Hollow The Night

埴輪庭(はにわば)

ホロウとベアトリクス

 ◇


 ホロウ・ボーデンという男を形容するならば、人形。それが最も近い表現であろう。


 ボーデン伯爵家は王国の歴史とともに歩んできた名門である。代々の当主はその時々の権力構造の中で巧みに立ち回り、決して目立つことなく、しかし確固たる地位を築き上げてきた。


 ホロウはそんなボーデン伯爵家の嫡男としてこの世に生を受けた。だが彼には先祖たちが持っていた野心や狡猾さといった貴族らしい資質が欠落していた。いや、資質だけではない。人間としての根源的な欲求そのものが、彼の中には存在しなかったのである。


 幼少の頃からホロウは異様な子供であった。彼は泣かなかった。笑うこともなかった。乳母が定刻に乳を与えれば機械的にそれを嚥下する。寝台に横たえられれば、そのまま石のように動かなくなる。自発的に何かを求めたことは一度たりともない。瞳は深く澄んだ湖のようであったが、その湖底には何の感情も沈殿していなかった。


 父である先代伯爵ウォーケンはこの奇妙な息子を持て余していた。貴族社会とは野心と陰謀が渦巻く伏魔殿である。そこで生き残るためには他者を蹴落とし、自らの地位を確立するための強靭な意志が必要とされる。しかしホロウにはその欠片も見当たらない。


「この子は白痴ではないのか」


 ウォーケンがそう疑ったのはホロウが五歳になった時であった。彼は未だに意味のある言葉を自発的に発したことがなかったのだ。問いかければ答える。しかしその答えは常に短く、感情がこもっていなかった。まるで言葉の意味だけを理解し、その背景にある感情を理解していないかのようであった。


 ウォーケンは焦燥に駆られた。ボーデン家の歴史に愚鈍な当主を出すわけにはいかない。彼は一流の家庭教師たちを次々と屋敷に招き入れた。歴史、数学、法学、剣術、馬術。本来ならばあと二年は待つべき教育内容であったが、彼はそれを強行した。もしホロウがこれらの教育についてこられないならば──


 だがウォーケンの危惧とは裏腹に、驚くべきことが起こった。


 ホロウは与えられた知識のすべてを恐るべき速度で吸収していったのである。一度聞いた歴史の年号は決して忘れず、複雑な法体系も一言一句違わずに暗記した。数学の難問も彼はこともなげに解いてみせた。剣を持たせれば師範が舌を巻くほどの完璧な型を再現した。


 彼はスポンジだった。いや、スポンジというにはあまりにも受動的すぎる。そう、底なしの沼だ。あらゆる知識を吸い込み、そして何も吐き出さないそんな沼。


「神童だ!」


 ウォーケンと母ネリアは狂喜した。我が子は天才であったのだと。これでボーデン家の未来は安泰であると。そうして彼らは社交界で息子の才能を吹聴して回った。


 だがその喜びは長くは続かなかった。すぐに、それが糠喜びであったことが判明したからだ。


 ホロウは相変わらず何もしなかった。


 家庭教師が来れば彼は完璧な生徒を演じる。しかし授業が終われば再び人形に戻る。自分から書物を開くこともなければ剣の稽古に励むこともない。ただ窓辺に座り、中庭の風景を眺めているだけであった。その瞳には何の感情も映っていなかった。


「なぜ何もしないのだ。お前には才能がある。それをなぜ活かそうとしない」


 ウォーケンは苛立ち、息子を詰問した。


 ホロウは硝子玉のような瞳で静かに問い返した。


「活かすとはどういうことでしょうか、父上」


 その声には反抗の色も、怯えの色もなかった。


「どういうことだと? それは自らの意志で行動するということだ。お前は何がしたいのだ。欲しいものはないのか」


「特に、何も」


 ホロウは淡々と答えた。


 ウォーケンは絶句した。この子供は本当に何も望んでいないのだ。彼は他者の指示によってのみ動く人形なのだ。才能があっても、それを振るう意志がなければ意味がない。宝の持ち腐れ。まさにその通りであった。


 ウォーケンとネリアは息子の性格を変えようと躍起になったが、すべては無駄であった。ホロウは変わらない。彼は常に受動的であり、完璧であり、そして空虚であった。


 やがて、父母の興味はホロウから完全に失われた。彼らは息子を諦め、ただ貴族としての義務を果たさせることだけを求めるようになった。ホロウは淡々とそれに従った。彼は周囲が望む「ボーデン伯爵家の嫡男」という役割を完璧に演じきり、父が亡くなると、自動的に伯爵位を継いだ。


 波風の立たない人生。起伏のない感情。それがホロウ・ボーデンという男だった。


 そうして時は経ち──


 ◇


 ホロウ・ボーデン伯爵は鏡に映る自分の姿を眺めていた。四十二歳。小太りで締まりのない体躯。特徴のない顔立ち。髪は薄くなり始めており、その色は埃を被ったようにくすんでいる。服装もまた無難としか言いようのないものだった。流行遅れではないが、かといって洗練されているわけでもない。まさに、彼という人間を象徴するような姿であった。


 彼は自分の人生に疑問を抱いたことはなかった。彼はただ、与えられた役割をこなしてきただけだ。だが今、彼の心には微かな波紋が広がっていた。それは痛みと呼ばれる感情であった。


 彼の妻、ベアトリクス・ボーデン。三十三歳。彼女はホロウの人生における唯一の例外であった。


 ホロウがベアトリクスと出会ったのは彼が二十七歳の時だ。彼女はボーデン家と取引のある商家の娘であった。彼女の父が事業の失敗で窮地に陥り、ボーデン家に支援を求めて訪れた際、彼女も伴われていた。


 その時、ホロウは彼女に出会い、そして見初めたのだ。


 彼女は美しかった。燃えるような赤毛と、射干玉のような瞳。その美貌はまるで刃物のように鋭く、見る者を圧倒した。だがホロウが惹かれたのは彼女の美貌だけではなかった。彼女の持つ、苛烈なまでの生命力。彼女の瞳に宿る、勝気な光。それは彼には決して持ち得ないものであった。


 彼は初めて、自らの意志で何かを欲した。彼は彼女が欲しいと思った。それは彼が生まれて初めて抱いた明確な欲望であった。それが恋かどうかはホロウ自身にも定かではない。しかしホロウは自身に無いモノを数多く持つベアトリクスが欲しいと心から思ったのだ。


 だがその結婚生活は幸福とは程遠いものであった。ベアトリクスはホロウを愛していなかった。彼女にとってこの結婚は家を救うための取引に過ぎなかった。地味で退屈で覇気のない男。そんな男の妻であることに、彼女は苦痛すら覚えていた。


 そうして日々を過ごすうち、ベアトリクスは不貞をするようになった。


 ある夜、ホロウはベアトリクスの私室の前に立っていた。時刻は深夜を回っている。だが彼女の部屋からは微かな物音が聞こえてくる。彼女一人のものではなく男の声もする。低く、甘い、囁くような声。


