2人だけの舞踏会

星森あんこ

貴方と踊れたら……

 視界がぼやけ、早朝の鳥のさえずりは耳には届かない。何年も前に感じていた隣の温もりも忘れてしまった。首を動かすだけでも何十キロもの重りをつけられたかのように、重く、動きたくない。そう思ってしまう。


 孫達ももう成人となり、年老いた私に会いにくる日も減っていった。忘れられるのは寂しいけど、年寄りがでしゃばっても若い者にとっていい事一つもない。そろそろ、人生に幕を下ろす時期ね。


「死神さん、私の寿命はまだかしら?」


 しゃがれた声でそう言うと、ぼやけた視界に黒い布を着た骸骨が現れた。昔から彼の事は見えていた、でも夫が死ぬまではただ黒いなにかだった。日にちが経つにつれ、その姿は濃く鮮明に映り始め、今ではこのぼやけた視界にでもくっきりと見える。直感で思った、私はもう遅いのだと。


「そうですね。単刀直入に申しますと、あなたは今晩死にます。死因は老衰ですが……最後の思い出作りぐらいならあなたの願い、叶えて差し上げられるかもしれません」


「あらあら、こんな老人にもそんなチャンスがあるとはねぇ……そうねぇ、ここは昔ドレスを身に纏った美しい女性達、黒のタキシードを着た紳士達。彼らはこの屋敷で最も大きい部屋で舞踏会を開いていたの。叶うことなら……もう一度、踊ってみたいわ」


 かつては赤いドレスを身に纏った若かりし頃の自分と赤い顔をした彼と踊った日々を思い出す。死神は少しの沈黙を続けたのち、私の皮膚のたるんだ手を握る。その手は彼のように暖かみによく似ていた。


「あなたの最期の願い、聞き届けました」


 チカッと一等星の如くまばゆい光が目を刺激したかと思えば、視界がクリアになり目の前にいた死神がタキシードが着ているのがはっきりと見えた。橙色のつつみこむような灯火に、いつかに踊ったクラシックのメロディー。すべてが懐かしく、淡い思い出だ。


「お美しいあなた、どうか私と一曲踊ってくれませんか?」


 死神が手を差し出す。ふと横に飾っていた鏡を見てみると、皮膚のたるんだ顔をした老婆ではなくハリのある素肌を持つ、凛々しい女性になっていた。これは、何十年も前の私……そうだ、あなたはやっぱり─────


「あら、お世辞が上手いのね。いいわ、一曲踊りましょう……最期の曲を」


 差し出された手を握り、クラシックの穏やかなメロディーにあわせて赤いドレスと金の耳飾りを揺らす。


 ワン、ツー、スリー

 ワン、ツー、スリー


 ヒールを鳴らしながら腕を絡める。


 ワン、ツー、スリー

 ワン、ツー、スリー


 あの日を噛みしめるかのように身を任せる。


 ワン、ツー、スリー

 ワン、ツー、スリー


 もう二度と踊れないと思ったあなたと最期を過ごす。


「私ね、夫と出会うよりも前にこうやって踊った事があるの。その人はね、顔を真っ赤にして震え声で一曲踊らないかと誘ってきたの。家主の娘だった私は色んな人と踊ってきたけど、あんなに緊張した人は初めてみたわ。触れた手は熱く、少し湿っていたわ」


「……そうですか」


「それからかしら、舞踏会を開く度に来てくれる彼に私は惚れてね。今度大きな舞踏会があるからと言って、彼と踊る事を約束したの。でも、彼は来なかった」


 死神はなにも喋らず、あの日と同じステップを踏む。クラシックが鳴り止む気配は無い。


「私はいつまでも待ってた。でも彼は来なかった。数日後、彼が急病で死んだ事が分かったの。死ぬまでにあなたと踊れてよかったわ。死神さん……もうあなたが罪悪感を背負う事はないのよ。私はもう充分なほどに幸せになれたから」


 クラシックが鳴り止み、ヒールの音も鳴り止んだ。私は彼から手を離し、人に戻りつつある彼の赤い頬に触れる。あぁ、やっぱり彼だった。死神が見え始めたのは彼が死んで一年目の時だった。あの時は本当に彼を愛していた。恋い焦がれるほどに……


「あらあら泣かないで? あなたはね、微笑んだ方がハンサムよ」


「ハハッ……そうだと嬉しいけど、旦那さんがいるのに口説いてもいいのかい?」


「ふふっ、夫が妬いちゃうわね。でも、私が一番愛しているのは夫だけだから」


「知ってるよ。君をずっと見てきたもの────お疲れ様」


 彼のひどく安心した声を最期に、火が消えたかのように静けさが訪れ、驚くほどに穏やかな心を持ったまま視界が暗く沈んでいった。あぁ、あなた……ようやくそちらに逝けます。


 ───────……


 翌日、老人の元へやってきた娘達は屋敷で一番大きな部屋で倒れていた老人を見つけた。かからないはずのクラシックメロディーが屋敷内に響き渡っていたという。


「想い人を死ぬまで守り続けるなんて律儀な死神だ」


 黒いフードをかぶった死神が、生前の姿に戻った若い男に話しかける。


「私は、あの人を幸せにすることはできませんでしたが、あの人の幸せな人生を見守る事が出来ました。死神としての道は外れましたが、生前の夢が果たされて嬉しい限りですよ」


 老人と夜中に踊っていたその若い男は、黒い布を身に纏う。あの夜に踊った部屋をぐるりと見回し、記憶を遡る。


「……だったら泣くんじゃねぇよ」


 黒いフードの男性がため息をつきながら男の頭を撫でる。男の目からは大粒の涙がゆっくりゆっくりと落ちていく。男はなんとか声を抑えているが、時折しゃくりのような声が上がる。


「私がそばにいてもあなたを幸せにする事ができたでしょうか?」


 問いかけに答えるその人はもう、この世にはいない。死神の儚き声は屋敷に響くことなく、沈黙に飲まれていった。

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2人だけの舞踏会 星森あんこ @shiina459195

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