第3話 あなたのお年はおいくつですか(中)

 文侯ぶんこう 紀元前805年〜紀元前746年

 桓叔かんしゅく 紀元前802年〜紀元前731年


 他、欒氏らんしは没年はわかっても生年は不明。そんな中、紀元前597年に左伝さでんに初登場の欒書らんしょを上記二名だけで年齢の推測はもちろん、妄想をするのは極めて難しい。


 そうなると、他の人々も念頭に置いて考えなければなりません。


 ここで颯爽さっそうと登場するのが、しんを勇躍させ覇者はしゃにした文公ぶんこう重耳ちょうじさま。文候と文公とややこしいですが、まあ、春秋しゅんじゅう時代の君主の諡号しごうはすべて『公』が付くとでも思ってください。


 え? 文候ぶんこう桓叔かんしゅくって諡号しごうだったの? その前に諡号って何?

 諡号というのは、死んだ後に生きた人がつける名前、おくりなです。日本ですと、明治天皇より前の天皇の『追号ついごう』にあたります。例えば天武てんむ天皇の天武は追号であり、これは諡号と同じ意味で名付けています。


 さて、話を戻して、文公・重耳ちょうじです。めんどくさいんで、重耳ちょうじでいいですか。

 彼は紀元前677年に21歳であったと史記にあります。そうなると、生年は紀元前698年。彼は国内が騒乱となったなか、信頼できる部下の故郷、狐邑こゆうへと出奔します。


 その年、紀元前655年で43歳。


 ところが、国語には17歳という記述があり……あったはずなんだがどこだか見つけられない! 私、こういうことよくあるので恥ずかしい限りなのですが、他の春秋時代オタクとすりあわせしたので、あるはあるはずなんですよ(絶望)


 どちらにせよ、即位が紀元前636年で62歳、四年後の晋楚しんそ大戦『城濮じょうぼくの戦い』では66歳ですね。


 いいかげんにせえよ、司馬遷しばせん


 太公望たいこうぼうの享年120歳とかもそうだけど、絶対盛ってるだろ、これ。


 ちなみに国語の17歳も非現実的です。6歳で城の防衛を命じられることになります。もういい加減にして。


 このように、個々の人物だけを起点としようとすると、詰みます。


 ここで、活躍時期ごとに分け、マーカーを意識してみましょう。


 文侯と桓叔は極めて近い年の兄弟です。文候が60歳で死去したとき桓叔は57歳です。

 文侯死後に欒賓らんぴんは桓叔の目付となりました。有能で人望のある叔父は新しい君主にとって脅威というものもあったろうし、第二都市の開発と管理を任せたためそれを領地として有用な家臣になれという、日本で言う『臣籍降下しんせきこうか』のメッセージもあったのでしょう。


 この時代、はっきりと史書に記載はしていないのですが、公室の公子のままと、公室から分かれて臣下になるボーダーラインが『領地』のようで、領地名を氏としているようです。(荀氏じゅんし韓氏かんし郤氏げきしなど全て公子が領地に封じられて臣下になっているのです。封建主義ですね)


 ところが、桓叔は『公室の分家』と認識したようです。


 文候の息子・昭侯しょうこうは即位・紀元前745年で没年は7年後の紀元前739年。桓叔派による暗殺で、桓叔もノリノリでしたが、世論が君主になることを許さず首都に入れてもらえず第二都市に撤退。この時、欒賓らんぴんは首都に戻った形跡は無くそのまま目付をしていたということは、すでに本家に帰る気がないということ。つまり、息子である欒成らんせいも一家を成す年齢だったと考えられます。


 桓叔かんしゅくの死は紀元前731年72歳。ここから未知の領域、グレーゾーン突入です。


 さて。欒賓らんぴんは桓叔より年上か年下か。日本で目付と言われると『年上の監視役』というイメージが先行しがちですが、そうとは限りません。朝鮮出兵における『朝鮮総奉行』の石田三成くんより年上の大名もいましたしね、サボってた黒田官兵衛たんとか。