 ホロウは静かに扉を開けた。鍵はかかっていなかった。部屋の中には月明かりが差し込んでおり、その光の中で二つの影が重なり合っている。一人は彼の妻、ベアトリクス。そしてもう一人は見知らぬ若い男だった。


 彼らはホロウの存在に気づくと、慌てて身を起こした。ベアトリクスは乱れた髪をかき上げ、その美しい顔に明らかな不快の色を浮かべている。若い男は狼狽し、急いで衣服を身に着けようとしていた。


「何をしているのかな」


 常と変わらず平坦で感情の起伏を感じさせない平坦な声。


 ベアトリクスは鼻で笑った。


「見てわからないの? 楽しんでいたのよ。貴方と違って、私を心から楽しませてくれる殿方とね」


 彼女は悪びれる様子もなく、若い男の腕に絡みついた。


「彼を招いた覚えはないよ。出て行って貰いなさい」


「嫌よ。この方は私の大切な客人だわ。貴方こそ、無粋な真似はやめてさっさと出て行ってちょうだい」


 ベアトリクスは挑戦的な眼差しでホロウを見上げた。


「ここは私の家だ。そして君は私の妻だ。その自覚があるのか」


「妻? 名ばかりのね。貴方が私を妻として扱ったことが一度でもあった? 私が何を求めているか、考えたことすらないでしょう」


「君が求めるものはすべて与えてきたはずだ。ドレスも、宝石も、そして自由も」


「そうね、物は与えてくれたわ。でも、それだけよ。私が欲しかったのは物じゃないの。情熱よ。愛よ。貴方にはそれが決定的に欠けている」


 ベアトリクスは吐き捨てるように言った。


「貴方はいつもそう。地味で無難で退屈で。一緒にいるだけで息が詰まりそうなのよ。私が外に安らぎを求めるのは当然だわ」


「安らぎ?」


「ええ、そうよ。少なくとも、彼らは私を一人の女として扱ってくれる。貴方のように、まるで家具か何かのように扱うことはしないわ」


「私は君を愛している」


 ベアトリクスはそれを一笑に付した。


「愛? 笑わせないで。貴方のそれは愛なんかじゃないわ。ただの執着よ。貴方は私を、自分の所有物だと勘違いしているのよ」


「違う」


「違わないわ! 貴方には男としての魅力が欠片もない。そんな貴方といて、私が満たされるとでも思っているの?」


 ホロウはベアトリクスをこの場で満たすことは可能だろうかと考えるが、すぐにそれは不可能だと結論が出る。


「なるほど、魅力か。ならば仕方ないね」


 そう言って自室に戻ったホロウは鏡の前に立った。


 男としての魅力がない。ベアトリクスの言葉が頭の中で反響していた。


 彼はベアトリクスを愛している。それは疑いようのない事実だった。彼女を失いたくない。そのためには彼自身が変わらなければならない。


 ホロウは決意した。自分を磨こう。彼女が求めるような、魅力的な男になろう。


 彼が能動的に何かをしようと思ったのはベアトリクスとの結婚以来、二度目のことであった。そしてホロウ・ボーデンという男は目的が定まれば、それを実現するために驚異的な能力を発揮する。それは幼少の頃から変わらない彼の性質だった。


 ◇


 ホロウの変化はまず肉体から始まった。専属のトレーナーと栄養士を雇い、徹底的な肉体改造に取り掛かったのだ。四十を過ぎた体には過酷なトレーニングであったが、彼は一切の弱音を吐くことなく、淡々とメニューをこなしていった。彼の持つ異常なまでの集中力と忍耐力が、ここで遺憾なく発揮された。


 食事も制限した。味気ない野菜と鶏肉だけの食事が続いたが、彼はそれを苦痛とは感じなかった。彼にとって食事とは栄養素を摂取するための手段に過ぎなかったからだ。


 数ヶ月後、彼の体躯は劇的に変化した。贅肉は削ぎ落とされ、筋肉が引き締まった。小太りだった体はすらりとし、その動きはしなやかになった。彼の顔立ちも変わった。無駄な肉が落ちたことで彼の骨格が際立ち、その瞳は鋭い光を宿すようになった。


 次に、彼は身なりを整え始めた。一流の仕立て屋と美容師を呼び寄せ、彼の外見を徹底的に磨き上げた。彼の髪型は洗練されたものに変わり、服装も最新のスタイルに一新された。彼は色彩学や服飾史に関する書物を取り寄せ、自分に最も似合うスタイルを研究した。彼は完璧を目指していた。


 そんなある夜。


 ホロウが書物を読んでいると、不意に強い眠気を覚えた。


 まるで薬でも盛られたかのような不可解な眠気だ。


 しかし今夜はホロウとしても読んでおきたい書があり、常にないその感覚に暫く耐えていると眠気は収まっていく。


 だが今度は、シンと静まり返った屋敷に声が響いてきたではないか。


 ホロウは椅子から腰を上げ、声の方──ベアトリクスの寝室へと歩いていった。


 ◆


 ベアトリクスの寝室の前でホロウは一瞬逡巡した。室内で一体何をしているのか、男の声は聞こえないものの、もしまた誰かと一緒にいたら。


 そう思うとホロウにしては珍しく躊躇いを覚えた。


 しばしぼうっと突っ立っていると──寝室から聞こえてくるベアトリクスの声が再び聞こえてくる。


 何か苦しんでいる様な声にも聞こえる。


 ホロウは意を決してドアを軽くノックし、開いた。


 果たしてベアトリクスは、寝台から起き上がってぶぜんとした表情を浮かべながらホロウをにらみつけていた。


「……なに?」


「君の声が聞こえた。うなされているようだったが大丈夫かい?」


「何よ今更。ああ、そういえばあなた、こうして眺めてみれば、少しは見られるような姿になったじゃない。でも所詮は付け焼き刃ね。外見を取り繕ったところで中身が空っぽなのは変わらないわ。もううんざり。いいからここから出て行ってよ。あなたの顔なんてみたくもないわ。明日は夜会なの。もう寝かして頂戴」


 取り付くしまもなくホロウは寝室から追い出されてしまう。


 その夜、執務室で書の続きを読んでいた所、ホロウはふと疑問に思った。


 自分は一体、何をどうすればベアトリクスから愛されるのだろうか。


 彼はこれまで彼女が求めるような男になるために努力してきた。しかし彼女は依然として彼を愛してはくれない。


 彼は考えた。しかしいくら考えても答えは出なかった。彼は誰かに相談したかったが、彼にはそのような友人もいなかった。家族はどうかといえば、父母はすでに他界しており、兄弟もいない。彼は孤独だった。彼の周りには彼を尊敬する者や、彼を利用しようとする者はいたが、彼の内面を理解してくれる者はいなかった。


