+-(ハイタッチ)
ゴチャラ
第1話
+-
(ハイタッチ)
薄暗いオフィスに、キーボードのカタカタと打ちつけられている音が響く。静まりかえったオフィス内に、ぼんやりと灯る明かりが一つ。僕のパソコンが起動していることと、僕が一人で残業をしているという証拠だ。パソコンのブルーライトは目に悪い色で点滅し、僕の目を刺激する。間違いなく、僕の目が悪くなっている原因の一つだ。そろそろ身体にガタがきたと、まだ四十代であるのに、感じてしまう。けれど、辞めるわけにはいかない。何故ならこの作業を、明日までに終わらせなければいけないからだ。いや、正確に言えば今日の正午まで、だ。到底終わりそうにない仕事だが、このままぶっ続けでやれば終わりそうだ、という感覚を持ってしまう自分が怖い。眼鏡をかけ直し、ぼやけた目でパソコンの時間表示を確認する。午前二時三分。まだ早いほうか、と心のどこかで思ってしまう。少し立ち上がって気分転換でもしようと、僕は近くに置いてあったコーヒーを一口飲んで立ち上がった。そして、手を組んで裏返した後、その腕を大きくあげて伸びをした。肩、背骨、指。どこの部位から鳴っているか分からないくらい骨の音が鳴る。鈍い音も聞こえたけど、その音が心地よく感じた。立ち上がった後に見た外の景色は、街灯の明かりに照らされた寂しい道があるだけで、向かいのビルは、全ての部屋の明かりが消えている。少し後に、目の前が砂嵐のように歪み、頭に熱いものが流れているように感じる。視界が様々な色が混ざった赤の砂嵐で覆われて、もう立っていられないと感じたとき、徐々に視界が晴れ、元通りの景色が見える。視線の先には、ぼんやりとした灯り一つも見えやしないビルが建っている。ここにいるのは僕一人だけ。その事実を認識したとき、思わず乾いた笑いが漏れた。いや、当たり前のことか。今の僕の状態がおかしいだけだから。普通、こんなことしないさ。一瞬、窓ガラスに僕の姿が反射した。目の下に出来た大きなくま。人には見せられないくらいボサボサの髪。よれ曲がったワイシャツとネクタイ。ちょっとぶつかっただけで倒れそうなくらい細い身体。どこからどう見たってもうすぐ死にそうな奴の身体だ。笑えない状況に、思わず両手を机にたたきつけてしまった。苦笑いももうできず、顔から徐々に笑みが消えていく。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。記憶を巡らせても思い当たる節が無い。…いや、あるか。この会社の求人サイトに書いてあった謳い文句。
『人手不足、社員募集中!』
『貴方の助けが必要です!』
『私達と一緒に、よりよい社会を作りませんか?』
『人手不足』『助けが必要』『よりよい社会』このような単語に釣られて、間抜けにもこの会社に入社してしまった。もう何年経っただろうか。その勘定をする暇も無いくらい働いている。よくぞここまで耐えたものだと自分でも思う。もしかしたら、感覚が死んでいるからこその成せる技かもしれない。会社に入って、新人の頃はどうだったか、一年経って、自分はどう変わったか。そんなこと、ちっとも分からないし、そもそも思い出せない。そんなにぼろぼろであったら、辞めれば良いと思うかもしれないが、それは無理だった。どうにも僕は、人にはっきり言うことが苦手らしい。申し訳ない、傷つけたくない。そんな気持ちばっかり、先行してしまう。そのせいで僕は、取引先との交渉も苦手であるし、部下にも怒ることが出来ない。大抵、
『次は気を付けてね。』
『良いよ、続きは僕がやっておくから。』
この二言ですませてしまう。勇気を出して、一度だけ、退職したいと申し出たこともあったが、無残にも色々と言いくるめられてしまった。
『君がいないと困るんだよ。』
『俺はお前に期待してんだよ。』
こんな言葉、僕を会社に引き留めるための都合良い言葉だって分かっている。けれど、それでも無理だった。会社を辞められないもう一つの理由。それは、困っている、助けて欲しいなどの単語を聞くと、見て見ぬふりが出来ないからだ。ヒーローみたいと思ってくれる人がいたら嬉しいが、申し訳ないことに、僕の場合はただのお人好しなだけだ。誰かの泣く姿、困っている姿は見たくない。見ていて辛くなってしまうからだ。それが例え、フィクションであっても、感情移入して涙を流してしまうくらいには、重度のお人好しである。泣きたいわけでもないのに、無意識に涙が出てしまう。だから最近は、何の作品も話も見たくはない。おかげで学生時代も、社会人になってからも、この年になっても、都合の良いパシリとして使われている。けれど例え、向こうが僕のことを、都合の良いパシリとしか見てくれていなかったとしても、辞めることは出来なかった。だから、この会社においても、自分が辞めてしまった後、会社はどうなるのであろう。部長や社長は困ってしまうのではないか。部下達はどうなってしまう?そんなことばかり考えてしまって、会社を辞めることができず、日が過ぎてゆく。
ふと、我に返った。時計を見ると、午前二時十三分。いけない、時間が経ちすぎてしまった。早く仕事に戻らなくては。そう思い、眼鏡を外して目をこすり、再び眼鏡をかけ直して席に着いたとき、とてつもない睡魔に襲われた。二徹した影響が出てしまったのだろうか。けれど、ここで仕事を中断するわけにはいかない。だけど、睡魔は僕をゆっくり包むように覆いこみ、ゆっくりと僕の瞼を降ろそうとする。僅かに残った理性で、僕の瞼は抵抗をした。瞼の筋肉が痙攣して、ピクピクと動く。ここで眠るわけにはいかない。いや、今すぐに寝るべきだ。そんな考えが僕の周りでけんかしているため、おかげで僕の脳は混乱している。
できる限り早く決着をつけて欲しいな。そう思っていた時だった。いきなり、目の前のパソコンが
『゛ウァツァッ』
という音をたて、画面が、目の前が真っ暗になった。あまりにも突然のことで、眠気など吹き飛んで、目を見開き驚いてしまった。身体が少しだけ跳ねる。一体何が起こったのだろう。そうだ、パソコンは。そう思い、ポケットに入っていたスマホを起動し、ライトを点けた。パソコンのブルーライトに比べれば、優しい光だ。パソコンの画面を照らすと、画面は真っ暗なままだった。キーボードを適当にカチカチ押してみたり、電源ボタンを何回も長押ししてみたりしたが、一向に電源が付かない。パソコンが故障した。その事実を認識したとき、私は急に力が抜けたような感覚に陥った。…ああ、そっか。パソコンが壊れてしまったのか。…これ以上、続けることは出来ないか。データも、消えちゃったかもな。…なら仕方が無いか…続きは家でやろう。USBをパソコンから引き抜き、ポケットに入れた。家に帰ろう。家に、帰ろう。そう思い立ち上がったとき、視界の右側がやけに明るいことに、今更気が付いた。見ると、机の下が不自然に明るく光っている。誰かがスマホでも落として、忘れたのだろうか。そう思い、私は机の下をのぞき込んだ。
コンセントのコードだらけの机の下。その差し込み口付近に、何か光っているものが見える。眩しくは無い。むしろ、不思議な感覚だ。線香花火のようなバチバチとした光が集まっているように見える。それでいて、鮮やかな黄色い光。綺麗だ。その光っている何かは…生きているようだった。まるで、小さな生き物のように、口のような場所にコンセントの破れたケーブルを咥え、コンセントのケーブルをかじっていた。ケーブルが何本か切れてしまって、火花を散らしている。パソコンが壊れてしまった原因はこれか。…かじって壊してしまったのなら、仕方が無い。明日の朝連絡して、直してもらおう。私は立ち上がって、パソコンにつなげておいたUSBを引き抜いた。万が一の時のために、使っておいて良かったと思う。作業内容も自動で保存しておいてくれているだろうし、データが消えていることも多分無い。便利な世の中になった。そう思い、荷物をまとめた後、もう一度机の下にいた光を見る。相も変わらず、熱心にケーブルを口にくわえている。この子は見た目通り電気が好きなのだろうか。幼い子が食事をしているようで、少し可愛く見えてくる。その光はしばらくケーブルをかじっていたが、やがてこちらに気が付いたようで、ケーブルをかじるのを止めた。そして、こちらをポカンと見つめている。…いや、厳密には目のような部分、と言った方が正しいのかもしれない。その部分だけ、色合いが少し薄い。きっと人の姿をしていたらつぶらな瞳だろう。身長は多分小さい。やんちゃそうだな…。そんなことを考えていると、小さい光はこちらに近づいてきた。ふわふわとしたような、漂うようかのように近づいてきた。危険性は無さそうに思えてしまう。無防備にも、そっと手を伸ばし、人差し指で触れてみた。別に熱くもなんともなかった。尖っていたりも、バチッときたり、ちくちくもしなかった。むしろ少しプニッとする、予想外の感触だ。光は少しびっくりしたように縦に伸びたが、すぐに落ち着いてくれた。調子に乗って、中指、薬指、ついには片手で、少し揉むように撫でる始末。若い子で流行っているスクイーズって、こんな感じなのかな。小さな光も、まんざらではないようで、僕の手に身を委ねてくれた。不思議な感覚がする。少しだけパチパチするけど、何だか炭酸を触っているみたいだな。けれど、久しぶりの癒やしだ。気の向くまま、思う存分撫でたくなる。そう思い撫でていると、僕のスマホのリマインダーが鳴り、我に返った。流石に、この時間までぶっ続けで作業をしていたら休もう。と、思い、僕があらかじめ設定していたアラームだ。今はもうパソコンが壊れてしまって仕事が出来ないため、帰ることにしよう。そう思って、小さい光から手を離した。すると、小さい光は『もっと』というかのように、僕の人差し指に付いてきた。とても可愛いが、幾ら可愛いとはいえ連れて帰ろうとは思わない。誰かのペットかもしれないし、野生だとしても簡単に連れて帰ってはいけない。どうしようかと思っていると、小さい光はふわふわと飛んできた。そして、少しばかり僕の周りを飛ぶと、鞄の中に入ってしまった。…鞄の中に入った!?焦って鞄の中身を見てみると、丁度小さい光が、僕のスマホの中に入るところだった。スマホの画面から、下半身のような部分がはみ出ている。短くて小さい足をバタバタとした後、ズルンと、スマホの中に吸い込まれてしまった。……まあ、電気っぽいからスマホの中に入るか…。スマホの電源を入れても、別に変なところは無かった。あの生き物が苦しんでいる様子もないし、とりあえずなんとも無さそうだ。僕は安心すると、荷物を全てまとめてオフィスを後にした。
外は当たり前だが静かだった。月明かりだけが僕を見てくれている。もう終電も過ぎているから、電車で帰ることはできない。徒歩も遠すぎるし、帰る途中で出勤時間になってしまうだろう。仕方ない、人気の多い方へ行って、タクシーでも拾うか。そう思って僕は、街の方へ歩き始めた。ネットカフェに泊まることも考えたが、今日は帰りたい気分だったため、辞めた。なんとかタクシーを拾い、行き先を告げ、シートにもたれかかる。途端に、今までの疲労がズシンと降りかかって来る感覚がした。瞼が重くなり、身体がシートの中に沈んで、一体化していくような感覚を覚える。疲れていたんだな、と、自分の身体のことなのに、他人事のように、今になって気が付く。最近はずっとこんな調子だ。けれど経験上、こういったピークは定期的に来るから、耐え抜けば嵐は過ぎ去る。そうに違いないと、思いたい。
今回の仕事は、新しく発見されたエネルギーに関しての仕事だったはずだ。遠い星にて発生したエネルギーらしく、調査員が宇宙に漂っていた欠片を採取したそうだ。この欠片を、詳しい内容は知らないが化学反応させた結果、すさまじいエネルギーが発生した。それがどうやら僕たち人間社会でも使える物らしく、どこの会社も、今はこの手の仕事、話題でひっきりなしのはずだ。確か名前は…『エレカ(えれか)』だったはずだ。突如として現れた、電力がベースとなっているエネルギー物質。電力がベースとなっているため、環境にも悪くない。固形物へと変化させることもできる。というか、固形物として取り扱うのが一番いいという結論が、この前ニュースで発表されたはずだ。電力よりも力があり、例えば、充電が全くないスマホにエレカを使えば、一瞬で電池が百パーセントになる。電気ポッドに水を入れて、エレカを投入すれば、一瞬でお湯が沸く。すごいのは、コンセントをつなぐ必要がある媒体でも、帯電をさせることができ、充電形式の媒体と同じ使い方が出来るという点だ。しかも、暴走をすることがなく、機体に負荷、熱暴走をさせることが無いため、なんとも都合が良いエネルギーだ。次に地球の中心となるエネルギーとも言われている。ただし、現時点では高価であり、研究室の発表でも色々と未知数な力である、と発表されているため、まだ知らないことは多い。それでも、企業が食いつくのは当然のことだろう。僕の会社、『サン丸電気』は家具、家電を取り扱っているからこの手の話を聞き逃すわけが無い。エレカが市販化される前に、もう、エレカを使った電気家具の計画書を作成しろだの、エレカを出汁に、株を多く売ってこいだの、挙げ句の果てには、エレカをいち早く導入できるようにしろだの、上の人たちは言う。おかげで僕ら営業部は困っているわけだけど…。まあ、儲かる話に食いつかないで、何が商売だ。って話しだけどね…。そう思いながら、僕はもたれた首の向きを少し変えた。ふと、頭の中に部下達の姿が浮かぶ。今日も、仕事を手伝ってあげたら感謝されたっけ。中間管理職という大変な立場ではあるけれど、部下達の笑顔が見れるのならば、苦では無い。今日は自分の仕事が終わらず不安にさせてしまったが…明日はそんなことがないようにしよう。いらない心配を、僕以外にさせたくないしね。そのためにも、早く仕事を終わらせなければ。
そう考えていると、声が聞こえた。
「お客さん、着きましたよ。」
運転手さんの声だ。外を見ると、見覚えのある家と小さな庭。僕の家だ。賃貸ではあるが。もう家に着いたのか。結局、寝ることは出来なかったな。荷物を持ち、タクシー料金を現金で支払う。無愛想な『ありがとうございました』という言葉の後、背後で勢いよく自動ドアが閉まる。そしてエンジン音をたてて、タクシーは去って行った。少しの排気ガスの煙さが残る。僕はそのまま玄関の鍵を開けるため、玄関の鍵穴をスマホのライトで照らそうとした。しかし、スマホに電源が入らない。電源ボタンを長押ししたところ、赤いバッテリーのマークが浮かび上がった。どうやら、電池が切れてしまっているようだ。どうしようかと迷っていると、スマホの充電口から、あの光が顔を出した。途端に周りが明るくなる。それを見て、僕は思わず
「ねえ、鍵穴辺りを照らしてくれないかな。」
と言った。すると光はゆっくりと漂い、僕の顔の周りを飛び回った。
「あ、僕じゃないよ。こっちだよ。」
そう言って、僕は人差し指を光に触れさせた。光は少し驚いた後、僕の指についてきた。僕はそのまま、人差し指を鍵の付近に、ゆっくりともってきた。光は釣られて、鍵穴の方へと浮かび上がった。どうやら、ある程度は懐いてくれているようだ。これはありがたい。刺激を与えて、攻撃的な子にしたくはないからね。僕はその光で鍵穴を見つけ、鍵を差し込み、玄関の扉を開けた。あ、そうだ。僕は光の方を見て
「ありがとう。助かったよ。」
そう言って、光の頭(?)をポンポンと、軽く触った。光はどこか嬉しそうに、僕の周りを飛び回った。その様子が、犬のように思えて、可愛らしく感じる。そのまま家に入り、玄関内の明かりを点ける。
「ただいま」
そう一言呟く。もちろん返事は返ってこない。分かっているけど、癖でやってしまう。もう長い間、この習慣が身についている。誰もいないと分かっていながらも、『おかえり』という温かい言葉を期待してしまう。なぜだかは分からないけど。そう思いながらリビングのテーブルに荷物を置こうとしたとき、光は僕の顔の周りを飛び回った。突然の事に驚いたけれど、何故だか少し温かい気持ちになる。なんだか、『僕がいるよ』と、言ってくれているような…。時折頬に当たる、プニッとした感触が心地良い。飛び回る光にお礼を言って落ち着かせると、僕はシャワーを浴びに行った。本当はすぐに仕事に取りかかりたいが、一度目を覚ました方が良い気がしたため、頭をさっぱりさせるために浴びることにした。少し冷たいフローリングの床にドキッとしつつも、僕はシャワーのノズルを捻った。凍えるほど冷たい水の後に、安心するくらい温かいお湯が出てくるのを、手のひらで感じる。そしてお湯を全身にかけた。すぐに全身が温まり、安心感に包まれる。まずい。もしかしたら逆効果だったかもしれない。すごく心地よくて、眠りたくなってきた。そう思いながら、僕はシャワーを浴び続けた。
やっぱり、失敗だったかもしれない。シャワーを浴び終わった僕の身体は火照っていて、横になれば今すぐ寝てしまいそうだ。急いでコーヒーを用意し、パジャマを着て、眼鏡をかけ直すと、資料を鞄から取り出した。そして、スマホを充電しようとした時、ふと、あの光がいないことを思い出した。どこにいるんだろう。部屋の電気をつけているから、少し見つけにくい。そう思って周りを見渡すと、コンセントを差す場所に、何か黄色い物が動いているのが見えた。よく見るとあの光だ。けれど、顔のようなものが見えない。どうなっているんだろう。そう思って、その光を指で突っついた。途端に、その光がびっくりしたかのように揺れ、指先に痛みが走った。見ると、指先が真っ赤だ。それに、ヒリヒリとした感触がする。熱いやかんを触ってしまったときの感触に似ている。それはそうか。電気で出来ているのだろうから、驚いたら少しくらいの電気でも漏らしてしまうだろう。それに、突然つっつくことは、いくら何でも失礼だ。例えそれが、小さな光でも。光はコンセントの穴に少し頭を突っ返させていたが、やがてスポンと抜け出すと、今度はこっちに飛んできた。そして、僕の顔の前まで来ると、僕の鼻に体当たりをした。全然痛くない。むしろプニッとしているから気持ちが良い。けれど、光は怒っているみたいだった。だから、
「ごめんね。つい気になって。」
そう謝った。光は許してくれたのか、最後にもう一回僕の鼻に体当たりをすると、ふわふわと漂い、またコンセントの穴に戻った。そしてまた、もぞもぞと動いている。食事中だったのだろうか。だとしたら邪魔をして申し訳ない。そう思ったため、結局スマホの充電は止めにした。それにしても、あの様子。何だか間抜けで、でも、必死に頑張っていると思うと、愛らしく思える。可愛い。
自分のパソコンを開き、USBを差し込み、電源を入れる。会社よりかは、幾ばくかマシなブルーライトに照らされる。会社はとても暗かったから、部屋で明るい電気を点けて仕事が出来る環境がマシだと思えてしまう。それに、眠くなってもキーボードを打てば、さっきの指先に負った火傷の痛みで目が覚めるから、簡単に寝る事が出来ないのもありがたいと思う。寝たら多分終わらない。僕は少しぼーっとした頭のまま、仕事を続けた。
どうにかこうにか脳を働かせ、仕事を終わらせる事が出来た。やはりシャワーを浴びたのは正解だったのだろうか。見積もりよりも数時間早く終わった。正直感動する。けれど、感動よりも眠気が勝つ。時計を見ると、五時二十三分。乗らなければいけない電車は七時台の電車であるため、後一、二時間は寝ることが出来る。
「七時に起きて…七時半の電車に乗るかぁ…」
そう呟くと、僕は出来上がった資料を保存して、パソコンを閉じ、そのままベッドに倒れ込んだ。掛け布団をかける気力もない。部屋の電気も、何回かリモコンを押し間違えた後、消した。ベッドに倒れ込み、目を閉じて数秒で意識は朦朧とする。後はただ、心地よい感触に包まれる感覚だけ残った。そしてゆっくりと意識が消えていった。
頬にプニッとした感触が当たる。何だろう。もう少し寝たいのに…。せめて、後五分…。そう思って寝返りを打ったが、今度は逆側の頬を突かれてしまった。何だろう、本当に…僕はペットなんて飼ってないのに、この感触は…。一体なんだろう…本当に何だろう!?僕はそう思って飛び起きた。急いで周りを見たが、ペットのような生き物は見当たらない。良かった…そうだよな。僕、ペット飼ってた覚えないもんね。だとしたら、あの感触は何だったんだ?
「一体誰が突いたの…?」
「おれだぞ。ようやく起きたかー。」
何だ人か…人か!?眼鏡をかけ、さっきよりも焦って周りを見渡したが、それらしき人影は一つも見当たらない。驚きで眠気が吹き飛んだ。一体何なんだ…!?声を聞いた限り、男の子みたいな声だったけど…。もしかして、まだ夢の中にいる、とか…
「こっちだぞ!もう、ちゃんと見ろよなー。」
その声と共に、線香花火のようにバチバチしている、目が覚めるような黄色い光が目の前に現れた。その光自体にも驚いたのだが、それよりも…
「へぇ…?喋った…?」
「そうだぞ!喋れるようになったんだ!」
いやそもそも、喋れていない時の記憶が無いんだけど!?一体いつから、この光はここにいるんだ…!?記憶を探ってみるが、思い出すことが出来ない。いや、昨日の記憶が丁度丸々無い。会社に出勤して、そのあとは…?もしかしたらその時に…?
「どうしたんだよおっさん!反応悪いぞ!意外と冷静なのか?」
いや、理解が追いつかないから何も反応が示せていないだけ…。やっぱり、昨日色々とあったみたいだ…けれど、全く記憶に無い。一体どういう経緯でこうなったんだろう。そう考えていると、その光はなおも続けて喋った。
「あっ、そっか。名前をちゃんと呼ばないと反応しないか。」
そう言うと、空中でくるっと一回転して、続けた。
「ようやく喋れるようになったぞ!夜雷 啓輝(やらい けいき)!」
「…え?」
…え?何で…
「何で…僕の名前を知っているの…?」
僕の、好きじゃない自分の名前。普通じゃ無い、ヘンテコな名前。呼ばれないように、聞かれない限りは教えないようにしている名前!自分の部屋にすらも、僕の視界に入らせないために、置いていない名前!それを、なんでこの光は知っているんだ!?
「そりゃ、入った先のデータ上に書かれているんだから、すぐに分かるでしょ。」
「入った先の…データ?」
「うん。そこの黒い奴の中に入って知った。」
そういって光は、僕の充電切れのスマホの周りを飛び回った。
「スマホ…って、データ見れるの!?」
「もちろん!データも全部覚えてるぜ。例えば、このスマホのパスワードは四六四九零四。『よろしく』+自分の誕生月って感じか。変えた方が良いと思うぜ?それから、良くわかんなかったけど、なんかのカードの番号は…」
「わー!ストップ!それ駄目!!」
朝から大きな声を出してしまった。反動で少しむせる。頭も痛む。一体どうなっているんだ…?それに、スマホの中に入ったって?というか、僕の個人情報を皆知られている!頭が痛むのは、きっと、寝不足だからという理由だけじゃないそれに、それに…!
「というかおっさん。時間だから起こしたのに、急がなくても良いのか?」
「え?」
「おっさんが昨日七時に起きるって言ったんだろ。」
「…あ!」
そうだ!通勤しなきゃ!僕は慌てて時計を見た。時刻は七時十分。まっずい!早く支度しないと!そう思って僕は寝室を飛び出した。顔を洗い、歯磨きをしながら髭を剃る。歯磨き粉が口から少し零れたが、気にせずそのまま寝癖を直す。そしてうがいをして急いでワイシャツ、ネクタイ、ズボンを着用すると、荷物類を全て鞄に詰め込んだ。鏡を覗き、汚い部分がないことを確認する。そして、スマホを忘れていたことに気が付き、寝室に戻った。ベッド脇のスマホを取り、時間を確かめようとする。が、表示されたのは赤い電池のマークだけ。そういえば昨日、電池が切れてしまったんだっけ。ぼんやりと一部分の記憶だけが思い出される。いや、今はそんなことよりも、
「どうしよ…電池が無い…!」
僕は焦った。スマホの電池が無いことは、おじさんの僕でも困ることだ。それに、何時いかなる場面で使うか分からない。それなのにどうして充電を忘れていたんだろう…!
その時、ベッド近くのコンセントから光が漂ってきた。
「どうしたおっさん。」
「え、君今どこから…って、それより、スマホの電池が無くって…どうしよう!?」
「すまほってあの黒い板か。ならまかせろって。」
「え?」
僕がそう驚いていると、光はゆっくりと僕のスマホに近づいた。そして、
「おりゃっ!」
そう言ってスマホに触れた。すると、スマホがいきなりパッと明るくなった。
「え!?」
驚いてスマホをとると、スマホの電源はすんなりと点いた。電池を確認すると、零パーセントだった電池が、百パーセントになっている。さっきまで、零パーセントだったはずなのに…。
「なんで…?」
「おれの力を使えば、ちょちょいのちょいよ!今は満腹だから、丁度良かっただけなんだけどな!」
「ん?満腹?…っていうか、今のってエレカと同じ…!」
「えれか?何それ。」
「君が今使ったエネルギーのことだよ!それ、自由に使えるの!?」
「え?あ、うん。」
使えるの!?平然と答えているが、ものすごいことだ。
「…!すっごい…!君がいたら、きっと僕の会社は…!」
「っていうか、時間良いのか?」
「え?…ああー!!??」
時刻は七時二十五分。電車発車時間まで後五分だ。間に合いそうに無いが、間に合わせなくては…!