 例えば欒賓らんぴん桓叔かんしゅくと同年であった場合、紀元前731年時点の欒成らんせいの年齢は『72歳の父親の息子』の年齢となります。当時、男は30歳で結婚をするという決まりがありました。むろん、崩れがあったとは思いますが、25~30歳での結婚が相場であったと思われます。欒成らんせいは次男ですので(諡号しごう共叔きょうしゅくしゅくは次男の意味)遅くとも欒賓が40歳のときに生まれたとしましょう。紀元前731年の時点で32歳です。


 欒成らんせいの没年は紀元前709年です。桓叔の死の22年後です。

 そうなると54歳。華々しく敵軍に突撃して戦死するには少しお年を召しておられないか? とも思いますが、お説教啖呵を切ったことや、敵であった武公ぶこう(桓叔の孫)に宰相として望まれたことを考えても、遅くとも54歳というのはそこまで不自然ではないかもしれません。


 当時の平均寿命は確かに短いのですが、民衆と貴人とでは、やはり違うようで50歳~60歳くらいまで生きている貴族や君主は少なからずおります。実際、桓叔は72歳まで生きておりますしね。


 ここから欒成らんせいがいつ欒枝らんしを仕込んだ(笑)のか考えていきたいのですが、前回でもお話しした欒枝らんしの最盛期とも思われる紀元前633年と欒成の死んだ紀元前709年は単純計算76年の差、という壁が存在し、ここからこの線でたぐっていくのは不可能です。


 ゆえに、欒枝が仕えた重耳ちょうじから攻めていきましょう。と言っても、史記しきの記述を真に受けると、おじいちゃん軍団のできあがりです。

 マニアックな突っ込みをしますと、史記に準じてしまえば重耳の姉(穆姫ぼくき)は四十路を過ぎて結婚し、初産、二人目と子を産んだことになり、当時の出産による死亡率などを考えても、現代の医学から考えても、かなりの無理があるのです。


 そのようなわけで。重耳ちょうじの祖父武公ぶこうから考えていきましょう。


 さて。一旦時間を巻き戻し、文候ぶんこう死去の翌年、紀元前745年に昭侯しょうこうは即位しました。本家としましょう。この時、分家の君主は桓叔です。その死後、息子の荘伯そうはくが即位。この荘伯の死後、紀元前716年に武公ぶこうが即位します。


 この間、29年。


 桓叔は紀元前745年時点で58歳。前述した結婚ルール『30歳結婚、多少崩れて若くなってる可能性有り』を考えれば、荘伯は若くて20代後半、最大値を見積もっても30歳前半でしょう。

 武公は慣例を無視して荘伯の死と同年に即位しています。荘伯は50代死亡の可能性が高いです。

 さて、前述した結婚ルール以下略から、20代前半~半ばに即位した可能性を考えました。


 若い野心家君主、いいですね、ひゅーひゅー!


 その才覚を以て本家首都を滅ぼし、分家こそを晋国しんこくにするのが、我らが武公ぶこうしょうさまです。


 そう、分家を『諸侯しょこう』の一員としたのが、武公なのです、が。


 紀元前704年に本家首都を滅ぼしたにも関わらず、国際社会のトップしゅうに認められませんでした。勝手にドンパチしているとはいえ、諸侯を任命するのは周であり、武公は諸侯を滅ぼした反乱分子でしかなかったのです。


 彼が様々な努力、そして賄賂を積みに積んで晋公になれたのが紀元前678年。周王に諸侯の証を賜った翌年に全てを終わらせたと言わんばかりに死亡。紀元前677年。

 仮に紀元前716年に23歳としましょう。二十代前半から半ばの真ん中をとっただけです。そうなると紀元前677年没で享年61歳。あ。今更ですが数え年では計算してません。ややこしいので。