 彼は一人、書斎で考え続けた。そして一つの根本的な問いに行き着いた。


 そもそも、自分がベアトリクスに向けるこの感情は本当に愛なのだろうか。


 ホロウは愛という言葉を当然のように使ってきた。しかしその本当の意味を理解しているのだろうか。彼は感情というものを知らなかった。彼は人間というものを知らなかった。


 だからホロウは愛について調べることにした。書庫からあらゆる書物を持ち出し、そこに記された愛の定義を読み解いていく。哲学書、詩集、恋愛小説。そこには様々な形の愛が語られていた。自己犠牲的な愛、情熱的な愛、穏やかな愛。そして歪んだ愛。


 かくも多様で矛盾に満ちた愛の一つ一つを吟味し、自分の感情と照らし合わせていく。しかしどれも完全に一致するものはなかった。


 そんなある日、決定的な出来事が起こる。


 ベアトリクスの腹が、僅かに膨らみ始めたのである。


 ◆


 ホロウは彼女を執務室に呼び出した。彼女は相変わらず美しいが、その顔にはわずかな不安の色が浮かんでいる。


「話がある」


 ホロウは淡々と切り出した。


「何よ、改まって。忙しいのだけど」


 ベアトリクスは不機嫌そうに答えた。最近の彼女は常に苛立っているように見えた。


「君は妊娠しているのではないか」


 その言葉に、ベアトリクスの顔が蒼白になった。彼女は咄嗟に腹を庇うような仕草を見せる。


「……何を言っているの。そんなはずないでしょう」


「隠しても無駄だ。医者に見せればすぐに分かることだ」


 ベアトリクスは観念したように俯いた。さすがに彼女も、普段の強気な姿勢は鳴りを潜めている様子だった。


「……誰の子だ」


 ホロウは淡々と尋ねた。


「……あなたの子よ」


 ベアトリクスは震える声で言った。


「嘘ではないかな。私と君はもう長いこと寝室を共にしていないはずだよ」


 ホロウの指摘に、ベアトリクスは唇を噛み締めた。


「言いなさい。誰の子だい?」


 ホロウは粘り強く問い続けた。


「……」


「言えないのか。それとも、相手が多すぎて分からないのか」


 その言葉に、ベアトリクスは顔を上げた。その瞳には怒りと屈辱が浮かんでいた。


「……カルマン侯爵よ」


 彼女はついに白状した。カルマン侯爵は王国の有力貴族の一人であり、ベアトリクスが最近親密にしていた相手だった。彼は冷酷で野心家であり、敵対する者には容赦しないことで知られていた。


「そうか」


 ホロウは短く答えた。彼はその事実に驚きも怒りも感じなかった。ただ、そうなのか、と思っただけだった。彼はただ情報を分析し、次の行動を計算していた。


 ここまでくると、ベアトリクスも腹を括ったのか、開き直った態度を見せた。


「それで? どうするつもり? 私を責めるの?」


 彼女は挑戦的な眼差しでホロウを見上げた。


「責めはしない。ただ、事実を確認したかっただけだ」


「ふん。相変わらず気持ちの悪い人ね。言っておくけど、私はこの子を産むわ。カルマン様も、認知してくださると仰っているの」


「そうか」


「だから離縁しても構わないわよ。慰謝料はたっぷり頂くけどね。侯爵が面倒を見て下さるから」


 ベアトリクスは勝ち誇ったように言った。はったりではなく事実だ。


 ホロウは彼女の言葉を静かに聞いていた。そしてゆっくりと口を開く。


「君はそうしたいのか」


「え?」


「君は私と離縁し、カルマン侯爵の元へ行きたいのか」


「当たり前でしょう。あなたみたいな魅力のない男といるより、よっぽど幸せだわ」


「そうか」


 ホロウは頷いた。そしてもう一つ質問を重ねた。


「今後、君が私を愛することはもうないのか」


 その問いに、ベアトリクスは一瞬、虚を突かれたような表情を見せた。ホロウの顔をじっと真顔で見つめ、瞳の奥にある何かを見定めようとする。そして──


「ないわ。一度たりとも、貴方を愛したことはない」


 その一言が、すべてだった。


 ホロウは暫く目を瞑った。彼の脳裏にはこれまでの十五年間の結婚生活が浮かんでは消えていった。楽しかった思い出など一つもなかった。あるのはただ虚無と、そして微かな痛みだけだった。それは彼にとって、かけがえのない時間だった。だが彼女にとってはただの束縛でしかなかったのだ。


 彼はゆっくりと目を開けると、静かに、しかし断固とした口調で告げた。


「分かった。君の望み通り、離縁しよう」


「……え?」


 ベアトリクスは耳を疑った。彼が、自分を手放すはずがない。


「娘と共に、この家から出ていくが良い」


 ホロウの声には一切の迷いがなかった。リリアンについてホロウはいかなる情も抱いていない。ベアトリクスがリリアンとホロウを接触させなかったという事情もあり、ホロウにとってリリアンは赤の他人も同然だった。まあ通常ならば愛する女の娘ということで多少なり情を抱くこともあるのかもしれないが、ホロウの精神はそのようにできていない。彼はある意味で非常に器用な部分があるが、ある意味では破滅的に不器用なのだ。


 もしベアトリクスがホロウとリリアンの接触を妨害しなければ、あるいはホロウもリリアンを娘として認識していたかもしれないが。


「……本気なの?」


「ああ、本気だ。私が父親であったことなど一度もないからね」


 淡々というホロウにベアトリクスは侮蔑の眼差しを向けた。


「結局、その程度だったのね。私の事を愛していると言いながら、いざとなれば簡単に捨てるのね。最低な男。血も涙もない、化け物よ」


 彼女はそう言い捨てると、踵を返して部屋を出ていった。


 誰もいなくなった部屋でホロウは一人佇んでいた。


「私は迷っている様だ」


 彼はぽつりと呟いた。


 この時、ホロウの中には二つの相反する感情が渦巻いていた。


 愛と憎悪。光と影。それらが彼の心の中で溶け合い、混ざり合い、一つの歪な塊となっていく。


 ホロウはその形が知りたくなった。この感情の正体は一体何なのだろうか。愛なのか、憎悪なのか、それ以外の何かなのか。


 それを確かめるためにはどうすればよいのか考え──そして決めた。


 瞬間である。


 ◆


 ホロウ・ボーデンという男は目的が定まれば、それを実現するために手段を選ばない。彼の内なる怪物が、今、完全に目覚めた。それは彼にとって三度目の自発的な選択であった。そして彼の人生を狂わせる禁断の扉を開く鍵となったのである。


 それ以降、ホロウの行動は迅速かつ冷酷だった。彼は科学者が実験動物を観察するように、ベアトリクスを観察しようとしていた。なぜならば自身が抱く奇妙な感情の根源はベアトリクスが関係しているからだ。