「ごめん、続きは後で!」
僕はそう言って、玄関を飛び出し鍵をかけ、急いで外へ走り出した。走りながらネクタイを押さえ、飛びそうな上着を羽織り直し、どうにか駅に着く。荷物が揺れて走りづらかったけど、何とか…!汗がしたたり落ちるが、気にしてられない。時刻は七時二十九分。改札を素早く通り抜けて、階段をダッシュで駆け上がれば間に合うか…!?だけど、電車はもう駅のホームに到着して、発車しそうだ。
「間に合うか…!?」
息も絶え絶えにそう呟いたときだった。
「お、おっさん困ってんのか?なら手伝うぜ。」
そう言って僕のスマホから光が飛び出した。
「え!?いつの間に…っていうか、手伝うって?」
驚く僕をよそ目に、光は何も答えず、勢いよく弧を描いて、電車の電線に飛び込んだ。…飛び込んだ!?え!?飛び込んだ!?僕が息を整えながら唖然として見ていると、電車のアナウンスが流れてきた。
「いつも花丸鉄道をご利用いただき、ありがとうございます。ただいま、電車のトラブルが起きてしまったため、運転を見合わせております。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。」
さっと血の気が引いていくのが分かった。今朝の、僕のスマホの件を思い出す。まさか、停電をさせて…!?電線から再び光が出てきて、こちらに漂ってくる。光はどこか得意気に言った。
「どうだ?あそこから電気の気配がするから止めてやったんだ!今のうちに乗れるぜ!」
あ、やっぱり停電させたんだ…って、そういう問題じゃない!ただでさえ足りない僕の血の気が、益々退いていく気がした。僕は焦って言った。
「だっ、駄目だって!今すぐ戻して!」
「え~でも、おっさんが乗れるようにしてやったんだぜ?」
「それは、ありがとう。だけどっ、他の人に迷惑がかかっちゃうから…!」
現に今、車内から不満の声が聞こえてくる。僕が直接やったわけではないが、罪悪感がすごい。汗に混じって、冷や汗も出てきた。
「とにかくっ、いいから!」
「はあ…はいよ~…」
光は気だるげにそう返事すると、再び電線に入り込んだ。不安な気持ちで見つめていると、駅から再び、アナウンスが流れてきた。
『いつも花丸鉄道をご利用いただきありがとうございます。ただいま、電気が復旧しましたが、列車点検のため、しばらく運転を見合わせていただきます。ご迷惑をおかけしまして、誠に申し訳ありません。』
僕はへたへたと座り込んだ。大きく息を吐く。全力疾走の疲れも相まって、息がとにかく弾む。この年で、全力疾走なんて、するもんじゃないな…。ま、とにかく、これで何とかなった。僕がそう安心していると、光が漂ってきた。
「ほら、戻したぞ。もー、せっかくやってやったのにさー。」
「ありがと。…はぁ、ごめんね、折角やって、はぁ、くれたのに。でも、はぁ、大丈夫だからね。」
「おっさんどうした?疲れてる?」
「まあ、ね…」
善意でやってくれたとはいえ、これは流石に困ってしまう。心臓が何個あっても足りない。けれど、もしかしたらまだ、世間のことを知らないのかもしれない。だから、仕方が無い…だろう。僕は時計を見た。時刻は七時三十五分。まだタクシーでも呼ぶか捕まえればまだ間に合うかもしれない。そう思って駅前に行ったが、あいにくタクシーは一台もいない。仕方が無い、待つか。僕はそう思って、日陰にあるベンチに座った。秋頃といえど、まだ日差しは強いままだった。ベンチに腰を下ろして、鞄を隣に置く。ほどよく温まっているベンチにもたれると、すぐに眠気が襲ってくる。やっぱり睡眠時間足りないか…近くの自販機でコーヒーかエナジードリンクでも買ってこよう。僕がそう思って立ち上がろうとしたとき、目の前に光が漂ってきた。
「てか、おっさん、さっきめちゃくちゃ慌てていたけど、どこに行くの?」
「え?ああ、仕事をするから、会社に行くんだ。」
「えーと、昨日行っていた場所か?」
「昨日…えっと、記憶は無いけど…もしかして昨日、会社で会っていたのかな?」
「え、覚えてないの?えと…なんか、おっさんが独りで、電気がいっぱい並んでるとこでカタカタしてた時に会ったはず。おれが電気むしゃむしゃしてたら、おっさんが覗いてきた。」
「覗いてきたって…僕そんなことしたの?あいや、でも、それは多分、気になって覗いた…んだと思うよ、多分。僕からしたら、君、珍しいし。」
そう思い返しながら、覚えの無い記憶の弁明をしていると、ふと疑問が思い浮かんだ。
「そういえば、僕の職場に来る前…えっと、電気を食べる前の記憶はあるの?」
光は一瞬ピタッと動きが止まったが、少し考えるような雰囲気を見せた後、ぽつりと言った。
「記憶無いんだよなあ…」
「そうなんだ…それなら、仕方が無いね。」
「悪いな。どこから来たとか、それまでどうしてたかとか、ちっとも思い出せない。てか、あるのか分かんねえ。」
僕は空を見上げながら、眉をひそめて言った。
「ん~…じゃあ、生まれたのはつい最近だ。って捉える方が良いかもね。」
「何で?」
「だって、記憶の一部分を忘れてたとか、抜け落ちてたとかならまだ分かるけど、全部無くなってるってことは、記憶喪失か生まれたてってことじゃない?記憶喪失の可能性はあるけれど…そうしたら思い出すために奮闘しなきゃいけないし、そんなの、辛くなっちゃうでしょ。」
記憶の無いまま、あちこちを当ての無いまま彷徨う。そんなことをこの子にさせるなんて、胸が痛む。考えただけでも、かわいそうという気持ちに襲われる。だって、この世に生まれたてかもしれなくて、そうでなくても、この広い世界から徐々に記憶をつなげていくのは果てしないことで…。だったら、生まれたてってことにして、ここから新しい生を歩んでいった方が、きっと充実する。
「まあ、そう…か?」
「手がかりが零のまま苦しんでても、ただただ可愛そうだよ。だったら、いっそ生まれたてってことにしておけば気持ちが楽になるだろうし。」
「むう…そっか。」
それと、もう一つ理由があって…
「後は、なんか生まれたてって捉えた方がしっくりくるからかな。」
「そうか…っておい!それ馬鹿にしてないか!?」
「え?いや、そんなつもりは無くて、ただ、元気いっぱいだし、人なつっこいから…。生まれて何千年とか経っている人がこの調子だったら、なんか雰囲気違うなって、ならない?」
「確かに…ってことは、やっぱ馬鹿にしてるな!」
光はそう言って、僕の鼻に体当たりを始めた。相変わらずぷにぷにして全然痛くないが、持っている力は計り知れないし、あまり怒らせないようにした方が良いかもしれない。思っているより、記憶に関して思い詰めてるかも知れないし。それと、あんまり、人を怒らせたくはないし。
そう思いながらベンチに座っていると、誰かが話しかけてくる声が聞こえた。
「すみません。電車は、どうして止まっているのですか?」
顔を上げると、金髪の、サングラスをかけた女性だった。お団子ヘアーに、真っ黒なサングラス。服装はパリッとした質の、OLさんのような服のスーツを着ている。いかにも、自信満々のような服。かっこいい女性だ。
「あー、電車が、いきなり停電しちゃったみたいで。」
まさか今、手で後ろに隠した光が、停電させました。なんて言えるわけがない。
「停電?どうして?」
女性が訝しげにそう反応する。詰問されているようで、焦って答えてしまった。
「ショート、しちゃったとか?その、よくわからないんですけど、あり得るとしたら、そうじゃないですか?多分。」
「ふーん…」
女性はサングラスを取った。その目は、澄んだ青色の瞳をしていた。外国の方…なのかな?それにしては、日本語がペラペラだ。それに、しどろもどろに答えた質問を、飲み込んでくれたみたいだ。日本語に対して、深く理解してくれているんだろう。思わず、安心のため息が漏れる。
女性は何故か、吸い込まれそうな青い瞳で、僕の方をじっと見た後、淡々とした口調で言った。
「ありがとうございました。それでは、これで。」
「あ、いえ…」
何もできませんでしたが。と言おうとして、気がついた。この人は、この電車を利用しようととしていたのだろう。それに、幾ら日本語がペラペラとはいえ、この辺りの地域を理解しているのだろうか。そうでなかった場合、困ってしまうだろう。そう思った僕は、カツカツとハイヒールの音をたてて歩く女性を、後ろから追いかけた。
「あの、すいません!」
声をかけられた女性は、眉をひそめて振り返った。その眼力に、思わず足が止まる。
「何かしら?」
「あ、その…もしどこか道がわからない場所があったら、お教えしましょうか?」
「結構よ。」
女性は、間髪を入れずに、バッサリと断った。少し、胸にくるものがある。
「ナンパなら、もう十分だから。」
「…へ?」
ナンパ?…ナンパ!?
「そ、そんなつもり、決してないです!」
思わず顔が赤くなって、必死に反論してしまった。女性は軽く笑うと、腕を組んで言った。
「そんな言い方じゃ、余計怪しく見えるわよ。」
「へっ?それは…そうですね…」
もう一度顔が赤くなる。言われてみれば、それはそうだと思う。恥ずかしくて、思わず顔を隠してしまう。女性と顔を合わせることもできない。というか、この場にいることも恥ずかしい。
「す、すみません…僕は、これで…変なマネをして、すみませんでした…」僕がそう言って去ろうとした時、女性は再び笑って言った。
「あら、本当に、下心も無しに話しかけにきたのね?面白い人。今時いないわよ。」
「あ…そう、なんですね…」
「ええ。私って、綺麗だからね。」
「えっ?ああ、それは…その…その、通り、ですけど…」
「ふふ。今度もう一度あったら、その時はお話ししましょうね。」
「えっ?」
裏声が出てしまった。女性は、僕の様子を気にせず、またカツカツとハイヒールを鳴らして、去っていった。僕はしばらく、恥ずかしさで顔が真っ赤になっていた。
「なあ、出ていいか?」
握っていた手から、こもった声が聞こえた。手を開けて見ると、ムギュッとした形の光がいた。思わず、握っていたみたいだ。
「ご、ごめん!握っちゃって…」
「ほんとだよ!」
光はそう言って、空中で元の形に戻った。スクイーズだっけ?あれみたいな感触で、ついつい握ってしまった…。
「それで、聞こえてきた声、誰だったんだ?」
「分かんないや。知らない人だったから。」
「おっさん、すっげー照れてたな!」
「それは…その、色々理由があって!」
僕たちはそう話しながら、駅前に戻っていった。
やがてタクシーが一台、ロータリーに大回りでやってきた。僕はタクシーに乗るために、光に、鞄の中に入っているように頼んだ。光が言うことを聞いてくれて鞄に入ると、僕は手を挙げてタクシーを止め、行き先を告げた後、シートに座った。途端に眠気が襲ってくる。やっぱり、喋ったとしても、眠気は消えないか…。そう思いつつ、光の様子が気になって鞄の中を見ると、光は大人しくそこにいた。やんちゃだけど、ちゃんと言うことを聞いてくれる。良い子だな。可愛らしい。そう思っていた時だ。
「なあなあおっさん。何時起こせば良い?」
バックの中から、光のよく通る声が聞こえた。普通に喋り始めるものだから、何も言えずに驚いてしまった。バックミラー越しに、運転手さんの不思議そうな顔が見える。
「す、すみません、スマホの音量、小さくし忘れていたみたいで…」
そう焦りながら僕は言った。顔はきっと赤くなっている。鏡を確認しなくても分かる。その後、僕は鞄の中の光に向かって、人差し指を光の口(?)に当てるジェスチャーをした。指先のプニッとした感触が心地良い。光は少しポカンとしていたが、分かったかのように頷くと、僕のスマホの中に入り込んだ。それを見た僕は安心した。大きく息をつき、シートに寄りかかる。どうやら光の声は普通に周りの人にも聞こえるみたいだ。…次からは気を付けなくては。そう考えながら僕の意識は途切れていった。
「お客さん、着いたよー。」
運転手さんの気さくな声で、僕は目を覚ました。
「随分ぐっすり寝てたねー。お疲れさんかい?」
「え、ええ…失礼しました。ちょっと、疲れが溜まってしまって…」
「まあ、最近新しいエネルギーができたって、どこもかしこも大騒ぎだもんなー。なんつったけ、テレカだっけ?」
「あ…エレカ、ではないでしょうか…?テレカはテレフォンカード…」
「そう!それそれ!あんた詳しいんだな!」
「まあ…一応、うちの会社も、取り扱う予定…ですからね。」
「ああそうだったのか!実際さ、あれどうなん?なんか危険だとかデマだとかいろんな噂が広がってるけど。」
「確かに、そんな噂は広まってますね。…細かいことは企業秘密だから言えないですが…少なくとも、効力は本物だと思いますよ。」
「そうなんか!いやー、すごい世の中になったもんだな!ちょっと前まではやれスマホだなんだ言ってたが…」
思ったよりもお話が長いな…このままでは遅刻してしまう。言いづらいけど、早めに立ち去るとしよう…。
「あの…」
「お客さん多分同い年くらいだよな?俺らの時とは随分変わっちまってさ。」
「はあ…」
声…届いてない…?
「娘ときたら『お父さん遅れてるー』とか言ってきやがるし、妻も『貴方古いですよ』なんて冷てえもんでしてね。」
「大変ですね…」
「んだけど、目に入れても痛くねえほど大事なもんで、んだからかわいさ余ってなんとやらって感じでね。」
相当お話が長い!途中で言い出せなかった僕が悪いんだけど、会計をさせてくれない!どうしよう、困ったぞ…。
そう思っていた時、携帯から電話の着信音が聞こえた。慌ててスマホをとると、僕のスマホに入っていた光が、顔(?)の部分を画面にいっぱいに表示させていた。心なしか、少し怒っているように見える。…何が、起きてるの?僕がぽかんとしていると、
「ああ、すまねえなお客さん引き留めちまって!料金は…」
そう言って、運転手さんがお会計を済まさせてくれた。急いでお礼を言い、荷物をまとめてタクシーを降りた。ドアが閉まり、タクシーが走るのを見送った後、僕はスマホを取り出した。まだ画面はさっきと同じままだ。着信音も鳴っている。慌ててスマホを開こうとするが、反応しない。外に音が漏れているし、早くなんとかしないと。とりあえず…
「ごめんだけど、一度スマホから出てくれるかな?」
僕が慌ててそう言うと、光はスマホから出てくれた。
「ありがとう。」
そう言って僕は電話履歴を確認した。が、別に着信があった様子はなかった。
「あれ?さっき電話が来たはずなのに…」
エラーかと思い、電源を長押しして再起動したが、何も変わった様子はない。何故だろう?と思って可能性を考えた時、残る原因は光だけだと思った。
「ねえ君、さっき、何かした?」
僕は傍で飛んでいた光に話しかけた。すると光は、また頬を膨らませて言った。
「だっておっさん、早く降りねえんだもん。おっさんその二の長話にばっか付き合って、断れてねえし。だからおれが適当な場所入って、音鳴らしてやったのよ。用事思い出せって思って!」
「適当な場所…?」
「おっさんのその、すまほ?って奴に入ったら、四角い部屋がいっぱいあったんだよ。だからその内の一つに入ったら、鳴らせる音会ったから鳴らした!」
「四角い部屋…?」
僕はスマホの電源をつけてみた。すると、アプリが目に入った。四角い…もしかして…!
「…もしかして、アプリの中に入れるの!?」
僕は思わず大きな声を出してしまった。近くを通った大学生の視線が、痛く感じる。僕は声量を落とすと、手を添えて光に尋ねた。
「ねえ、この…四角い部屋の中に、入れるの?」
僕はそう言ってスマホのホーム画面を開いて、見せた。
「ああ、入れるぜ!おれが最初入ったのはこの凸凹した丸い奴。『設定』って書かれていたかな。んで、次は丸の中に、尖った物とか数字が描かれている奴!『時計』って名前ついてた。さっき入ったのは、この緑色で細長い部屋!『電話』って名前だぜ!」
「すごい…!」
「その中に『佐藤』とか、『菊池』とかって表示あったけど何あれ。」
「あ、僕の仕事仲間と上司です…」
そう言った後で、ふと気が付いた。
「そういえば君、漢字、読めるの?」
「ん?中にある、色んな数字とか良くわかんない記号とかに触ってみて、凸凹の丸のやつと、丸の中に針と数字がある奴。それと、細長い緑の中の奴は、全部読めるようになったぜ!」
「それって…コードのことかな?っていうか、すごいね…!」
「そうか?へへ、もっと褒めても良いぜ?」
話を聞けば聞くほど、この光がすごいということが分かってくる。恐らく、エレカのようなものを操れる。電気系統の物をコントロールできる。おまけに、入った媒体の内容、詳細まで知ることができる。こう頭の中で文字に起こしてみると、何でもありな生き物なんだな…
「君って何者…?」
「だからそれが分かんねえんだって。」
「あ、そっか…ごめん。」
「あと、時間!」
「そうじゃん!」
時計を見れば、あと五分で出勤して無くてはいけない時間だ。
「とりあえず、帰ったら色々と話をしよう!」
僕はそう言って会社に滑り込んだ。タイムカードを切って、階段をダッシュで駆け上がり、自分の部署、自分の席にたどり着き、勢いよく座る。何時間ぶりかは覚えてはいないが、ついさっき座ったことのある覚えがある、自分の席だ。急いで走ってきたため、息が切れる。天井を向いて呼吸を整える。自分の席に荷物を広げて、いつでも仕事に取りかかれるように支度する。こうしていつも通りの仕事に追われる日々が始まる。けれど、今日はいつもとはちょっと違う気がする。それは多分…。僕は鞄の中を見た。小さな光がスマホに半身を突っ込んでジタバタしてる。この小さな光がいるから、なんだかいつもと違うように思える。ちょっとした刺激になってくれてるから、少しだけ仕事にやる気が湧いた。
夕方五時。僕は自分の席で伸びをしていた。昨日頼まれていた書類関係の仕事と、突然の無茶ぶりの書類作成を無事終えられたからだ。後輩からも感謝されたし、気分が良い。まあ、パソコンが壊れた件に関しては、上司からめちゃくちゃ怒られたから、プラスマイナス零だけど…。ケーブル代だけとはいえ、自腹で弁償だし…。物欲、無くて良かったな。幸いにもお金は余っている。ふと、鞄から光がこっちを見ていることに気が付いた。
「ごめんなおっさん。おれのせいで…」
「はは、大丈夫だって。気にしないで。」
パソコンの件に関しては、罪悪感があったらしく、僕が怒られてからずっとこの調子だ。鞄の中で、聞いちゃったのかな。この世界に来たばかりの子だし、仕方が無いことだと思う。それに、僕もできれば、沈んだ雰囲気の会話はしたくはない。
「だって、知らなかったんだよね?それにお腹が空いていたなら仕方が無いよ。」
「でも、おっさん、あのハゲてるやつにいじめられてたじゃん。…おれのせいで。」
「ハっ…い、いや、あれは別にいじめられているわけじゃないんだけど…」
恐らくこの光の言っている人は、部長の菊池さんのことだろう。僕が入社した頃からいるが、入社当初から現在までの間、僕は菊池さんにずっと叱られ続けている。僕が完璧にこなせないのが悪いのだが、周りの同僚、後輩達は全員彼のことが苦手らしい。まあ、周りの状況に構わず説教するし、社長に対しては急に手のひら変えて御機嫌をとるしで、僕も正直好きではなかった。けれど、いじめられている云々は、ちょっと違う…と、思いたい。仕方ないことだと思うし、まだ、手、出されてないし。
「まあとにかく、大丈夫だからね。心配しないで良いよ。」
「本当か?おっさん、絶対断るの下手だから、心配なんだよ。」
「うっ…!!」
恐らく生まれてから間もない子にまで心配されるのは、心に来るものがある。それに、大丈夫とはっきり言えないのも図星だから、加えて心に来る。
「へ、へーきだって…」
「嘘つくの下手だろ。」
「…。とっ、とにかく、今は一段落して平気だから…」
その時、後ろから陽気な声が聞こえた。
「せ~んぱいっ!お疲れ様ですっ!」
「わっ!?」
背中の中心部に衝撃が走り、声が裏返って、思わず情けない声が出てしまった。後ろを振り返ると、後輩の佐藤君がいた。僕の直属の後輩だ。とても明るい性格で、皆の人気者だ。人なつっこい笑顔で、缶コーヒーを二つ持っている。黒髪でぴょんと跳ねた癖っ毛は犬の耳のように思えて、なんだか頭を撫でたくなる。
「何だ佐藤君か…驚いたよ…」
「あはは!先輩油断してましたからね~。はい、缶コーヒーです!」
「お、ありがとう!…油断って、警戒する場面無いでしょ会社に…」
「分からないっすよ。今朝みたいに、いきなり仕事が飛んでくる可能性だってあるんすからね。」
「それは…そうだね。言うとおりかも。」
確かに今朝方、急に仕事が割り振られてきた。一難去って、また一難って奴だ。
「でも、すごいっすよね!急に押しつけられた仕事こなしちゃうんですもん!」
「ああ、あれは…前に作った企画書に似た感じの仕事だったからね。あのときのこと思い出して、後は社畜魂かな…褒められたものじゃないけど…」
自分で言っていて、何だか空しくなる。慣れちゃ駄目なのに…。
「いやいや、やった仕事の内容把握してるだけですごいっすよ!俺なんてすぐ忘れますもん!」
「それは…社員としては、どうなのかな…。まあ、佐藤君が元気で居てくれるだけで、僕も力が出てくるよ。」
こんな調子で、佐藤君はいつも僕に、調子よく話しかけてくれる。部署内でも、良い子、話していて明るい、可愛い子と評判だ。僕自身も、話していて明るい気分になれるし、こんなおじさんにも話しかけてくれるから、嬉しい。ふと、光の様子が気になって鞄の方を見た。光は丁度スマホの中に入っていた。画面いっぱいに光の顔(?)が表示されていて、こちらを見ている。どうやら佐藤君に気が付かれることなく、隠れてくれていたみたいだ。
「そういや先輩、さっき誰と喋っていたんすか?」
「えっ?あ、ああ、独り言だよ…」
いくらよく話すからって、光の件に、佐藤君を巻き込むのはな…。混乱しちゃうだろうし、気が引ける。
「そっすか?後、俺は照一(しょういち)って呼んで欲しいって、言ってるじゃないっすか!」
「あ、ああ、ごめんね、善処するよ…」
「これでも、あだ名になれてない先輩に善処してるんすらからね!俺としてはあだ名で呼んで欲しいのに…」
「ははは…いい年した大人が、『いっちゃん』って呼ぶのはちょっとね…」
「それ、俺のこと、ディスってません?」
「あ、いや、そんなつもりはないよ!絶対!」
「必死なのが怪しいですって~」
こんな風に、力を抜いて話すことが出来るから、皆に好かれている。本当に、その人なつっこさとコミュニケーション能力が羨ましい。そう考えていたら、思わず声に出てしまった。
「それにしても、いいなぁそのコミュニケーション能力。僕も欲しいよ。」
「…。」
「照一君?」
「…先輩、意地悪っすね!先輩は十分持っているじゃないっすか!もう!」
「そんなことないって。僕、緊張してばっかだからさ…。取引相手とか、菊池さんとか、特にね…」
「まあ、菊池さんは確かに…」
「あ、夜来先輩、少し良いですか?」
佐藤君と話している途中で、別の声が後ろから聞こえた。見ると、別の後輩の子が資料を持って立っていた。
「お話中すみません。この資料を校閲して欲しくて…」
「校閲って…そこまではできないけど、確認程度なら出来るよ。見せてくれるかな。」
「ありがとうございます!」
僕が資料を見ている横で、佐藤君が両手で頬杖をつきながら言った。
「良いなあ先輩。そうやって頼られてばっかりで。」
「うーん…僕は自分のこと、頼りないと思うけど…。でも、積み上げてきた年数しか武器がないからね…せめてこういう時くらいは役に立たないと…あ、ここ誤字しちゃってる。こういうの、見逃しちゃうよね。それに、照一君も、よく誰かの相談役になってるでしょ?だから照一君も、頼りにされてるって事じゃないかな。ここ、言葉の意味が重複しちゃってる。つい使いたくなっちゃうよね。それに…」
「なんで喋りながら確認できるんすか~!?」
「えへへ…慣れ?かな。なんてね。」
少し照れくさかったけど、嬉しくてつい、かっこつけてそう言ってしまった。
一通り見直すと、僕は資料をまとめて後輩君に返した。
「はい、今言ったところ直せばオッケーだと思うよ。」
「ありがとうございます!」
後輩君は嬉しそうにそう言うと、自分の机に戻っていった。
「はあ…俺もこうなりたいな…」
「いや、佐藤君はそのままで大丈夫じゃない?皆佐藤君のこと、可愛いって言っているみたいだし。」
「それはありがたいっすけど…俺はかっこよくなりたいんす!」
「だったら、僕のことは目標にしない方が良いよ。もっと良い人、絶対に居ると思うし…」
「さっきのすご技やった後で、それ言うんすか~?」
照一君はそう言って頬を膨らました。軽く謝り、そんな会話を少しした後、再び仕事に戻った。その日は奇跡的に、早めに上がることができた。九時前退社なんて、何時ぶりだろう。時計を何度も見返してしまった。とにかく、これで、光とゆっくり話が出来そうだ。僕は急いで電車に乗り、コンビニで適当な弁当を買うと、弾む気持ちで家に帰った。
仕事が終わり、帰路に就く。時刻は八時。まあ、早いほうか。電車に揺られた後、夜道をゆっくりと歩く。夜風が涼しい。街灯の明かりは、明るいけれど、少し寂しい雰囲気を出している。だからか、この道はいつも、寂しく思える。そんな寂しさを打ち破るように、光の声が聞こえた。
「すげえ!空にも、電気があるんだな!」
「え?」
そう思って空を見上げると、確かに、光るものがある。けれど、あれは…
「ああ、星のことか。」
「ほし?」
「うん。えっと、空にキラキラ輝いている、光のことだよ。」
「そうなのか!俺、食べてみたいな!」
光ならではの発想で、少し笑いが零れる。
「うーん…難しいんじゃ無いかな。」
「え、何でだ!?」
何だか、小さい子どもと話しているみたいだ。僕はそう思いながら、説明を続けた。
「えっとね、あれはすっごく遠いところで燃えている光なんだ。だから、簡単に手に入るものじゃないんだ。君がすっごい大きくなったら、届くかもね。」
こんなことを言ったら、怒られちゃうかもしれないな。そう思っていると、光は、スマホから顔(?)を出して、ぼーっとしていた。
「…あれ、怒っちゃった?」
僕が恐る恐る聞くと、光は何も答えず
「すげえ…!」
と、口(?)らしきところを開いて、そう言った。きっと、人間だったら、目を輝かせていただろう。口は大きく開いて、奥歯まで見えるほど。それで、両手を握りしめて、たまにぴょんぴょんと跳ねて、感激していることだろう。ただの想像だが、きっと、こんな感じだったに違いない。
「すごいって、どの辺りが?」
話を広げようと、僕は尋ねる。すると、光は感激したように言った。
「だってよ、ずっと遠くからでも、光がここまで届いてんだろ!?それって、その暗い眩しいってことだよな!」
「え…まあ、そうだね。」
「それって、すげーじゃんよ!眩しくて綺麗で、強いなんてさ!かっこいいじゃん!」
バチ君にそう言われて、僕は空を見上げる。今まで、星をそういう観点で見たことは無かった。だけど、バチ君の話が、言っていることが…何となく分かった。星は、消えかけながら、命をかけて燃えている。その光が、どれだけ遠くても届いて、誰かの心を震わせている。それってすごく…ヒーローみたいだな。
「…そうだね。すごいや。」
「だろ!?いいなー、俺もあのくらい、かっこよくなりたい!」
光が興奮したように言う。…僕には、きっと無理だけど、憧れる気持ちは分かる。だって、かっこいいもんね。
「…なれるんじゃないかな。君なら、多分。」
僕はそう言って、光を指の腹で撫でた。光は少し体を揺らして、大人しく撫でさせてくれていたが、やがて
「ありがとう!だけど、撫でるのはもういい!」
と、怒ってしまった。僕は、眩しいこの子をなだめると、再び帰路についた。真っ直ぐ歩いていると、星は見えない。けれど、光の言っていたことを思い出す。かっこいい星々に照らされながら、僕は今、道を歩いている。そう思うと、この道も、寂しくないように思えた。命を燃やしながら、誰かを助けている。再び、自分の考えていたことを思い返す。…すごいんだな、星って。本当に、かっこいいや。
家に帰り、スーツ、ネクタイ、ズボンを綺麗にハンガーに掛け、シャツと靴下を洗濯かごの中に入れる。そして、久しぶりに部屋着に着替えると、ソファーにもたれ込む。このまま寝ても良いくらいだが、流石にシャワーは浴びたいし、お腹もすいている。仕方なく、ソファーに沈んだ自分の重たい身体をなんとか起こし、弁当をレンジで温めることにした。
「おっさん何してんの?」
後ろから、もう聞き慣れてきた光の声がした。
「お弁当を温めてるんだ。お腹空いちゃったから、お話はその後で良い?っていうか、お弁当、食べる?食べられるか分からないけど…」
「ん~…食べたことないから分からねえや。でも美味そうだな!くれ!」
「ふふっ、分かったよ。」
僕はそう返事をすると、電子レンジのつまみを捻った。
「おっさんその電気何?」
「電気?…ああ、電子レンジのこと?君から見たら、電気だね。これは食べ物とか飲み物を温めるための機械だよ。」
「へえ~そうなんだ。でも、まあまあ時間かかるんだな。」
「まあ、温めるには結構時間が必要だからね…。君の持つ力と比べたら、そりゃあ遅いよ…」
そんな話をしていると、チン!という軽快な音が聞こえた。温め終わったみたいだ。僕はお弁当を取り出そうとして、温めた弁当に触れた。
「あれ?そんなに温かくない…」
割と捻ったつもりでいたが、お弁当の中身はあまり温まっていない。底とか、表面とかはあったまっているんだけど、冷たい部分がある。
「どうした?」
「あいや、お弁当全然温まってないな…って思って。」
「電子レンジって、ポンコツなのか?」
「そんなことは無いと思うよ?…でも、もう一度温め直すのは面倒だな。このまま食べちゃお。」
「え、温めなくて良いのか?おれなら丁度良く出来ると思うぜ。」
「え、そんなこと出来るの?!」
「おう。そのべんとーって奴、もう一回電子レンジの中に入れてみ。」
「わ、分かった。」
僕は言われるがまま、電子レンジに弁当を入れた。すると光は、電子レンジにくっついて、何か独り言を言い始めた。
「えーっと、おっさんがさっき捻ったのはこんぐらいで、今割と温まってるから、調整するとしたら…こんぐらいか!」
そして、また電子レンジの中に入ると、数分後、得意げそうな顔(?)で飛び出してきた。
「よっし、オッケー!これで丁度良く温められるようになったぞ!おっさんちょっとあっためてみてよ。」
「え、今ので!?と、とりあえず、分かった…」
僕はつまみを適当にいじった。さっきよりも、捻る角度は押さえたつもりだったが、まあまあの勢いで捻ってしまった。
「あ、失敗した…!」
そう思って急いでつまみを戻そうとした。
「へーきへーき!見てなって!」
光がそう言うから、僕はとりあえず信じることにした。普段通りなら、あっつあつのコンビニ弁当が出て来てしまうが、不思議な力を持っている光が言うのだから、果たして…。そう思っていると、チン!という音が鳴った。レンジを開けて中を確認する。絶対熱いだろうなと思っていると、不思議と、煙は出ていなかった。恐る恐る弁当に触ってみると、ほどよく温かい。
「あれ?結構捻っちゃったのに…」
「なっ、丁度良く温まってるだろ。」
「これも…君の能力?」
「おうよ!丁度良くなるようになれ~って思って力使った。」
「す…すっご…!」
光の持っている能力は、エレカと似たような能力だ。とすると、もしかして、これもエレカの持っている力…!?エレカは、こんな力を持っていたのか…!?これは、多分まだ誰も知ってないよね!?すごいこと知っちゃった…!というか、この光、本当にすごい力を持ってるんだ…!…もっと、詳しく話を聞けば、仕事や新しい開発業、家電開発、その他云々につながるかもしれない。そうすれば、部署のみんなも助かるはず。そう思った僕は、光に話しかけることにした。
「ねえ、その…。」
そう言いかけて、ふと気が付いた。ずっと光って呼んでいたけど、なんて呼べば良いのだろう。『光』で良いのかも知れないけど、それだと僕たちが『人間』と呼ばれていることと同じだ。何か呼び名を考えないといけないかもしれない。
「何だおっさん。何か用か?」
「あ、いや、呼び方…なんて呼べば良いのかなって。名前とか、ある?」
「なまえぇ?うーん…」
光はふわふわ漂った後、きっぱりと言った。
「無い!てか、覚えてねえ!」
「あ、そっか…じゃあ、呼ばれたい名前とか、ある?」
「特に何も。だってこの世界のこととか他のこと、全然知らねえんだもん。おっさんが決めてよ!」
「え、僕!?」
突然のお願いに、僕は動揺した。名前、名前か…。どうしよう。名前とかつけたこと無いからな…それに、ペットにつける名前とかとは訳が違う。うーん…
「光だから…ひーくん?」
「嫌だ。何か嫌だ。」
「そ、そう…?えっと…ピッカ君とか…」
「やり直せ真剣に。」
「えっ、真面目にやってるつもりだけど…」
「だとしたらおっさん多分センスねえぞ。」
「えっ…」
ショックを受けつつも、僕はもう一度真剣に考えた。けれど、考えたところで、どうせ却下されるだろうっていう名前しか出てこない。えっと、イメージから考えてみよう。線香花火みたいな光…火花…パチパチ…
「バチ!『バチ君』はどう?あんま、悪くないんじゃない!?」
「バチ…バチねえ…」
光はまたふよふよと漂っていたが、くるりと一回転をすると言った。
「まあ、良いかな。よし、おれは今日から『バチ』だ!」
良かった。どうやら気に入ってもらえたようだ。自分の名前に関するセンスは、まあ、僕の名前から察してもらえるとおり皆無だから、どうにかこうにか、気に入ってもらえる名前を出すことができたことには、感動する。
「よろしくね、…バチ君。」
自分で名付けた名前を声に出して言うのは、なんだかこしょばゆい。けれど、せっかくこうして気にいってもらえたのだから、積極的に呼んでいこうと思う。
「おう、よろしく!…けーき!」
うっ…その呼び方は、やめてほしいな…
「いや、僕はおっさんで良いよ。」
「なんでだ?おれが名付けてもらったし、おっさんの名前も正式に呼ぶべきだろ?」
「いや、僕は自分の名前好きじゃないからさ…」
「えー?良いと思うぞけーき。」
「せめて『けいき』って呼んで欲しいな…君もこの世界の事を幅広く知ったら、この名前の厄介さに気が付くと思うよ。はあ、この名前のせいでどこ行っても小馬鹿にされるしさ…最低でも一回は聞き返されるし…陰で笑われるし…」
「そんなに嫌か、けーき。おっさんが嫌なら止めるけど。」
そう言われると、なんだか申し訳なくなってくる。人間の習性、『「じゃあ止めるよ」と言われたら、何だか自分が悪いことをしたような気分になる』が、ここにきて面倒くささを発揮している。いや、僕だけかな…?…本当は嫌だけど…仕方が無い。
「いや、大丈夫だよ。好きなように呼んで。」
「ん?結局良いのか?おっさん、無理してない?」
「ううん、大丈夫。それに、呼ばれ慣れておいた方が、後々良いかなって思ってさ…」
「そか。じゃあ、よろしくな、けーき!おれの名前はバチ!」