 この、享年61歳の男の息子が重耳ちょうじの父、献公けんこう詭諸きしょたんです。詭諸きしょでいきます。


 当時の結婚ルール略で考えると、20代後半~30代だったのではないかと思われます。


 が。


 この詭諸たんは父親のしょう(愛人ではなく側室に近い)を寝取って長女と長男を産ませるというとんでもないことをしております。公子時代ではないかと思われます。


 武公ぶこうしょうさまも「晋公として認められようと頑張ってるときに足下で蛮夷ばんいの行い~!!」て頭を抱えたでしょう。


 古代中国の『女は20歳、男は30歳で結婚をする』という基本ルールは『父や兄の未亡人を娶らないようにする』という騒乱封じでもあります。そういうことするのは文化人ではない、という倫理も。ただ、これに準じていると実情、政治などに合わないため、どこまで守られていたかとなると怪しいですが。


 こういった、正室を放置して恋に浮かれた行動を起こす、という幼稚性を考えるに、紀元前677年時点で20代後半だった可能性もあるかと思います。


 また、婚姻も極めて早かったでしょう。これは武公の周室攻略の一環として、他国の血筋の良い女を息子の正室として迎えた可能性からです。寝取られた妾もせい出身ですから、おじいちゃん必死やな。


 また、詭諸きしょたんはてき狐氏こしの姉妹を娶り(姉妹ともに詭諸たんのしょう)、姉が重耳ちょうじを生み、妹が夷吾いごたんを生みました。狐氏が武公に近づいた可能性が考えられます。


 以上を前提に詭諸たんの醜聞を考えるに、武公が妾をもらうだけもらって触ってない、忙しい時期であったろうと思われます。


 それは本家の残党(存在主張しながらゲリラ部隊のように戦ってた様子)を壊滅させるため老獪ろうかいに動き、周に必死の働きかけをし続けていた最後の男盛り50代前半~中盤と考えますと。


 詭諸きしょたんの寝取り発覚、しょうの妊娠は684年前後ではないかと思いました。21歳前後、成人し正室をとるも子が生まれず、放置されていた父の妻に恋をする。(そもそも、この正室も20歳を超えていたか怪しいものですが)


 遠い東国から西国に嫁いできた武公のしょうも、父と同じような年の男に嫁ぎ、相手にもされないところで、若くアホな詭諸きしょたんの情熱にほだされたのかもしれません。


 狐氏こしは異民族のてきでありながら黄河流域の文化をよく知っています。しかし、狄でもありますから『親が息子に自分の妾を譲る』ということに抵抗はなかったでしょう。武公ぶこうを見て、『恭順しておかないと次は自分たちが食われる』と察し、息子である詭諸たんに娘たちを差し出して同盟したのではないでしょうか。


 武公が本家残党を壊滅させたのが紀元前679年です。

 重耳たちの母が詭諸たんのしょうになったのは、詭諸たんの事件が収まったであろう、紀元前682年~679年ごろではないか、と勝手に考えてみましょう。


 詭諸たんは、女の子が自分の物になると最初にとっても励んでしまう癖があるようです。父の妾からは、長女穆姫ぼくき、次に長男申生しんせいとあまり間をおかずに生まれたようです。

 ゆえに、重耳ちょうじ夷吾いごたんも、さっさと生まれていたのではないでしょうか。


 紀元前682年に嫁入りしたとすれば、重耳は武公の死んだ紀元前677年に早くて4歳となります。


 つまり、欒枝らんしも生まれていたとすれば、このころは5歳前後だった可能性はあるでしょう。重耳の周辺は、プラスマイナス5歳ほどの、同年代である様子が活躍時期により察せられるからです。


 ※父の仇に許されたでは、重耳の年齢をもう少し上げてます。郤缺げきけつを起点に計算していたため、詭諸たんを三十路計算しているからです。


 ようやく欒枝ってとこで、次こそ欒書らんしょにたどり着いてやる!


■□■

拙作で武公・称さまが活躍するのはこの作品。

創世記

https://kakuyomu.jp/works/16817330662502026894

欒成を主役として晋の行く末と少年君主との絆をえがいてます。


覇者重耳が出てくる拙作はこちら

父の仇に許された

https://kakuyomu.jp/works/16817139555463331404

重耳を殺そうとした男の息子が主役です。主役を許す度量の大きい重耳。大河ドラマ展開がお好きならぜひ

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