年越しはそばで
空木閨
第1話
年越しそばを食べながら除夜の鐘を聞いていた。そこで今年最大の事件が起きるとは。
大学を卒業してから四年の会社員生活を経て念願の宇宙飛行士となり、月面基地で働き始めてもう十五年になる。
普段は宇宙食ばかりの生活だが、年越しの時だけはそばを食べながら、携帯端末から再生する除夜の鐘の音に耳を傾けつつ、家族と通話するのがささやかな幸せだった。
宇宙でそばを食べるというのは大変贅沢な事で、そのために私物持ち込み可能重量の多くを割く必要があった。地球から持ってきたのは僅かばかりの私物と、妻と娘の写真と、百束の乾麺と、めんつゆだけだった。
そばは生まれ育った長野の名産品で、懐かしい思い出が蘇るから好きなのだ。
その日も例年通り年越しのそばを食べながら妻と娘と通話していた。
「もうすぐ高校を卒業するよ。そうしたらパパと同じアメリカの大学に行きたい。お金はかかるけど、パパなら大丈夫だよね?」
画面越しに娘が微笑む。一年ぶりに見た彼女の姿は以前とは比べ物にならない程大人びて見えたが、こうして私に甘えてくる所なんかはまだまだ子供のようだった。
「アメリカの大学に行きたいなんて少しびっくりしたけど、お金の事なら心配しないで。こんな時のためにパパは火星で十五年も残業し続けているんだからね」
もちろんこれはジョークである。宇宙飛行士とはいえ労働時間はきちんと決められており、過度な残業は制限されている。また宇宙に十五年も拘束されているからといって、その間残業代が出続ける訳でもない。
人並み以上に給料をもらってはいるものの、割りのいい仕事ではないだろう。宇宙に来てからというものの一度も地球に帰れていない。家族や友達にも会えないし、映画館に行く事だって出来やしない。金だけあっても月にはその使い道がない。楽しみは年に一度、年越しそばと家族との通話だけ。
だがその通話は突如として切られた。次の瞬間には警報が基地中で鳴っていた。急いで携帯端末を開いて状況を確認する。非常事態宣言が発令されたようだ。
かねてより地球への接近が予測されていた小惑星が、予想よりも遥かに地球に引き寄せられて、米国大統領の住まいであるホワイトハウスに衝突したようだった。
直径百メートル程の隕石は空中で爆発して数万もの家屋を焦土に化した。地球を滅ぼす程ではないが、米国大統領を始めとした数十万もの人々を死に至らしめた。
しかしこれは大事件ではあるものの、月面基地で警報が鳴り響く理由にはなり得ないはずで不思議に思った。基地機能統括人工知能は何を非常事態と見做したのか。この時はまだどこか他人事のような感覚があった。
それから数日して、例の隕石が地球に接近した際にいくつかの人工衛星を破壊していた事が発覚した。破壊された人工衛星の破片がまた別の人工衛星を破壊して、連鎖的に衝突事故が引き起こされた結果、地球衛星軌道上に大量のスペースデブリが発生した。
地球からの補給物資の打ち上げは、スペースデブリに阻まれて悉く失敗し、また失敗するごとに大破したロケットの破片が新たなスペースデブリとなり、八年もすると打ち上げ計画は白紙となった。大気圏外のデブリ群を蒸発させる装置の開発も進められているそうだが、百年かかる見通しのようだ。
こうして月面基地は孤立して、私たちは二度と地球に帰れなくなった。
早急に資源の節約をする必要があった。酸素、電力、水、食料、どれも月では貴重だが、特に酸素と食料の自給自足は困難だ。このままだと今ある酸素は一ヶ月で使い切ってしまう計算結果が算出された。
それぞれの部屋に戻って配食を摂る。簡素な宇宙食だが、今後は人糞から生成したクッキーを食べて生きていくことになると思うと、最後の晩餐のように思えた。翌朝目覚めると、誰も部屋から出てこなかった。
おそらく基地機能統括人工知能は、一人だけなら生きていけると判断してランダムに選んだ一人以外の配食に毒を混ぜたのだろう。
だが人は……私は一人で生きていけるのか。
あの日から家族とも通信できていない。現存の太陽光発電の設備では、最低限の基地機能の維持で精一杯なのだ。
地球がどうなったのかもよく分からない。人工衛星が全て大破したため、誰も宇宙に電波を飛ばさなくなったからだ。基地に生き残りがいるとも思っていないだろう。
だが時折、地球の表面に小さな光が起こって、黒ずんだシミが作られる。核戦争が続いているらしいことだけは分かった。
それから六十年が経って、百一歳になった。相変わらず人糞から生成したクッキーばかり食べているが、それでも長生きできた事を鑑みると案外健康に良いのかもしれない。
でも新年を迎える時だけは、除夜の鐘を聞きながら年越しそばを食べるのだ。その時だけは故郷や、家族を側に感じられるから。
年越しはそばで 空木閨 @utsugineya
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