第5話 あなたのお年はおいくつですか(後)

ラストスパートです。すでに想定しているものが、まちがっていないかという確認もあって、この稿をを書いております。


左伝さでん欒枝らんしが最後に出てきたのが紀元前622年。重耳ちょうじの死後6年後に死去。前回の試算から、享年61歳。


左伝で欒盾らんとんが出てきたのは紀元前615年。7年後、趙盾ちょうとん政権時、河曲かきょくの戦い。


左伝で欒書らんしょが出てきたのは紀元前597年。欒盾らんとん記述より18年後、欒枝らんしの死去から25年後です。


欒書らんしょ欒枝らんしの生前に生まれていたと仮定すれば、25歳以上と考えられます。紀元前597年は欒書が下軍かぐんになった年です。この時期はイレギュラーな人事もないため、若年層がけいになることも無かったかと思われます。

しかし趙盾ちょうとん政権時代のけいの息子がほとんどですので、老年、壮年というほどの年齢かとなれば疑問があります。


さて。ここで、趙盾ちょうとん政権世代の年齢を、推測というより妄想していきましょう。つまり、欒盾らんとんの年齢により欒書らんしょを想定していく作業ですね。


まず、この政権で最も年齢の推測がしやすい人。ずばり趙盾ちょうとんです。しかし、この人を中心に語るとかなりの遠回りになります。細かいことを省き、紀元前621年、上限33歳(数え34歳)で正卿になったとだけ書いておきます。


まず、欒枝らんしから欒盾らんとんの年齢を考えていきましょう。


まず定番の男が30歳女が20歳結婚ルール。


欒枝らんしが30歳で結婚し、数年後に長男が誕生したとすれば、欒盾らんとん趙盾ちょうとんより年下です。欒書の六卿りくけい(内閣)入りを考えても、これは無理があります。


もし欒盾らんとんも『定番の男が30歳女が20歳結婚ルール』をした場合、欒書らんしょ下軍かぐんのになったのが21歳になります。この時、の動きから冷静重厚な警告を発した男の年齢とは思えません。


欒枝らんしの20代から30代は晋の君主一家の騒乱が始まっていた時期であり、後継者を早く作っておく必要は強かったと考えられます。


欒成らんせいが父(もしくは祖父)ということで一族保全に重きを置いていたと思われる欒枝らんしです。20代前半ら20代中盤に嫁を迎えたのでは無いでしょうか。

また、欒枝の祖父である欒賓らんぴん重耳ちょうじの高祖父に仕えていました。そうなれば、父を失った欒枝の後継人として欒氏らんしの誰かが世話した可能性もあります。

(実際、欒書の最盛期には幾人か欒氏の傍系が出てきます)


欒枝としても大夫のならいとして作られた規範から外れるのは忸怩たるものがあったかもしれませんが、晋公室の乱れに散々振り回されたのは欒氏です。社会的責任として妥協せざるを得なかったと考えるのはありかと思います。


紀元前663年に詭諸きしょたんの頭脳として支え続けていた士蔿しいが失意の引退をしたようです。詭諸たんが女に溺れて悩乱になったのです。OH! 我が君! の言うことを聞かないなんてくそあの女狐め! しかし恋は引き際肝心……と思ったかどうかはともかく。


この年、欒枝らんしは20歳と仮定しております。国の乱れを憂うにおかしくない状況です。


紀元前661年に『太子たいしに軍を任せる』という決定的な事件が起きました。軍を任されるのはあくまで臣下です。つまり太子たいし廃嫡はいちゃくを暗に示しています。君主と跡継ぎに亀裂ができている緊張は、欒氏らんしに限らず国内にて『いち早い後継者作りと選定』を意識させたに違いありません。


故に、欒氏は紀元前663年以前から他国の良い娘を探し(家格として宰相か君主の庶子レベルでないといけないでしょうから大変だったでしょう)、紀元前661年23歳で結婚。紀元前660年に欒盾誕生。もう少し余裕持っても良いかもしれませんが、全て暫定として。


そうなると、河曲かきょくの戦いにて欒盾らんとんは44歳。的外れな年齢ではありません。大臣として標準的な年齢でしょう。


さて、欒枝らんしはいつ欒盾らんとんに嫁をあてがったか、です。欒盾が20代に入る頃は重耳ちょうじが各国を巡り、時には追い出されながらも味方も作った時期です。重耳はしんに戻るため生き延びるため9年間各国放浪したすさまじい人生を送っている男です、よくあきらめなかったね!


