そろばん限界MAX理論値

クソプライベート

そろばんの本気

「ご破算で願いましてはー」

盤田珠男(48歳)の声が、がらんとした教室に虚しく響く。生徒は三人。全員、計算はスマホのアプリだ。珠男のそろばん塾は、デジタル化の荒波に揉まれ、もはや絶滅危惧種に指定されてもおかしくなかった。

家に帰れば、妻の冷たい視線が突き刺さる。「あなた、また生徒が一人辞めたそうね。月謝袋が一つ、軽かったわよ」。珠男はテレビのリモコンを握りしめ、小さく「……すまん」と呟くのが精一杯だった。

その夜、いつものように安酒をあおりながらスマホを眺めていると、『天才たちが挑む人類の難問!ミレニアム懸賞問題、未解決の6問に賞金100万ドル!』という記事が目に飛び込んできた。

「P≠NP予想? リーマン予想? ナビエ…ストークス…? 横文字ばっかり並べおって。要は計算だろうが、計算が」

画面には、黒板を埋め尽くす複雑怪奇な数式と、頭を抱える海外の数学者たちの写真。珠男は鼻で笑った。

「こんなもん、ごちゃごちゃ考えすぎなんだ。そろばんなら一発だ」

妻が寝静まった深夜。珠男は塾の暖簾をくぐり、壁際に鎮座する巨大なそろばんと対峙した。長さ2メートル、磨き込まれたカバの木の珠が鈍い光を放つ、先代からの形見だ。

「よし、まずは…『リーマン予想』とやらからだ」

珠男はスマホの画面を睨みつけ、難解な数式を、彼にしか理解できない「そろばん語」に翻訳し始めた。

「ゼータ関数の非自明なゼロ点は、すべて負の偶数と…なんだこれは。つまり、『1円玉の並びには、何か綺麗な法則があるはずだ』ってことだな! わかったぞ!」

完全に分かっていない。だが、珠男の指はもう動き出していた。

パチパチパチパチッ!

乾いた音が、静寂な夜を切り裂く。それは計算というより、もはや格闘だった。彼の指は見えないほどの速さで珠を弾き、巨大そろばんは呻き声を上げる。

「次の『P≠NP予想』! これは簡単だ。『レジで1058円の会計(P)をするのは一瞬だが、1万円札からお釣り(NP)を計算するのはちょいと手間がかかる』。つまり、手間が違う! PとNPは等しくない! 証明終わり!」

パチパチパチパチパチッ!

「『ヤン–ミルズ方程式と質量ギャップ』! 要は『味噌汁の味噌の粒は、なぜ底に沈まずフワフワ浮いているのか』だ! これは味噌の気合の問題だ!」

パチパチパチパチパチパチッ!

深夜のそろばん塾は、木と木が激しくぶつかり合う音と、珠男の謎の雄叫びに支配されていた。近所の住民は「盤田さんち、夫婦喧嘩が激しいわね…」と噂した。

三日三晩、珠男は塾に籠もった。無精髭は伸び放題、目は血走り、体からは加齢臭と情熱が入り混じった異様な匂いがした。そして四日目の朝、全ての動きがピタリと止まった。

「……出た」

珠男は震える手で、答えをメモ用紙に書きなぐった。それは数字の羅列であり、謎の図形であり、そして最後に書かれた「解は、五つ珠に宿る」という一文だった。

彼はそのメモを、コンビニから国際FAXでクレイ数学研究所に送信した。受付の女性は「イタズラかしら?」と首を傾げたという。

一週間後。

盤田そろばん塾の前に、黒塗りの車が何台も停まった。降りてきたのは、明らかに日本人ではない、彫りの深い顔立ちの紳士たちだ。

「Mr. Tamao Banda? We are from the Clay Mathematics Institute!」

塾の扉を開けた彼らが見たのは、3人の小学生に「願いましてはー、5円なり、10円なり、100円ではー?」と教えている、小汚い中年男の姿だった。

世界中のメディアが色めき立った。「日本のサラリーマンがミレニアム問題を解決か!?」「解法はSOROBAN!?」。盤田そろばん塾には、海外の数学者たちが押し寄せ、巨大そろばんの前で頭を抱えた。

「信じられない…この珠の配置が、我々が百年かけても見つけられなかった答えだというのか…」

「彼の指の動きをハイスピードカメラで撮影したが、物理法則を超えている…!」

当の珠男は、詰めかける記者たちにこう答えた。

「いや、だから魂で弾いただけだって。見てわかんないかなぁ?」

後日、珠男の口座に100万ドルが振り込まれた。しかし、その日のうちに全額が妻の口座に移され、珠男の小遣いは千円上がっただけだった。

今も盤田珠男は、生徒が少しだけ増えたそろばん塾で、子供たちに指の動かし方を教えている。世界的な名声も、数学の未来も、彼には関係ない。ただ、時々、巨大そろばんに向かって一人呟くのだ。

「さて、次はどの問題の桁を揃えてやろうかな」と。

その背中を、妻だけがドル建て預金の残高を確認しながら、頼もしげに見つめているのだった。

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