「…うん。よろしくね、バチ君。僕の名前は啓輝だよ。」
バチ君が改めて自己紹介をしてきたため、僕も改めて自己紹介をした。何だか少しこそばゆいが、仲が深まった…ような気がする。そうだ、挨拶をしておこう、僕はそのまま、人差し指でバチ君に触れた。バチ君も、僕の人差し指をきゅっと包んだ。
「なんで触るんだ?」
「握手だよ。これからよろしくね!って言う意味で、人間がよくやるんだ。バチ君にとっては、僕の手は大きいから、指を握ってくれるかな。」
「それ、けーきが今日やってたやつか?」
「あ、そうだね。取引先の人と、『これからよろしくお願いします。』って意味でしてきたよ。」
「んー…よろしくって意味っていうのは分かったけど、なんか堅くて嫌だな…おれら、そんな感じじゃないじゃん。もうちょっと楽にいこーぜ!」
特に君がね。と言う言葉は飲み込んだ。
「そう?じゃあ他には…」
よろしくって意味の動作…握手以外に、何かあったけな…。その時、スマホの通知が鳴った。見ると、照一君からだった。
『先輩!今日早速、後輩から頼られました!』
『これで一歩先輩に近づけました!』
そして、ハイタッチのスタンプが一通。ふふっ、よかったな。頼られたいっていう目標が叶って…ん?待てよ?…これなら…
「ハイタッチ…とかはどうかな。何か嬉しいことがあった時とか、成功したときとかに使う、結構気軽な挨拶だよ。」
「ハイタッチ…いいな!なんか響きも良い!どんな風にやるんだ?」
「えっと…こんな感じかな。」
僕は、照一君から送られてきたスタンプを光に見せた。
「えっと…身体を伸ばして…あ、この部分じゃないか。」
「えっと…手、みたいな部分、無いの?人間で言うところの、ここみたいな部分なんだけど…」
僕はそう言って、自分の手を指さした。
「無い。ってか、あると思うか?」
「いや…無いねえ…」
「おれはおっさん達みたいに五つの出っ張りが無いからな。出来がちげーのよ。」
「五つの出っ張り…?」
「ああ。さっき言ってた『て』って奴含めて、何か五個あるじゃん。」
「…あ、手と足と首のこと!?斬新な表現すぎて、ちょっと驚いちゃったよ…」
「おれにとっては、出っ張りがある方が斬新だけどな。」
「あ、それはそっか。」
変に納得してしまった。やっぱり、感覚がものすごく違う。何か伝えるときは、バチ君の視点に立って、考える必要があるな…
「にしてもどうしよう…やり方分かんねえな…」
バチ君は困っている様子だった。心なしか、光でできた身体にしわが寄っている気がする。僕はあまり、人に困って欲しくない。だから、僕も一緒に考えることにした。こういうときは、何か工夫を施すべき。あえての逆転の発想とかはどうだろう。例えば、適当に触れた部分が僕の『手』っていうことにするとかはどうだろう。…いや、さっきここが手って言っちゃったし、だませないか。じゃあ、手にこだわらせないようにするとか?そう思った僕は、バチ君に向かって言った。
「別に、手じゃなくても良いんじゃない?触れるだけでも。僕は『やった!』とか、『嬉しい』って思ったとき、誰かの喜んでる様子とか、達成感に満ちている様子に触れることができるだけで、嬉しいって思うよ。何か、分かち合えてるような感じがするんだ。」
「む~…」
バチ君はしばらくぐるぐると回ると、言った。
「分かった。今日はそれでいいってことにしてやる。」
「そう?良かった。」
『今日は』という単語が少し引っかかるが、満足してくれたようで良かった。
「じゃあしよっか、ハイタッチ。」
「ああ、分かった!」
僕は右手をそっと前に出した。バチ君も、身体を伸ばして、僕の右手の前に持ってくる。そして、僕はバチ君の身体にそっと触れた。少しチクっとするし、触れている部分も手のひらの左下の部分だけ。まだ上手くいかないが、これはこれでいいだろう。
「よろしくね、バチ君。」
「よろしくな、けーき!」
自然と笑顔が綻ぶ。バチ君の表情は相変わらず分からない。喜んでくれていたら良いなと思う。きっと、喜んでくれている。触れた場所はほんのりと温かかった。
「さて!それじゃあ、ここからは聞きたいことが山ほどあるため、君への質問タイムにします!」
僕は無理やり、気持ちを切り替えた。こうでもしないと、後々色々と困るし…
「あ、おれも聞きてえこと山ほどあるんだけど!ずりいぞ!」
「えっと…じゃあ、交互に質問にする?」
「ご飯食べながらにしようぜ。さっきのべんとーって奴、絶対冷めてるし!」
「あ!忘れてた!…まあ、いっか。そうしよう。」
こうして僕は、冷めたご飯を食べながら、バチ君との質問タイムを始めた。
「この鮭…あ、ピンクの奴以外に、何が欲しい?」
「白いつぶつぶも気になるから、少しくれ。っていうか、美味いなこれ!」
「お米だね。っていうか、食べられるんだね…食べたものは、エネルギーに変わるのかな…?あ、きんぴら…この、細長い奴も食べな。」
「ん。ありがと。うまうま。」
「えーと、じゃあ、僕から良いかな?」
「良いぞ!おれは偉いからな!譲ってやれるんだぞ!」
「ありがとう。じゃあ、えっと…」
とは言ったものの、質問候補がありすぎて、絞れない。とりあえず…
「バチ君の力って、調節、できるの?例えば、その、これには弱く、これには強く!みたいな。」
「うーん…分かんねえ!なんかそういうの考えてねえからさー。」
「でもさ、今までの奴で、機会が暴走とかしたことないよね?僕のスマホにしろ、電子レンジにしろ、さ。」
「あれって壊れるの?おれの力で動くのかなって思ってた。」
その言葉を聞いて僕は考えた。確かに力を加えた。けれど、調整とかはしていない。そのうえ、力が強すぎたら壊れることを知らなかった。…なのに、電化製品はどれも壊れなかった。ん~…どういう状況だろう、これ。無意識のうちに、調整してるとか?それか…そのエネルギーは、何事にも必ず適度になるような仕組みである、とか…?そんな能力があったら、あまりにも便利すぎるな。だけど、これまでの様子を見るに…恐ろしいことに、あり得そうだ。
「それで終わり?」
バチ君の声が聞こえた。僕は反射で返事をする。
「え?あ、うん。」
「じゃあ次おれな。あ、食べていいぞ!」
質問に夢中で、すっかり弁当のことを忘れていた。
「あ、そうだね!じゃあ、お言葉に甘えて…」
僕は、少し歪に割り箸を割ると、減ったお弁当のお惣菜から食べ始めた。お漬物を、ポリポリ音を立てて食べていると、バチ君から質問が飛んできた。
「あのさ、けーき。その…」
バチ君は何やら、少しためらいを見せた。なんだか、少し不安そうな顔をしてる。どうしたんだろう。
「なあに?遠慮しないで、聞いてごらん。」
僕ができる限り優しく言うと、バチ君は勢いよく言った。
「あのさ!けーきのすまほってやつに入った時、一個の四角い部屋が、すっごい大きく広がっている場所に繋がってたの!…あれ、何?」
少し、怖がっているようにも思える声色だ。すごく大きな場所に繋がっているアプリ…?ピンとくるものはない。
「どういうマークだった?」
「なんか、丸いやつに、棒が一本生えてるやつ!」
バチ君は、少し怖がりながらも、それでも、珍しい虫を発見した子供のように、興奮したように話した。僕はそれを、相槌を打ちながら聞いていた。こう話していると、なんだか自分が、小学校の先生になった気分だ。こんなこと言ったら、バチ君に怒られちゃうだろうけど。僕はその気分を悟られないよう、そのまま、悟られないように一緒に考えた。
「うーん、おっきい部屋につながっていて、丸い物に、棒が一本生えた奴だよね…?何かな…」
そう思ってスマホを開いて、画面をスクロールして探す。それらしいものは…あ、あった!僕は大きな声を出しそうになって、押さえた。バチ君をびっくりさせちゃいけない。僕はそのまま、スマホの画面をバチ君に見せた。
「ねえ、それって、このアプリ…あー、部屋じゃない?」
「…!それそれ!そのマーク!なんていう名前だ?漢字が読めねえ…ちょっと入ってみたんだけど…その…」
「これはね、“けんさく”っていうんだよ。ありとあらゆるものが調べられる、すごい場所なんだ。ネットワークにつながっていると…」
そう言いかけていたところで、傍と気が付いた。バチ君が言っていた、大きいお部屋。それって、もしかして…
「インターネット…?」
「え、何それ。」
「えっとね…」
僕はインターネットについて、小さな子供でも、できる限りわかるように伝えた。営業時代に学んだことが、ここで生きるとは…。
「つまり、たくさんのことを知ることができる場所なんだ。」
「そうなのか!すっげーな!!」
インターネットに対してすごいと言うのは、最近のお年寄りでも中々いないから、なんだか新鮮な気がする。バチ君の、まっすぐで好奇心旺盛なところが、前面に表れていて微笑ましい。
「だから、バチ君も、何か迷ったら使うといいよ。」
「そうだな!あー、でも…」
バチ君は、少し考えるようなそぶりを見せて言った。
「一々調べるよりも、一気に調べたほうがいいよな?」
「え?まあ、そうだね…」
突然のことで呆気に取られていた僕を他所に、バチ君は自信満々に言った。
「よし!ならば今日中に、ある程度覚えるぞ!」
「…え!?」
若干裏返った声で、僕は驚いた。
「え、な、何て言ったの?ある程度覚える?」
「ああ!そのほうがケーキも、後で楽だろ。」
「いやそうなんだけど、そうなんだけどさぁ…」
インターネットは、名前の通り、網のように、様々な情報がくっついている。つまり、一つの単語を徹底的に調べるとなると、たくさんのデータがついてくる。たくさんの数の情報を取り込まなくてはいけない、ということだ。いくらエレカを操ることができるバチ君とはいえ、負担はものすごいだろう。エレカは未知数な事が多いから、無理することで、どうなるか分からないことも怖い。
「止めた方が良いよ。情報も多いし、バチ君の負担がものすごいことになっちゃうよ。…無理は…しないでほしいな。」
「それけーきが言うか?」
「うっ…」
「大丈夫だよ。俺の力を見くびんなよ!一晩あれば、へーきだぜ!」
バチ君は得意気にそう言うが、不安なものは不安だ。僕の心の中のモヤモヤは、消えない。
「あっ、そうだ!けーきのすまほってやつ、一晩借りるぜ!中に入ってても良いか?」
「あ、うん、それは良いんだけど…やっぱり不安だよ。せめて、日をおいて、何日かに分けてやった方が…」
「だからへーきだって!こんだけの時間があれば、余裕!」
「でも、バチ君が今から入ろうとしている場所は、バチ君が想像しているよりも、膨大…あ、大きいんだよ?それを、たったの一晩でって…」
「何度も言ってるじゃんか!へーきだって!けーきは心配しすぎだっての!好きにさせてくれよ!」
「だけどさ…」
「あーもう!!!うるさい!!!」
バチ君の怒声が、部屋中に響き渡った。思わず身体を震わせてしまい、箸で掴んだままだった卵焼きを落としてしまった。バチ君は頬を膨らませて言った。
「けーきは!心配しすぎだっての!!そういうところ!むかつく!」
「むかつく…!?ご、ごめんよ、そんなつもりは無くって…!」
「それに!」
バチ君の声が、続けようとした僕の弁明を遮った。
「俺が折角頑張ろうとしていたのに!止めるな!!けーきと話せるように頑張ってるんだから!」
その言葉を聞いて、驚いてしまった。話せるように?今も十分、話せているのに。どういうことだろう。
「話せる…ように?」
「そーだよ!おれ、まだまだ知らないことばっかりだから、ちゃんと話しについていけるようになりたいのに!ちゃんと、おれの周りで起こっていることを分かって、けーきを助けたいのに!けーきは、それを邪魔するのか!?」
「そっ…れ、は…」
驚いた。まさか、この短期間の間に、そんなことを思ってくれていたなんて。この子は、優しい子だ。同時に、ショックだった。まさか、気遣ったつもりの行動が、バチ君の好意を制限していたことになっていたなんて…僕は、なんてことをしていたんだろう…。
「ごめんよ!まさか、そんなことを思ってくれていたなんて…!決して、邪魔するつもりは無かったんだ!」
「…別に良いよ。けーき、そんなつもりはないだろうって、分かってるし。」
「ごめんね…!でも、心配だったんだ。だから…機嫌を治してくれないかな…?」
「…まだむかつくけど…おれは偉いからな!許してやる!」
「ありがとう。…その、邪魔するつもりは無いんだけど、本当に無いからね!?っでも、やっぱり不安で、その…バチ君なら大丈夫なんだろうけど、僕…あっ、人間から見たらね…」
「あー!またうるさい!!けーき、そういうところだぞ!」
「っへぇ!?」
「けーきは優しいんだけど、おれのことを心配しすぎ!おれのことを信用してないのか!?」
「そんなつもりはないよ!ただ、人間から見てみると…」
「あとそれ!ビクビクしすぎ!ちょっとしか怒ってないのに!」
「あっ、ごめんね!でも、僕が怒らせちゃったから…」
「少し黙って!もう一回怒るよ!」
「あっ、ごめんね!あっ、喋っちゃった黙るね、ごめん…」
僕はそう言うと、下を向いた。少し焦りすぎて、暴走してしまった。僕のせいで怒らせてしまったと分かって、申し訳なくなってしまった。好意を踏みにじったのも事実だし…。多分、怒ってると思う。どうしたら、機嫌を治してくれるのだろう…。
「あのね、けーき!」
バチ君が、僕の頭上から呼びかけた。僕が顔を上げると、バチ君は僕の鼻に体当たりして、言った。
「けーきは、俺のことを信じてない?」
「そんなこと無いよ!ただ、僕は…」
また、さっきと同じ流れになりそうだったから、目を反らし、どうにか堪えた。口から弁明の言葉が、節操無しに飛び出してくる。止めなきゃって思っても、どうしても飛び出す。
「おれはさ、けーきのこと、信じてるよ。」
バチ君のそんな言葉が聞こえてきて、僕は向き直った。
「…まだ会ったばっかのおれのこと、大切にしてくれるし、電気食っても、壊しても、怒んなかったし。俺のこと、いっぱい気にかけてくれるでしょ?だから、けーきもおれのこと、信じてよ!」
バチ君は頬らしき場所を膨らませて、今度は呟くように言った。
「おれ、色々心配されるより、『がんばれ』って言われた方が、嬉しい…。…怖くねえよ!?その、いんたあねっと?ってやつ、全然怖くねえよ!だけど、その…応援、してもらったほうが…その…もっと、頑張ろう!ってなる!だから心配するな!」
バチ君はそう言うと、自分の文のご飯を食べ始めた。僕はというと、少し面食らっていた。…心配が、逆に鬱陶しくなっちゃってたんだ。…それは、ショックだけど、でも、そっか。って、飲み込むことが出来る。だって、信じてるって、言ってくれたから。実際、僕の方は、会社の利益が上がるかも、とか、怒らせたら怖そうだ、とか、利己的なものばっかり。それなのに、僕のことを信用してくれている…。本当に、申し訳ない。…うん。でも、今は、応援をしよう。僕のことを信じてくれた。それだけで、たまらなく嬉しい。そっか。僕を、信じてくれての行動だったんだね。…だったら、僕も信じて、応援をしてあげないと。胸を張って、応援しないと。僕は一度目を閉じ、大きく深呼吸した。
「けーき?どうした?」
バチ君の声が聞こえて、僕は顔を上げる。目は反らさない。
「バチ君。」
僕はできるだけ優しい声で呼ぶと、箸を置いて、バチ君の目(?)の部分を真っ直ぐ見て言った。
「分かった。信じるよ。気を付けて、行っておいで。」
僕がそう言うと、バチ君は一瞬きょとんとしたが、少しずつ顔(?)に口のような部分が見えて、糸が緩んだような大きな笑顔になった。そして
「分かった!おれ、めーーーっちゃ頑張る!」
そう、元気いっぱいの声で答えてくれた。僕も釣られて、頬と目元が緩む。良かった。これが、正しい選択だったんだ。バチ君も、僕も、何も嫌な気持ちにならなくて、何も探らなくて良い、あったかい選択。不安は無いと言えば嘘になる。でも、信じてるって思ったら、心のモヤモヤは霞んでくれた。そう思って僕が再び箸を持つと、バチ君は僕の目の前まで飛んできて、言った。
「けーき、これからずっと、それで良いからな!」
「え?」
またもや驚いていると、バチ君は続けた。
「何度も言うけど、おれ、大丈夫って心配されるよりも、頑張ってねって、応援してくれる方が良い。そう言われると、何も言わなくても、信じてくれてるんだなーって、分かるから。そしたら、怖くても、力が出てくる。」
その言葉が、壁を壊してくれたように感じた。そっか。僕、今まで心配ばっかりしてたから。誰かが傷つくのが、誰かが嫌な想いをするのが、嫌だったから。怖かったから。誰かの背中を押すことが、誰かを信じることだって、分からなかったんだ。ずっと、心のモヤモヤばっかり抱えていたけど、そのモヤモヤを晴す方法が、近くにあったんだ。
「…バチ君。」
「?何だ?」
米粒を付け、鮭を頬張っているバチ君を見て、僕は言った。
「ありがとう。」
バチ君は鮭を加えたまんま、僕のことを少し、呆気にとられてみていたが、やがて鮭を食べきると、米粒を付けたまま僕の近くに飛んできた。
「何でだ?『ありがとう』って言うの、俺の方だと思うぞ。」
「ふふっ。合ってるよ。気が付かせてもらったからね。」
「?」
「それと、信じてくれているんだったら、『怖い』って感じてたことも、僕に教えて欲しいな。」
「…はっ!?怖くないってば!」
「だって『怖くても頑張れる』って、言っていたから。本当は、怖かったの?」
「そんなこと、言ってないって!」
「僕は覚えてるよ。ね、信用して欲しいな。」
「…~っ、これは、おれの、かっこよくするための問題だ!だから、信用は関係ねーよ!」
「大丈夫だって。もう、十分かっこいいよ。」
「そーいうことじゃねー!!」
バチ君は、僕の鼻に体当たりをしてきた。相変わらず、痛くないし、むしろこしょばい。かっこいいっていうより、可愛い姿だけど。それでも、僕にとって、怖いことに立ち向かう姿は、かっこよかった。
その後も、色々なことを聞いて、分かったことがあった。バチ君は、電気を食べて、自分の中のエネルギーを蓄えている。コンセント口や、スマホに入り込んでいたのは、電気を食べるためだった。エレカも、電力を基軸としたエネルギーだから、納得がいった。そして、バチ君の纏っている電気は、少しピリピリするくらいで、痛くないのだが、力を込めたり、びっくりしたりすると、恐らく、力は増す。バチ君曰く、身体に力を込めると、熱くなってくる感覚がした、という。前にバチ君を驚かせてしまった時に、指先が熱く感じたから、多分この考えは間違ってないと思う。それと、エレカを身体から出すと、お腹が減るらしい。眠いという感覚もあるらしく、昨日は僕のスマホの中で、満腹のまま寝たそうだ。まだ不思議なことばっかりだけど、この不思議な生き物は、可愛らしくて、わんぱくな、かっこいい子だということが分かった。
シャワーを済ませ、寝室に入り、後は寝るだけ、となったとき。僕はスマホを持って、検索のアプリを開いた。目の前には、覚悟を決めたバチ君の姿が。
「じゃあ…行ってくるからな!」
「うん。…気を付けてね。」
不安はあるけれど、頑張って笑顔で見守る。バチ君は、やっぱり少し怖がっているように見えたが、一度大きく頷き頷くと、スマホの中に飛び込んだ。スマホの画面が大きく揺れたように見えた。スマホを覗き込むと、いつも通りの画面だった。不安だったけれど、『信じよう』と、心の中で唱え、気持ちを落ち着かせた。そして、充電が切れないように、充電器を繋いでおいて、僕は床についた。けれどやっぱり、不安になる時はある。真っ暗な部屋の中だから、尚更だ。寝返りを打ったり、首をもたげてスマホを見たり…けれど、それを五回くらい繰り返したあたりで、僕の意識は途切れていった。
「けーき!けーき!起きて!」
聞き覚えのある声が、耳の近くで聞こえる。体に、何かふわふわしたものが当たっている。どうしたんだろう、バチ君。確か、スマホの中に入って…そうだ!スマホの中に入っていたんだ!声が聞こえたって事は、無事だったって事で良いのかな?僕は急いで目を開け、辺りを見回した。…いた!ベット脇の、電気スタンドの傘の上の部分。そこに、バチ君はちょこんと座っていた。僕は急いで、バチ君に近寄って聞いた。
「だ、大丈夫、だった!?どっか怪我してたりしない!?」
「だいじょぶ。だけどさ…」
「だけど?」
僕が尋ねると、バチ君は縦に少し伸びた。僕がポカンとしていると、すぐに縮んで、気の抜けた声で言った。
「疲れた…すげえ情報多いんだもん。」
…もしかして、さっきの、あくび?僕がそう思っていると、バチ君はのそのそと這いずりながら、僕のスマホへと向かって行った。
「どうしたの?」
「休む…すげえ疲れた…」
「僕のスマホで休むつもり?…でも、どこで?」
「どっか静かなところ探す~…」
「そっか。ゆっくり休みな。」
そう言って、スマホに這っていくくバチ君を見ていると、僕はあることを思いついた。
「あっ、そうだ!ってわぁぁ!?」
「うお!?」
急いでスマホを取ったせいで、スマホの端に居たバチ君を落としそうになってしまった。慌てて手で受け止めたはいいものの、手が一瞬、焼けるような熱さを覚えた。もう一度、バチ君を放り出しそうになったけれど、どうにか堪えた。
「危ねえな!何すんだよ!?」
「…っ…!」
「けーき?…おい、手が真っ赤じゃねえか!?早く冷やせ!火傷って、多量の水で冷やすことが優先だろ!?あ、違うんだっけ!?痛みが引いたら冷やせ、けーき!聞いているか!?」
「え…?あ、そう、だね…」
火傷の傷が痛かったこともそうだけど、バチ君があまりにも人間について詳しくなっているため、僕は驚いて声が出なかった。
「けーき!まだ痛いか!?」
それに、ここまで焦るバチ君を見るのは初めてだ。
「あ、えっと、まだ少し…」
「…分かった。ちゃんと冷やせよ。」
バチ君はそう言ったが、まだ不安そうに、僕の手の上でもぞもぞと動いている。…もしかして、ネットとかで色々、バチ君と人間の生態が違うことを知って、バチ君と比べて人間が弱いことを知ったから、焦っているのかな。
「大丈夫。大丈夫だからね。」
「本当か…?」
「うん。大丈夫だよ。」
「ならいいけどよ…」
実際は、手のひらはとても痛い。バチ君を驚かせてしまったから、感電してしまったみたいだ。けれど、自分のせいで怪我をさせてしまった、なんてバチ君に思わせたくない。僕が悪いんだし、バチ君には変に気を負ってほしくない。疲れてるもんね。…あ、そうだ。それより。
「ね、バチ君。バチ君の言う静かな所って、『情報が少ないところ』ってことであってるかな?」
「ん?…まあ、そうかもな。」
「だったらさ、僕が静かな場所を作っておくね。」
僕はそう言うと、スマホのフォルダアプリを開いて、空のフォルダを一つ作った。
そして、バチ君にスマホを見せた。
「この空のフォルダに入れば、静かに休めるんじゃ無いかな。」
バチ君は腕のような部分を伸ばして、スマホを両手で掴むと、頷いて言った。
「おん!多分休める!」
「そっか、良かった。じゃあ、仕事に行く準備しておくから、底で休んで良いよ。」
「おお!…って、そうじゃねえよ!けーき、痛くなかったら早く冷やせ!」
「あ、忘れてた…。自分でやっておくから、休んでいて良いよ。」
「駄目だ!俺も見てる!」
「大丈夫…」
「うるせえ!」
どうやら、きちんとした応急処置を見ないと、休んでくれなさそうだ。バチ君は僕の肩にちょこんと乗ると、僕の耳元で言った。
「早く洗面所へ行け!」
「わ、分かったよ。」
言われるがまま、多量の水で冷やす。最初は少しヒリヒリしたけど、後半の方は水が冷たくて、手の感覚が少しずつ無くなってきた。もういいだろうと思って水を止めると、バチ君が耳元で言った。
「もういいのか?」
「うん。これ以上は良いかなって。痛みも引いたし。」
「そっか。低体温症になったら大変だもんな。」
低体温症…。バチ君から聞こえると思っていなかった言葉に、少し戸惑う。本当に、ネットの知識を全て吸収したんだ…。って、そうじゃん。それなら早く休ませないといけないな。僕はタオルで手を軽く拭くと、バチ君を指でつついて言った。
「ほら、もういいから、休みな。疲れているでしょ。」
つつくと、ぷにぷにとした感触が返ってくる。心地良い。
「ん~…けーきがいいなら、やすむけどさぁ…無理すんなよ!絶対だかんな!」
「分かったよ。大丈夫だからさ。」
「信用ならね~。」
バチ君は少し不満があるようだ。僕はそのまま、ベッド脇に置いてあるスマホの所まで行くと、バチ君を指先に乗せ、そのままスマホの画面に置いた。バチ君はそのまま、頭(?)の部分からスマホに入った。…ように見せかけて、一度顔(?)を上げると、僕に向かって言った。
「おやすみ。使い方合ってるか?これで。」
「うん。合ってるよ。おやすみ。」
僕がそう言うと、バチ君は今度こそスマホの中に入った。バチ君が潜った後のスマホは、異様に静かだった。様子が気になるけど、変に起こすわけにはいかない。僕はそのまま、通勤の為の支度をすることにした。って言っても、顔を洗って、無精髭を剃って、寝癖を直して、着替えて、荷物をまとめるだけの、簡単な身支度だけども。
革靴のかかとに、変な後が残らないように丁寧に履く。軽くつま先で履き具合を整え、鞄を持つと、外に出た。日差しが少し眩しく感じる。少しクラっとするくらいに。まずい、貧血気味か?健康診断で、注意されたばっかりなのに…。まあ実際、最近の出来事を考えれば、クラクラするくらい混乱しているけれど…。でも実際、今起きていることを、すんなりと飲み込んでいる自分がいる。意外と飲み込めるものなんだな…。でも、それはバチ君が優しい性格だったからかもしれない。映画とかで見る、突然現われた生き物って、大体人間に対して攻撃的だから、バチ君はもしかしたらレアなケース?なのかも。もし凶暴だったら、僕はどんな目に遭っていたんだろう…。捕食?洗脳?恐喝?…想像するだけで、ぞっとする。本当に優しくて良かった…。けど、優しいからこそ、バチ君に、今朝のような心配をさせてしまった。優しいんだけど、優しいからこそ、余計な心配はさせたくない。ちょっとだけ、知識を与えなければよかったかもしれないと、思ってしまった。そんなことを言うのは、バチ君に失礼だけども。
仕事を終え、再び家に帰ってくる。部屋の電気を付けると、スマホの中から、バチ君がフラフラと飛び出てくる。僕は、ソファーに鞄を降ろして尋ねた。
「その…どうだった?寝心地…」
「…良かったぞ。途中までな。」
「ごめん…」
今日は午前中は比較的穏やかな日だった。仕事も、急に入ってくる件数は少なく、来たとしても落ち着いて対処ができるくらい。けれど、午後はとても忙しかった。何件も電話が入り、二件ぐらい急遽訪問しなければならない会社が出てきた。おかげで、僕のスマホは鳴りっぱなし使いっぱなし。完全に失念していたけれど、バチ君が空のスマホのフォルダで寝ていたとしても、所詮スマホの中だから、電話やアラーム、通知が来たら、バチ君にも聞こえてしまう。故に、バチ君は午後の間は寝ることが出来なかった。一度、スマホにバチ君の顔(?)が全画面で出てきた。心なしか、睨まれているような気がした…。
だから、今バチ君の機嫌は悪い。寝ているところを叩き起こされたんだもんな…。別の対処法を、考えておかないと。そう思いながら、買ってきたコンビニ弁当を、電子レンジに入れる。手動で調整しようと思ったとき、バチ君の声がソファから聞こえてきた。
「けーきー。電子レンジ、やるよー。」
「いや、いいよ。今日は僕のせいであんまり寝れなかったんだから、ゆっくりくつろいでおきな。」
「いいよ。もう休む気にもなれねーし。手伝って時間潰す~…」
そう言って、ゆっくりと僕の方に飛んできて、レンジの上にちょこんと座った。そして、手(?)で触れると、
「弁当入れて良いぞ。」
「あっ、うん。」
言われるがままに弁当を入れて、そのまま蓋を閉めた。そして、バチ君がつまみを軽く捻ると、レンジは音をたてて作動し始めた。そして、五秒くらいして、チン!という軽い音がする。未だに、この魔法みたいな現象には慣れない。
「ありがとう、バチ君。」
「いーってことよ。」
僕はそのまま、少し熱い弁当をテーブルの上に置くと、近くにあったソファーにもたれかかった。疲れた身体が、ほどよく沈むソファーから離れたくないと言っている。でも、お腹は、早くご飯が食べたいと唸っている。悩んだ結果、食欲の方を優先させることにした。渋々ソファーから起き上がり、弁当の蓋を取り、割り箸を割る。美味く割れずに、ささくれが出来てしまった。それを指で取って、蓋をゴミ箱代わりに捨てる。そして、手を合わせて、『いただきます。』と小声で唱えた後、バチ君の方を見て言った。
「食べる?」
「うん!食べる!」
昨日、結構気に入ってくれた様子で弁当を食べてくれたから、もしかしたら今日も食べるのかな?と思って聞いてみたけど、聞いて正解だったようだ。僕は、なるべく食べごたえがありそうなものを、バチ君の分の取り皿に分けた。相変わらず、食べたエネルギーの行き先が気になる。
空きっ腹に、お米の美味しさと満足具合が流れ込んでくる。欲しかったのはこれだよと言わんばかりに、身体が満足しているのがわかる。そう感じていると、バチ君の声が聞こえた。
「なー、テレビ付けねえの?」
「え?テレビ?」
「うん、テレビ。あれってテレビじゃねえの?」
バチ君が指差した先には、長い間使われていない為に、黒い板と化しているテレビがあった。一人暮らしの時のために、あった方が便利だと思って買っておいたけれど、仕事が忙しすぎて、見る暇もなかった。最近はスマホでなんでもわかるし、ドラマも、元からそんなに見るタイプではない。バラエティ番組も見ないため、完全に無用の長物だ。…このままでは、なんだかテレビが可哀想だ。丁度、バチ君にも指摘されたし、久しぶりにつけてみよう。
引き出しから、若干埃被ったリモコンを取り出し、ティッシュで軽く拭く。一度テレビにリモコンを向け、ボタンを押す。…が、反応しない。電池が切れているらしい。一応、もう一度試してみよう。そう思って何度かボタンを押していると、バチ君がいつの間にか近くにやってきて、元気よく言った。
「こんなときは、やっぱり俺よ!」
手があったら、親指を自分に向け、自信満々に言っていただろう。僕が何か言う前に、バチ君はリモコンの中に入っていった。…何か押した方が良いのかも。僕はそう思って、テビにリモコンを向けて、電源ボタンを押した。
『いや調子乗ってんじゃねえぞ!』
突然聞こえてきた大声と爆笑の声に驚く。どうやら、つけた先の番組がバラエティ番組だったらしい。僕は安堵のため息をついて、ソファーに腰をかけた。久しぶりの風景な気がする。
僕がソファーに腰をかけると、バチ君がリモコンから勢いよく飛び出してきた。
「うおー!すげえ!テレビって、こんな感じなんだな!」
興奮した様子で喋るバチ君を見て、少し頬が緩む。特に見たい番組は無いけれど、この時間を、僕もじっくり楽しもう。
「何の番組が良い?」
「んー…気になるのが結構あるから、まずはけーきのオススメがいいな。なんかあるか?」
「そうだな…」
特にお気に入りの番組とかは無いんだけども…。そうだな、バチ君は知りたがりな節があるから、情報番組とかが良いかもしれない。夜の時間帯なら、バラエティを交えた情報番組がやっているはず。僕も、若い子達の流行を確認できるし、丁度良い。その番組を見よう。僕は記憶を頼りに、リモコンのボタンを何回か押した。
画面が切り替わる度に、多種多様な声が聞こえては途切れる。四回目くらいで、目的の番組に辿り着いた。丁度、最近の若い人たちのファッション調査、のような特集をやっている。僕には縁の無いファッションだなぁと思いながら、ソファーに寄りかかった。仕事上、若い子のニーズ似合わせた商品開発をしろだの言われることが多いから、僕も流行とかは日頃からチェックしているんだけど…。ファッションについては疎い。仕事づくめで、ワイシャツが私服みたいになっている。というか、私服持っていたっけ…?そのくらい、ファッションに疎い。おじさんに似合うファッション特集とかやってくれたらいいんだけど、そんなの誰も見ないだろう。僕も少しくらい、格好つけてみたいと思う。おしゃれな服を身につけて、鏡を見て、これが、僕…!?みたいな経験をしてみたい。着飾ることの楽しさというか、自分が変わる、みたいな経験というか…。とにかく、そういうのに憧れる。まぁ、そんな経験、おじさんになってしまった今では、二度と味わえないだろうけど。
そんなことを考えながらテレビを見ていると、バチ君の大きな声が聞こえてきた。
「うぉー!かっけえー!」
何事かと思ってテレビを見ると、二十代くらいの、背の高い青年が映っていた。パーカーの下にタンクトップ、ズボンは少しだぼっとしている。首からネックレスを一つかけ、首元にタトゥーが見える。一番目立つのは、ピアスの数だ。耳や、口にもついている。髪は、青色のグラデーションがかかっていて、端へ行くほど明るい色になっている。その髪が、耳にかかるほど伸びている。その青年は、
『すごいいかつい格好ですね。』
とインタビューされていた。青年は少し苦笑した後、
『よく言われます。』
と、気さくに答えていた。すごい奇抜なファッションであると思う。目立つことは仕方が無いし、興味というか、注目の的になるのは必然的だ。青年も、それを承知で、好きだからそのファッションをしているのだろう。けれど、インタビューの時に見せた苦笑の表情。もしかしたら、注目の的にされることへの疲れや、嫌気。そういったものがあるのかもしれない。なんだか、不憫だなと思ってしまう。青年には誠に勝手だけど。
「良いなー、俺もやってみてえー!」
バチ君が興奮したように言う。…同じ服を着る、というのは難しいと思う。物理的な問題で。バチ君は丸いふさふさした姿だから。でも憧れっぱなし歯可愛そうだから、いつか、手芸か何か習って、アクセサリーとかを作ってあげよう。そう僕が思っていると、バチ君が言った。
「あ、そうじゃん。読み込めば良いじゃん!」
「え?」
読み込む?どういうこと…。僕がそう聞く前に、バチ君はテレビの中に入ってしまった。一体、どういう意味だろう。そう思ってテレビを眺めてみても、何も変わった様子は無い。さっきの青年のインタビューが続いているだけだ。記者に何か質問されたようで、青年はすませた顔で答えていた。
「そうですね。でもやっぱり、ファッションていうのは、自分で…」
「読み込めたー!」
「うわぁ!?」
突然、バチ君が、画面から勢いよく飛び出してきた。そして、僕の太ももに着地した。バチ君は、恐らく僕を見上げて、嬉しそうに言った。
「読み込めたぞけーき!」
「その…『読み込む』ってどういうこと?あ、普通の意味は何となく分かってるんだけどさ…」
「そのまんまだよ!見てろよ!」
バチ君はそう言うと、ふわりと宙に浮かび上がった。そして、
「いくぞ~!」
そう元気な声で言った後、くるりと円を描くと、急に眩しいくらいに光り出した。天井の照明、テレビの明かり。全ての光より眩しい光になった。僕は思わず、腕で視界を覆う。何も…見えない…!
