、俺はリュックを下ろした。時を刻むことをとうの昔に放棄した丸い掛時計が、体育館を統べる管理人のように全体を見下ろしていた。


 リュックからロープを取り出す。てすりの支柱を何本か使ってロープを渡し、それを8の字状に括りつけてから、もう片方の先端に取り掛かる。もやい結びももう慣れたものだ。だが掌には汗と埃が混じり、縄の繊維がざらりと皮膚に食い込む感覚がやけに鮮明だった。ロープを引っ張って揺らし、強度を確かめる。耐えきるだろうか。もう一度、念入りに結びを締めた。息を吸い込み、視線を下へ落とす。褐色の虚空が口を開け、無数の埃が光の筋に舞っていた。静かだ。あんなに煩かった蝉の声さえもはやどこか遠い。胸が詰まって、喉が鳴った。同時に、あの女の子の瞳が瞼の裏で燻り続けていた。なにか伝えたかったのか? 「見ている」と言われた気もするし、「ここじゃない」と押し返された気もした。俺はなにを怯んでいる。足場を蹴って宙を踏めばすべて終わる。



 結局俺は、日が陰るまでそこに立っていた。喉がひりつき、呼吸ばかりが浅くなる。指先に残る縄のざらつきだけが現実を繋ぎ止めていた。やがて俺はロープを解き、乱暴にリュックへ押し込んだ。視線を虚空から逸らすと、現実が眩暈のように押し寄せた。ここじゃない――その言葉を振り払うように、俺は狭い梯子を降り、体育館を後にした。まだ鳴り止まない蝉時雨がやけに騒がしく耳を刺した。明日だ。明日、必ずやる。

 母は一月前に短期滞在先の福祉施設で死んだ。一晩過ごし、朝の点呼の時にはもう息がなかったそうだ。運ばれた先の病院で見た表情は静かで、苦しんだ形跡はなかった。心臓がひどく弱っていたから、強い鎮痛剤に耐えきれなかったのだろうと医者は言った。解剖するかと聞かれたが断った。涙は出なかった。ようやく済んだのだ。その思いで俺は満たされた。これで終わった。もう世話しなくてすむ。風呂に入れなくてすむ。ヘルパーを探して頭を下げなくてすむ。母が泣く姿をもう見ずにすむ……。名前を呼ぶあの声をもう聞かなくていい。――それが一番大きかった。

 車に戻り、嫌というほどやったもやい結びを繰り返す。相応しい終わり方を誰か俺に教えてくれ。指の腹が血に染まるほど繰り返した後、俺は気絶するようにシートに沈んだ。




 ――かちゃん。


 夢の中で、赤いランドセルが跳ねる。金具が鳴って、真帆が振り返って笑う。


(おにいちゃん。どうして雲って形が変わるの?)

(風が押すんだ)

(ふうん。どこまでいくのかな?)

(さあね、ついていってみたら?)

(そうする!)

(おれは行かないぞ。ひとりで大丈夫かよ)

(へいきだもん。おにいちゃんのよわむし)

 夕日に透けて、真帆の背中が遠ざかっていく。俺は草いきれに足を取られ、胸が重く、息ができない。緑の腕が俺を絡めとる――。


     ♰


 翌朝、蝉が鳴き始める前に目が覚めた。頭が重い。喉は砂を呑んだように乾いていた。白む朝に声はまだないにも拘らず、昨日の蝉時雨が脳内で反響している。女の子の昏い瞳がまた過った。ペットボトルの水を一口吞んで外へ出ると、足は自然と廃校舎へ向いた。

 朝早いとはいえ、廊下は妙に薄暗く、静まり返っていた。ジジッ……ジッ、鳴き始めようとする蝉の断片的な声が、時折ガラス越しの空気を小さく焦がした。一瞬空気が掠れ、次に目を開くと、廊下の先に昨日とは違う少女が立っていた。髪をふたつに結んだ、そばかすのある子だ。だが昨日と同じ、白い傷がついたランドセルを背負っていた。少女は小さく手招きをすると、くるりと背を向けて廊下の奥へ歩き出した。かちゃん……かちゃん……金具の音が足音の代わりに俺を導く。