 この時点でホロウの関心はすでにベアトリクスへの愛ではなく、自身の感情の正体に移っている。


 彼はまず、ベアトリクスの動向をくまなく監視させた。彼が雇った情報屋たちは優秀であり、彼女の一挙手一投足を詳細に報告してきた。


 ベアトリクスは娘のリリアンを連れてボーデン家を出た後、カルマン侯爵の用意した屋敷に移り住んでいた。彼女はそこで侯爵の庇護のもと、贅沢な生活を送っているようだった。


 それを確認したホロウは謀略を巡らせ始めた。無論、これまで彼はただの一度も謀略など巡らせたことはない。しかし彼にはあらゆる方面への天賦の才能があった。常の彼はその才能を活かすだけの自発的な意思がない。だが、目的が定まれば──


 ホロウは謀略とはいかなるものかを学び、たちまちのうちに恐るべき謀略家へと変貌を遂げたのである。彼の頭脳は目的を達成するための最適な手段を冷徹に弾き出していく。


 彼はまず、カルマン侯爵の弱みを徹底的に調べ上げた。カルマン侯爵は冷酷で野心家であったが、その一方で非常に猜疑心が強い男でもあった。彼は常に周囲の人間を疑い、誰も信用していなかった。そして彼には多くの政敵がいたし、不正な手段で富を築いていたという黒い噂もあった。


 ホロウはそこに目をつけた。彼は情報屋を使って、カルマン侯爵の側近たちの周囲の人間にそれとなく偽の情報を流し始めた。


「侯爵様、ベアトリクス様がボーデン伯爵と密通しているという噂がございます」


 側近の一人がそう告げた。カルマン侯爵は当初、それを信じなかった。


「馬鹿な。あの女が、今更あの男と? あり得ん」


 だがホロウは様々な手段を使って、その疑惑を補強していった。彼はベアトリクスの筆跡を偽造し、彼に宛てた手紙を作成した。そこにはカルマン侯爵への不満と、ホロウへの未練が綴られていた。


 その手紙を読んだカルマン侯爵は次第に不安に駆られるようになった。彼はベアトリクスを問い詰めたが、彼女は当然、それを否定した。


「私は貴方様だけを愛しております。ボーデン伯爵など眼中にございません」


 だが彼女の言葉は侯爵の心には届かなかった。一度芽生えた疑惑は容易には消え去らない。


 そしてホロウは決定的な一手を打った。彼はカルマン侯爵が不正な手段で蓄財している証拠を掴むと、それを匿名で王宮にリークしたのだ。彼は侯爵が領民から不当に税を徴収し、その金を横領している証拠を手に入れた。


 カルマン侯爵は窮地に立たされた。彼は潔白を主張したが、証拠は動かしがたいものだった。彼は地位を追われ、多額の罰金を課せられた。彼の権力は急速に衰退していった。


 そしてホロウはさらに追い打ちをかけた。彼はカルマン侯爵がベアトリクスと不貞を働いていた事実を社交界に暴露したのである。


 カルマン侯爵は完全に名声を失った。彼はベアトリクスを庇う余裕などなく、彼女を捨てるしかなかった。彼は彼女との関係が自分の破滅の原因であると信じていた。


「お前のせいだ! お前が私を破滅させたのだ! 二度と顔を見せるな」


 カルマン侯爵はベアトリクスに呪詛の言葉を吐き捨て、彼女を屋敷から追い出した。彼は彼女に僅かな手切れ金を与え、彼女のもとを去っていった。


 一方、ホロウはベアトリクスの実家にも手を回していた。彼は彼女の実家が経営する商会との取引をすべて打ち切り、さらに圧力をかけて他の商会にも取引を控えさせた。彼は彼女の生家の借金を肩代わりする代わりに、彼女との関係を断つように要求していたのだ。


 商会は立ち行かなくなり、倒産寸前まで追い込まれた。だから彼らにはベアトリクスを受け入れる余裕などなかった。


 ベアトリクスはすべてを失った。地位も、財産も、そして頼るべき男も。彼女は娘と共に、路頭に迷うことになる。彼女たちはこれまで贅沢な暮らししか知らなかった。自らの力で生きていく術など、持ち合わせていなかった。


 ホロウは淡々と次の指示を出す。


「彼女たちを監視し続けろ。そして決して死なせるな」


 彼は彼女たちを生かしもせず、殺しもしなかった。なぜかといえば、その状態がホロウの抱く感情に合った状態だからである。愛と憎しみ、光と闇。そんな感情を彼女らに抱くホロウは、その感情の状態とベアトリクスたちの状況を適合させようとしていた。


 そこに悪意は一切ない。その方が自身の感情をより効率的に観察できるからそうしているだけの話だ。


 だが観察対象であるベアトリクスたちの生活は悲惨なものだった。彼女たちは王都の貧民街にある安宿を転々とし、その日の食事にも事欠くような状態だった。彼女の美貌は見る影もなく衰え、その目からはかつての輝きが失われていた。


 だがそんなある日、彼女たちに救いの手が差し伸べられた。匿名の人物から、僅かながらも定期的に金が送られてくるようになったのだ。それは彼女たちが最低限の生活を送るためには十分な額だった。


 ベアトリクスはそれに感謝し、再び生きる希望を見出し始めた。彼女は小さな仕事を見つけ、懸命に働いた。


 だが彼女たちの状況が改善しそうになると、必ず邪魔が入った。彼女が働いていた店が突然閉店したり、彼女たちが住んでいた家が火事で焼け落ちたり。無論、ホロウの指金である。


 ホロウは彼女たちを徹底的に追い詰めた。そして彼女たちが絶望の淵に立たされた時には再び救いの手を差し伸べる。例えば彼女が仕事を見つける事ができたのもホロウの手引きであった。


 ◆


 そんな生活が暫く続き──数年後。


 ベアトリクスは病に倒れた。


 彼女は貧民街の片隅にあるあばら屋で床に臥せっていた。長年の困窮生活が彼女の心と体を蝕んでいたのかもしれないが、それにしても奇妙な病であった。貧民街で医術の心得がある老人は彼女の症状を見ても全く病の正体を特定できない。


 だが一つ言える事はカルマン侯爵との間に生まれた子供が死んだ時も似たような症状だった。


 肌全体が黄色味を帯び、関節が硬くなり、立つことすら困難になるのだ。そして少しずつ呼吸もしづらくなっていき、最期は窒息して死ぬ。


 リリアンは母親の看病をしていた。彼女もまた過酷な生活の中でやつれ果てていたが、その瞳にはまだ生きる意志が宿っていた。


 そんな彼女たちの前に、ホロウが現れた。


 彼は洗練された服装に身を包み、その表情は相変わらず平坦であった。彼は貧民街の汚穢とは無縁の、別世界の住人のようであった。彼はあばら屋の中を見渡し、そしてベアトリクスを見下ろした。


