第6話 冬越し
(セラの手記)
十月末。谷は早くも冷え込み、夜の気温は一〇度を下回る。蜂場の冬支度は遅らせてはならない。巣箱の断熱材を補強し、餌として砂糖水を与える。群れが春まで持ちこたえるためには、秩序と準備がすべてだ。
No.7の巣門前に立つ。蜜の香りはもう薄い。代わりに冷気と枯草の匂いが支配している。私は温度計を差し込み、二〇度を確認する。まだ適温だが、風の入り込み方が心配だ。ノアに布を渡し、巣箱の隙間を塞ぐよう指示する。彼女は素直に従い、しかし指の動きはどこか名残惜しげだった。
冬越しの作業は、春や夏のような華やかさはない。蜜を搾る快楽も、群れのざわめきを読む緊張も少ない。ただ、静けさと忍耐。私はそれを好む。規律に忠実であれば、冬は越せる。だが、心の奥底に、別の「静けさ」が居座る。
——この冬、彼女は誓願を立てるだろうか。私の進言で延期になったが、いずれ再び問われる。選ぶのは彼女自身。私は守るために口を出すが、結局は——私の願望が混ざっているのではないか。
夜、納屋で作業をしていると、ノアが声を落として言った。
「女王、落ちてました。……No.7」
私は言葉を失った。覚悟はしていた。夏の巣落ちのあと、女王の動きは弱かった。寿命が近いのは明らかだった。だが、実際に彼女を手のひらに受け取った瞬間、胸に冷たい隙間ができた。群れはざわめきもせず、ただ小さく震えていた。
私たちは静かに「蜂葬」をした。白布に包み、巣箱の脇に小さな穴を掘る。ノアが蝋で小さな印を作り、そっと置いた。私は祈りを唱え、しかし心は沈黙していた。祈りは慰めではなく、秩序の言葉だ。慰めを与えるのは別の何か——それを私は認めたくなかった。
作業を終え、納屋に戻る。ノアが小さく言った。
「……冬も、いっしょに」
私は返答できなかった。できないかわりに、面布の紐を取り、彼女のうなじに結んだ。今夜は作業でも外勤でもない。ただの紐結び。結び目を、自分のと同じ高さに合わせた。
スモーカーを手に取る。三度、煙を吐かせる。——助けを求める合図。だが、今夜は「助けて」ではなく「共に越える」の意味だった。
ノアの目が大きく見開かれ、次いで細く笑みに変わった。その笑顔は、祈りよりも確かな契約に見えた。私は静かに呼吸を整えた。冬は長い。だが、秩序と合図があれば、必ず越せる。
* * *
(ノアの手記)
寒い。朝の空気がつんってする。蜂たちの羽音は小さくなって、かわりに枯れ葉の音が大きい。巣箱の前でセラが温度計を見てる。二〇度。私は数字の意味はよくわからないけど、セラが頷いたから「大丈夫」って思う。布をもらって、隙間にぎゅって詰める。穴がなくなると、胸の穴もちょっと塞がるみたい。
でも、なんかさみしい。夏みたいに蜜が光ってない。音も少ない。お祭りが終わったあとみたい。セラは静かで、私はそれをまねする。だけど心の中は「話して」「ねえ」ってさわいでる。
夕方。女王が、もう動いてなかった。手のひらにのせたら、軽かった。羽がぴたって閉じてた。私の胸もぴたって止まった。セラは顔を動かさなかったけど、手が少しふるえた。私はそれを見て、もっと泣きたくなった。泣かない。泣かないけど、胸の奥で泣いた。
二人で小さなお墓を作った。白い布にくるんで、蝋で小さな印を作って、置いた。土のにおい。冷たい空気。蜂たちのざわざわはなくて、ただ静か。祈りの言葉が流れても、私はぜんぜん慰められなかった。慰めはセラの横顔にしかなかった。
納屋に戻ったとき、私は小さな声で言った。
「……冬も、いっしょに」
本当は「いっしょに越えたい」って言いたかった。でもそれだと、家族ってよりも、もっと、になっちゃうから。だから短くした。セラは答えなかった。かわりに面布の紐を取って、私のうなじに結んだ。きゅって。いつもより少し下に結んでたのを、今夜は自分と同じ高さに。わかった。わかったよ。声に出さなくても、わかった。
セラがスモーカーを持った。ぶしゅ、ぶしゅ、ぶしゅ。三回。胸がどきんってした。三回は「助けて」。でも、今日のはちがう。今日のは「いっしょに」。私の中で意味が変わった。私のための三回。
目が熱くなって、でも笑った。泣くのと笑うのが同じ顔になった。セラがちょっとだけ、目を細めた気がした。祈りよりも強い合図。契約。秘密の鍵が胸の奥で光った。
冬は長い。寒い。静か。でも、結び目と三回の煙があるなら、私は迷子にならない。春が来ても、冬の夜を忘れない。
布の結び目を指でさわった。結び目が、あったかい。私はそのまま眠った。夢の中でも、煙が三回、空にのぼった。ずっと消えなかった。
ミツバチのささやき(El espíritu de la colmena) lilylibrary @lilylibrary
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