少し、時間が経ったと思う。恐る恐る目を開けると、腕の隙間からリビングが見える。もう、光は無いようだ。
「おおおお~!!」
バチ君の興奮した声が聞こえる。よく分からないけど、終わったのかな…?そう思っていると、視界の隅で足のようなものが見えた。…足?…ん、足?足!?
「けーき、見ろよ!俺すげえことになってるぞ!」
何が起こったか全く分からないが、とりあえず腕をどけてみよう。とは思ったものの、混乱で身体が固まる。…どうしよう。そう思った時、僕の腕に何かが触れた。…手、なのか?
「けーき、腕どけろって!」
腕どけろ…ってことは、僕の腕を掴んでる手って、もしかして…!?
「もー!早くどけろよー!」
その声と共に、僕の腕が謎の手によって、無理矢理どけられた。視界が一瞬、眩しい光に遮られた後…目の前に、少年が一人居た。テレビで見たファッションと、似たような格好の少年。黒いタンクトップに、上着を腰に巻いて、その下にダメージジーンズ。靴はわんぱくな形の底が少し厚い靴、。所々にピアスが見え、髪の毛は、ワックスで固めたようにツンツンした黄色い髪だ。その少年は、腰に手を当てて、笑顔で言った。
「どうだ!これで、俺もあの服着れたろー!」
「え…え?え、え?」
え?…え?えっ、え?え?
「えええええええええええええ!?」
夜中、高齢の身、疲労困憊。全ての要素を忘れて、僕は全力で叫んだ。驚きのあまり、腰が引けてしまい、ソファーにへたりこんでしまった。信じられなくて、何回も瞬きしてしまう。目の前に、突然少年が現われた。とても派手な格好をした、光っている、黄色い少年。しかも、口ぶりや話し方から推測するに…バチ君、のようだ。いや、自分で言っておいて訳が分からないけども。でも、声は確実にバチ君だ。それが、違和感があってたまらない。
目の前の少年は、僕を気にせずに、嬉しそうに言った。
「へへへー!やっと着れたー!良いなー!これ!楽しいー!」
そう言って、自分の着ている洋服を見て、くるくると回っている。いや、洋服だけじゃ無くて、腕や足のことも見ているのかもしれない。…あれが、バチ君だったのなら。
「ごめんだけど…バチ君、で、合って…ますか?」
「ん?どーしたけーき。しゃべり方変だぞ。」
合ってたああぁぁぁ…。いや、すごい。すごいんだけど、ここまで力を秘めているとなると、この先何が飛び出してくるんだろうと、少し不安になる。まさか、あのふさふさしてた丸だったバチ君が、人型になることができるとは思わないじゃん…。とうとうそこまでできるようになったのか…。と、思わず感心してしまう。初めて、スマホが誕生したことを知った時のような感覚だ。
「けーき、どーしたんだ?見てくれよ!俺、けーきと同じような形になったぜ!」
バチ君に明るく声をかけられて、僕は少し引きつった笑顔で答えた。
「す、すごいね…!人に、変身することまでできちゃうんだ…!」
声に出すと、とんでもないことをバチ君はしている。ということが嫌でも分かる。これ、褒めても大丈夫なのかな…?というか、変身って…もしかして、「読み込む」って言葉は…。
「…そういえば、さっき言っていた、『読み込む』って?」
僕は恐る恐るバチ君に尋ねた。
「俺が今してることだぞ!」
「あー…ごめんね。それだけじゃ、わかんないかも…」
「えー!見りゃわかんだろ!俺がこんな状態になっているのは、テレビに映っていた、かっこいいやつの服のデータを読み込んだからだ!だから、『読み込む』ってのは、つまり、その…えっと…」
「コピー、みたいな…?」
「あ、そうそうそれそれ!あ、でも、ちょっと違う!データを読み込んだ後、服をコピーして、人型になって着る!俺の身体に似合うように落とし込んで、な。」
「それは…バチ君の意思で?」
「おん!俺が、俺ならぜってー似合う!と思ったコーディネートに変えたぞ!あいつのセンスも良かったけど、その…俺なら、もっとかっけーデザインにできると思ったから、変えた!」
そう自信満々に言ったのにも関わらず、バチ君は口を尖らせていた。僕は少し疑問に思ったが、あることを思いついた。
「身長…足りなかった?」
「うるせー!」
図星みたい。
「ご、ごめんね、まさかそうだとは思わなくて…その、身長も、自分で調整したのかなって…」
「お、おう!もちろんよ!」
上手くごまかせたみたいだ。安堵のため息が出る。そうか、自分で調整…コーディネートしたのか。細かい所まで、人間の知識を吸収したんだな…。本当に、すごいや。バチ君がエレカの集合体と考えると、末端であるエレカは、どのくらいのことが出来るんだろう。電子機器の自動調整、即座に充電。今分かっているのはこれくらいだけれど、もしもバチ君みたいに、変身とか、電気を止めてしまったりとか、そういうことができるようになっちゃったら…。もしや、エレカって、想像以上に…怖いエネルギー?
「ま、身長に関しては、いつか、その…俺が妥協してやったら、同じ身長になってやるけどな!」
バチ君は、僕から目を反らしながらそう言った後、一回転すると、さっきとは違い、楽しそうに言った。
「それにしてもすごいな、人間って!二本の足で支えて立っていられるし、浮かなくても生活できるんだもんな!」
そう言った後、バチ君は、自分の目の前にあったエビフライを、手で掴んで言った。
「物を掴める、食べられる!」
そう言って、ちょっと行儀が悪いけれども、エビフライをそのまま手づかみで食べた後、そのままソファーに勢いよく寝転がると、横になって、笑顔になって言った。
「寝転がれる、手足を自由に動かせる!」
そして、ソファーの上で、勢いよく起き上がると、両手を大きく広げて
「好きな風に、着飾ることが出来る!」
とびきりの笑顔になって言った。
「楽しいんだな!人間って!」
そう言うバチ君に、僕は今度こそ、苦笑いをして答えるしかなかった。
「そう…だね…。」
バチ君が僕の元にやってきて、右手を目の前に出してきた。一瞬、何だろうと思ったけど、すぐに思い出した。ハイタッチだ。僕はゆっくり手を前に出すと、軽くハイタッチをした。僕の勢いが弱かった分、バチ君が勢いよくハイタッチをしてくれた。
「ハイタッチもできるしな!」
バチ君が満面の笑みで言う。楽しそうで良かった。けれど…人間はたのしことばかりじゃないって、思う。自分が経験したからこそわかる。社会は、全員に優しくなんかない。だから、楽しいことばっかりじゃないんだ。むしろ、楽しいことがどんどん削られていく可能性がある。だから、僕は楽しいとは思えない。とはいえ…人間に成り立てのバチ君に、そんなこと教えられない。せっかく成ったのに、気を落としてしまったら可哀想だ。せめて今は、黙っておこう。それに、折角、バチ君が僕と同じ人間の形になってくれたのに、くよくよ嘆いてばかりだと、バチ君が可愛そうだ。僕は素直に喜ぶことにした。
「すごいね。かっこいいよ。」
「だろ!もっと褒めてくれても良いんだぜ!」
「そうだね、特にその腕のアクセサリーが好きかな。トゲトゲしているデザインで合わせるのが難しいと思うんだけど、今の格好に上手く落とし込めている気がするよ。そもそも、そういった格好は、人によって似合う似合わないが別れてくると思うから、それが似合って、尚且つ上手く調整できるっていう点も、すごいと思うよ。おしゃれさんなんだね。それから…」
「そっ、それで素直に褒めるなよ!」
「え?あっ、ごめん!」
普段の営業時のトークと同じ調子で、マシンガントークをしてしまった。真っ向からやられたら、それは確かに、バチ君も困っちゃうな…。それは反省するとして。僕は、バチ君に気になったことを聞いた。
「それってさ…他の姿にはなれるのかな?その、所謂、読み込むってことをすれば。」
「うーん、いけんじゃね?善は急げって奴だ!やってみようぜ!」
「善なのかなぁ…?」
何はともあれ、試してみることになった。お弁当を食べた後で。
お弁当を食べ終わると、僕はネットで『男の子 かっこいい服』で検索をかけていた。バチ君曰く、
「この服が気に入っているから、他に読み込みたい奴は無い。けーきが探してくれ。」
とのこと。けれど僕は、ファッションに疎いから、こうしてネットで検索をしている。二、三個くらい候補を決めて、バチ君に見せた。
「これなんてどうかな。」
「おい…」
隣からバチ君の怒ったような声が聞こえた。
「え、どうしたの…?」
「どうしたじゃねーよ!俺のこと、小さく見過ぎだろ!」
「え、ええ…?」
「もうちょっとでかい奴を対象にしろよ!真剣にやれ!」
「ご、ごめん…」
そう怒られて、僕がサイトを閉じようとしたときだった。
「あれ?これなんだ?」
そう言って、バチ君は、隅っこに移された、別のサイトの入り口を指さした。そこには、10代後半くらいの男性が、所謂病み系、ダウナー系と言われるファッションをしていた。紫と藍色が混ざったパーカーのフードには、ぬいぐるみの猫のようなデザインが施され、つぎはぎ模様や絆創膏の模様が多い。ズボンは上と同じような色で、チェーンが多くつけられたダメージジーンズを履いている。靴は、紫と藍色のインクが跳ねたような模様の、厚底のスニーカーを履いている。一度、夜の通勤帰りに、こういったファッションをした若い子を見たことがある。専門サイトがあるんだ。そう思いながら、僕はバチ君に説明した。
「えっと、ダウナー系って奴だね。暗めのファッションって言ったら良いのかな。一定の若い子に人気があるんだよ。」
「へぇー…試してみたいな!」
「え?」
バチ君はそう言って、スマホに飛び込―めずに、僕にそのまま覆い被さった。指先はスマホの中に、中途半端に入ったままだ。僕は覆い被さられたまま、静かに呟いた。
「バチ君、今は人間の姿なんだよ…」
「悪い…」
仕切り直して、僕はそのサイトを開いて、バチ君が読み込めるように準備をした。紫と薄紫と黒でいっぱいのサイトを横目に、僕は光の丸になったバチ君を見た。なんだか、懐かしく感じる。バチ君は飛び回っている。準備万端のようだ。僕はスマホの画面を、バチ君に向けた。
「準備できたよ。」
「よっしゃ、任せろ!」
そう言うと、バチ君は勢いよくスマホに飛び込んだ。そして、数分が経った頃、バチ君は勢いよく、画面から飛び出してきた。おかげで、心配で画面をのぞき込んでいた僕の顔に、勢いよく当たった。まあ、バチ君がふさふさで助かったけれど…。バチ君はそのまま、さっきのストリート系の服を着た少年になると、勢いよく舞い上がった。
「読み込んだぞー!」
「あっ…」
「ひぐ!」
僕が止める間も無く、バチ君は勢いよく天井にぶつかった。
「バチ君、人間って、大きいんだよ…」
「いった~…」
バチ君は人の姿のまま浮いていた。そして、慎重に少し下がってくると、頭を押さえながら言った。
「今から変身するぞ~…」
「無理、しないでね?」
バチ君は静かに頷いた後、
「行くぞ~!」
そう言って、急に丸まった。その後、さっきと同じ、眩しい光が発生した。やっぱり見れなくて、目を腕で覆う。光が腕の隙間から見えなくなると、僕は恐る恐る腕を降ろした。
「終わったぞー、けーき…」
「お、終わったんだね、バチく…」
そう言って僕が顔を上げると、あの広告に似たファッションのバチ君がいた。暗い色のパーカーを着て、中にはタンクトップ、そしてフードを被っているけど、肩を出している。黒色のズボンに、何本か、紐のような物が垂れている。おまけに黒いマスクをつけて、首に何か巻いている。髪の毛は…パーマかな?ボサボサの髪の毛が、フードの隙間から見える。けれど、バチ君の面影はあって、黒色の服や髪の毛の合間に、黄色が見える。
「…バチ君?」
「おー…」
コピーできたんだ、とは思ったけれど、何処か様子がおかしい。もしかして、無茶させてしまったから疲れさせてしまったのだろうか。
「バチ君、大丈夫?もしかして疲れてる?」
「いや、疲れてねー…」
「でも、話し方が、その…」
「…なんか分からねえけどこうなったー…」
「…え?」
さっきまでの元気が良いバチ君と、話し方が全く違う。その…何処か気だるげというか…なんというか、暗いしゃべり方だ。それに、なんか分からねえけど…って、言っているけど、どうしたんだろう。考えられる原因としては、疲れ、もしくは…
「もしかして、読み込んだら、こうなった?」
「おー…なんか、読み取ったら気力とかそーいうのが全部なくなって、くっそやる気が起きない…。あー…」
そう言って、バチ君は、ゆっくりと横になった。
「あ、寝るならソファーに寝なよ!」
「だるい…このままでいい…」
どうしよう。動いてくれなさそうだ。僕は、顎と腰に手をあてて考えた。とりあえず、別のものでも読み込んでくれるってことは分かった。けれど、どうやら性格まで変わるようだ。さっきのストリート系のファッションのバチ君なら、多分はしゃぎ回るはず。それが今は、だるいの一言で横になってしまった。性格が変わっていなければ、ここまでの変化は見られないだろう。…そうであってほしいな、と思ってしまう。とにかく、このままだと、バチ君が横になったまま動かないで一日が終わってしまう。とにかく、ええと…どうしよう。あ、一度戻ってもらう、とかがいいのかもしれない。
「動きたくねぇ…」
「えっと、バチ君。さっきの姿に戻れば、だるいのとか無くなるんじゃないかな。戻ったり、できる?」
「わかんねえ…」
「えっと、その、とりあえずやってみないかな?」
「だるい…」
「そ、そっか…」
こう言われたら、何も言えない。無理にさせるのは何だか申し訳ないし、変身するエネルギー量に関しても、僕は何も分からないから、ああだこうだと指示できない。したくない。どうしよう…。
そう思って迷っていると、バチ君はゆっくりと起き上がった。
「やる…」
「え、無理しないで良いよ。疲れてるんじゃないの?」
「やるって…」
「う、うん…」
バチ君はそのまま、ゆっくりと立ち上がって、手をだらんと垂らしたまま、気力の無い立ち方をした。…僕があからさまに困った顔をしたから、困らせてしまったのかもしれない。でも、性格は変わっても、バチ君の優しさは、根幹にあると思うと、なんだか安心した。…迷惑、かけちゃったけど…。バチ君がそのまま顔を上げた時、フードがずるりと落ちて、後ろで結ばれている髪の毛が見えた。バチ君はそのまま、ゆっくりと浮かび上がると、またゆっくりと丸まった。
「あー…でも、いけっかなぁ…?」
「えっ、大丈夫なの?」
「わからん…ま、やればわかるでしょ…」
「大丈夫…」
僕がそう聞く前に、バチ君は、もう輝き始めていた。また眩しくて、目を瞑ってしまう。
もう一度目をあけると、さっきのストリート系の服を着たバチ君が、きょとんとした顔で立っていた。僕は思わず、バチ君の肩を掴んで言った。
「良かった、戻れたんだね!さっきは性格が変わって…あ、覚えているかな?さっきのこと…」
「おー…戻れたんだ!意外と簡単だったな!」
バチ君はそう言うと、両手を上に大きく上げた。
「やっぱこっちが良いー!」
そんなバチ君を見て、僕は安堵した。バチ君はバチ君のままで、つまり、どんなバチ君でもバチ君だから、どのような性格でも受け止めるつもりなんだけど、やっぱり元気でいてくれた方が嬉しい。
「ごめんなー、さっきめちゃくちゃかったるくて…」
「あ、ああ…良いよ、全然気にしてないよ。」
「なんだろうな。今は全然だるくないんだけど、読み込んだばっかりの時はすげえだるくって…」
「そうなんだ。うーん…」
今の話を聞いていると、どうやらファッションのイメージと、バチ君の性格が連動しているみたいだ。勝手な偏見だけど、さっきのファッションは暗めのファッションだったし…。このストリート系のファッションは、バチ君の元の性格と合致しているから、違和感を感じなかったのかも。…違いを確かめるために、もう一度やってみてほしいけど、どうだろう…。僕は恐る恐る訪ねた。
「あの…バチ君さ…もう一回、できないかなぁ?」
若干申し訳なくて、目を合わせられない。情けないけど、バチ君は優しいから、笑顔で答えてくれた。
「おう、任せろ!」
「ありがとう。…ごめんね、本当に、無理しなくて良いからね。」
「へーき!」
そう言って見せてくれるVサインが、胸にチクリと刺さる。頼んだのは僕なのに。
とりあえず、早めに終わらせて、ゆっくり休ませてあげよう。僕はまた、ネットをゆっくりと探した。今度は、バチ君も隣にいて、一緒にファッションを探してくれている。
「けーきは信用ならないからな!」
「ごめんね…」
さっきのことで、あまり信用してくれていないようだ。申し訳ないと思いつつも、だって…と、言い訳する気持ちが少しばかり出てくる。悪い子としたの、僕なのにな。
そう思いながら探していると、バチ君がまた声を挙げた。
「あ!」
「何!?どうしたの?」
耳元で大きな声を出されたため、驚いて大きな声を挙げてしまった。それを気にしないで、バチ君はある広告を指さした。
「これ!これ着てみたい!」
そう言ってバチ君が指を差したのは、袴姿の男性が、扇子と番傘を持ちながら、藍色が中心の着物を着ていた。これは…有名な着物会社の広告だ。右下のロゴが、見たことのあるブランド名だったから、すぐに分かった。写真に写る男の人は、優雅そうな顔をしている。さっきまでのバチ君のファッションと、これまた随分系統が違うファッションだ。
「着物…いや、浴衣?どっちにしろ、和風のファッションだね。」
「この場合、着物であっているぞ。裏地も見えるし、背景からするにくつろぐような場所ではないから、着物だと思うぞ。」
「…詳しい、ね…」
「知識を全部吸収したからな!」
バチ君は自慢げに言った後、僕のスマホをめがけて…
「おっと、今度は間違えないぜ!」
得意げな顔になった後、元の光のふさふさした玉に戻ると、そのままスマホの中に入った。そして、少し経った後、
「読み込んだー!」
と言って、またスマホから勢いよく飛び出してきた。あらかじめスマホから顔を離しておいて良かったと思う。ちょっとだけ、もう一回顔に体当たりをくらってみたかったと思うけど…。
「じゃあいくぞー!」
再び、明るい声でバチ君は言った。そして、バチ君は空中に浮かび上がり、まばゆい光を出した。僕はまた、腕で目を覆い、目をつむる。そして、眩しい光が無くなった頃に、僕は目をあける。
…今度は、着物を着たバチ君が、微笑んで立っていた。黄色い着物を着た上に、もう一枚上着を着ている。首周りには、もふもふした襟巻きがついていて、髪の毛はハーフアップで後ろに結んだ髪であり、綺麗な装飾が下がっている髪飾り。足には下駄を履いていて、手には黒手袋をはめている。黄色い着物に、所々黒色が差し込まれていて、バチ君の見た目やイメージカラーに、丁度相性が良い…と、思う。
「読み込み終わったぜ。どうだ、似合うか?」
「うん、似合う…ん?」
バチ君が話しかけてくれたけど、違和感がある。ぱっと見元の様子と変わっていないように思えたけど、よく見ると、雰囲気も少し違う。というか、元の性格だったら、はしゃぐと思うんだけど…
「どうした、けーき?何か気になることでもあるのか?」
君のことなんだけどね…。
「あ、気にしないで。また雰囲気が変わったな、って思って。」
「へへ、そうだろ?今までと違って、足下が少し動きづらいけれど…。着物ってだけで、なんだかかっこよく感じるんだ。良いな。着物って。」
バチ君はそう言って、身体を左右に捻って着物を見回すと、
「へへっ、かっこいいよな!」
そう言って、笑顔になった。それを見て、僕もほっとした。バチ君の面影が見えたからだ。けれど、バチ君は僕の横に来ると
「そういえばさっき、何か言いかけてたよな?」
「…へ?」
「俺じゃ頼りないかもしれないけど…遠慮無く言ってくれよな。俺とけーきの仲じゃんか。俺も出来る限り、頑張って見るからさ。」
そう言って、優しく微笑んでくれた。…なんか、バチ君が、今までよりも落ち着いた雰囲気になっているような気がする。性格の根幹はあまり変わっていないように感じるけど…明らかに、今までよりも、大人っぽい。やっぱり、読み込みの影響があると思う。
「けーき、聞いているか?」
「あ、ああ、ごめん。なんか、大人っぽくなったなって思ってさ。普段のバチ君と違うんだもん。」
「それって、俺が普段子どもだって言いたいのか?勘弁してくれよ…」
やっぱり、普段のバチ君と全然違う!だって、いつもだったら、普通に怒られているもん!なんか、慣れない!