 ――ブツッ。……キィッ。


 校内スピーカーがひとりでに鳴った気がした。とうに壊れているはずだ。耳の奥を撫でるような音が、低く、濁って洩れた。


(せいと、よいこは…お祈りを、しよう)


 ザザ……音は掠れ、すぐに途切れた。

 ふらふらとついていく。死ぬ前の気まぐれだ。少女の霊が、俺をどこへ導こうとしているのか。見届けてからでも遅くない。理科準備室と書かれた扉の前で少女は立ち止まった。少女がそっと手を触れると、扉はまるで意志があるかのようにギィと鳴いて開いた。中に入った途端、ホルマリンの臭いを凝縮したような甘ったるい腐臭が喉を掴んだ。割れたビーカー、埃をかぶったフラスコ。人体模型は片腕を失い、濁った瞳でこちらを見ている。

 少女はガラスの引き戸がついた保管棚の前に足を留めてから、すうっと一歩、後ろへ退いた。なんだ? 見ろということだろうか。ゆっくりと棚に近づくと、なぜかその一帯だけ、埃がきれいに拭き取られていることに気づく。何十年も時間を遡ったかのように、そこだけ整然と、美しく陳列された瓶が並び、中には白い石のようなものが詰まっていた。ラベルになにか書いてある。


 S49.8 M AGE8


 頭が理解する前にゾッとした。スライドガラスの中央に埋め込まれた丸い鍵がカチャリと鳴った。震える指先で引き戸に手を伸ばし、それを滑らせる。ガラス戸が開くと同時に、カタカタと棚が鳴り、瓶が倒れ、鈍い音を立てて床に転がる。散らばった瓶を拾おうと反射的に身を屈めたとき、その異様さに俺は思わず仰け反って、床に尻をついた。

 白い、小石……違う、歯だ。子供の歯。

 はっと気づくと、目の前に少女の足があった。刹那、ふっと消え、窓際へ移動する。少女は机の脇に立ち、床の一点を指差した。そこだけ新しい釘で打ち付けられている。

「……そこに、なにかあるのか」

 少女が頷いたように見えた。

(…あ、…け)

 こてん、と首が傾いた。口元から血が流れ、ぽたり、襟に花模様を作った。失いかける自制心を奮い起こし、バールを床板の隙間にねじ込む。釘が悲鳴を上げ、黒い口が開いた。途端に腐臭が噴き上がる。吐き気が喉を逆流した。「ぐっ……!」腕を伸ばし、ライトで中を照らす。暗い。だが……。

 闇の中に白い物が視えた。土に塗れた……白い――骨。赤い革の切片。小さな靴底。さらに奥に、もうひとつ、もうひとつ……。それから、ビーズでできた三角の髪留め――。


「……まさか」


 声が震えた。そこに、少なくとも三人分の子供の白骨があった。遺体の傍らに、つづり紐で綴じられた学級日誌のようなものが添えてあった。厚紙の表面は滑り、角は反り返っている。それを拾い上げると、紙が糸を引いて張りついた。表紙にはペンで、花園日誌、S46.2~、内柴 猛――。

「うち、し……ば…、だって?」

 その名を知っている。涙を浮かべ、訥々と語る映像をテレビで見た。行方不明児童が多数出た小学校の学年主任だった男。

 震える指でページを捲る。どの頁もびっしりと小さな黒い文字で埋め尽くされていた。

『今日、私の花園に新しい花が咲いた。泣き虫だが、やがて香りを放つ』

『制服を用意した。装いは限りなく素朴に。その方が花は艶めいて映る。ああ美しい。この身が研ぎ澄まされる。なあそうだろう』

 連れ去られた痕跡はなく、世間は神隠しだと騒いだ。すべて自分の責任だと遺書を遺し、崖から身を投げたはずの男。海から上がった男の靴や衣類、特徴的な入れ歯が見つかったことで、警察は自殺として処理した。