「……ホロウ……」


 ベアトリクスは掠れた声で言った。彼女の顔はやつれ、かつての美しさは見る影もなかった。そこにいたのは惨めで醜く、そして死に瀕した女の姿である。


 ホロウは何も言わずに彼女を眺めていた。彼の瞳は相変わらず凪いでいた。


「お父様!」


 リリアンが泣きながらホロウに縋りついた。


「お父様、助けてください。お母様が死んでしまうの。お願い、お母様を助けて」


 彼女はプライドを捨てて、彼に懇願した。


 しかしホロウは娘を無視した。彼の視線はただベアトリクスに注がれていた。彼はリリアンの存在など眼中にないかのようであった。


「……何しに来たの……。私を笑いに来たの……?」


 ベアトリクスは弱々しく問いかけた。


「それとも……殺しに来たの……?」


 ホロウはやはり何も答えなかった。彼はただ黙って、彼女を観察していた。まるで珍しい昆虫でも見るかのように。


「……早く殺してちょうだい。こんな惨めな姿で生きているのはもう耐えられないわ。お願いだから楽にして」


 ベアトリクスは自暴自棄になって叫んだ。彼女は死を望んでいた。それが彼女に残された唯一の救いであったからだ。


 ベアトリクスの容体はどんどん悪化していった。彼女の呼吸は浅くなり、意識も朦朧としてきた。彼女の命の灯火が、消えようとしていた。


 その時、ホロウが初めて口を開いた。


「君は生きたいかい?」


 彼の声は静かだった。それはまるで神が人間に問いかけるような、超越的な響きを持っていた。


 ベアトリクスは僅かに目を開けると、ゆっくりと頷いた。彼女の目から、涙が溢れ落ちた。生きたい。死にたくない。それは生物としての本能的な欲求だった。


「それが君の幸せなのだな」


 ホロウは再び尋ねた。


 ベアトリクスはもう一度頷いた。彼女にとって、生きることこそが、唯一の幸せであった。


「そうか」


 ホロウは短く答えると、懐から小瓶を取り出した。


「特効薬だ。私が手配した」


 そしてそれをベアトリクスの口元に持っていき、中の液体を飲ませ、それなりの額の金貨をテーブルの上に置くと何も言わずに去っていった。


「ありがとう、お父様!」


 リリアンの言葉に、ロウは振り返りもしない。


 そうして帰りの馬車の中、ホロウはぼんやりと窓の外を眺めていた。外は暗く、冷たい雨が降っている。


 彼の心はやはり静かだった。


 生きる事が幸せならば、死ぬことは不幸だ。


 愛しているから、幸せにする。憎いから、殺す。理に適っている。


 ならば、自分が彼女に抱く感情は一体何なのだろうか。


 彼女を生かした。それは彼女を愛しているからなのだろうか。


 しかし彼は彼女を苦しめてきた。それは彼女を憎んでいるからなのだろうか。


 ホロウは結局、何も分からなかった。彼の心の中にある歪な塊は依然としてその正体を現さなかった。


 だがホロウはそれについていかなる感慨も抱かない。わからないなら分かるまで続けるだけの話だからだ。


「旦那様」


 従者が、遠慮がちに声をかけた。


「何だ」


 ホロウは淡々と答えた。


「今後のことでございますが……」


「彼女が治れば、毒を盛れ。死にかければ、薬を与えよ」


 ホロウは感情のこもらない声で命じた。


「かしこまりました」


 従者は深く頭を下げた。


 馬車が闇の中を静かに進んでいく中、ホロウは不意に強い眠気と違和感を覚えた。


 まるで自分が自分ではないような。そして、


「……少し眠る。着いたら起こしてくれ」


 そうして目を閉じ──


 ◇◇◇


 ホロウ・ボーデン。私の夫。でもあれは人間ではない。あれは人形だ。人の真似をしようとしているだけの哀れな人形。


 なぜそんな人形と結婚をしたのか。


 実家を救うためには仕方がなかった。彼が私を見初め、初めて自らの意志で私を欲したのだと聞いたが、私は本能的に違和感を覚えていた。初めて彼と顔を合わせたあの時、すべてが始まったのだ。彼は礼儀正しく、非の打ち所がなかった。でも目を見てすぐ分かった。


 彼は私を見ていない──


 結婚生活は緩慢な窒息のようだった。彼は私が望むものは何でも与えてくれた。ドレスも、宝石も、不自由のない生活も。だがそれはまるで、高価な人形の世話を焼くかのようだった。彼が私に触れる時でさえ、そこに熱はない。義務的で、機械的で、まるで生命の宿っていない石像に抱かれているようだった。私がどれほど情熱的に語りかけても、彼の反応は常に判で押したように一定だった。


 人間ではない何かが人間のふりをしている。彼と一緒にいるだけで、私自身の存在までが希薄になっていくような恐怖があった。彼の空虚さが、私を飲み込んでしまうのではないかと。私は彼を嫌悪し、そして何よりも深く、本能的に恐れた。


 だから私は外に逃げ場を求めた。私を一人の女として見てくれる男たち。彼らの熱い眼差しと腕の中だけが、私が生きていると実感できる場所だった。


 あの夜、月明かりが差し込む部屋で恋人と共にいた時、ホロウは音もなく現れた。彼は私たちを見ても、驚きも怒りもしなかった。ただ、いつもの平坦な声で「何をしている」と言っただけだ。


 その態度が、私を苛立たせた。なぜこの男はこんな状況で平然としていられるのか。妻が他の男と寝ていてもなんとも思っていない。私を愛していると言っていたが、どうみても嘘ではないか。


「貴方には男としての魅力が欠片もない。そんな貴方といて、私が満たされるとでも思っているの?」


 私はありったけの侮蔑を込めて言い放った。地味で、小太りで、退屈な男。少しでも人間らしい感情を引きずり出したかったのかもしれない。だが彼はただ静かに私を見つめ返しただけだった。その瞳に宿る光のなさに、私はゾッとした。


 ◇◇◇


 異変が起きたのはそれからだ。ホロウが変わり始めた。


 最初は鼻で笑っていた。あの空虚な男が、自発的に何かをするなどあり得ない、と。だが数ヶ月後、私の前に現れた彼はまるで別人だった。


 贅肉は削ぎ落とされ、引き締まった体躯。一流の仕立て屋が誂えた服もよく似合っている。そこにいたのは私が知っている地味で退屈な男ではなかった。成熟した男の魅力と、近寄りがたいほどの知性を兼ね備えた存在。彼の周りには多くの女性たちが熱い視線を送っていた。


 一瞬、本当に一瞬だけ、彼が「人間」に見えた。


 虚無の膜が剥がれ落ち、中から血の通った一人の男が顔を覗かせたような、そんな錯覚。そして私はそんな彼に魅力を感じている自分自身に気づき、愕然とした。もし、最初から彼がこのような男であったなら──。