僕がそう思っていると、不意に、リビングの時計の鳴る音が聞こえた。見ると、もう十一時だ。返ってきたのは八時くらいだから、もう三時間も過ぎていたのか。
「もう十一時か。けーき、明日も早いんだろ?早く寝ようぜ。俺も、元の姿に戻るからさ。」
慣れないバチ君の調子にぎこちなく返事をすると、僕はソファーから立ち上がった。それと同時に、あることを思いついた。
「そうだ、折角だから、写真を撮っておこうよ。」
「良いけど、なんでだ?」
「皆、かっこよかったり可愛く着飾れたら、記念に写真を撮るんだ。折角だからって思って。」
僕はそう言って、自分のスマホを取り出した。最近のスマホは、機種がグレードアップしても、カメラを中心に進化していくことが多い。おじさんの僕にとっては、全く縁の無い機能だと思っていたけど…。まさか、ここで役に立つとは。家電会社に勤めているから、と言う理由で、見栄を張って最新機種にしておいて良かった。
「それ、すっごく良い案だな。よし、俺も頑張って、かっこよく映るぞ!」
バチ君はそう言って、腕まくりをした。
着物、ダウナー系、ストリート系、という順番で変身したため、最終的には元のバチ君に戻ってくれた。やっぱり、この姿が一番安心して話せるな。そう思って、バチ君の方を見る。
「うおー!こんな感じだったんだ!」
バチ君は、さっき撮った写真を見て、興奮した声をあげている。疲れているかもと心配だったけど、元気そうで良かった。大事をとって、今日は休んでもらうけれども。
「僕、シャワーしてくるね。スマホ、眺めていて良いよ。」
「おう!」
バチ君にそう言うと、僕は浴室に向かった。
シャワーを浴びて、さっぱりした気持ちになりながら、僕は考えた。今日は、というか、最近毎日、驚きの出来事ばっかりだな。たまにヒヤヒヤするけど、それが楽しいって思えるときもある。バチ君と出会ってから、なんだろうな。視界が明るくなった気がする。上手く言葉に出来ないけれど、家での些細な出来事でも、思い出のような、面白い出来事のような、そんな風に思えて、一つ一つを思い出せるほど記憶に残っている。バチ君が喜んでくれると、嬉しい。あんな風に、無垢に笑ってくれて、嬉しそうに、元気に話してくれる。身近でこんな風に感情を表してくれる人はいなかったから、嬉しそうな様子を見ると、僕も元気をもらえる。今度、服のカタログでも買ってあげようか。バチ君の、喜ぶ顔が見たい。
僕はシャワーから出て、髪の毛と身体を拭いた。水気がなくなった後、寝間着に着替えて、ドライヤーで髪の毛を乾かす。ドライヤーの熱風を出す音が、脱衣所に響く。不意に、後ろから誰かに突かれた。
「ひょわぁっ!?」
情けない声を出してしまった。急いでドライヤーを止めて振り返る。そこには、バチ君がいた。ドライヤーをかけていたため、音に全く気が付かなかったんだ。
「なーんだ、バチ君か…どうした…の…」
そういいかけて、はたと気が付いた。バチ君が悲しそうな顔をしている。一体、どうしたんだろう。何があったんだろう。悲しそうな顔を見せられると、すごく心配になる。胸が痛む。
「…どうしたの?」
僕がもう一度尋ねると、バチ君はゆっくりとスマホを僕に渡してきた。
「これ…」
バチ君は悲しそうな顔でそう言った。渡されたスマホを見ると、メールが一通来ていた。部長の菊池さんからだ。少し、血の気が引いた。菊池さんからメールが来たってことは…。僕は恐る恐るメールを開いた。
『お前が指導した新人について』
胃が少し痛み始めた。菊池さんからのメールは、大抵何かしらの注意のメールだ。だから、届いた時点で嫌な予感はしていたんだけど…。続けて中身を見ると、ほとんどが僕を罵倒する言葉だった。どうやら、僕が担当しておいる後輩君が、失敗をしてしまったらしい。メールの本文は、時には、人に使って良いと思えない言葉も混ざっていて、とても悲しい気持ちになった。それに加えて、バチ君が壊してしまったパソコンのケーブルに関しても、書かれていた。ミスの報告に関しても、一行二行程度で終わっている。後は全て、罵詈雑言だ。なんで、こんなに人を傷つける文章を送れるんだろう。けれど、僕のため、と言われると、何も返せなくなってしまう。こんな調子じゃ駄目だって分かるけど、心は受け付けてくれない。だから、目の前の理不尽を、変に飲み込んでしまって、僅かばかりが消化しきれなくて、ずっと苦しい。
「けーき…」
袖を引っ張られると同時に、か細い声が聞こえた。見ると、バチ君がまた、不安そうな顔をしている。
「大丈夫か…?」
そう言うバチ君の目が、少しずつ潤んできているように思える。もしかして、このメールを読んじゃったのか…!?いくら知識を吸収したからといって、バチ君はまだ幼い。その知識がたくさんある幼い子があのメールを読んでしまったら、心に傷を負ってしまうに決まっている。それに、パソコンの件…!もし、バチ君に心当たりがあるのなら、かなり傷ついてしまう!僕は咄嗟に謝った。
「ごめんね、怖いメールを見せちゃって。大丈夫?気にしないで良いからね?」
「…けーき…辛い…?」
「え?」
「けーき…顔、暗い…辛い…?」
「…」
まさか、僕の心配をされるなんて思っていなかった。そして、気が付いた。僕、顔をしかめちゃっている。バチ君を、不安にさせちゃったんだ。僕のせいで、不安にさせちゃったんだ。
「ごめんね!」
僕はそう言って、屈んでバチ君の目線に合わせた。そして、優しく頭を撫でた。
「不安になっちゃった?大丈夫だからね。バチ君が悲しむ必要は無いんだよ。」
そう言ったけれど、バチ君は調子が変わらないまま、若干泣き声が混じった声で言った。
「それ、やだ。」
「え?」
「それ、けーきだけが、辛くなればいい、みたいで、嫌だ!」
バチ君がそう言うと、バチ君の目から、涙のような物が見えた。一瞬、自分の目を疑った。涙が、流れた?バチ君は、元々人間じゃ無い。というか、地球上の生き物に該当するわけでもない。だから、涙が流れるとは思わなかった。それが今、バチ君は涙を流している。まさか、人間のそんな部分まで読み込んで、コピーしたの…!?
そう思っていると、バチ君の流した涙が、文字通りバチバチと音を立て始めた。もしかしなくても、感電している。目の前の『バチ君』という生き物が、恐ろしく感じてきてしまった。人間の特徴をコピーできて、尚且つ電気を操ることが出来る、纏うことが出来る。一歩間違えれば、僕は即死だ。背筋がゾクッとした。
「辛いなら、辛いって言ってよ!俺、めっちゃ心配なんだからさ!」
そのバチ君の泣き声で、はっと我に返った。そうだ。何をしているんだろう、僕は。僕のせいで、バチ君が泣いているんだ。だったら、早く泣き止ませてあげないと。感情を覚えて、人間の色々なことを知って、自分の新しい能力に気が付いて…。あまりにも、混乱する出来事が多かったんだ。ここで不安の種を増やしたら、よけいにバチ君が可愛そうだ。僕はもう一度、バチ君の頭を優しく撫でた。手のひらが少し、ピリピリする。
「ごめんね。本当に大丈夫だよ。」
「だっで…!づらぞうなんだもん…!ぞれに、゛おれのぜいで、げーぎがざ…!」
バチ君は、鼻声混じりの声で続けた。予想以上に不安にさせてしまったんだ。僕のせいで。
「ごめんよ。」
その言葉しか言えない。胸がずっと苦しくて痛い。けれど、もっと苦しいのは、きっとバチ君の方だ。
「本当に、ごめんね。」
「なんで謝んだよぉ…!」
バチ君は多分、不安になりすぎちゃって、怖いって気持ちが溢れ過ぎちゃっているんだ。落ち着かせてあげないと。
「あのね、バチ君。」
僕は出来る限り優しい声で、バチ君に話しかけた。バチ君が泣きながら、顔をあげる。手のひらのしびれ具合が、より強くなった気がする。
「これはね、僕が間違えちゃったから、仕方が無いことなんだ。仕事って、誰かが間違えちゃったら、『ごめんなさい』で全て済むわけじゃ無い。皆に迷惑がかかっちゃう時があるの。僕はそれで迷惑をかけちゃったから、メールが来ても仕方がないんだ。だから、バチ君は気にしないで良いんだよ。」
「でっ、でもっ、バゾゴン、俺のぜいでっ、壊れぢゃっだんでじょ…?バゾゴン、強いでんぎでごわれるっで…!」
「…知らなかったんだから、しょうがないよ。誰だって、失敗するからね。だから、バチ君は、もう泣かないで良いんだからね。」
僕はそう言って、バチ君を抱き寄せた。昔、お母さんやお父さんに、よくこうやって泣き止ませてもらった。その時、すっごい安心したのを覚えている。僕が感じた安心を、バチ君にも感じてほしいんだけど、僕に出来るかどうか。だけど、やるんだ。もうこれ以上、泣いて欲しくないから。
抱き寄せた瞬間、胸に鋭い痛みが走った。声をあげそうになったけれど、歯を食いしばって堪えた。この感覚…覚えがある。バチ君を驚かせてしまった時に負った、感電の痛みだ。恐らく、バチ君が涙を流しているため、その涙が感電の原因になっている。正直、とても痛かった。けれど、バチ君の心の方が、もっと、ずっと痛いに決まっている。だから、必死に堪えた。バチ君は最初、僕の服を掴んで泣いていたが、徐々に僕の脇を掴んできて、顔を押しつけてきた。その度に、強烈な痛みが走る。だけど、離すわけにはいかない。だから、僕はもう一度、強く抱きしめた。痛みが胸から肩へ移る。けど、バチ君が泣き止んでくれるなら…辛い思いをしないのなら、それでいいんだ。僕はゆっくりと頭を撫でた。嗚咽しながら泣いていたバチ君だったが、徐々にしゃくり上げる回数が減ってきて、最後には普通の深呼吸に戻っていた。
そして、泣き止んだようで、僕の手を強引にどかすと、目を背けながら、照れくさそうに言った。
「そ、その…ありがとな。俺は、全然、平気だけど…その、安心、した…」
「そっか。それは良かったよ。」
良かった。僕が感じていたあの安心感は、少しだけでも伝わっていたんだ。それを聞いて、ほっとした。
「でも!心配なのは、変わってないからな!…本当に、無理してほしくないんだからな…」
バチ君は僕を指さして、最後は少し寂しそうにそう言った。…まだ、不安にさせちゃっているか…。どうにか、そんな気持ちはなくなって欲しいんだけどな。本当に、バチ君が気にする必要なんて、無いんだから。
「とりあえずけーき、今日はもう休めよ。俺、ソファーで寝るからさ。」
「寝る…?」
「おん。人間だって寝るだろ?変じゃないと思うぞ。」
「いや、前までは寝るなんてこと、しなかったからさ…」
「まあな。…でもなんか、瞼がすっげえ重いんだよ。これって、人間からすると、眠いって感覚だろ?」
「ああ、うん…そうなんだけど…」
まさか、寝るって行為も眠いって感覚までもコピーしているなんて…。ますます、人間に近くなっているような気がする。容姿だけじゃ無くて、生態までもコピーできる。それって、すごいんだけど…なんだか、怖く感じてしまう。
僕が上手く言えずにたじろいでいると、バチ君は一つ、大きなあくびをして言った。
「悪い、もう寝る…けーきも、ゆっくり休めよ…おやすみ~…」
そう言って、リビングのソファーまで行くと、勢いよく寝転がった。反動で少しソファーが揺れ、はみ出したとんがり頭が端から見える。読み込みと、大泣きしたせいで、疲れちゃったんだろう。というか、あくびまで…いや、考え出したらキリがない。考えるのをやめよう。そう思っていると、バチ君の声が聞こえた。
「けーき、その…今日のこと、忘れろ。」
向こうを向いたままだから表情は見えないけど、声色的に、恐らく照れている。反抗期の男の子みたいで、少し微笑ましい。僕は笑って言った。
「ふふっ、分かったよ。おやすみ。」
「けーきは、まだ寝ないのか?」
「僕は、歯を磨いたら寝るよ。」
「そっか…おやすみ。」
「うん、おやすみ。」
僕はそう言って、リビングから出た。扉を閉めると、溜まっていた大きなため息が、爆発するように出てきた。そのまま、少しふらつく足で、洗面所へと向かう。そのまま、シャワー室へ入り、壁に勢いよく手をつく。…バチ君が、今の音で起きていないことを願う。そのまま必死で、パジャマのボタンを、片手で外す。ボタンが一つ、もげてしまった。けれど、気にする暇は無かった。そのまま、肌着を乱暴に脱ぎ捨てる。洗面所は薄暗くてよく見えなかったが、胸から肩辺りにかけて、明らかに皮膚の色が違うのが分かる。顔をしかめて、ふらふらする足取りで、洗面所の明かりを点ける。ぱっと視界が明るくなり、一瞬目を細めるが、すぐに目を開き、鏡を見る。赤く腫れた皮膚と肉体。所々に黒々とした箇所と黄色く膿んだ箇所が、グロテスクにこびりついている。乾燥したキノコのような、焦げ跡のような、歪な傷跡。皮膚は赤く、草の根っこのように、腹の方にかけて伸びている。テレビで見たことはあるが、まさか自分が負うとは。痛みは、強く感じる箇所もあるが、もう感覚が無い場所もある。特に、バチ君を抱き寄せた箇所である心臓付近は、黒々とした傷が刻まれており、同心円上で、黄色と赤が織り混ざっている傷跡が見える。なんだか、このまま傷跡が裂けて、中から何か飛び出してきそうに思える。あまりの悲惨な傷跡に、僕は思わず、乾いた笑いをこぼした。
「…たしか…痛みが引いたら、水で冷やすんだっけか。」
僕は浴室に座り込んで、天井を眺めた。
「これは…バチ君にじゃ見せられないな…」
あれから、一週間が過ぎた。傷跡は、触られたら痛む箇所のあるけれど、どうにか隠せている。傷跡は、もうグロテスクな傷跡のまま固まって、皮膚の移植手術とかしないと無理そうだ。そんな時間はないだろうなぁと思って、そのまま放置している。ありがたいことに、僕が抜けたら、誰かが困っちゃいそうみたいだし。いや、ありがたくないか。そして、バチ君は人の姿やファッションが気に入ったらしく、最近はほとんど、人間の姿でいる。あのふわふわした姿も、いいんだけどな。なんて言ったら、多分怒っちゃう。
けれど、問題が増えた。バチ君が、落ち着いて寝られていない、ということだ。あの日、バチくんはソファーで寝たけど、あんまり寝付けなかったようだ。慣れない感覚と、慣れない行動をとったからだろう。かと言って、僕のスマホで寝かせたとしても、通知やらなんやらで、おそらく寝れない。スマホを初期化して大人しく寝かせてあげたいけど、スマホは仕事で使うから、なくなるとすっごく困る。だからどうしようと考えた末、モバイルバッテリーを買うことにした。これなら、ゆっくり寝ることができるし、お腹が空いたら電気を食べられる。…電気代も、そんなに跳ね上がらないだろうし…。もっと早く思いつけば、バチ君を早めに安心させられたんだろうけど…その点は、本当に申し訳ない。
というわけで、久方ぶりの休みの日に、僕はモバイルバッテリーを買いに、家電製品店へと向かった。日頃自分が売っているものを、今度は客として買いにいくのは、なんだかくすぐったい。けれど、どれを買えばいいのか。どれが一番信用されているか、というのはわかるから、こういう時はありがたい。せっかくだから、バチ君も人間の姿になって、一緒に歩くことにした。頭から少しだけ飛んでる電気と、うっかり発電しなければ、バレないだろう。バチ君は、見るもの一つ一つに、
「これってさ…!あれだよな!」
と、嬉しそうに話しかけてくる。言葉を覚えたての子供みたいで、なんだか微笑ましい。
家電量販店につくと、バチ君は目を輝かせていた。僕にとっては普通の家電量販店だけど、バチ君にとっては、もしかするとフルコース料理、バイキング形式のレストラン。そんな風に思っているのかもしれない。流石に展示してある製品を壊すわけにはいかないので、どうにかバチ君を眺めて、落ち着かせた。店員さんに、
「何かお探しですか?」
と聞かれた時に、バチ君が元気よく
「美味しそうなやつ!」
と答えた時は、ヒヤッとしちゃったけど。
無事にモバイルバッテリーが買えた帰り道。バチ君はウキウキで、通りを歩いていた。最初は効率的な面で選ぼうとしたけど、結局、バチ君が気に入ったやつの方が良いだろうと思い、バチ君が気に入ったモバイルバッテリーを買った。だからか、バチ君の足取りは浮かれている。良かった、と思い、微笑みながら帰っている時だった。
「てめえ面かせや!」
勢いのいい怒号が、僕の耳をつんざいた。びっくりして飛び上がり、怒号の聞こえた方を見る。そこには路地裏があった。その路地裏の中に、人影が見える。遠目でもわかる。喧嘩だ。怒られることは多いけれど、殴り合いに発展することは見たことがないから、足がすくむ。…でも、僕が止めなかったことで、僕以外の誰かが怪我をしたら、大変だ。喧嘩は強くないけれど、間に入ったら。誰か一人でも怪我を減らせるかもしれない。僕はおっかなびっくり、路地裏の方へ近づいた。
「どうした?」
下からバチ君が、ひょっこり顔を出してくる。びっくりしたが、僕は、状況を説明した。
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、俺も加勢するぜ!」
バチ君が腕まくりをしながら、腕を回して言う。僕は慌てて言った。
「お…穏便に…ね?暴力は駄目だよ!?」
色んな意味で怖いけど、僕は路地裏の入り口まで来ると、恐る恐るのぞき込んだ。
「あの…喧嘩は、止めといた方が…」
「うるせえぞ近所迷惑だろうが。」
「ああ!?やってやろうじゃねえかボケがぁ!」
「うわぁ!?」
突然飛んできた怒号に、思わず情けない声が出てしまった。僕の視線の先には、三人組の怖い人たちと、そのリーダーらしい人に胸ぐらを掴まれている、青い髪色の青年がいる。あれ、あの子、何処かで見たことが…。そう思って見ていると、三人組の一人が僕に気が付いた。
「あ?てめえ見てんじゃねえぞ!」
思わず、身体がビクッと震える。けれど、ここで怖じ気づいたら、何も防げない。
「その、喧嘩は、止めた方が…」
「悪いことしちゃ駄目なんだぞ!」
僕の隣で、バチ君が指を差して元気よく言う。それはちょっと止めて欲しいなぁ…なんて思いながら、足を踏ん張って、三人組の方を見る。
「てめえには関係ねえだろ!」
「引っ込んでろやじじい!」
そう言って、三人組の内、二人が殴りかかってきた。殴られるのは嫌だけど、足が怖くて動かない。でも、この間に、あの人が逃げてくれたら…!なんて、都合の良いことを考える。足が動かないことの言い訳だ。
殴られる!そう思うくらい拳が迫ってきたとき、思わず目をつぶった。けれど、拳が顔に当たる感覚は、いつまで経っても来ない。恐る恐る目を開けると…目の前に、青い髪が見えた。この髪…さっきの、青年?
「関係ねえ奴巻き込むのは違えだろ。」
低い声で、青年がそう呟く。そして、受け止めた拳を強く弾いた。バチ君はその横で、腕をぶんぶん振って、興奮したように言った。
「すっげー!かっこいいな!」
「さんきゅ。でも、こいつら片付けるのが先。お前、喧嘩いける?」
「あっ、バチ君は…!」
「おう!頑張れる!」
「え?」
「じゃ、いくぞ!」
「あっ、ちょっと、バチ君!?」
穏便にって、言ったのに…。
止める間も無く、バチ君と三人組の喧嘩が始まった。バチ君は、想定よりずっと強かった。特にすばしっこさがピカイチで、電気みたいに素早く移動して、相手の攻撃を避けて、隙を狙って攻撃している。ずっと自分の番、みたいなかんじで、とにかく敵を翻弄している。…っていうか、いつの間に喧嘩なんて覚えたの!?それに、時々見せる構え方、何処かで見たような…。
あの青年は手慣れているようで、向かってくる相手を、正面から攻撃を受け流して、隙を見て一撃を入れている。多分、何か格闘技をやっていたんだと思う。それか、喧嘩になれているのかも。そのくらい、手慣れている。二人向かってきても、青年は涼しい顔でいなしている。すごい…。漫画でしか見たこと無いような、男の子が憧れそうな、強い人。青髪の青年は、そんな存在に見えた。誰か一人が殴りかかっていったと思えば、それを手のひらで受け止めて、そのまま空いている手で相手を殴る。もう一人も同じ方法で対処しようと、空いている手で殴ろうとするが、相手のもう片方の手で、受け止められてしまう。けれど、それを見越していたかのように、右足で相手の脇腹を蹴る。相手は脇腹を押さえてうずくまるが、すかさず頭上からかかとが落とされ、相手が地面にたたきつけられる。うわぁ…。青年は、さっき一撃を入れた相手に羽交い締めにされた。けれど、僕が声をあげる必要も無く、青年は相手のみぞおちに、重い肘打ちを入れた。そして、相手がよろけてうずくまった所を、綺麗な弧を描いた横回し蹴りで、とどめの一撃を入れた。一つ一つの技がすさまじくて、目を反らすと、視線の先にはバチ君がいた。殴られていないかヒヤヒヤしたけど、その心配はいらないようなほど、相手のことをスピードで翻弄している。多分、力はあの青髪の青年ほど強くないんだろうけど、バチ君が一撃を入れる度に、相手の動きは少しずつ鈍くなっている気がする。行き場の無い手が、痙攣しているのが見えた。それに、バチ君が一撃を入れる度に出る、明るい光…もしかして、感電している?…何やってんの!?
「バチ君!もう良いと思う!ストップしてくれない!?」
思わず、声を荒げてしまった。ちょっとの感電でも、蓄電していったら、どんな影響が出るか分からない。それに、バチ君自身も、電気がどれほど危険か分かっていないはずだ。急いで止めないと、あの人の命が危ないかもしれない。
僕の声で、バチ君の手が、ピタッと止まる。あと少し遅ければ、相手の顔に、パンチが入ってしまっていた。バチ君が掴んでいた手を離すと、相手は壁に倒れ、静かにずり落ちていった。手は、僅かに震えている。やっぱり、感電しているのかもしれない。僕は急いで、倒れている人に駆け寄った。
「大丈夫ですか!?怪我は…あ、あるか!えーと…立てます?話せます?」
相手は少し驚いた顔をして、目を見開いている。
「立てそうにないなら、肩をお貸ししますよ。なんなら、家までお送りしますし…今はとにかく回復を…あ、後ろのお二方も、後で…」
「い、いらねえよ!なんだよお前!きめえ!」
そう言って、倒れていた人は、素早く立ち上がって、路地裏の外へ出て行った。突然のことに、思わず呆気に取られてしまった。呆気に取られているうちに、後ろでもう一人分の去っていく足音が聞こえた。振り返ると、そこには心配そうな顔をするバチ君と、眉をひそめる青髪の青年。それと、咳き込んだままうずくまっている、もう一人の紫色の髪の青年がいた。さっき、青髪の青年の胸を掴んでいた人だ。
僕は急いで、その青年に駆け寄った。
「大丈夫ですか!?どこか、痛む場所とか…」
「あんた、やべーやつだな。」
後ろから聞こえてきた声に、思わず振り返る。青髪の青年が、いつの間にか背後に立っている。屈んでいるせいだけど、元々の身長が高い弧だったので、圧がすごい。目つきも鋭い子だから、尚更だ。僕が何も言えずにいると、青年は僕の横を通って、倒れているもう一人の青年のところへ歩み寄った。そして、倒れている青年の胸ぐらを掴んだ。
「こんな奴、かばうこともねえのによ。」
そう言って、青年を無理矢理持ち上げた。持ち上げられた青年は、反抗したそうだが、怪我のせいで、身体を上手く動かせないようだ。
「っ、駄目ですよ!怪我人なのに!」
「はぁ?」
青年は今度は、僕の方を睨んで言った。
「俺こいつに喧嘩売られたんだけど?こいつのせいで、殴られそうになったんだけど?それでもこいつかばうん?」
それは…ごもっともだけど…。そう思って僕が何も返せずにいると、また青年は口を開いた。
「っつうか、最初の時点でおかしかったけどな。あいつ、お前が連れてきたガキだろ?それなのになんで、相手の心配してんだよ?意味分かんねえ。あいつボコボコに殴ってたぞ。」
「ガキじゃねーもん!」
「ガキだろ。加勢についてはさんきゅ。後、かっこいいって言ってくれたこともな。」
青髪の青年は、バチ君をそうなだめた後、僕に向かって言った。
「で?なんであんな行動したの?単純に頭おかしいってことか?」
「えっと…」
「けーきいじめんな!」
「けーきぃ?なんだそれ。」
やっ…やめて…人の前でその呼び方はやめて…。とりあえず置いておいて、理由か…。普通に、可愛そうだなって思ってしまって、手伝おうと思っただけなんだけど…それを説明しても、多分また聞き返されてしまう。…どう説明したものか…。どう、言葉にしようか。
「っ…服が伸びちまうだろうが…!」
「自業自得だばーか。」
「けーきが離せって言ってるんだから、離せよ!」
「だからそのけーきってなんだよ?」
僕以外の三人が会話をしている間、僕は理由を考えた。早く思いつかないと、修羅場になってもおかしくはない。えっと、納得してもらえる理由は…理由は…!
「とにかく、口出しとかいらんことしてくんなよおっさん。それじゃ、俺はこいつに用があるから。それじゃ。」
「っ、離せやてめえ!」
まずい。このままだと、あの青い髪の子が、紫色の髪の青年を連れてっちゃう!あの子、もう十分ボロボロだから、可愛そうなのに…!もっともらしい理由は…理由は…!
バチ君が青髪の青年の腕を掴んで言う。
「おい、けーきの言うこと聞けって!」
「うるせえなお前さっきから。あっち行けって…あ?」
僕は、バチ君が掴んでいる腕の箇所より上の箇所を掴んで、青髪の青年を引き留めた。
「『助けたいから』…じゃ駄目、ですか?」
「…はぁ?」
「えっと、その子は結構怪我を負っているし、それが可愛そうだから、助けたいから、駆け寄った…っていう理由じゃ駄目ですかね…?それ以外、上手く言葉が見つからなくて、その…」
「…」
青髪の青年は、呆気にとられた顔で僕のことを見ていたが、やがて眉をひそめると、紫色の髪の青年の胸ぐらを離した。そして、僕の方を見て
「なんかおっさん…きもいっつーか、怖えっつーか…ま、とにかく、殴る気失せたわ。じゃあな。」
そう言って、帰ろうとする青髪の青年を、バチ君が駆け寄って引き留めた。
「あー待ってよ!あんたのファッションイケてるから、教えてくれよ!」
「っ…!さっきからなんだこいつ…?」
「あ…なんかすみません…」
丁度バチ君があの青髪の青年を引き留めてくれているみたいだし…僕は、紫色の髪の青年の傷を見よう。青髪の青年も、喧嘩で怪我していないか不安だし。僕は屈んで、紫色の青年の目線に、僕の目線を合わせた。
「あの、大丈夫ですか?何処か痛むところとか無いですか?…えっと、立てなかったりしたら、僕が肩をお貸ししますし…」
「…」
紫色の髪の青年は、怪訝そうな顔で僕を見ている。青髪の青年が言っていたことを思い出す。…あ、気味悪がられているのか…。僕は慌てて、話を続けた。
「あ、えっと、してほしいことがあったら、言ってくださいね。出来る限りのことはしますから。」
「てめえ、イカれてんのか…?」
「…なんとも、言えないです…」
うう、同じ事言われた…。いや、助けるためだから、このくらい我慢しないとね。でも、何をすればいいんだろう?辛そうだから、何かしてあげたいんだけど…。
そう考えていると、紫色の青年から、うめき声が聞こえてきた。
「うぅ…!」
うめく青年をよく見てみると、手首の辺りが腫れている。もしかして、喧嘩の時に、強く打ったり捻ったりしちゃったのかも。えっと、こういう時は、氷嚢とかで冷やすはず。でも、すぐに氷嚢なんて用意できない。えっと、代用品…ペットボトルの水、とか?よし、それでいこう。そうと決まったら…
「バチ君。少しここで待っててもらえないかな。二人の様子見ながら。」
「おう!子守は任せろ!」
「ガキじゃねえっての!」
「子守されるのはお前だろ…」
「あ、でも…」
僕が行こうとしたところで、バチ君から呼び止められた。
「俺が行ってきたほうが早いと思うぜ?」
「そう?いいよ、僕が…あ、でも、早いほうが良いか…。ごめん、お願いできる?自販機って言う、飲み物が沢山並んでいる、機会があるから。」
「おーう!任せろ!」
僕がバチ君にお金を渡すと、バチ君は勢いよく飛び出していった。…電気を帯びた残像を残して…。僕を除いた二人は、呆気にとられて見ていた。
「「………は?」」
「…あ。」
まずい…普通に、何も考えずに頼んじゃったけど、今人の前だ!何も知らないこの二人が見たら、絶対混乱するじゃん!この後、どうやって誤魔化そう…っていうか、今すぐ誤魔化した方が良いかも…?