『今日、薔薇の棘を取り除いた。天使に牙は必要ない。しっとりとした舌触りが私を導いてくれる。それでこそ至上の花に相応しい』

『どんな受粉も必要ない。与えられる雄蕊はただ一つ、私だけだ』

 怒りと吐き気がこみ上げる。それでも俺はある痕跡を探し、狂ったように頁を捲った。

『最近はよい花がみつからない。暫く土を休めよう。時が満ちればやがて邂逅も叶う。世間は身を投げた憐れな男を信じた。浅はかだ』

 こいつは死んでない。子供たちを拐って陵辱の限りを尽くし、遺体を埋め、自殺を偽装して姿を消した。三十年前の「神隠し」は、いったんここで終わっている。だが――。


 そのとき、ぎぃと校舎の玄関が開く音がした。ギギィ……踏み板を踏む。やがてゆっくりと乾いた足音がこちらへ向かってくる。俺は息を殺し、剥がした床板の影に身を潜めた。

 準備室のドアが開く。差し込む光に影が伸び、一人の老人が入ってくる。痩せこけた、好々爺といった風貌の男。だが目は澱み、冷たい光を放っている。男は剥がされた床板に気づくと、ぴたりと動きをとめた。

「……おや。お客様かな?」

 愉悦の声だった。「私の可愛い花たちに、悪い虫がついたようだ」男が懐からカッターナイフを取り出す。刃がぎらりと閃いた。


(おにいちゃん)


 声が聞こえた気がした。かちゃ、と腰に下げたロープのカラビナが返事をする。最期の相棒に呼ばれた気がして、俺は咄嗟にロープを握った。死ぬための道具。だが今は違う。

「――内柴、生きて……」三十年前に死んだはずの男。老いさらばえても、狂気は枯れない。ずっと白々しく泣いていたのか。

「これは驚いた。私を知る者がまだいたとは」

「きさまッ……!」

 ロープを鞭のようにしならせ、男の手首を打った。カッターが床を跳ねる。男は骨ばった体からは想像できないほどの力で組み付いてくる。男の爪が鋭く頬を擦り、熱が走った。

 部屋中のガラスが震えた。ビーカーが踊り、棚のアルコールランプに青い焔が灯る。ふたりの少女が俺の背後に立った。少女たちの霊が俺に加勢している。咄嗟にそう感じた。

 男は微睡むような笑みを浮かべた。

「あぁおまえたち」恍惚と呟く。「まだここにいたのか。いい子だ。パパはここにいる」

 吐息が顔にかかる。腐ったような臭いと甘い声が耳の中で粘り、脳の皺を指でなぞられるように不快だった。内柴が弛緩する。その一瞬の隙にロープをかけ、力任せに締め上げる。拘束され、床に押さえつけられても、男はまだ愛おしそうに少女たちを見上げていた。

「お前がやったのか⁉ どうして!」

 訊いてどうなる。何の意味がある。わかりきった問いを俺はかけた。内柴の目が潤んだ気がした。仮にそれが涙だとしても、懺悔であるはずがない。こいつは狂ってるだけだ! 怒りはさらに増した。にも拘わらず、男の首に回したロープを握る力が抜けかける。その瞬間、頭の中に別の声が割り込んできた。


(お祈りをしよう)

(いい子は黙るんだ)


 ザザッ……映像が押し寄せる。黒板。カッカッ。チョークが走る。お祈りの時間。暗い準備室。蝋燭の小さな焔。机の下で抱えた膝。「帰りたい」「お母さん」――か細い声。低い声が覆いかぶさる。「静かにしなさい。花は騒がない」手首を掴まれる。皮膚の下で骨が鳴る。喉に押し当てられた掌の重さ。

 金具がかちゃんと鳴り、赤い塊がどさりと落ちる。しょっぱい涙。目に染みる薬品臭。口を塞ぐ湿った布。蝉の声が途切れ、世界の音が薄く、脆く崩れゆく。おかあさん……。

 息が止まった。これは俺の記憶じゃない。少女たちの記憶が俺の中に流れ込んでくる。

「やめろ……やめろ!」

 叫ぶと、男の指が喉に食い込んだ。「黙るんだ」同じ言葉。同じ抑揚。同じ重さ。俺の声は、あの子たちの声と一緒にかき消される。「ぐっ……!」ロープを引けない。引いた瞬間、俺はこいつと同じ場所に落ちる。沈黙を強いる側に――。

 内柴が嗤う。「ほら見ろ。お前はただの雑草だ。安心しなさい。私が摘んでやろう」

 違う――。骨の奥から、別の声がした。


(……かえして)

(いたい)

(でたい)