 そんな風に思ったのは、ああそうだ、あの日の夜だ。


 その日、私は嫌な夢を見た。


 どんな夢だったかは覚えていない。


 ただ、酷く嫌な夢だった気がする。


 確かその日、ホロウが寝室へとやってきたのだ。


 ──「君の声が聞こえた。うなされているようだったが大丈夫かい?」


 ふん、本当は心配なんてしていないくせによくもまあいけしゃあしゃあとあんな事が言えたものだ。


 不快になった私は彼に言ってやった。


「何よ今更。ああ、そういえばあなた、こうして眺めてみれば、少しは見られるような姿になったじゃない。でも所詮は付け焼き刃ね。外見を取り繕ったところで中身が空っぽなのは変わらないわ」


 その通りだ。彼の瞳の奥。そこには相変わらず、あの底知れぬ虚無が広がっていた。外見を磨き上げたところで、彼は気味の悪い人形のままだ。いや、むしろ完璧になればなるほど、彼の異質さは際立っていく。より精巧な人間の皮を被っただけだ。十五年間で染み付いた嫌悪感はそう簡単に拭えるものではない。


 結局、私はホロウを拒絶した。


 それに明日は夜会でカルマン侯爵がいらっしゃるはずだ。実はホロウと結婚する前から彼とは関係があった。結婚してからはさすがに逢ってはいないが、たまに手紙をいただいたりする。


 もしかしたら侯爵はいまでも私に気があり──あるいは、この退屈な場所から連れ出してくれるかもしれない。


 そんなことを考えていると、嫌な夢を見たことなんてすっかり忘れてしまった。


 ああ、なんだか急に眠くなってきた。少し心が温まったおかげだろうか? 


 ◆◆◆


 そして翌日。


 夜会の喧騒はまるで遠い世界の出来事のように感じられた。


 きらびやかなシャンデリアの光が磨き上げられた床に反射し、着飾った貴族たちの影を揺らしている。私はその光景をぼんやりと眺めながら、グラスの中のシャンパンの泡を指でなぞっていた。早くカルマン様にお会いしたい。その一心だった。


 今夜、夫は領地の視察とかでこの場にはいない。好都合だった。あの息の詰まる人形の監視がないだけで、これほど空気が美味しく感じられるなんて。


「まあ、ボーデン伯爵夫人。今夜はご主人とご一緒ではないのですか?」


 隣に立った侯爵夫人が、探るような目で私に話しかけてきた。


「ええ、あの方は生真面目な方ですもの。領地のことで急用ができたとかで」


 私は当たり障りのない笑みを浮かべて答える。本当の理由などどうでもよかった。


「それは残念ですわ。最近のボーデン伯爵の素晴らしいご活躍はもっぱらの噂ですのに。ぜひお会いしとうございましたわ」


 侯爵夫人の言葉には棘があった。夫が社交界の寵児となり、妻である私がその隣にいないことへの当てこすりだろう。私は内心で舌打ちしながらも、優雅に微笑んでみせる。


 幸せですって? 冗談ではない。あの男がどれだけ変わろうと、私の心は少しも満たされない。むしろ、完璧であればあるほど、その内側にある空虚さが際立って、私の背筋を凍らせるのだから。


 夫がいない今夜は、絶好の機会だった。あの人形から逃れ、人間らしい温もりを取り戻すための。


 そう思っていた時だった。


「ベアトリクス……いや、ボーデン伯爵夫人」


 懐かしい声が、私の耳を捉えた。振り返ると、そこにカルマン侯爵が立っていた。あの頃と何も変わらない、野心的な光を宿した瞳で、私を見つめている。


「息を飲むほどお美しい。この夜会で唯一、私の目を奪う花だ」


 その言葉に、私の心臓が高鳴った。これだ。私が欲しかったのは、この熱なのだ。


「侯爵様こそ、お変わりなく。今夜お会いできるのを楽しみにしておりました」


 私の声が、自分でも驚くほど甘く響いた。


 カルマン侯爵は私の手を取り、その甲に唇を寄せる。


「少し、二人きりで話さないか。君に伝えたいことがある」


 彼の熱い視線が、私を射抜く。


「ええ、喜んで」


 私はカルマン侯爵の腕に自分の腕を絡ませた。


 私たちは人々がひしめくボールルームを抜け、月明かりが差し込むテラスへと向かう。冷たい夜気が、火照った私の頬に心地よかった。もう、あの息の詰まる人形のそばに戻る必要はない。


 この夜、私はカルマン侯爵の腕の中で、ようやく人間らしい温もりを取り戻したのである。


 ◆◆◆


 私はカルマン侯爵との関係に溺れていった。


 侯爵の子を身籠ったことが分かった時、私はこれでようやくあの男から解放されると思った。


「誰の子だ」


 彼は淡々と問い詰めた。怒りも嫉妬もない。相変わらず気持ちの悪い男だ。でももうごまかせないだろう。私は観念し、カルマン様の名を告げ、そして開き直った。


「今後、君が私を愛することはもうないのか」


 彼がそう尋ねた時、私は彼の瞳を真っ直ぐに見返した。


「ないわ。一度たりとも、貴方を愛したことはない」


 それが私の答えだった。


 彼は驚くほどあっさりと離縁を受け入れた。それどころか、娘のリリアンと共に家から出ていくように告げたのだ。いとも簡単に私を手放す。彼はただ、用済みになった所有物を捨てる決断をしただけだ。


 実家の事? 


 そんな事はもう知らない。私は私なりに長い間よくやってきたはずだ。


「結局、その程度だったのね。最低な男。血も涙もない、化け物よ」


 私はそう言い捨てて、ボーデン家を後にした。清々した。これで自由だ。


 ◆◆◆


 だがそれは甘い幻想だった。そこから、私の人生は音を立てて崩れ落ちていった。


 カルマン様が突然失脚し、私を捨てたのだ。仕方なく実家に頼ろうにも門前払いされてしまう。あるいはあの男から根回しされたのかもしれない。


 もしかしてホロウが私を? ──そう思った事もあったが、カルマン様を失脚させることなんてあの男にはできないはず。


 とにかく地位も、財産も、頼るべき男も失い、私とリリアンは貧民街に身を落とした。


 なぜこんなことになったのだろう。運命の歯車が狂ったとしか思えなかった。


「これも全部、あの男のせいよ……」


 やけになって、そんな言葉が口をついて出たこともあった。もちろん、本気でそう思っていたわけではない。ただ、誰かを恨まなければ、生きていけなかったのだ。


 貧民街での生活は悲惨だった。時折、匿名の支援が届くことがあったが、状況が好転しそうになると、必ず不可解な不幸が私たちを襲った。まるで目に見えない何かが、私たちが這い上がるのを嘲笑っているかのようだった。


 そして私は病に倒れた。体が硬直し、呼吸が苦しくなる奇妙な病。私は死を覚悟した。


 朦朧とする意識の中、彼が現れた。


 ホロウ・ボーデン。彼は相変わらず洗練された姿で、別世界の住人のように、そこに立っていた。そして死に瀕した惨めな私を、ただ静かに見下ろしていた。まるで珍しい虫でも観察するかのように。リリアンが助けを求めて縋りついても、彼は娘を無視した。