「あ、あの、えっと、その、バチ君…彼は、ちょっと足が早いだけで…」
「「……」」
あ、駄目かも。聞いてくれなさそう…。
ポカンとしたままの二人と、何も言えずに固まっている僕。そんな気まずい雰囲気の中に、バチ君は場違いなほど明るく帰ってきた。…また、残像を残して。
「おまたせけーき!買ってきたぞ!水で良いんだよな?」
「あ…うん…ありがと…」
えーと…何から、説明しよう…かな…。水を受け取っていると、後ろから声が聞こえてきた。
「あんた…なんなんだ一体!?」
振り返ると、紫色の髪の青年が、驚いた形相で僕を見ている。青い髪の青年も、言葉こそ話さないが、僕の方を怪訝そうな目で見ている。これは…説明をしないと、色々大変そうだ。もう隠すわけにもいかないし、話すべきだろう…。
「あ…えっと…すみません、その…信じられないかもしれないですけど、二人とも見ちゃったから、言いますね…」
僕も、これで合っているのかなって思う説明を、二人に聞かせた。二人は、途中…というか、最初っから、何を言っているんだっていう顔をしていた。僕も話していて、現実味が無い話だな、と思っていた。
「…というわけで、バチ君は、その…電気エネルギーの、塊…みたいなもの、です。」
「「…」」
「分かり…ました…?」
「いやわっかんねえよ!?」
紫色の髪の青年が、大きな声で叫んだ。
「いや、は!?…え、えっ、…は!?どういうことだ!?」
「えっと…言ったとおりなんですけど…すみません、分からない部分、何処でした?」
「いや全部だよ!全部分かんねえって!」
「はは…ですよね…すみません…」
僕も実際そうだったし、すごい気持ちは分かる。でもその…これが事実なんだから、しょうがないんだよな…。ええと、混乱しないように説明するには…。
「なあ、なんであんたも冷静でいられんだよ!?」
僕が悩んでいると、紫色の髪の青年が、青髪の青年に問いただしていた。
「いや、混乱してるっての。でも…」
青髪の青年は髪をかきながら言った。
「それが目の前で起こっているんだから、しょうがねえだろ…。だったら受け止めて、それでその後考えて行動した方が早いだろ。」
「はぁ!?お前もイカてんのかよ!?」
「混乱したところで、何も変わんねーだろ?受け入れなきゃ何も始まんねーよ。受け入れるか混乱するか、どっちの方が手っ取り早いって考えたら、受け入れる方だろ。」
そう、髪をかいた後、紫色の髪の青年を見て、呆れたように言った。
「だからおめーも、色々考えて行動したり、現実を受け止めていたらこうならなかったのによ。」
「う、うるせーよ、ぼけ!」
どうやら、青髪の青年は飲み込んでくれたみたいだ。紫色の髪の青年は、混乱している。…っていうか、そっちの方が当たり前か。それよりも、口ぶりからするに、二人は知り合いみたいだ。
「あの…お二人は、お知り合いなのですか?」
「ああ、まあ…知り合いっていうか、知り合いたくなかったっていうか、むしろ記憶から消したいっていうか…」
「ただのぶん殴ってやりたい奴です。」
…???なんか、複雑な予感…?
とにかく、飲み物をもう三人分、バチ君に買ってきてもらって、僕たちは話し合うことにした。バチ君のことを話した以上、もう他人のままでは居られない気がする。
「ってか、何で話し合い…?」
「ああ、バチ君のこと知っている人、僕以外にいないから、折角ならって思いまして…」
「…あんた、よくよく考えたら、根性すげえよな。」
「あ、え、そうですか…?仕事の、賜物。かもですね。」
とにかく、自己紹介が始まった。まずは僕とバチ君から。といっても、もう自己紹介は一度したから、簡単に、だけども。二人は僕よりも、バチ君に興味を向けていた。興味というか…警戒かもしれないけど。
「…もう一回聞いても信じらんねえ…」
「なんだよそれ…!」
僕とバチ君の自己紹介が済んだ後、二人は尚のこと警戒していた。まあ、仕方が無いか…。とりあえず、二人が落ち着くまで、待った方がいいのかもしれない。そう思っていると、青髪の青年が手をあげた。
「頭の整理ついてねえけど、名乗られたから、こっちも一応…」
そう前置きをすると、片手でペットボトルの炭酸水を一口飲み、言った。
「俺は『剏輝(はじき)』。『印藤 剏輝(いんどう はじき)』。この近くで、雑貨屋やっている。つっても、ピアスとかイヤリングとか、そんな感じの厳つい奴だから、おっさんは用がねえかもな。」
そう言うと、また頭を掻いて言った。
「この見た目で色々察してるかもしれねえが、かたぎだ。けど、こんな見た目だからこいつみてえなくそガキに絡まれんのよ。さっきおっさんが見た喧嘩は、こいつからふっかけてきた。だから適当にあしらっていた。それだけだ。」
そう言って、紫色の髪の青年をにらみつけた。
「おかげで変なことに巻き込まれそうになるとは…いや、巻き込まれてるか。はぁ…訳分かんねえっての、まじで…」
そう言って面倒くさそうに、長い髪をかき分けて頭を掻く度に、沢山耳に付けているピアスが見える。その様子に、見覚えがあった。どこだっけ…
「なあ、ずっと言いたかったんだけど、お前のファッションかっこいいよな!いいなー!」
バチ君が無垢にそう言う。
「お、おう。」
警戒したように、印藤さんが答える。今のバチ君が着ているファッションは、印藤さんと同じ、ストリート系だ。だから、同じ趣味同士惹かれるものが…って、ん?バチ君が惹かれた…なんか、身に覚えがあるような…。
「…ていうか、お前、俺が持っている服と似てる服着てんな。」
「おう!だって、お前の奴読み込んだからな!」
「…は?」
「あ、えっとね…」
また説明しないとか…。僕は、ことのあらましを、印藤さんに説明した。
「なんだそれきっ…!ごほっ、なんでもねえ…」
今言葉を抑えたな…。印藤さんは、さっきよりも強めに頭を掻くと、
「まあ…分かった。服は…まあ、今度は違うやつ着て来てやるから。それとかも参考にすればいい。後お前、チビなんだから、もうちょい俺と服の形変えて…」
と、バチ君にアドバイスを始めた。あれ?さっきまで警戒してなかったっけ?適応、早いんだな。僕がそう思っていると、紫色の髪の青年も同じ事を思ったらしく、
「お、おい!?なんでもう受け入れてんだよ!?今の状況分かってんのか!?」
と、声を荒げた。けれど、印藤さんはため息を一つつくと、
「だーかーら、俺も完全に受け入れられてねえけどよ…目の前で起きてるし、こうして会話も出来てんだから、もう受け入れた方が楽だろ?それにこいつ、俺の格好が元でこうなっているし、この格好のおかげで出会ったようなもんだし。それだったら仕方ねえじゃん。」
「何度聞いても解んねえっての!」
「はあ、だりー…」
そう言って、大きく伸びをした。
「お前散々俺に殴られたんだから、目ぇ覚めてんだろ?いい加減頭の整理くらいつけろよ。」
「は?無茶言ってんじゃねえよ、うぜえ…」
さっきの会話で察しがついていたけど、二人は仲が悪いみたいだ。それも、とびきり。加えて、一つ疑問を思い出した。
「そういえば…印藤さん、随分、その…手慣れてましたね。…格闘。」
「格闘て。」
印藤さんは少し笑って、その後真剣な顔になると、言った。
「まあ、一通りの格闘技は経験してきてる。空手、柔道、ボクシング、テコンドー、剣道…今はボクシングと空手…後、ジークンドーって奴も、最近習い始めた。」
「へ、へぇ、そんなに…?」
「ああ。俺のファッション、はっきり言って厳ついし目立つだろ?何度も言うけど、こいつみたいな奴がゴロゴロ喧嘩売ってくる。だから、こいつらから身を守るためにやっている。」
印藤さんは、親指で、紫色の髪の青年を指さした。
「なるほど…」
「でっ、でもお前、いくら何でもやりすぎだろ…」
「負け惜しみか?」
「うるせえ!そういうことじゃねえよっ!」
「…ま、実際よく言われる。けれど、そうまでして守りたいくらい、俺はこのファッションが好きな訳よ。自分の好きなことを捨てるくらいなら、俺はめんどい方でも、守る方を選ぶね。それに、俺身体動かすの好きだから苦じゃねえし。」
わぁ…何かあったときは、彼に頼めば、なんとかしてくれそうだ…。そう思えるくらい、格闘技を網羅している。すごい頼もしい。体格が良いのも納得だ。それに、彼のこだわりも、覚悟もすごい。自分のポリシーというか、好きな物を全力で守ろうとする思念は、かっこいいと思う。…すぐに保守をとる僕とは、大違いだ。
「そのジークンドーって奴、俺はできるぜ!なんせ読み込んだからな!」
「!?なんでできるの!っていうか、そうだ!さっきの喧嘩、いつの間に覚えたの!?」
「えっ…あー…えっと…」
一体いつの間に…?そう考えていると、心当たりが一つあった・
「…もしかして、この前見た映画を読み取ったの?あ、だから、寝る前に僕のスマホに来るまで、時間がかかったのか!」
テレビを付けたときに、たまたまやっていた、カンフー映画のロードショー。バチ君が盛り上がっていたから、後で見返せるようにって、録画しながら、そのまま見ていたけど…。そういえばあの日の夜、バチ君はやけにしどろもどろだった。触れないであげた方が良いかなって思ってそのまま寝たけど、あのカンフー映画を読み取ろうとしていたのか…!
「あーっ!えっと…。…ごめん、けーき…その、かっこよくて、俺もまねしてみたいって思って…でも、けーき、映画見てるときに、すごく怖そうに見てたから…隠そうって…」
「あ…そっか…ごめん…」
バチ君はまた、悲しそうな顔になった。そんな顔で言われると、良心が痛む。アクション映画とか、喧嘩映画とか、そういうのは、暴力的でちょっと怖い。殴られた相手のことを考えると、胸が辛い。例え、悪役でも。それを、色々と読み込むことのできるバチ君に見せるってなると、バチ君がもっと強くなりそうで、よけいに怖い。…けど、バチ君は決して、読み込んだ力を、悪いことに使う子では無いだろう。僕のことも気にかけてくれる、優しい子だ。…今日は、グレーラインだけども。だったら、肯定してあげた方がいいのかも。
「…でも、かっこいい、とは思ったよ。よく頑張ったね。」
僕がそうなだめると、バチ君の表情が、少し明るくなった。
「…ほんとか?」
「うん。次々と技を繰り出して…上手く言えないけど、かっこよかったよ。」
「…!そっか!」
バチ君はぱっと明るい顔になると、元気よく言った。
「俺、頑張って他の格闘技も覚えて、強くなるよ!それで、けーき守る!」
「…それは、何かを習いたいってこと?」
「分かんねえけど、習える物は習う!」
「ああ…そっか…」
正直、これ以上強くなったら、申し訳ないが、バチ君のことが怖く感じてしまう。でも…こんなに頑張ろうとしてくれているから、温かく見守った方がいい。僕はバチ君の頭を撫でた。
「そうだね。ありがとう。楽しみにしてるね。」
「うん!」
「簡単に言うが、お前に格闘技できんのか?喧嘩しているところ見たが、正直、おぼつかない部分が多いし。」
印藤さんが、屈んで、バチ君に話しかけた。
「大丈夫!読み込めば良いから!」
「あ、チート禁止。自分の力でなんとかしなければ意味が無いぞ。」
「えっ、そうなのか?」
「ズルして強くなるの、ダサくね?そういう奴、クソムカつくし…。ちゃんと段階踏んで強くなった方がかっこよくね?」
「むー…確かに、昨日見た映画の主人公も、ちゃんと強くなって、かっこよかったな…!」
バチ君は少し不安そうな顔をしていたが、やがて決意を固めたような表情になって言った。
「ちゃんと、一から、学び続けて、頑張る…!」
「ふっ、そっか。頑張れよチビ。」
「チビって言うな!」
正直、不安はあるけれど…でも、バチ君がやりたいと言うなら、出来る限り答えてあげよう。何を学ぶとか、どうやって強くなるとか、未定のことは多いけれど、バチ君なら、大丈夫なはず。
最初は警戒していた印藤さんも、バチ君の友好的な性格を分かってくれたのか、割と打ち解けて話してくれている気がする。少し、悩んでいた。バチ君は、僕以外にも話せる人がいた方が良いのでは無いかと。多感で、生き生きしているバチ君だから、絶対に、若い子と話した方が楽しいと思う。それに、僕だけだったら知らない世界を、印藤さんは知っている。会話を重ねれば、バチ君の知見も、きっと広がる。でも、簡単にバチ君のことを受け入れてくれる人は少ないはずだ。だから…こうして、印藤さんが受け入れてくれたのが、嬉しかった。二人が話している姿を見て、僕は思わず微笑んだ。
後ろから、ペットボトルの凹む音が聞こえた。振り返ると、紫色の髪の青年が、両手でリンゴジュースのペットボトルを握りしめて。座っている。印藤さんと違って、この青年は警戒心が強めだ。だから、なるべく触れない方が良いかなと思ったけど…この場で仲間はずれも、違うよね…。
「あの…」
僕がそう声をかけると、紫色の髪の青年は、肩を大きくふるわせて、後ろに退いた。…やっぱり、すごい警戒されている。いや、印藤さんが珍しく受け入れが早いだけで、本来ならばこれが普通かも?僕は続けて尋ねた。
「驚かせてしまってすみません。よければ、お名前だけでも…」
「お…」
「お?」
「驚いて、ねえしっ…!」
そう、ペットボトルを抱きかかえながら言われた。僕は少しポカンとしてしまった。どう見ても驚いていたけど…まあ、バチ君もたまに強がりを言うから、それと似たようなものなのかもしれない。僕は続けた。
「えっと…お名前だけでも教えていただけませんか?これも何かの縁ですし…」
「嫌だよ!あんたら、分からねえことばかりだし、マジでわけわかんねえし!」
そう言って、紫色の髪の青年は、僕を睨んだ。完全に警戒されている…仕方のないことだけど、どうしたものか…。
そう思っていると、後ろで舌打ちが聞こえた。振り返ろうとした時には、もう印藤さんは僕の横まで来ていた。そしてそのまま、紫色の髪の青年のすぐ真横を勢いよく蹴った。…え、何してるの!?
「うじうじしてねえで、はよ覚悟決めろっての。お前に至っては助けてもらってんだから、名乗るくらいしろよ。」
「てめえと一緒にすんなよ!頭イカれてんのか!?これは簡単に飲み込める奴じゃねえだろ!?何が起こるか、分かったもんじゃねえ!」
紫色の髪の青年は、尚も声を荒げる。不安になるのも分かる。けれど、バチ君は、力こそ危険だけれど、本性は、危険な子じゃない。それだけは、どうにか分かって欲しいんだけど…どうしたものか。
すると、バチ君がとことこ近づいて、紫色の髪の青年の前で屈んだ。印藤さんが、足をどける。
「っ、なんだよ!」
そして、紫色の髪の青年の顔をじっと見ると、言った。
「そのイヤリング、いいなー!」
「…へ?」
目をぎゅっと瞑っていた紫色の髪の青年が、恐る恐る目を開けた。
「この模様、俺好きだぞー!なんかかっこいいな!」
バチ君は、遠慮無くイヤリングに触っている。そのイヤリングは、少し大きいイヤリングで、よく見ると、変わった模様が施されている。それに、紫色の髪の青年のファッションは、印藤さんと同じくストリート系なのだが、確かに、耳に付けているピアスやイヤリングは、ストリート系とは、ちょっと違う系統な気がする。紫色の髪の青年は、少しの間目を見開いていたが、やがて、力が抜けたように壁により掛かると、手をだらんと垂らし、大きなため息をついた。
「はぁ…ありがと、よ…」
「別に危険そうじゃねえだろ?ガキっぽいだけで。」
印藤さんが、淡々と言う。
「まあ…な…」
「それじゃさっさと名乗れよ。」
「っ、うるっせなーなー…!」
紫色の髪の青年は少し眉をひそめたけど、僕たちの方を見た後、少し下に目を反らして言った。
「…名前は、『水森…虎茶雨(みずもり こさめ)』。…笑いたければ笑えよ。虎茶雨なんてって。」
「いやいや、そんな!僕、人のこと言えないですし…。そんなつもりも無いですよ。」
僕がそう言うと、水森さんは、僕のことをにらみつけて、また少し後ろに下がった。
「あれ、変なこと、言っちゃいました?」
「おっさんが怖いんじゃねえの?怪我していないかどうか聞き回ってたじゃん。あれ、傍から見てすっげー奇行だったかんね?」
「えっ、ほんとですか!?」
「例えようが無い程不気味だったぞ。なんでわざわざ怪我した奴を助けるんだよ。」
「え、そりゃあ…えっと、困ったり、辛くなって欲しくはないですからね。」
「…なるほど、超、お人好しか…」
「え?すみません、なにか言いました?」
僕がそう聞き返したけど、印藤さんは首を横に振るだけ。何も答えてくれなかった。そして、印藤さんは水森さんに言った。
「自己紹介あれで終わり?他になんかねえの?俺ら割と話したから、お前もうちょっとしゃべれよ。」
「…分かったよ。」
水森さんは面倒くさそうに答えた。
「高校生。十七。喧嘩売った理由は、そいつがムカついたからだよ。偉そうに見下してきて、俺のこと…狙ってると思ったから。」
「は?うぬぼれんな、お前に興味ないわ。見下してたって言うけど、お前がチビだから勘違いしたんだろ。」
「うるせーな!結果的に、俺のこと殴ってきたじゃねえか。」
「喧嘩売られたからな。」
「っ…!とにかく、本当に、脅されるって思ったんだよ!だから、先制攻撃で、喧嘩売ったんだよ。やられる前にやらなきゃ、安全に過ごせねえ。それに、三対一だから、勝てると思ったけど…」
水森さんは、僕たちの方を見て言った。
「そしたら、そこのわけわかんねー奴が加勢してきて、一緒に居た奴らも逃げちまうしよ…。おまけに、変なことに巻き込まれるしで、はぁ、本当についてねえな…」
「あの人達は、友達ですか?」
「違え。ただ、同じような奴って集まりだけで、群れていただけ。なんの信頼もねえよ。」
「同じような奴って、どういうことですか?」
「なんか警察みてえだな。うぜえ。」
「あ、すみません!そんなつもりは無くて…ただの、興味だったかもです。嫌なら無理しないで、大丈夫ですからね。」
「…なんだ、こいつ…」
「なんか、調子狂うよな!」
「分かる。」
「え。…すみません…」
水森さんは、僕から目を反らしながら言った。
「…俺みたいに、社会から、あぶれた奴とか、追い出された奴とか、嫌になった奴の集まりだよ。限界が来たり、逃げてきたり、迫害されたりして…グレた。そんな奴らの集まり。だから、絆云々なんて無い。あっても傷のなめ合い程度。」
「そうですか…」
こう話すって事は、きっと、水森さんには、過去に何かあったんだと思う。だけど、だからってグレたりするのは、なんか…違う気がする。でも、何にも分からない僕が、とやく口出しして良いわけでは無い。きっと、複雑な問題なんだ。水森さん本人の気持ちなんて、他人の僕には、分かりっこない。同情しても、迷惑なだけ。だから…なにも言えないや。今の僕には、何も出来ない。
「なんでグレたん?」
いつの間にか、印藤さんが、水森さんの前に屈んでいる。っていうか、なんて遠慮の無い…!
「なんで教えなきゃいけないんだよ…!」
「うるせえな良いからしゃべれよ。じゃねえと、お前一生しゃべんないで、ずっと逃げたままだろ?後俺に毎回毎回喧嘩ふっかけてきてる詫びとして。」
「それは…」
「ゴタゴタ言う前に話せ。もう一発喰らうか?」
「…ちっ、分かったよ…」
「その…暴力は、辞めましょう…?」
「これが一番早い。」
なんだかんだ文句は言いつつも、水森さんはペットボトルを握りしめて話してくれた。
「別に特別な理由は無え。ただ…周りからずっと、変な目で見られるし、幾ら頑張ったところで認めてもらえねえし、周りからの印象は変わんねえしで…周りの奴らのことが嫌になって、グレた。」
「それだけか?」
「それだけって、他人は簡単に言えるよな。味わったことねえから。」
「何で変な目で見られる?話はそれからだろ。」
印藤さんと水森さんは、本当に仲が悪そうだ。こんなシリアスな状況でも、喧嘩をしそうなくらいに。どうしたら…と思っていると、突然、水森さんが叫んだ。
「親がいねえからだよ、ボケ!」
一瞬、周りが静まり返ったような気がする。叫んだ言葉は、あまりにも深刻な内容だった。こんな時、何で言えばいいんだろう。いや、何も言わないべきなのかな。いや、寄り添った方が良いのか?それとも、普通に話す?…どうするのが、正解になるんだろう。
「…悪い。」
印藤さんがポツリと呟くのが聞こえた。失礼だけど、意外だった。てっきりまた、喧嘩を始めてしまうかもしれないと思っていたからだ。
「てっきり、お前が甘えてそんな感じになったのかと思ってたから。その、本当に悪い。今のに限っては、本当に俺が悪い。」
素直に謝られて驚いたのか、水森さんは少したじろいだ。態度は強がってるし、口調も悪いけど、根は優しい子なのかもしれない。というか、今までの会話からして、どっちもいい人そうに思える。口調は荒いだけで。
「別に、謝ったところで…。俺は叔父さんに引き取ってもらってるから、家系はマシな方だし。だから、可愛そうって同情されても、むしゃくしゃする。」
「ああ、そうか…」
再び僕たちを包む静寂。
「…こういう時間とかが生まれるから、扱いにくいよなって、陰口も言われる。」
「…ああ、すみません、その…」
「…後、好きな物が、変って言われるから。」
その言葉を聞いて、印藤さんは顔を上げた。
「一度、好きな物を馬鹿にされて、そしたら、あいつは、好きな物も境遇も、頭も、何もかも可笑しいって馬鹿にされはじめて…暴力の対象にもなったりした。…あいつらだって!物の食い方とか、単語のイントネーションとか、周りと違ったのに!」
水森さんはそう吐き捨てた後、噛みしめるような顔で言った。
「だから、何も言わせない…力とか、圧力でねじ伏せて、何も言われない…何も言わせないようにしてやろうって、思った。」
やっぱり、辛い過去があった。けれど、何か声をかけることもできない。だって僕も、人に対して、可笑しいとか、変だって、思ってしまうときがある。だから…気安く、何かを言う権利が無い。でも、放っておくのも違う気がする。どうしたものかと僕が再び悩んでいると、印藤さんが言った。
「で、お前はこの後どうする?」
「は?この後?」
「そう、またあの集団に戻るのか?」
「…いや。戻らねえけど、一人でどうにかやってく。お前にはもう喧嘩売らねーよ。二度と関わって…」
「おし。じゃあ俺と一緒に格闘技やるぞ。」
印藤さんがそう言って、水森さんの肩を無理やり組んだ。
「…は?」
「え?」
僕と水森さんが同時に声を出す。困惑している僕たちを他所に、印藤さんは水森さんの手を掴んで、引きずった。
「思い立ったがなんとかって奴だ。ほら、とりあえず何か習いに行くぞ。お前は何が良い。」
「いやっ、ちょっ、まっ…話聞けてめえ!」
引きずられながら水森さんが叫ぶ。僕も、印藤さんの意図が分からないため、正直待って欲しいと思う。
「えーと…どういう訳で、なのですか…?」
僕が質問をすると、印藤さんが引きずる手を止めてくれた。
「こいつ、周りの奴らを見返したいんだろ?だったら、格闘技習った方が手っ取り早い。」
そう言って、印藤さんは拳を握りしめた。この人、話し方からして冷静な人かなと思ったら、意外と力尽くで解決するタイプなのか…?そう思っていると、印藤さんは続けた。
「ま、それは一番楽な方法。一番の目的は、周りの奴らのことが気になるくらい熱中できる力を身につけること。不良になってもまだ周りのことが気になるなら、それしかないだろ。格闘技って、注意がそれたら、命取りだからな。」
それを聞いて、さっきまで叫んでいた水森さんが静かになった。僕は少し、感心した。そっか、一番関心があることを、周りからの評価から、趣味に変えれば良いんだ。そうすれば、少なくとも、今よりかは、心が楽になるかもしれない。同時に、印藤さんのことが少し分からなくなった。冷静なのか、強引なのか…どっちなんだろう。両方?
「で、お前はどうする?」
印藤さんが、水森さんに向かって問いかける。水森さんは、片腕を掴まれたまま黙っている。視線の先は地面。少し無言が続いたとき、僕は、もし自分が同じ立場だったら、と考えた。多分、断り切れなくて、そのままついて行っている。やりたくもないことをやらされて、それでも止められなくて、手を抜くことも出来なくて…。多分、何時になっても、ちょっとかじった程度か、上手くいっても平均程度の腕前ぐらいのままだろう。そうなるんだったら、振り切れない気持ちのまま習うんだったら、始めから習わない方が良いと、僕は思う。けれど、これは水森さんの問題。僕がとやかく言えない。
「お、新しい習い事、何か習うのか?」
後ろからバチ君が、弾むような足取りで近づいてきた。そして、また水森さんの前で屈んだ。
「だったら一緒に習おーぜ!俺、初めて、読み込みを使わないで何かを習うんだ。楽しみなんだけど、ちょっと不安だから、知ってる奴がいると頑張れる気がする!な、どうだ?」
そう、目を輝かせながら言う。
「なら俺も。これならどうだ?水森君。」
迫られた水森さんは、
「いや、ええ…?」
と、眉をひそめて困惑していた。けれど、二人に根負けしたようで、
「分かったよ、やればいいんだろ!だから話せよ!」
「義務感でやんなら別にいい。」
「義務感じゃねえ!やるよ!俺の意思で!」
そう、賛同してくれたみたいだ。
「っていうか、自分が馬鹿にされたからって、相手のことを馬鹿にするのは駄目だろ。」
「うるせえ…お前だって、やり返してんじゃん。同レベルになる、とか、変な正義感で叱ろうとすんなよ。」
「俺の場合は、殴りかかられてからやり返すから、防衛。それと、叱った理由は、好きな物を大切にしたいんなら、お前が相手のこと変って否定して、自分の大切にしたいこと否定してどうすんだよって話だから。」
「それは…そうだけどよ。」
「でもそう考えたら色々モヤモヤするから、めんどくさいことは別のことで忘れようぜ。例えば、格闘技とか。」
「はいはい、分かったって。」
水森さんも、不安でいっぱいだった様子から、徐々に落ち着いてきてくれている。良かった。
こうして、最初はギスギスした空気だった二人も。バチ君を交えて、仲が良くなった…と、思いたい。それにしても、二人は思ったより、ちゃんとした大人だった。失礼だけど、見た目だけで、和解ができるか不安だと感じた。けれど、印藤さんは面倒見が良いし、僕が不安に感じたことや懸念点も、しっかり補って、バチ君と印藤さんをまとめてくれた。それに、水森さんも、自分のことをしっかり認めて、反省して、怖いかもしれないのに、自分に立ち向かおうとしている。バチ君も、初めての人、初めてのこと、これから分からないことだらけだ。けれど、全てにおいて、絶えない好奇心と希望を持っている。そして、三人とも、新しいことに挑戦しようとしている。…前に、進もうとしている。
…すごいな。単に、若いからっていう理由だけじゃない。僕が若い頃だって、何かに挑戦しようとしなかった。三人は、勇気や覚悟を持って、前に進んでいる。それが例え、どんな結果になるか分からないとしても。良い方向に転ぶかもしれないし、怪我や人間関係のこじれなどの、悪い方向に転ぶかもしれない。何か取り返しの付かないことになるかもしれない。でも、それでも構わない、いや、やり直せるように、なんて、考えていないのかもしれない。後ろは、見ていないんだ。僕とは全然違う。いつでも保険をかけるような僕とは。前に進むなんて、僕に、できないことだ。だから、本当に、すごいなって思う。眩しいくらいだ。本当に、眩しい。
その後は、三人で習い事を決めるべく、話し合っていた。僕はその様子を、傍で見守っていた。二人と話すバチ君は、本当に楽しそうに見えた。二人にバチ君のことを話すのは、我ながら思い切った行動だったけれど、本当に良かった。僕以外の誰かから得る新しい刺激、感情。それら全てを、バチ君は笑顔で受け取っている。純粋無垢で、本当に良い子なんだと、改めて思う。…僕の我が儘だけど、二人にはどうかこれからも、バチ君と仲良くしてあげてほしい。
習い事は、悩んだ末に
「…俺のおじさん、合気道の道場やってるから、そこにする?」
と、水森さんが意外な事実を話したことで、一段落がついた。
「は!?何でお前、習ってないん?」
「習ったら、色々世話になりすぎだと思って、迷惑かなって。でも、お前らが一緒なら、そう思わないと思う。お前らの方が、多分手間かかるから。」
「あ?」
…とにかく、合気道を習うことに決まった。ただ、突然だから、流石に準備が必要とのことで、一旦この話は閉じることにした。僕は連絡をとるために、二人と連絡先を交換し、念のため名刺を渡してから、二人と別れた。
帰り道。モバイルバッテリ―を入れた袋を振り回して、バチ君は上機嫌でスキップをしていた。鼻歌も添えて。
「バチ君、楽しかった?」
僕は何気なく話しかけた。
「おう!すっげー、な!」
バチ君は振り向きながらスキップをして答えた。
「まだ日付は分かんねーけど、これからはじきとこさめと、一緒にあいきどーを習うってなったら、すっげーわくわくしてさ!絶対楽しいぜ!それに、どんなことを習うんだろうって、ドキドキもする!あいきどーって、少し知ってるけど、どんな動きするんだろう!?どんな技使うのかな!?」
そう興奮して話すバチ君を見て、僕は微笑んだ。…微笑んだけど、また少し不安になって、バチ君に尋ねた。
「ね、バチ君…今日、初めて会う人と、その、無理矢理話すきっかけ作っちゃったけど、その…怖く、無かった?」
その言葉に、バチ君が足を止めて、僕の方を見る。
「どうして?けーき、はじきとこさめのこと、怖かったか?」
「あ、いや、全然!そりゃあ、始めは怖かったけど、話してみたら、良い人そうだしさ。えっと、その…僕、無理矢理な事、させちゃったんじゃないかって、思ってさ。」
「そっか!全然そんなこと無いから安心しろ!むしろ、ドンと来いだ!新しい事って、すっげーわくわくするし!」
そう言って満面の笑みを見せるバチ君を見て、僕はまた微笑んだ。
「良かった。安心したよ。…それじゃ、帰ろっか。夕飯、何が良いかな?」
「んーと、生姜焼き!あれ美味しかったから!あ、でも、オムライスも…」
この子は、本当に良い子で、元気いっぱいで、逞しい子だ。そして本当に、本当に…眩しい子だ。
「あ、そうだ!」
「うん?どうしたの?」
バチ君が立ち止まるから、僕も立ち止まった。バチ君は振り返って、僕に向かって手を出してきた。
「新しい友達出来た!覚悟も決められた!だから!」
「えーと…ハイタッチ?」
「そう!やったねってことで、ハイタッチ!」
無邪気な笑顔でそう言われて、断るわけがない。僕は手を前に出して言った。
「うん。やったね。はい、ハイタッチ。」
「ハイタッチ!」
パチンという軽い音が辺りに響く。バチ君は、満足そうに笑って、再びスキップをしだした。その後ろ姿を見て、今日のオムライスは、大盛りにしてあげようと思った。もちろん、卵もふわふわにしてあげる予定だ。
あれから更に一週間。水森さんからの連絡によれば、どうやら話はまとまりかけているらしく、来週辺りから、習い始めることは出来そうな様子だ。そのことを伝えたら、バチ君は喜んで小躍りしていた。準備する物の一覧は送られてきたから、今度、バチ君と一緒に買いそろえよう。まあその前に…。僕は机の脇に積み上がっている書類を見た。この、山のような仕事を、早く終わらせないと。僕はキーボードとマウスに、指を添えた。バチ君は今、先週新しく買ったモバイルバッテリーの中にいる。バチ君によると、モバイルバッテリ―の中の居心地は、静かで寝やすいけど、静かすぎて逆に退屈。とのこと。だから昨日は、バチ君に夜更かしをさせてあげて、今はモバイルバッテリーの中でぐっすり、という状態だ。夜更かしは体調を崩しやすいから心配だけど…バチ君の、楽しいと思うことを優先させてあげたい。
そんなリラックスしているバチ君とは対称的に、僕の方はというと、最近忙しい。最近、エレカの開発が進んでいるようで、それに伴う、商品化の企画や、普及の方法についてや、加えて、それに必要な部品の外注と売り込みなど、仕事は山のように増えていく。
それに加えて、最近、変なバグも多い。昨日までは正常に動いていたのに、急に暴走し出すとか、突然、画面にノイズがかかったり、黒い液体みたいな物が、画面内を占領してきたり、とか。僕はまだ、そんなバグにあっていないけれど、他の部署では立て続けに起きているようだ。それに、家の会社だけじゃない。SNSによると、全国の部署で、頻繁に起きているらしい。コンピューターは、気まぐれ、とよく言うが、流石にここまで、全国規模の事件を起こすほど気まぐれじゃない。それに、対処法や、修理方法も、未だ分かっていない。直るのを祈って待つくらいだ。まあ、直った後は、無事か、何かしらが破損しているかの二択なんだけど…。
だから、最近疲れることが多いし、仕事上で怒られることも多い。会社の雰囲気は、ピリピリしている。それについては、皆忙しくて、皆大変だから、間違える僕が百パーセント悪い。だから、早くこの案件が、落ち着いてくれることを願う。後輩も、色々とかわいそうな扱いを受けているし、頑張ってこの状況から脱却させてあげないと。キーボードを打つ指先の筋肉が少し痛む。けれど、このくらい、どうってことない。頑張って、働かないと。皆のために。
お昼になって、仕事に一区切りがつくと、僕は椅子の背もたれに溶けた。キャリー付きの椅子のため、少し後ろに下がる。他の皆はもう、休憩に言ったみたいだ。僕も休憩しよう。はぁ…首筋が張っていて痛い…肩も、ずっと上がりっぱなしだったから、筋肉痛が…ああ、背中の骨、絶対鳴っちゃ駄目な音がした…。
なんてことを思いながら天井を見上げていると、右上から見覚えのある顔が見えた。
「お疲れ様です、先輩!」
佐藤君だ。午前中も激務だったのに、元気で明るそうだ。こういうところが、皆に好かれてるんだろうな。
「ああ、お疲れ様…」
そう返事しながら、自分が今、情けない体勢であることに気が付き、姿勢を正す。後輩に示しがつかないからね…!若干顔が熱くなるのを感じながら、背筋を伸ばし、佐藤君に向き直る。
「午前は大変だったね。コーヒーとか、飲みに行く?自販機だけども。」
「あ、是非!の前に…」
佐藤君はそう言うと、申し訳なさそうな顔をした。そして、ポケットから携帯を取り出すと、頭を掻いて言った。
「先輩、申し訳ないんすけど、モバイルバッテリ―か充電器持ってます?昨日、充電し忘れちゃって…」
「ああ、それは大変だね。あるよ。コードのタイプあってるかな?」
「あざっす!コードのタイプもあってるんで、少し借りますね!」
「うん。じゃあコーヒーでも…」
そう言った後で気が付いた。あのモバイルバッテリ―…バチ君入ってる!背中に冷たい物が走る。携帯とつなげたらどうなるか分からないけど、とりあえず、返してもらわないと!携帯が壊れちゃったり、バチ君の正体がばれたり…とにかく、何が起こるか分からないから!