 教室が震えた。ブラインドが鳴り、埃が爆ぜる。床下の闇から、おかっぱ、そばかす、そしてもうひとり、髪飾りの少女が現れた。輪郭は薄いのに、怒りと哀しみで空気がずんと重くなる。ビーズで飾られた三角の髪飾りをした少女が俺を守るように横に立った。その髪飾り……それは、俺が……。

(おにいちゃん)

 唇がそう動いた気がした。声は俺の骨に触れ、涙腺の奥を叩いた。「真帆……!」

 床が黒く蠢き、男の足を呑み込み始める。

「待て……パパはここに……」

 内柴は床に沈みながら、空を掴んだ。少女たちは無言でその手を振り払うように互いに指を触れ合わせた。ずぶり、ずぶり。床は泥沼になり、男を呑み込む。肘、肩、喉――順に埋まっていく。最後に生気を失った黒い瞳孔が生を名残り惜しむように宙を睨んだ。

「お前も……」

 声はそこで途切れ、男の姿は跡形もなく消えた。床はただの床に戻り、蝉が鳴き始める。

 俺は膝から崩れ落ちた。喉が焼けるように痛い。ロープの繊維が皮膚に食い込み、掌が痺れていた。少女たちが俺を囲んだ。

「真帆……ごめん、ごめん、にいちゃんが、俺が、あんなことを言わなければ……」

 床に落ちていたスマホの画面がちかちかと光る。真帆からのメール。春に母親が世を去ってから、突如として届き始めたメール。

「ごめん……俺のせいで……おまえが……」

 真帆は柔らかい目で微笑み首を振る。スマホの着信ランプがすうっと音もなく消えた。

 少女たちは手を繋ぎ、微かに頭を下げた。徐々に輪郭が薄れていき、光に溶ける。


 ――かちゃん。


 ロープが手から落ちて、カラビナが鳴った。床を這って、スマホを握りしめる。震える指で画面を開くと、現れた文字が一瞬揺らぎ、そしてすぐに消えていった。


(ありがとう)


 その言葉に、視界が涙で歪む。


「真帆……!」


 気づけなかった。責められている気がして怖かった。生きていて欲しいと願っていたはずなのに、生きているわけがないと思っていた。母が、真帆の名を毎日俺に聞かせるたびに、俺はおかしくなっていった。真帆はもうどこにもいない。母の目に俺はもう映っていない。俺は何のために生きているのか。真帆にあの日、あんなことを言わなければ……!


(おにいちゃん、どうして雲って形が変わるの?)

(風が押すんだ)

(ふうん。どこまでいくのかな?)

(さあね、ついていってみたら?)


 あの数日後、真帆は忽然と姿を消した。母と俺は張り紙を持ってひたすら探し続けた。駐在所で同じ説明を繰り返し、担当が代わるたびに「はじめまして」からやり直した。張り紙が雨に濡れ、乾き、そして破れていく。やがて人の熱が離れ、言葉が「神隠し」に縮むと、俺の世界からも希望の灯は消え去った。

 床に転がったランドセルを抱き上げる。赤い革は乾いて縮み、角は擦り切れて白い。蓋を開けると、刺繍糸の二文字が目に入った。『まほ』

「……気づいてやれなくてごめん」

 声に出すと、胸が張り裂けるように痛んだ。


     ♰


 春から届いていたメールは一通残らず消えていた。最後に視た五文字以外に、真帆が何を伝えたかったのかは、もうわからない。ただひとつ、あの言葉だけが残った。


(ありがとう)


 やがて蝉は法師蝉に替わり、夜には鈴虫が囂しく鳴く。警察は内柴の最期も、ランドセルの持ち主についても形式上の証明はできないといった。それでも俺にランドセルと髪留めを渡してくれた。書類には残さないそうだ。俺にはそれで充分だった。やがて骨も戻り、母と同じ土の下に埋めた。墓石の傍には、早くも彼岸花が芽吹き、赤い花が揺れていた。風鈴の弁のようにその細い茎を震わせ、花は夏の名残を告げている。頬をかすめる風に、一瞬だけ、真帆の声が混じった気がした。

 風に揺れる彼岸花が、俺にまだ立っていろと告げていた。


 俺はまだ終われていない。

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