「……早く殺してちょうだい。お願いだから楽にして」


 私は懇願した。


 その時、彼が口を開いた。


「君は生きたいかい?」


 その声は奇妙なほど静かだった。感情がないはずなのに、それはまるで、神か悪魔が問いかけるような響きを持っていた。


 生きたい。死にたくない。


 私は泣きながら頷いた。


「そうか」


 彼は私に薬を飲ませ、そして金を置いて去っていった。リリアンの感謝の声にも、振り返りもしなかった。


 彼は一体何なのだろう。私を憎んでいるのか。それとも──


 分からない。私には何も分からない。あの男の考えることなど、私には永遠に理解できないだろう。


 ああ、体が重い──でも、息がちゃんとできる。


 ホロウはかなりの額のお金を置いていってくれた。


 彼は一体何のつもりなのだろうか。


 だめだ、考えがまとまらない。


 少し休まないと──


 ◇◇◇


 私は飛び起きた。随分酷い夢を見ていたような気がする。


 一瞬自分がどこにいるかわからなくなり、周囲を見回す。ここは──家だ。ホロウの屋敷。


 その時、控えめなノックの音がした。びくりと肩が跳ねる。リリアンはもう眠っているはずだ。こんな時間に訪ねてくる者など、一人しかいない。


「……なに?」


 掠れた声で応じると、扉の向こうから感情の抑揚がない聞き慣れた声が返ってきた。


「君の声が聞こえた。うなされているようだったが──大丈夫かい?」


 ふん、本当は心配なんてしていないくせに。


 そう思い、私は彼をにらみつけた──が。


 ホロウのガラス玉みたいな目が、なんだか変だ。


 なんというか、本当に私を心配している様にも見えなくもない。


 灯を背にするホロウを良く見る。


 以前の姿と違って、いまのホロウは大分スラッとしている。そういえば魅力のある男になるとか言っていたような。


「お腹──随分と引っ込んだじゃないの」


「ああ」


「……随分と、変わったのね」


 気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。喉がひどく渇いている。シーツには嫌な汗が滲んでいた。どんな夢だったのか、詳細は靄がかかったように思い出せない。ただ、底知れぬ絶望と、すべてを失う恐怖だけがまだ胸の奥にこびりついている。


 目の前に立つホロウは、灯りを背負っているせいで表情は読み取りにくい。だが、その立ち姿だけで、彼がもはや私の知っているあの鈍重で退屈な男ではないことが分かった。贅肉は削ぎ落とされ、仕立ての良いナイトガウンの下には、鍛え上げられた肉体が収まっているのだろう。


「君が、望んだからだ」


 ホロウは静かに答えた。相変わらず感情の抑揚は乏しい。


「私が望んだ?」


「君は言った。『男としての魅力が欠片もない』と。だから私は、魅力的であるために必要なことをした」


 ああ、そうだった。あの夜。私が恋人と共にいるところを見られた夜。私は確かにそう言い放ったのだ。彼の無感情な仮面を少しでも剥がしたくて。


 まさか、あの言葉を文字通りに受け止め、ここまで自分を変えるなんて。


 私は少し混乱していた。この男は一体何を考えているのだろう。魅力的になれと言われたから努力した。それだけの話なのだろうか。


「あなた……本当に変わろうとしているのね」


 私の声は、自分でも意外なほど静かだった。


 ホロウは何も答えない。ただ、その硝子玉のような瞳で私を見つめている。以前と同じ、感情の見えない目。だが何かが違う。変化の萌芽のようなものが、そこに潜んでいるような気がした。


「私のために、そこまでするの?」


「君を愛している」


 即答だった。感情のこもらない、機械的な返答。だがその言葉は、嘘ではないのだろう。彼なりに、本心から発せられた言葉なのだ。問題は、この男の「愛」が一体何を意味するのか、私には理解できないということだった。


 私は深く息を吐いた。夢の残滓が、まだ胸の奥で重く沈んでいる。なんだろう、この感覚は。


「……ねえ、ホロウ」


「何だい」


「私が他の男と寝ると、あなたはどう思うの?」


 その問いに、ホロウは初めて僅かに表情を動かした。目を細め、何かを考え込むような仕草。


「……痛い」


「痛い?」


「ああ。胸の奥が、冷たくなる。それが痛みなのだと、最近理解した」


 なんて不器用な表現だろう。だがそれは、彼なりの精一杯の感情表現なのだと分かった。この男は、自分の感情すら理解していないのだ。痛みを感じても、それが何を意味するのか分からない。まるで生まれたばかりの子供のように。


「私の事を愛していると言っていたわよね。あなたの思う愛って何なの?」


 ホロウはまた沈黙した。長い、長い沈黙。やがて、彼は搾り出すように答えた。


「分からない」


「分からない?」


「ああ。君を失いたくないという感情がある。君が苦しむ姿を見ると、私の中で何かが軋む。君が笑っている姿を見たいと思う。それが愛なのかどうか、私には判別がつかない」


 驚くほど率直な告白だった。この男は、嘘をつけないのだ。自分の感情を理解できないまま、ただそれを言葉にしようとしている。


「あなたは私のどこが好きなの?」


「すべてだ」


 またも即答。


「君の美しさも、強さも、そして残酷さも。君の持つ生命力が、眩しい。私にはないものだから」


 その言葉に、私は何も返せなかった。


 気づけば、私たちはかなり話し込んでいた。ホロウはずっと立ちっぱなしだ。夜気は冷たい。窓の外を見れば、すでに深夜を回っている。


 私は少し悩んだが、やがて決心してホロウに告げた。


「……入りなさい」


「いいのかい」


「立ち話も何だし。それに──」


 続きの言葉は、自分でもうまく紡げなかった。ただ、今夜はこの男を追い返したくなかった。それだけは確かだった。


 今更何を考えているのだろう──そんな思いをごまかす様に、私はホロウに質問をする。


「それにしてもよくこんな時間まで起きていたわね。すっかり夜も更けているのに。ところで私の声、そんなに大きかった? 起こしちゃったかしら」


「いや……おきていた。書を読んでいたんだ。そうしたら君の声が聞こえた。声は寝言にしては大きかった気がする」


 そんなことを言いながら、ホロウが部屋に入ってくる。私は寝台から降り、窓辺の椅子に腰を下ろした。ホロウは適度な距離を保ったまま、もう一つの椅子に座る。


 月明かりが差し込む部屋の中、私たちは向かい合った。


「ふうん……まあいいわ。それにしても大分鍛えたみたいね。どんな事をしたの?」


「専属のトレーナーを雇った。毎朝五時に起床し、三時間のトレーニングを課している。食事も徹底的に管理した」


 淡々とした口調だが、その努力の量は並大抵のものではないだろう。もう年なのに大したものだ。


「そう……」


 私は少し考えてから、別の質問を投げかけた。


「あなたは娘についてどう思っているの?」


 ホロウは僅かに視線を落とした。


「わからない。余り話した事がないから」


 そうだった。私はリリアンをホロウに接することがないようにしてきたのだ。娘は父親を嫌っている。いや、正確には軽蔑している。それは私が、ホロウのことを娘の前で貶めてきたからだ。