「待って佐藤君!つなげないでくれないかな!?」
「え?」
そう言ったときにはもう遅く、佐藤君はモバイルバッテリーとスマホを、コードでつなげてしまっていた。口がゆっくりと開き、
「あぁ…」
と、かすれた声が、僕の口から漏れる。多分、顔も青ざめている。
「どうしたんすか?何か問題でも…は?」
佐藤君がスマホを見て固まった。僕の体も固まる。何があったか、嫌な予想が頭の中を埋め尽くす。恐る恐る、僕は尋ねた。
「何が…あったの…?」
「いや、先輩のモバイルバッテリーとつないだら…画面が、こんなのになって…」
見せられた画面には、バチ君の毛玉状態の顔(?)のような部分が、画面いっぱいに映っていた。僕は画面のバチ君と見つめ合い、少しの間、また固まってしまった。
「けーき!何が起きてんの!?」
「うお、喋った!?つか、先輩の名前呼んでる!何で!?」
「ケーキ!なんとか言えって!」
そう言って、バチ君が画面から飛び出してきた。
「はぁ!?」
佐藤君の絶叫が響く。これは…もう、言い訳ができない…。あぁぁ…恐れていたことがぁ…。
急いで、今は空いている会議室に佐藤君達を連れ込む。そして、僕は佐藤君に、バチ君についての説明をした。この下り、何かデジャブ…。そのおかげか、以前よりもスムーズに説明ができた。
「ええー!?何すかそれー!?」
「こ、声!おっきいよ!」
印藤さんと水森さんが落ち着いていただけで、これが普通の反応なのかもなあと、佐藤君を落ち着かせながら、僕は思った。バチ君の話をするのは、これで三人目。今まで信頼できる人だったから、話そうと思えたけど、流石に、軽々しく話しすぎた気がする。次からは、もっと警戒して、もっと厳重に扱うべきかもしれない。だって、バチ君は、良い子だけど、危険な特質を持っている。
「というわけで、俺がバチだ!よろしくな!」
当の本人は、こんな感じで、すっごい明るいけど…。
「よ、よろしく…」
流石の佐藤君も、声が少し震えている。でも、仕方が無いか。バチ君の事を悪く言いたくはないけど、電気を操るとか、現実味が無いし、命に関わる問題だし、怖いのはしかたがな
「すっげーかっけー!」
…え?想定外の反応だ。瞬きの回数も、そりゃあ多くなる。呆気にとられてる僕の横で、佐藤君は続けた。
「だって先輩、この子。なんだか、使い魔みたいじゃないですか!?ほら、シールドアートオンラインに出てくる奴みたいな!」
「えーと…最近流行ってるアニメ、だっけ?」
「そうっす!それに出てくる奴みたいで、こう…本当にこういうことが、現実で起こるんだなって…!なんか、感動と驚きで、情緒やべー…!」
佐藤君は、両手で口を押さえて感動していた。なんか…最近の若い子って、逞しいな…
「触ってもいいすか…!?」
「ああ、うん、バチ君、良いかな?」
「おうよ!」
ペットみたいな感覚…なんて感想は飲み込んだ。佐藤君は、人差し指をそーっとバチ君に近づけた。そして、触れる直前まで来て、一回指を引っ込めると、もう一回近づいて…バチ君に触れた。バチ君は少し、ぷにっと弾んだ。あ、久しぶりに僕も触りたいかも。
「うはぁっ、ぷにぷにしてる、すげえっ!」
佐藤君は尚も興奮状態だった。そのまま何回もぷにぷにと突いて、
「突きすぎだ!」
と、バチ君を怒らせていた。
「ごめんごめん、かっけえからさ!なんかこういうの、憧れるんだよ!特殊能力!みたいなやつ!」
「そ、そうか…?まあ俺、すごいらしいからな!」
…うん。この調子だったら、佐藤君も、バチ君のことを優しく受け入れてくれるかもしれない。
「あのさ、佐藤君。」
「ん?何すか?」
「その、バチ君って、さっきも言ったとおり、とんでもないエネルギーを持っていて…その、とにかく、特殊なんだ。だから、もしかしたら、佐藤君のこと、困らせちゃうかもしれない。」
「っ…」
「佐藤君も、エレカに携わってるから、バチ君の力がどれほどのものか分かってると思うけど、だからこそ、その…バチ君と、仲良くしてあげて欲しいなって思って。僕と話しているばっかりじゃ、バチ君の世界も広がらないしね。だから、たまにでいいから…話し相手になってあげてほしいな。バチ君の、その…保護者とか、宿主的立場として、お願いします…」
僕はそう言って、頭を下げた。…あれ、無言だ。どうしたんだろう。そう思って、僕はちらっと佐藤君の方を見た。一瞬、眉間にしわが寄っている佐藤君が見えた。意外な顔をしていたから、驚いて、顔を上げる。僕が顔を上げると、佐藤君はいつも通りの、愛嬌のある顔になった。
「…駄目、だった?」
僕が尋ねると、佐藤君は胸を叩いて言った。
「もちろんっす!任せてくださいよ!」
「でも…さっき、険しい顔をしていなかった?」
快く返事をしてくれたのは嬉しいけれど…やっぱり、さっきの顔が気になる。押しつけていないか、心配になるから。
「え?そんな顔してました?あ~…もしかしたら、ちょっと身構えてたのが顔に出ていたかもしれないっす。申し訳ないです…」
「あっ、気にしないで!そうだよね、色々と、不安になっちゃうよね…」
「でも、断らないっすから、安心してください!先輩の頼みですし!」
「本当?ありがとう…!あ、本当に、無理しなくて良いからね!」
「だから気にしないで良いですって!本当に、平気ですから!むしろ、やらせて欲しいまでありますから!」
「そっか…良かった…!バチ君も、勝手に決めちゃったけど、良いかな…?」
「おう!新しいこと、大歓迎だ!」
「良かった~。よろしく、バチくん!」
「おう!えっと…さとう!」
「あっ、バチ君は『いっちゃん』って呼んでくれよ!」
早速、バチ君と佐藤君は、仲が良さそうに話している。職場でバチ君が出てくることは少ないと思うけど…これで、バチ君も退屈しないだろう。そう思ったけれど、ふと、不安になった。僕、結構、バチ君に押しつけているかもしれない。バチ君が元気そうだから、何となく大丈夫だって思ったけど…。実際、どうなんだろう。
「だから突くなっての!」
「え~良いじゃん!触り心地いいんだし!」
バチ君達の、元気の良い声で我に返る。二人は、初対面だというのに、もう距離感が近い。…考えすぎかもしれない。まあでも、佐藤君もあんな顔するくらいだし、そんなに負担はかけないようにしよう。
「…僕も、久しぶりに触りたいな。」
「えっ、昨日散々触ったろ!」
「あれ?そうだっけ?」
「…仲が良いんすね!羨ましい~!」
久しぶりに、職場で肩の力を抜くことの出来る時間だった気がする。休憩は、潰れちゃったけれど。
その日の帰り。バチ君が話をしたそうにしていたため、人気の無い道を選んで帰ることにした。バチ君は早速人型になると、僕の隣を歩き始めた。
「今日は色々あったけれど、なんだかんだ良いことになって良かったな!」
「そう…だね。見られちゃって焦ったけれど…結果的に、良かった。」
「なあ!俺、友達増えたし、けーきも久しぶりにリラックスしてたkらm良かったって思ってる!だからさ!」
そう言って、バチ君は手をいっぱいに広げて、僕の前に出した。
「ああ、分かったよ。」
僕も、軽く手を前に出す。
「良かったね。ハイタッチ。」
「ハイタッチ!」
バチ君は勢いよく手を振って、ハイタッチをしてきた。そして、満面の笑みを浮かべると、
「へへ、やっぱこれ、いいな!」
そう言って、また僕の隣を歩き始めた。…こんな元気な子が、社会を暴走させうる力を持っているなんて。今日、佐藤君に改めて説明をして、そう感じた。なのに、なのにこんな、明るくて無邪気で良い子な性格なんだ。そんな子に、背負わせるべき力じゃないと、僕は思う。運命ってわけじゃないと思うけど…なんか、そういう類いのものって、残酷だと、心の中で思った。
その時、すれ違った誰かが、ハンカチを落としていった。
「あ。」
「届けてくるね。少し待ってて。」
僕はそのハンカチを拾った。ひえっ、高そうな生地だ…丁寧に扱おう。僕はそのハンカチを持って、落としていった人を追いかけた。黒いスーツに、かかとの高いヒールを履いている。髪は金髪だ。この辺りの、外国の社員の方かもしれない。そう思って、僕は声をかけた。
「あの、ハンカチ、落としましたよ。」
相手は振り返った。その姿に、僕は見覚えがあった。
「あれ?」
「ああ、ごめんなさい。親切にどうもありがとう。」
振り返ったその人は、僕が以前、駅前で電車の遅延を説明した女性だった。あれだけ印象的な人だったんだ。一ヶ月以上経った今でも、覚えている。けれど、向こうが、地味な僕のことを覚えているかどうか…
「…あら?以前、駅前で会った方?」
「え、あ、はい…」
まさか覚えてると思わなかったから、思わずたどたどしくなってしまった。女性は芯のある声で、尚も続けた。
「また助けられたわね。お礼をしたいところだけど…」
「ええ、いやいや!お礼なんて、そんな大げさな…」
「あら?私の気持ちを、無下にするの?」
「えっ、そんなことは、無いです!」
「ふふ、冗談よ。」
女性は、いたずらっぽく、そう笑った。慌ててしまった自分が恥ずかしい。
「そうね…そこのレストランで、お食事なんてどうかしら?私が代金を支払うわ。」
そう言って女性は、傍にあるおしゃれなレストランを指さした。とても、気軽には入れそうな場所ではない。それに、ドレスコードとか、そういうのがありそうだし、くたびれたワイシャツにズボンを履いている僕は、入店できないだろう。
「いえいえ、そんな、とんでもない!」
「やっぱり、私の気持ちを無下にするの?」
「いやあの、そうではなくて…!」
こういうとき、どう対応したら正解なの!?誰か、助けて!
そう思っていると、誰かが僕の袖を引っ張った。見ると、バチ君だった。
「なー、まだ時間がかかる?」
その一言を聞いて、早く帰らなきゃ、と思った。だから、自然と言葉が出てきた。
「すいません。この子を待たせているので…お気持ちは嬉しいのですが、申し訳ありません。」
若干声が震える。けれど、バチ君を放っておくわけにはいかない。バチ君にとって、知らないことだらけのこの世界で、一人にはさせられない。それだけは、バチ君を保護している身として、守らなきゃ。
女性は、じっと僕を見つめていた。いや、違った。僕の傍に居る、バチ君を見ていた。大きい目で、青い瞳で、全てを見透かすように、じっと。思わず、閉じる口に力が入る。何で、じっと見ているんだろう。そう思っていると、女性は突然明るい声で、笑顔になって言った。
「ごめんなさい。可愛い坊やを、待たせていたのね。私ったら、気が付かなかったわ。」
「いや、息子では…無いんですけど、その、家で引き取っている子で。」
「どっちでもいいじゃない。待たせてしまったのだから、お子さんでも、義子さんでも、可愛そうなことには違いないじゃない。ごめんね、坊や。」
女性は優しい声でそう言って、バチ君に目線を合わせた。バチ君は、どうやら照れているようで、顔を赤らめて、目を反らしていた。
「が、ガキ扱い、すんなよ…!」
「ふふ。可愛い。」
女性はそう言って微笑むと、立ち上がって、僕に向かって言った。
「元気なお子さんね。何か、手を焼いていたり、逆に、お子さんが困っていたりしてることはない?」
そう言われて、一瞬、バチ君が初めて泣いた日を思い出した。今はもう、あの時焼けた皮膚は、腐ったような、グロテスクな状態になってしまっている。…手を焼いている、ことか…
「いえ、無いです。…バチ君は、どう?」
「ん?無いぞ!」
その言葉に、心の底から安心をした。
「そう…良かったわ。あ、ごめんなさい。私、児童の安全や安心を護る為の仕事に就いているの。だから、つい…」
「あ、そうなんですね!いえ、お気になさらず…」
あの傷は、幸い、シャツで隠すことができる。バチ君の前で、服は一回も脱いだことが無い。あの傷も、見せたことは無い。これでいいんだ。バチ君には、泣いて欲しくないから。
女性は少しの間、僕をじっと見つめた後、
「それじゃあ、私はこれで。また今度、ゆっくりお話ししましょう。」
そう言って、微笑んだ。僕はその言葉に、少し違和感を覚えた。
「今度…?」
「ええ。近いうちに、きっとお会いすると思うわ。」
「どう、いう…」
僕の質問には答えずに、女性は意味ありげに微笑むと、
「可愛い坊やも、またね。」
と、バチ君に向かって微笑んだ。
「坊やじゃ、ねーし…」
バチ君はまた、照れているようだった。そして、そのままヒールをカツカツと鳴らして去って行く女性を、僕は無言で見つめていた。
再び歩き出して少し経った時、僕はバチ君に言った。
「ごめんね、遅くなっちゃって。疲れていない?」
「全然!ぐっすり寝たからな!」
そう言っているバチ君は、別に無理をしている様子は見られない。僕はバチ君の手を握った。バチ君が、不思議そうに僕を見る。何故だか、無性に握ってあげたくなった。具体的な理由は、といわれると、説明ができない。バチ君は特に気にしている様子は無く、そのまま一緒に歩いてくれた。
「ねえ、バチ君。」
僕は今日あったことについて、バチ君に尋ねた。
「あの綺麗な人に話しかけられた時、怖くなかった?」
「えっ!」
バチ君の声が裏返った。見ると、バチ君は人差し指で頬を掻いていた。口はなんだか、モジモジしているように見える。
「バチ君?」
「大丈夫!全然怖くなかったし!」
妙にドギマギしているような気がする。まあ、あんな綺麗な人に話しかけられたら、緊張しちゃうよね。それに、バチ君は初めて女性と話した。バチ君に性別があるか分からないけど、話し方からして男の子っぽいし、だから余計に緊張しちゃったんだろう。可愛らしいな、と思う。
けれど、照れるバチ君を見て、気が付いた。よく見ると、バチ君の顔から、少量の電気がピリピリと出ている。これ…バチ君の感情が高まっちゃって、出ているのかな…?でも、そうだとしたら、至近距離で見ていたあの人は、何で何も言わなかったんだろう。そう考えた時、思わず後ろを勢いよく振り返った。別に、そこには何も居ないのに、危機感を感じてしまった。バチ君が不思議そうに尋ねてくる。
「なー、どうしたんだ?」
「…ううん、何でもないよ。」
「そっか!じゃあいこーぜ!」
「うん…」
再び歩き出しながら、考える。もしかしたら見間違いだと思って、あの女性の中で完結してくれたのかもしれない。けれど、そんな都合良くなってくれるか?印藤さんみたいな人は、言ってしまえば珍しい方だ。他に、バチ君のあの様子を見て落ち着いている訳は…
「バチ君を…知ってる…?」
「どうした、けーき?」
「ん?ああ、いや、ちょっと考え事!」
「そうか?最近元気ないし、心配だぞ。…もしかして…また、あのメールみたいなこと、起きてる…?」
そういうバチ君の声は、段々弱々しくなっている。また、あの時のことを思い出して、不安になっているのかもしれない。僕は急いで言った。
「ううん、違うよ。安心して。」
そして、バチ君の頭を優しく撫でてあげた。
「だから、バチ君は、心配しなくても良いんだよ。」
撫でられたバチ君は、少し不安そうな顔をしていた。けれど、ほっぺたを突くと、
「止めろ!」
そう言って、くすぐったそうに笑ってくれた。…良かった。再び手をつなぎ、僕たちは歩き出した。
「帰ったら、テレビでも見ようか。」
「良いな!今日の映画、なんだろうな!」
バチ君はそう言って、スキップを始めた。…大丈夫。何があったって、守るからね。だから、もう…泣かないで良いんだからね。
「あ、星!」
バチ君の声に、僕は空を見上げる。空には、綺麗な夕暮れ。白い月が、顔を出している。そのおかげで、星は少し見えづらい。けれど、そこにあるんだって、何となく分かる。
「やっぱかっこいいな!光が、ここまで届いて見える!俺も早く、あんな風にかっこよくなりてえ!」
「…なれるよ。きっと。」
「おう!だから早く、格闘技習って強くならねえと!」
その言葉を聞いて、少し不安になった僕は、思わず言ってしまった。
「…怪我、しないようにね。相手を感電させちゃ駄目だよ。」
「おう!」
バチ君は元気よく返事をしてくれた。…けれど、正直、気にしすぎだったかもしれないと思う。格闘技で、怪我をするなと言う方が無理だ。それに、バチ君は優しいから、相手のことを考えてくれると思う。けれど…どうにも、不安になってしまって、言ってしまった。別に、言わなくても良いのに。
一度口にした不安は、胸から去ってくれなかった。そんな状態で、僕たち二人は歩く。照らされた影は僕たちの前に、大きく伸びて揺れている。
一週間ぐらい経ったと思う。いや、ごめん、曜日の感覚とか、ちょっと狂ってきているから、はっきりとは覚えてないんだ。…エレカの開発が発展しているみたいで、それに伴って、しなければならないことが、爆発的に増えた。そのせいで、やるべきことが、山のように重なっていく。皆で血眼になって処理をしたとしても、その倍以上の仕事が増えていく。終わらない、先が見えないって、本当に怖い。けれど、皆忙しいから。これも、皆のためだから。そう思うと、手を止めることは出来なかった。別に、自分はどうなっても良い。ただ、周りの皆のことが、心配だ。他の部署でも、続々と体を壊す人が増えてきている。佐藤君も、体調を崩してしまって、昨日から休んでいる。お見舞いに行きたいけど、そうはいかない。山積みの仕事を終わらせないと。多分、労基に行けば告発できるんだろうけど、それで、この会社の人が、仕事を失って、困り果てたら?僕のせいで、何かえお崩壊させてしまったら?そう思うと、何も行動できなかった。それに伴う、バグの増加、上司からの叱責。…はっきり言って、何もかもボロボロだ。でも、バチ君に、辛そうな所は見せたくない。あの子は、優し子だから、きっと…泣いてしまう。泣かなくても、辛くなってしまう。そんな思いはさせたくない。だから、バチ君の前では、笑顔で居る。
…そうだ。何も、辛いことばっかりじゃない。良いことも起きたんだ。えっと…いつ頃かは覚えてあげられてないけど、バチ君が、合気道教室に通い始めた。もちろん、水森さんも、印藤さんも一緒に。その時はまだ、ここまで忙しくなかったから、僕もついていくことが出来た。先生は優しそうだけど、何処か芯があって、頼りがいがある先生だった。そうそう、バチ君が合気道のことを格闘技と言って、『合気道は、武道だよ。』と、訂正されていたっけ。それから、バチ君のような小さい子にまでも、真剣に教えていたな。バチ君はそのたびに、嬉しそうだけど、真剣な顔をしていて…頑張っていて、偉いなって思った。本当に、良い子だ。
「…なあ、夜雷さん?話、聞いてる?」
「…え?」
印藤さんの声が聞こえて、僕は我に返った。あれ、ここ…あ、そうだ。バチ君のお迎えに来て、その帰り道だった。それで、折角だから、帰り道一緒に歩いて、話でもしようってなって…その最中だっけ。
「あんた、本当に休んでる?前から思ってたけど、ちゃんと休めてないだろ。休まないとやばいぞ。」
「…あー…ごめんね。最近、ちょっと疲れちゃってて…」
「疲れてるってレベルじゃ無いだろ。なんかうつらうつらしてるし、ぼーっとしてること多いし…一回休めよ、その…仕事。難しいかもしれないけどさ。」
「ううん、大丈夫だから。気にしなくても良いよ。今日も、ちゃんと寝るからさ。」
「あんたなぁ…」
「それよりもさ、最近、ありがとね。バチ君のこと、面倒見てくれて。」
最近、僕がボロボロの状態だから、印藤さんにバチ君の面倒を見てもらっている。バチ君に、こんな姿は見せたくないから。不安に、させたくないから。
「…それ、割と前からの話だぞ。」
「…え?そうだっけ?」
「…」
「…」
少し、無言の時間が続いた。思わぬところでボロを出してしまった気がする。大丈夫って言った矢先、大丈夫じゃ無いところを見せてしまって、返す言葉も無い。何も言えずにいると、印藤さんが口を開いた。
「ぜっったい休め、今日。」
「はい…」
反省するほか、無い。けれど、印藤さんは続けて、こんなことを言ってくれた。
「…あんたには感謝してるんだからさ、体、大切にして欲しいわけよ。」
「え?」
その言葉に、ぼーっとしてた頭が少しさえた。印藤さんが、口を押さえながら、続けて話す。
「その…あんたが連れてきたバチと、虎茶雨と一緒に合気道始めたけどさ…その、初めて、誰かと一緒に、ものを習ったからさ。なんか、絶妙なとっかかりが無く、スッキリした気持ちで取り組めたんよ。」
「…そうなんだ。」
「前まで習ってた武道とかは、とにかく、相手をボコボコにするため、とか、倒せる技、とか、そういうの中心で学んでいたからさ…ぶっちゃけ、基礎とか、ボロボロだったかもしれないって、今になって思ってさ。その時、気がついたんよ。」
印藤さんは、遠くを見つめるような目で、空を見上げて言った。
「俺、ずっと、俺の好きな物を侵害させないようにっていうか、その…過激に守るだけの『道具』としてしか、格闘技や武道を見ていなかった気がするって、気が付いて。…だから、その…なんか、もう一度、今習ってるものとか、向き合ってみようって思った。」
そう言うと、僕の方を見てマスクを外して言った。
「その…ありがとうございます。…なんかこういう、お礼言うの慣れてないんで、失礼こいてたら、ごめんなさい。」
少しの間、何の言葉も返せずに、僕は印藤さんを見ていた。…まさか、僕が、そんな素敵な事に貢献しているとは思わなくて、実感が湧かなくて…。そもそも、僕のおかげじゃないんだけど、面と向かってお礼を言われて…それだけで、感動してしまった。
「…夜雷さん?」
「あっ、ごめんね!なんか、感動しちゃってさ…」
「…というと?」
「その、僕が直接関わってるわけじゃないけど、こんな素敵なことに貢献できたんだなって思うと、胸がいっぱいで…こちらこそ、ありがとう。」
僕がそうお礼を言い返すと、印藤さんは、顔をしかめて言った。
「…あんたやっぱ、話しづらいな。」
「えっ!?ごめん…」
「いや、いいよ謝んなくて…なんか、今までに会った事ねえ、ニュータイプってだけだからさ…」
「それ、安心して良いの…?」
「ま、とにかく、空いている移管が増えたら、もう一回習った奴全部、やり直してくる。今度は、精神までもを大切に学んでくるよ。」
「すごい良いことだけど…大変じゃ無いかな、それって。」
「まー、先生とか師範にはボッコボコに怒られるだろうけど…それでも、俺が許せてないんだから、やるしかないでしょ。」
『自分が許せてない』。その言葉が、胸で引っかかった気がした。
「…自分が許せてないからって理由で、立ち向かうことが出来るの?」
「んあ?…まー、このファッションしてる理由とか、格闘技習った理由とか、全部そうだからなー。周り気遣って自分のしたいこと殺すのとか、殴ってくる奴に屈するのとか、ぜーんぶ俺が嫌!俺が許せない。」
印藤さんは怒気の籠もった声でそう言うと、
「っていうか、大体の好きなことを貫き通す理由って、そういうもんじゃねえの?好きなことを捨てることを、自分が許せなかったから、貫き通してるんじゃやねえの。」
…そうなのかな。そういう、ものなのかな。僕には好きなことがないから、分からない。けれど、その為に、立ち向かって、臆することなく前へ進んで、いけるのだったら…好きって力は、すごいんだな。だって、前へ進む事なんて、世界一難しい行動じゃないか。何が起こるか分からない。戻れないかもしれない。そんな、沢山の恐怖が待っているかもしれないのに、
…僕には、縁の無い話かもしれないな。
「なあ剏輝!今日、俺うまく出来てたよな!」
元気の良いバチ君の声が聞こえてきた。前から、バチ君がこっちに戻ってくる。今日は、ストリート系の服ではあるけれど、大きめのパーカーに半ズボン、スパイクのある靴、ハーフアップの髪、と、いつもとは違うスタイルだ。印藤さんが、コーディネートしてくれたそうだ。その後から
「少し褒めたらこれだよ…剏輝、適当に褒めてやって。」
と、水森さんがやってきた。水森さんは、その…何て言えば良いんだろう。ストリート系ではあるんだけど、それにカントリー系のファッションが混ざったような、特徴的なファッションをしていた。バンダナとポンチョには、ペイズリー柄が施されているが、それを見事に着こなしている。この前は、チェック柄の服と、ストリート系のファッションを合わせていた。本人曰く、柄物が好きで、それでいて、ちょっと癖のある格好がすきなようだ。始めは恥ずかしがっていたけど、徐々に、自分の好きな格好を露わにしている気がする。
「なー、剏輝!そうだよな!」
「あーはいはい、呼吸を合わせることをうまく出来るようになってからなー。」
「何だよそれ!」
僕は二人が言い合っている様子を、少し不安に思いながら見つめていた。喧嘩っぽく見えるけれど、二人は仲が良いから、これも仲が良い証拠だろう。…そう、だよね…?
