マネキン【短編】

さかえ

少女の日の思い出

「マネキンみたいだよね」


 小学生の頃、近所のぼろ団地に住む同級生ユウカと一緒に下校していた。ユウカは明るい性格で、携帯ゲームとドラムと意地悪な冗談が好きだった。

 私達が毎日使う通学路沿いには古びた病院があった。老いた医者が一人で営んでいる小さな医院。錆びた鉄の正門と高い煙突が不気味。

 下校時刻の夕方頃になると、きまって一人の女性が正門をくぐっていく姿を見かけた。何より私達の目を引いたのはその長身と、異様な服装である。ショートヘアに細縁メガネ、一年中黒ずくめのコートとブーツをまとっている。すらりとした……というよりは不健康なほどに細身だった。

 まるでマネキンが動いているみたい。ユウカが『マネキン』と渾名をつけた日から、私達は彼女を見かけるたびにこっそり観察しては悪口を言うようになった。


「マネキンの歩き方、めっちゃ不気味じゃない?」 

「マネキンの眼鏡、ダサすぎるよね」


 私は微かな罪悪感に胸をざわつかせながらも、ユウカの言葉に合わせて笑っていた。だって、見ず知らずの人が何と言われていようが、べつにどうでもよかったのだ。あれは、私達と同じ人間じゃなくて、単なる『マネキン』なんだから。



 私は所謂鍵っ子だった。両親は共働きで日付が変わってから家に帰ってくるし、兄弟姉妹はいない。スマートフォンはまだ一般的ではなかったけど、バラエティ番組や図書館で借りた児童書など、一人で時間を潰す娯楽には困らなかった。

 八月の終わりだっただろうか? とある蒸し暑い夜。私はテレビを見ながら作り置きの惣菜を食べていた。メニューはママ特製の和風ハンバーグとポテトサラダで、わずかに冷蔵庫の匂いが染み付いている。

 テレビでは、今をときめく五人組男性アイドルがボウリングに挑戦していた。陽気な効果音に合わせて、アイドルが大きく腕を振りかぶった後、球がレーンを滑る。見事なストライク。画面の中で、全てのピンが崩れ去ったその瞬間、


〈ピンポーン〉


 突然、家の玄関の呼び鈴が爆音で鳴った。驚いて箸を取り落としそうになる。

 こんな時間に誰? まさか宅配便じゃないよね。ママなら呼び鈴なんか押さずにそのまま帰宅するはずだし。

 恐る恐る玄関に向かい、玄関に耳を当てる。それから背伸びして覗き窓を覗いた。

 視界に広がるのは、黒。しばらくして私は、覗き窓の向こうに闇が広がっているのではなく、黒い服を着た人間が覗き窓の至近距離に立っているということに気づいた。

 背後のテレビから、バラエティ番組のわざとらしい笑いと明るい効果音が聞こえていた。それをかき消すように、か細い女の声が響く。


「子どもの家はどこですかあ」


 抑揚のない低い声。直感でわかった。あのマネキンだ。心臓が早鐘を打ち、足が震えた。

 ……なんでマネキンがユウカの家を知りたがってるの? なんで私の家に来たの?

 私はドアから逃げるように遠ざかり、ソファの裏に隠れて息を殺した。

 呼び鈴は何度も鳴り続けていたけど、しばらくすると静かになった。つけっぱなしのテレビは、いつの間にかCMパートに切り替わっていた。

 ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、今度はドアが激しく音を立てた。ママかもしれないと期待して玄関に駆け寄ると、あの低い声。


「子どもの家はどこですかあ」


 小さく息を飲み、半歩下がる。

 どうして私につきまとうの? 渾名をつけたのも悪口を言ってたのもユウカの方で、私はただ隣で聞いていただけじゃん。私は何も悪くない!

 心の中で恐怖と怒りと後ろめたさが混ざって爆発し、ついドア越しに叫んでしまった。


「ユウカの家なら北側! 早くどっかへ行って。マネキン!」


 適当な方向を指して嘘をつく。

 もはやテレビを消すことも食事を片付けることも忘れて、そのまま二階にあがって布団にこもって震えていた。



 目が覚めるといつも通りの朝が訪れた。居間はバターのいい匂いで満たされていて、テレビでは子ども向け十五分番組が流れている。


「昨晩、お皿片付けてなかったでしょ。やめてよね」


 キッチンに立つママは私の方を見もしないで、のんびり朝ご飯を作っている。

 学校で会ったユウカも変わらぬ調子だった。


「ねえユウカ、昨日なんか変なことなかった?」

「は? 何それ」


 彼女は嘲るように笑うだけ。

 昨夜の異変は夢か幻だったのだろうか? ぞっとしたけれど、ユウカに話す勇気はなかった。あの出来事を口に出してしまったら、悪夢ではなく現実に起こったこととして確定してしまう気がしたからだ。

 その直後、ユウカ一家はぼろ団地から市の中心部の新しい分譲マンションへ引っ越した。私もユウカとは別の通学班になり、別の中学に進学し、連絡頻度が減って自然と疎遠になっていった。



 けれど、私にはひとつだけ……たったひとつだけ問題があった。


〈ピンポーン〉


 夜になると時々、私の家の呼び鈴が鳴る。インターホンの画面は真っ黒に染まって何も映っていない。つまり誰かがドアの前にずっと立ち続けている。ただ、背筋が凍りつくような声だけが鮮明だ。


「子どもの家はどこですかあ」


 そんな夜、私は身動きもしないで、必死に息をひそめ続けている。

 ユウカの家なんて答えられない。本当に知らないのだ。引っ越した先の住所なんて、聞いてなかった。そもそも、ユウカ一家は何故突然引っ越しを決めたのだろう?

 軽く握りしめた手に薄らと汗が滲んでいた。小学生の頃、悪いのはユウカだと思っていながらも、私の心の奥底には『自分も間違えた』という自覚があったのかもしれない。無関心、同調、面白半分、責任逃れ。だからこそ、呼び鈴が鳴った時に自分が標的にされたような感覚に陥る。

 考えてみれば不可解なことだらけだ。もし……もしも、マネキンが探し続ける『子ども』という言葉が、ユウカではなく、私本人の心の中にある幼稚さを指しているのだとしたら? 私は永遠にこの呼び鈴に囚われ続けるのだろうか? このドアを開けてしまったら一体どうなる?

 いくら考えても何も答えられない。答えのない問いに、いつまでもつきまとわれ続けている。


〈ピンポーン〉


 呼び鈴が鳴っている。

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