 自分がしたことではあるが、罪悪感が胸の奥でちくりと痛んだ。


「……リリアンはね、とても利発な子よ。私に似て気が強いけれど、心の優しい子。絵を描くのが好きで、庭の花をよく写生しているわ」


 ホロウは黙って聞いていた。


「お茶会では、年上の貴婦人たちともきちんと会話ができるの。社交の才能があるのね。でも、本当は一人で本を読んでいる方が好きみたい」


 一つ一つ、娘のことを語っていく。ホロウは相槌も打たずに、ただ静かに耳を傾けている。


「少し君に似ているね」


 やがて、ホロウが口を開いた。


「そうね。でも──」


 私は一瞬ためらったが、続けた。


「あなたにも似ているかもしれないわ。私たちの娘だから」


 ホロウの目が、僅かに見開かれた。感情の乏しい彼が、明確に驚きを示したのだ。


「……そうか」


 彼は呟いた。


「私の娘でもあるのか」


 その言葉には、何か不思議な響きがあった。まるで、初めてその事実を実感したかのような。


 沈黙が降りた。だがそれは居心地の悪いものではなかった。


 そういえば、と話を変えるようにホロウが言った。


「明日は夜会に出かけると言っていたね。帰りは遅くなるのかい?」


 ああ、そうだった。明日はカルマン侯爵が出席する夜会だ。私は必ず行こうと思っていた。侯爵は王国有数の権力者で、洗練された魅力を持つ男性だ。それに知らない仲でもない。


 だが。


 何か、胸に差し迫るものを感じる。


 様な、そんな感覚。


 私は考え、そして決めた。


「……いいえ」


 気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。


「明日はやっぱりどこにもいかないわ。その代わり、あなたも時間を作ってちょうだい」


 ホロウは僅かに首を傾げた。


「わかった、そうしよう」


 彼はそう答えた。疑問も、詮索もしない。


 その夜、私は不思議な気持ちで眠りについた。胸の奥に残っていた悪夢の残滓が少しだけ小さくなったような気がした。


 ◇◇◇


 翌日の夕刻。


 私は娘を呼び、今夜は三人で夕食をとると告げた。


「お父様も、ご一緒なの?」


 リリアンは露骨に嫌そうな顔をした。


「ええ、そうよ」


「……嫌だわ。お母様、どうして急に」


「いいから。今夜だけよ」


 私は有無を言わさぬ口調で言った。リリアンは不満そうだったが、最終的には従った。


 食堂には、三人分の食事が用意されていた。ホロウは既に席についており、私たちを静かに待っていた。


 リリアンは警戒した様子で父親から離れた席に座る。私はその間に座った。


 奇妙な晩餐が始まった。


 最初、リリアンは終始不機嫌そうで、ホロウの方を見ようともしなかった。ホロウは相変わらず無表情で、黙々と食事をしている。


 この沈黙は耐えられない。私は話題を振ることにした。


「リリアン、今日は何をしていたの?」


「……庭で絵を描いていたわ」


 娘は短く答えた。


「そう。何の絵?」


「薔薇よ。赤い薔薇」


 ホロウが、僅かに顔を上げた。


「君は絵が得意なのか」


 突然話しかけられ、リリアンはびくりと肩を震わせた。だが、すぐに不機嫌そうな表情に戻る。


「……別に」


「ベアトリクスから聞いた。君は絵の才能があるそうだ」


 リリアンは戸惑ったように私を見た。私は静かに頷いて見せる。


「お母様が……そんなことを?」


「ああ。薔薇の絵か。薔薇は描くのが難しそうだ」


「そうなの。花びらの重なりを表現するのが、とても難しくて」


 娘の声が、少しだけ柔らかくなった。好きなことについて話す時、人は自然と心を開くものだ。


「今度、見せてもらえないだろうか」


 ホロウのその言葉に、リリアンは驚いたように目を見開いた。


「……本当に?」


「ああ。私は絵のことはよく分からないが、君の作品を見てみたい」


 嘘ではないのだろう。ホロウは娘に関心を持ち始めている。それは、彼なりの愛情表現なのだ。


 リリアンは少し考えてから、小さく頷いた。


「……分かったわ」


 それから、会話は少しずつ弾むようになった。リリアンの好きな本の話。庭の花々の話。来月の舞踏会の話。


 ホロウは相変わらず口数は少ないが、娘の話を静かに聞いている。時折、短い質問を挟む。


 そしてリリアンは、徐々に父親への警戒を解き始めていた。私が自然に接するのを見て、安心したのかもしれない。


 食事が終わる頃には、リリアンの表情は最初とは全く違うものになっていた。


「お……父様」


 娘が、初めて自分から話しかけた。


「何だい」


「明日、私の絵を見に来てくださる?」


「ああ、もちろんだ」


 ホロウは即座に答えた。


 リリアンは小さく微笑んだ。それを見て、私の胸に温かいものが広がった。


 ◇◇◇


 娘が部屋に戻った後、私とホロウは並んで廊下を歩いていた。


「ありがとう」


 私は小さく呟いた。


「何がだい」


「リリアンに、優しくしてくれて」


「優しくしたつもりはない。ただ、彼女の事を知る必要があるとは考えている」


 随分な言い様だが、ホロウはそういう人間だ。なんというか酷く


 私たちは私の部屋の前で立ち止まった。


「おやすみ、ベアトリクス」


「ええ、おやすみなさい」


 ホロウが去ろうとした時、私は彼を呼び止めた。


「ホロウ」


「何だい」


「これから──少しずつでいいの。私たち、ちゃんと話しましょう。私、少しあなたを誤解していた部分があったみたいだから」


 ホロウは振り返り、私を見つめた。相変わらずの硝子玉のような瞳。だけれど、なんとなくその奥に揺れるものがあるような、そんな気がする。


「ああ、そうしよう」


 彼はそう答えて、静かに微笑んだ。


 いや、微笑んだように見えた。感情の乏しい彼の表情は相変わらず読み取りにくい。


 でもこれまでとは何かが少し違う気がした。変わって行く気がした。


 私も、彼も、そして私たちの関係も。


 ああそうだ、私もホロウがどういう男かを知るまでは、火遊びは控えよう。


 ただ、まだ始まったばかりだ。この先、どうなるかは分からない。


 まあ、少なくとも今夜は──


 悪夢ではなく、穏やかな夢を見られそうな気がした。


(了)


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Hollow The Night 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03

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