欒枝らんしの元にもその情報は届いていたでしょう。彼は中立中庸を装いながら重耳ちょうじの支援をできうる限りしていた可能性があります。


そのような時期に息子の結婚してられませんね!


しんが落ち着いたのは紀元前632年、晋楚しんそ戦争である城濮じょうぼくの戦いのあと。この年、欒盾らんとんは仮ですが27歳。


国も落ち着き、欒枝としては己がなせなかった『30歳で男は20歳の女と結婚』を息子にしてやりたくなったのではないでしょうか。欒盾は29歳、数え30歳で紀元前630年に婚姻したとしましょう。当時は子作りはお励み遊ばれるので、遅く見積もって2年後の紀元前628年に欒書らんしょが生まれたとします。(まあ流産や生まれてすぐ死亡も多いですけどね)


そうなると、紀元前597年には31歳となります。父の死後をついで当主となりすぐけいになった『主人公』としては悪くない年齢でしょう。また、欒枝らんしの死を6歳で見送っているため、祖父の面影もうっすら覚えている年齢になります。


さて、欒書らんしょを紀元前597年に下軍かぐんとして仮に31歳といたしまして。

この時、直属上司の下軍かぐんしょう趙朔ちょうさくはいかがか。


前述しましたが、この時期で最も年齢の推測がしやすい人。ずばり趙盾ちょうとんです。


趙盾ちょうとんの父・趙衰ちょうしは趙盾の母と紀元前655年に出会ったとされています。


趙盾ちょうとん正卿せいけいになったのは紀元前621年。父母の出会いから34年後。


趙衰ちょうしが初夜初年で大当たりをしてようやく33歳。


誕生が遅れれば遅れるほど、正卿せいけいになった年が若くなります。


いくら趙衰ちょうしの息子だからといって、二十代の青年をあの難しい政局で正卿というのは、説得力がありません。33歳数え34歳でも説得力が無いのに。私は数え33歳説でいきましたが、初年大当たりの数え34歳でも良かった気がします。


趙衰ちょうしは晋に帰国した後に第二夫人を娶り(※少なく見積もって趙衰45歳)、子を三人為しています。元気やな、この人。この三人と趙盾の息子の会話は同等の立場が垣間見え、年齢があまり変わらないことが想像できます。


つまり、趙盾ちょうとんの息子・趙朔ちょうさく趙衰ちょうしが死去する前に生まれていた可能性があると考えて良いでしょう。


重耳ちょうじ即位後、前述の通り趙衰ちょうしは重耳の娘を第二夫人としてすぐに娶っているようです。こさえた三人のうち、誰が一番趙朔ちょうさくに近いか、となると思案のしどころですが、左伝にて趙朔ちょうさくと関連したプライベートエピソードを持つのは趙衰ちょうし末子まっしです。青春怪異譚で趙武ちょうぶの大叔父として出てきた人ですね。


三人の子を5年間~6年間で為したとします。末子と趙朔ちょうさくが誤差二歳程度としましょう。そうなると末子は早くて紀元前597年は34歳。


誤差二歳程度とすれば、趙朔ちょうさくは31歳~32歳。趙盾ちょうとんは25歳、26歳程度で子供を為したことになります。


趙盾が落ち着いてきた時代と思えば少々早いですが、宰相33歳さんなので、これが妥協点でしょう。


下軍かぐんしょう趙朔ちょうさく32歳、下軍かぐん欒書らんしょ31歳。

実際はともかく、『小説のギミックとして』悪くない年齢ではないかと、思いました。


ようやくスタートラインにたどり着きました。


※拙作『父の仇に許された』の欒盾はもう少し年を取っており、欒枝が20歳で結婚したこととなっています。郤缺とのバランスのためです。ゆえに欒書の年齢も底上げされていました。


■□■

欒枝、欒盾が出ている拙作。

父の仇に許された

https://kakuyomu.jp/works/16817139555463331404

欒盾は人のいい常識的な無能としてえがいています。主人公郤缺の心をかき乱してます。直球な政治劇ですので、わかりやすい構造です。


趙朔や趙衰の末子がほんの少し出演している拙作

青春怪異譚〜傲岸不遜な公族大夫の日常

https://kakuyomu.jp/works/16817330651050151305

最終章『冬が来たりて夢幻の旅路』編にちょっぴり趙武の父や大叔父として出演しています。

春秋時代のオカルト事件を縦軸に、主役たちの青春を横軸にした話です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る