と、ドキドキして見ていると、腕を突かれた。見ると、水森さんが、僕を見上げている。何か用がありそうだ。
「どうしたの?」
そう尋ねると、水森さんは口を開いた。
「その…さっきの会話、ちょっと聞こえてたんだけどさ。」
水森さんは少し無言になって、地面を向いていた。けれど、顔を上げた。
「…俺も、あんたにお礼、言わなくちゃなって。俺、結構、変われたし…」
「…」
「俺、その、結構…隠し事、多かったじゃん。好きなファッションとか、好きなもの、変わってるから…。だけどさ、バチと剏輝、話聞いてくれたり、馬鹿にしたりしてこないんだ。おかげで、俺も、大分自信ついてきた。叔父さんにも、色々と、話せたし。…こうなったのも、あん…夜雷さんのおかげだなって思って。…本当に、ありがとうございます。」
また、感動で胸がいっぱいになる。水森君まで、そんな素敵な事を言ってくれるだなんて…!
「ううん、こちらこそありがとう!僕は何にもできてないけど…これからも、バチ君共々宜しくね。」
「ちょっ、声がでかい!」
「何話してるのー?」
「な、夜雷さん、ちょっと話しづれーだろ?」
「うん…」
「え…」
「ねー、何の話?」
「何でもねーよ。それよりお前、次、コーンロウに挑戦してみるか?」
多分余計なことをしてしまった…。反省しなくては…。そう思っていると、水森さんはまだ何か、僕に言いたげな様子で、腕を突いてきた。
「どうしたの?」
今度は気を付けて、小声で聞き返す。
「いや、あんたには感謝してる。本当に。だからさ…」
そう言うと、水森さんは、不安そうな目で僕を見つめた。
「あんたも、俺たちに出来ることがあれば、言ってくれよ。」
その目には、見覚えがあった。あの日、謝って、暴言だらけのメールをみてしまったバチ君。そのバチ君と、同じ目をしている。…心配、させてしまっている。駄目だなあ、僕。心配させちゃって。皆の言うとおり、今日は休むとしよう。これ以上、皆に心配をかけさせないために。
「…大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ。ごめんね、心配かけさせちゃって。」
「…そこで謝られんの、意味分からん。」
「あ…ごめ…」
「ほらまた。…大丈夫って聞く以外に、心配の方法とか、分かんないんだよ。だから、正直に答えて欲しい。」
「…。」
『ごめんね。』を封じられた今、何て返したら良いのか分からない。僕は只、地面を見つめるしかなかった。
「あんたさ…」
水森さんの声が聞こえて、僕は何か言わなくちゃと、焦った。
「…えっとねっ。」
「何だよあれ!?」
いきなり聞こえた、前を歩いていた印藤さんの悲鳴が、僕の言葉を遮った。何事だろうと、急いで前を見た。
夜の人気の無い道の先に、何やら人影が見える。手前にある街灯の光で、細かい様子はよく見えない。けれど、何か…やけに、揺れている?疲れ目で、そう見えているかもしれない。僕は、水森さんに確認しようとした。
「ねえ、水森さ…」
「…は、なに、あれ…!」
そう言う水森さんの声は震えていた。その恐怖は伝染して、僕にも伝わってきた。けれど、皆何に怖がっているのか、僕にはまだ分からない。そのまま、じっと見つめていた。
徐々に人影が近づいてくる。人影が、人影近くの街灯の光に、徐々に入る。すると、段々と、実態が見え始めた。モザイクがかかっているような…いや、ノイズ?何て形容したら良いか分からない。でも、なんかこう…ぐちゃぐちゃしていて、よく分からない。一言で言うなら、その人影自体が…バグで覆われているようだった。
「なっ、なっ…!」
自分の口から、跳ねるように声が飛び出す。
「何あれ…!?」
すぐさま体中が、危険信号を出した。絶対に、近づいちゃ駄目な気がする!早く、前の二人も連れて、逃げないと!体が震えるけど、僕は大きな声を出した。
『逃げよう!皆!』
固まっていた印藤さんが、我に返ったように体を跳ねさせ、
「お…おう!」
そう返事をすると、バチ君の手を掴んで言った。
「お前も逃げるぞ!」
「…嫌だ!」
「「「は!?」」」
思わぬ返答に、僕達は大きな声をだした。何を言っているの!?
「バチ君、駄目だよ!絶対危険だって!お願いだから、逃げよう!?」
「折角色々習ったんだもん!皆怖がっているなら、俺が守んなきゃ!剏輝もそう思うだろ!?格闘技とかは、護る為に習うんだって言ってたよな!」
「っ、確かにそうだが、人間が相手の話だ!今は違えだろ!得体の知れない奴に、何も分かんねえまま立ち向かうのは、ただの捨て身だ!とにかく逃げるぞ!」
「っ、何でそんなこと言うの!危険だからこそ!守らなきゃでしょ!何で…!」
「バチ君!戻って!お願いだから!!」
僕の口から、自分でも信じられないような声が出た。喉が、少しヒリヒリと痛んだ。バチ君は、びっくりしたように僕を見た。
「駄目!…危険だよ!何があるか分からない!お願いだからさ!速く逃げよう!」
「けーき…何でだよ!」
バチ君は一瞬、悲しそうな顔をした。瞬間、あのメールを見たバチ君の顔が蘇った。胸が、ズキリと痛む。っ、違う!そんな顔をさせたいわけじゃない!ただ、心配で…!そう思うと、次の言葉が出なかった。
その時、バチ君の後ろで、あの謎の生物が、大きく揺れたのが見えた。あの生物が動く度に、全身に鳥肌が起きる。僕は叫ぼうとしたけれど、またバチ君の、あの顔がよぎる。声が、出ない。
「バチ!後ろ!」
僕の代わりに、印藤さんが叫んだ。そのおかげで、バチ君は後ろを振り返って、今の状況に気が付くことが出来た。謎の生き物はそのまま、大きく飛び上がると、バチ君めがけて襲いかかってきた。
「バチ君!」
「危ねえ!」
バチ君が電気をまとい、素早く避ける。謎の生き物が飛び降りた先の地面は、大きくゆがんでいた。
「な、何これ…!」
着地しただけで地面がこうなるってことは、もし触れたりしたら…!ゾッとするなんてものじゃない。冷や汗が、背中から吹き出てくる。
「バチ君!やっぱり駄目!お願いだから、逃げよう!!」
もう一度、全力で叫ぶ。お願い、お願いだから、言うことを聞いて欲しい。けれど、バチ君は言った。
「嫌だ!危ないんだったら、尚更守んねーと!けーき達は逃げて!俺が、何とかするから!」
「そんな…!」
そう思っていると、バチ君の横から、謎の生物が飛びかかってきた。バチ君はそれを急いで避け、対抗して殴ろうとした。その時、さっきの地面の状態を思い出す。僕は咄嗟に叫んだ。
「駄目!触ったら、多分、大変なことになる!」
バチ君が瞬時に、手を引っ込める。電気だから、全てにおいての行動が、素早い。けれど反面、すぐに行動できすぎるが故に、行動を止めるのが難しい。そう思いながら、謎の生物の方を見る。謎の生物は金網に張り付いていて、バチ君の方を見ている。しがみついているフェンスは…ん!?何か、縦にすごい伸びてる!?歪んじゃうんだと思っていたけど…どうなっているの…!?なんて考えている暇も無く、謎の生物は、あり得ない速度と力で、バチ君の方に飛んでいく。けれど流石に、バチ君の方がスピードは上みたいで、避けることができている。バチ君は避けた後、ふわっと浮かび上がって、電柱のてっぺんに座った。あぶな…くはないか。ひやっとしたけれども。
「くそっ、触れることは出来ないのが厄介だな…!」
謎の生物は困っているバチ君にお構いなしで、体を大きく震わせた。そして、体から、黒くドロドロの液体を飛ばした。
「うわきっしょ!」
多分、あの液体に触れても、大変なことになる。バチ君は上手に避けれているが、防戦一方だ。
「速く逃げて、けーき!」
「…バチ君…」
だって、バチ君を置いて逃げるなんて、無理だ。まだ幼いのに、ようやく、本当に楽しく過ごせる時間が来たっていうのに、もしものことがあったら…!バチ君が可愛そうだ…!
「や、夜雷さん、逃げよっ、早く、逃げよっ!」
水森さんが、僕の袖を引っ張る。けれど
「無理だよ…」
「はぁ!?」
「無理、無理だよ…!バチ君を一人、置いていくなんて…!」
「何言ってんだ、あんた!?そりゃ、バチのことも心配だけどよ!あれ、どう見ても人間じゃ無いだろ!人間だったら、数で何とかなったかもしれねえけどよ…!」
「でもっ…」
「でもじゃねえだろ!何かあったらどうすんだよ!」
何かあったら。自分の口癖の言葉に、心が揺らぐ。確かに、それはそうだけど…でも…!
「そう考えるのは、何か試してからにしようぜ。」
「はぁ!?あんたまでもかよ!?」
そう言ってくれたのは、印藤さんだった。
「逃げた方が良いってのは分かるんだけどよ…何も出来ずに逃げるのは、自分が許せねえんだよ。だから、俺も…色々考えてみる。」
「んだそれ!要はただのプライドの問題じゃねえか!なんで命がけの状況でプライド取るんだよ!」
「価値観の違いって奴だ、諦めろ!」
「はあああ!?」
水森さんがそう叫ぶが、印藤さんはそれを無視すると、僕の肩に手をおいて、話しかけた。
「近接攻撃は、絶対に無理だ。ってなると、何かをぶつけるか、遠距離攻撃になるな…。」
「…バチ君のこと、手伝ってくれるの?」
「もちろん。何にもできねえのは許せねえって言ったろ?何より、バチが大変な目に遭ってんだ。ほっとけねえ。」
「印藤さん…!」
こんな危険なときでも、バチ君のことを助けようとしてくれるなんて。僕は胸が
「感動すんのは後!どうにか考えようぜ。」
「そ、そうだね。えっと…」
「だったらせめて隠れろよ!ほら、こっち!」
水森さんが後ろで、物陰を指さして言った。
「あれ、逃げなくて良いのか。」
「こんな空気で逃げられるほど図太くねえよ!」
水森さんも協力をしてくれるようだ。本当にありがたい。バチ君は、良い友人を…って、感動してる場合じゃ無かった。早く、打開策を考えよう。
僕達は、物陰から、バチ君達の様子を見ていた。相変わらず、バチ君が避けて、謎の生物が次々攻撃をしかけて、防戦一方の苦戦状態だ。これは急がないといけないかもしれない。
「よっしゃ、作戦会議だ。」
印藤さんが言った。
「近接、直接触れるのは絶対駄目だ。だから、遠隔とか、何か物をぶつけるとか…それができるかどうか、試してみよう。」
「あの生物は、触れたものを歪ませるか、力がものすごい強い生き物かと思っていたけど…何故かフェンスは、縦にすごく伸びたんだよね。」
僕はさっきの光景を思い出しながら言った。
「何だそれ…ってことは、今のところ未知数?」
「そうだな。だから、とりあえず試しに、何か攻撃能力が高そうな物をぶつけてみよう。」
「作戦とは。」
「うるせえ。時間がねえんだ。とにかく、何かこう…殺せそうな物、無いか?」
「物騒だな。」
「えーと…」
僕が周りを見渡すと、レンガが落ちているのが見えた。近くの花壇の一部が崩れて落ちていたものだ。
「あのレンガ、どうだろう!」
「おっ、良いな!じゃ、俺が持って行って投げてくる!」
言うが早いか、印藤さんはレンガを手に取り、物陰から飛び出した。そして、謎の生物の方に向かって…
「待て…早くねえか…!?」
そう言われてバチ君達の方を見て、気が付いた。確かに、バチ君の方が動きは速いけど、謎の生物の動きは、とても俊敏だ。到底狙えるものじゃない。その考えは、抜けていた。すると、後ろから水森さんが叫んだ。
「バチに渡してみれば良いんじゃんねえか!?ゲームだと、電気系のキャラって、遠隔で物動かせるだろ!?」
「なるほどな!でも、バチに…いや、信じるしかねえか!」
印藤さんは片足を上げて、大きく振りかぶると
「バチ!受け取ってくれ!」
そう言って、レンガを思いっきり、宙に向かって投げた。
「肩痛ってえ!」
「え!?あ、おう!」
バチ君は戸惑いながらも、レンガを受け取ろうとした。けれど、レンガはバチ君から少し遠い場所に飛んでいってしまった。バチ君は急いで取ろうとしたけれど、そこに謎の生物が飛んできて、バランスを崩してしまった。
「っ…届けぇ…!」
バチ君がそう言って手を伸ばしたとき、バチ君の手の先から、謎の光が伸びて、レンガを宙に浮かせた。
「わ、何だこれ!?」
「マジで出来た…!」
「バチ、そのままあいつにぶつけろ!」
印藤さんが叫んだ。
「分かった!」
バチ君はレンガを宙に浮かせたまま、指を相手の方に向けて振った。その動きに合わせて、レンガが勢いよく、動かされ、謎の生物の方へ飛んでいく。そのまま、レンガは相手に当たった…と思いきや、謎の生物に当たった瞬間、一瞬で崩れてしまった。
「「はぁ!?」」
二人が声をあげる。僕は、声が出ないほど驚いてしまった。折角当たったと思ったのに、そのレンガは、あっさり崩れてしまった。それじゃあ、どう対抗すれば…!
「っ、次だ!」
印藤さんの声に、我に返る。そうだ、今は打ちひしがれている場合じゃない。次だ、次!
「じゃあ次、どうする!?」
「レンガが駄目だったから、次はもっと頑丈な…コンクリートはどうだ!?」
「いや、多分、コンクリートも無意味だと思う…!」
「だったら、んーと…虎茶雨!どうすりゃいい!?」
「俺も今考えてる!んっと…!」
水森さんは少し唸っていたけど、やがて思いついたように顔を上げた。
「逆に、弱そうな奴をぶつけるってのは!?発想を逆転させて!またゲームみたいな発想だけど、強いのが弱っちくなるんなら、その逆を試してみたら何か起きるかもしれない!」
「なるほど、一理あるね!」
「ナイスゲーム脳!そうと決まればやるしかねえ!弱そうな物は…!」
印藤さんは、少し焦りながら、その辺に落ちていた、丸い小石を拾った。なるほど、確かに弱そうだ。
「バチ!受け取れ!」
「分かった!」
二つ返事で、バチくんが受け取ろうとする。見るとバチ君は、さっきの、指先から出る光線のような物で、応戦していた。しかし、どうにも当たらないようで、苦しそうな表情をしていた。また、胸が痛む。
「っ、どれ!?」
「ちっちぇえ小石だ!見つけろ!」
「分かった!」
半ば無茶振りだったけど、バチ君はどうにかみつけたみたいで、小石の方に指を向け、光線のようなものを伸ばした。そして、なんとか小石を捕まえると、さっきと同じように、謎の生物に向かって指を振った。軌道は、そのまま行けば、謎の生物に当たりそうだ。…どうか、攻撃が通ってほしい。
「頼む、当たってくれ…!」
水森さんが、僕と同じ気持ちで、そう願う声が聞こえた。
光線と謎の生物の位置が重なった時、ものすごい悲鳴が聞こえた。耳を壊すような、ものすごくしゃがれて不気味な声だ。見ると、謎の生物の体から、大量の液体が噴き出てきた。噴き出た液体は地面に落ちたけれど、地面にはなんの変化も起きていない。これは、もしかして…
「よっしゃ、効いてる!」
水森さんが叫んだ。
「本当に効いてんのか!?」
「確証はねえけど、あいつの出した液体で、なんの変化も起きてないってことは、これは望んで出した液体じゃねえってことだろ!?だったら、俺らで言う、血って考えるのが妥当だ!現に、あいつ苦しんでんだろ!」
そう言われると、納得がいく。それに、納得しないと、これ以外の打開策が分からない。
「とにかく、その説を信じてみよう!どんどん小石を…!」
僕がそう言った時、謎の生物が僕たちの方を見た。そして、口から例の液体を飛ばしてきた。
「やっべぇ!」
「こっち!」
印藤さんに強引に引っ張られて、そのまま勢いよく転がる。肘がヒリヒリと痛むが、我慢して起き上がり、液体の飛んだ場所を見る。僕たちがいた空き地は、あっという間に、尖った大きい岩だらけの場所に変えられていた。
「っ…!」
恐ろしさのあまり、息を呑む。けれど、息を呑んだのはそれだけの理由じゃない。
「小石、全部でっかくなっちまった!」
そうだ。まず森さんの言う通り、大きくて強いものになってしまったら、攻撃できない可能性が高い。別の場所で小石を探そうにも、片っ端から、大きな岩だらけの場所にされてしまっている。本当に早いとこ、やっつけてしまわないと、大変なことになる。
「作戦会議!」
印藤さんが叫ぶが、もうそんな余裕はない。けれど、考えないと、長期戦になってしまう。けれど、焦れば焦るほど、考えは浮かばない。
「虎茶雨!何か案は!」
「それで出たら苦労しねえよ!」
そう言っている間に、また謎の生物が液体を飛ばす。その液体が、こちらに飛んでくる。間一髪避けながらも、地面に飛んだその液体を見た。所々にノイズが走って、黒く、不規則な形をしている。…あれ?これ、どこかで見たような…
「バグ…」
「は?何?」
「これ、僕がこの前見た、パソコンのバグに似てる!」
思い出した!うんざりするほど見た、みんなの悩みの種だった、あのバグだ!ノイズといい、黒色といい、全てがあのバグにそっくりだ。
「なんでそのバグが、現実で起きてるんだよ!?実態もあるし!」
「わからない!けど、見覚えがあるとしたら、それしかない!」
「だったら、あいつをバグと捉えて、攻略法を探してみるしかねえ!夜雷さん、バグの直し方分かる!?」
「ごめん、わかんないや…!種類によって、対策が違うから!」
「じゃあ消しちまえばいい!バグの消し方は!」
「無理やり電源を落として、再起動!運が悪い奴だと、機械が壊れるまで消えないけど…!」
「もうそれでやるしかねえ!消しちまうんだ!」
「っていうけどどうやって!?」
「無理矢理電源を落とすとしたら、壊すか、ショートさせるか…」
僕がそう言ったとき、自分の中で、何か閃くものがあった気がした。僕は思わず、大きな声で言った。
「「「ショートさせるんだ!」」」
印藤さんも水森さんも同じ考えだったようで、僕と同じタイミングで、大きな声を出して言った。
「そうだよ、ショートさせりゃあいいんだ!」
「だけど、どうやって…?」
「攻略方法は一番近くにある!バチにやってもらえばいいんだよ!」
「けど、バチ君は格闘技しか攻撃方法が無いよ。ビームみたいな奴も、すばしっこくて当たらないし…!」
「そんじゃあ、当てられるようにどうにかするしかないよ!」
だけど、そんなこと言ったって…バチ君は、あの技を覚えたてだし、今から上達させるとか、そんなことは不可能に近いと思う。どうにか、バチ君の、命中率が上がるようにさせるには…。無理矢理変えるくらいしか、今からできることは…
「あっ!」
今度は、思いついたのは僕一人だけだった。手のひらから、パチンと乾いた音がなる。
「どうした、夜雷さん!?」
「読み込んでもらうんだ!そうすれば、色々と変わるかもしれない!実際、性格とか色々変わってたし!」
「あの、ファッションとか簡単に変えられる能力のことか?俺が見た限り、全然変わって無かったよーに思えるけども…」
「ものは試しだ!そうだな…命中率なら、ガンマンとかどうだ?西部劇とかでよく見る、あいつ!実際、ゲームとかでもよく見るから!」
「了解、ガンマンね!えっと…!」
僕は急いで、ネット検索で、ガンマンの写真を調べた。即座に、カウボーイハットを被って銃を構えている、渋くてかっこいい男性の写真が出てくる。これに違いない!
僕はスマホを構えて叫んだ。
「バチ君!これ、読み込んで!」
僕は後先を考えずに、スマホを投げた。
「え、そのまま行くん!?」
「お、おー!?」
バチ君の困惑する声が聞こえたけど、今は躊躇っていられない。これ以上、バチ君や周りの人たちに被害が及ばないように。
バチ君がスマホの中に入り、大きく揺れた後、スマホが無気力に地面に落ちていく。そして、地面に落ちる寸前で、スマホがもう一度輝き出して、地面スレスレの場所に止まり、もう一度大きく揺れ出した。謎の生き物は、スマホに向かって、四つん這いになった後、ものすごい勢いで飛びかかった。まずい、壊されてしまったら…!
そう思っていた時、スマホの中から、一筋の光が飛び出してきた。あまりにも一瞬の出来事で、何が飛び出したか見えなかったが、光が通過した後には、少しばかりの穴が空いていた。謎の生物が、ものすごい叫び声をあげてのけぞる。困惑していると、スマホから大きな光が飛び出して、そのまま颯爽と地面に降り立った。
「おいおい、がっつきすぎだぜ?」
降り立った瞬間、そこには一人のガンマンがいた。頭にはカウボーイハット。ネクタイとワイシャツに、何か布のようなものを羽織っている。腰にはベルトがついていて、銃を納めるホルダーもある。靴は丈の長いブーツよのようであり、ズボンもパリッとしている。そして、丁寧に整備されたであろう銃を、一丁は腰に下げ、もう一丁は手に持って、銃口を上に向けている。銃口からは、火花が出ている。
「良かった、バチ君は読み込みに成功した…なんか背、高くない?」
現れたバチ君は、心なしか…というか、明らかに背が高い。いつもだったら、小学生のような身長なのに…。今は、八頭身だ。それに
「魅力的なものの前では、まず冷静を心がけることが、堕とす一番の秘訣なんだぜ?あんただって、ロマネ・コンティをワインで嗜みたいだろう?」
「は?」
「イッタ!何言ってんのあいつ!」
「あー…ロマネ・コンティって確か高級ワインだったから、それを丁寧に飲む、つまり、冷静になれって言うことの比喩なんじゃ…」
「いや、解説あるなしの問題じゃねえから!何であいつそうなってんの!?」
「西部劇のガンマンを読み込んだから、ああなった…と、思うよ。」
「なんじゃそりゃあ…」
「今すぐ止めさせてくれねえ!?聞くに耐えねえ!」
「ま…まあまあ…」
あまり好評では無いみたいだけれど…でも、戦況はこちらに有利になったようだ。謎の生物がいくら素早く動こうとも、ガンマン故の狙いの良さなのか、的確に銃弾を当てている。流石に全発は当てられていないが、攻撃は確実に聞いている。その証拠に、謎の生物の声は苦しそうだ。
「良いぞ、確実に効いている!」
「ベイビーは好きだが、手のかかる子は少しお灸を据えないとね!本当のベイビーになったら、困っちゃうからさ!」
「しゃべり方くっそムカつく!!!黙ってやれ!」
けれど、一発一発、細かく攻撃を与えていても、そう簡単には倒れてくれそうに無い。あれだけダメージを与えているのに、どれだけ耐久力が高いのだろう。早いところ大人しくさせないと、周りに被害が広がってしまう…!
「バチ、そろそろでかいのいけるか!?」
「おーけー!フィナーレは、派手にいかないとね!」
バチ君はそう言うと、銃から銃弾らしきものを取りだし、ポケットにしまうと、新しい、少し大きな銃弾を取り出した。その一連の流れも、すごく手慣れている。そして、急いでセットすると、さっきまで動いていたバチ君とは違い、静かにたたずんで、銃を構えている。目を瞑り、真剣そのものの表情で、何かを待っている様子だった。謎の生物は、それに対して、すごく俊敏な動きで、縦横無尽という言葉が似合うくらい、動き回っている。謎の黒い液体をまき散らして、その液が触れた場所に、よく分からない異変が発生している。もう酷い状態で、混沌と化している。
「バチ、頼む早く!」
「…」
「何やってんだよ!早くしねえと!」
黒い液体が葉っぱに当たり、その葉っぱが鈍い音を立てて、勢いよく落ちる。けれど、バチ君はまだ動かない。
「早く!」
「もしかして…何か、待ってる?」
「危ないっての!」
印藤さんに手を引かれ、落ちてきた葉っぱを間一髪避ける。それでも、バチ君から目を離せなかった。
謎の生物が、バチ君めがけて飛びかかる。このままいけば、バチ君は謎の生物に…!そう思って、僕が声をかけようとしたとき、バチ君の声が聞こえた。
「…今だ!」
その瞬間、謎の生物の体が固まった。振り下ろそうとした腕を上げたまま固まり、攻撃をしようとしているのに動けないようで、腕が震えている。バチ君はそのまま、僕達の方に、靴の音をたてながら、銃を指先でくるくると回し、ホルダーの中にしまった。謎の生物の方を見ると、体に、大きな銃弾が刺さっていた。あれは…さっき、セットしていた…。そう思っていると、バチ君が右手を挙げた。そして、指をパッチンと鳴らした。骨の軽い音では無く、電気が勢いよく弾ける音だ。その瞬間、謎の生物の体が、一瞬にして、電気に包まれた。感電して、謎の生物の体が痙攣する。四方八方に伸びた体を大きく震わせ、何ともむごたらしい光景だった。やがて、謎の生物の体は徐々にちりとなって、少しずつ消えていった。電気の膜が消えた後、黒い、ドロッとしたような液体が残った。まさか、溶けてしまったのだろうか。そう思ってゾッとしていると、その液体が、意思を持ったように動いた。更に体に悪寒が走る。液体は、一つに集まると、スライムのような状態になり、そのまま、茂みの中に消えていった。残された僕達は、その様子を呆然と見ることしかできなかった。
「さて、一先ず難は逃れたようだな、けーき。」
いつもより低いバチ君の声が後ろから聞こえて、我に返り振り返る。やっぱり、いつもより身長の高いバチ君が立っていた。いつもなら見下ろすのに、今回はバチ君を見上げるという違和感を少し覚える。バチ君は得意げな微笑みで、僕を見ている。そして、片方の手を僕の前に出してきた。…ハイタッチの合図だ。確かに、バチ君は頑張ってくれた。僕達のために、広く捉えれば街のために、体を張って、命がけかもしれない状態で、戦ってくれた。…でも僕は、素直に喜べなかった。バチ君は僕達を護ってくれた。じゃあ…そのバチ君は、誰が護るの?出会ってから結構な日にちが経った。信頼できて、素敵な友達も出来た。けれど、心も、知識も幼いままだ。純粋なままだ。人間やこの世界、ましてや、自分についても、何も知らない。そんな子が、むやみに危ない橋を渡ったら、どうなるか分からない。確かに、バチ君は強い。この目で何度も見てきた。でも…それでも、不安でたまらない。だから僕は、このまま褒めて良いのか、それとも、注意して、命がけの戦闘をしてきたバチ君を、無残にも叱ってしまうのか。…正しいことが、方法が、分からなくて、何も動けない。どうしたら、良いんだろう。
「…けーき?どうした?俺が格好良すぎて、驚いてんのか?」
「っだー!そのしゃべり方止めろよ!」
水森さんの叫び声が聞こえてきた。
「おいおいこさめ、嫉妬か?立ち向かう勇敢な姿勢は尊重するが、もう少し形を変えた方が、燃えるほど熱い決闘に…」
「夜雷さん、あれ早くどーにかして。あんたがやったんだから。」
印藤さんが、親指でバチ君を指さす。確かに、いつものバチ君と違って、少し落ち着かないけど、そこまで嫌がらなくても…まあ、目を見る限り真剣だから、とりあえず頼んでみよう。
「あー…えっと…バチ君、その…その格好も、もちろん好きだけど…好きなんだよ?好きなんだけど…。やっぱり、いつものバチ君の姿の方が、落ち着くかなぁって…」
素直に言うわけにはいかないから、できるだけ遠回しに元に戻って欲しいと言うことを伝えた。さてどうなるかと思っていたが、バチ君は、
「そうだな。確かに、俺がこの格好でいたら、何時何処の誰かに決闘を仕掛けられても可笑しくはねえな。なんせ俺は、イケてる視線泥棒…」
「そうだなだからはよ戻れ。」
印藤さんが冷たくあしらうと、バチ君はやれやれと言うかのようにため息をついて、首を振った。
「皆がお望みのようだから、今の俺よりかはイケてないが、イケてる俺にバトンタッチするとしよう。ではいこうか。1…2…3!」
そう言って勢いよく振り返ったバチ君だったけど、何も変わった様子は無い。バチ君自身も、しばらくはキメ顔でいたけれど、少し経つと小首を傾げた。
「おい…何で変わんねえの?」
「…忘れた。」
「え?」
「忘れてしまったみたいだ!まあ、今の俺が一番イケているから、変わる必要なんて無い…」
「「「えええええええ!?」」」
「はぁ!?おい、忘れたって何だよ!」
「そのままの意味だ!戻り方を忘れてしまった!」
「おい、やべえじゃん!どうすんだよ!」
「案ずるなこさめ!俺はこのままでも、十分に…!」
「嫌だよ!鬱陶しくて話してられるか!夜雷さん、何か方法は…」
「えっと…!」
焦った僕は、印藤さんの方を見た。前に見たストリート系のファッション…モデルは、印藤さんだった。でも今は、系統は同じだけれど、違うファッションをしている。印藤さんをそのまま読み込む、なんてことできそうにないし、仮に出来たとしても、元のバチ君に戻るとは限らない。どうしたら…!
「夜雷さん。」
「ん?何、印藤さん。」
「写真、ねえの?撮ってたりしたら、それ見せりゃ一発でしょ。」
「…確かに!」
僕は写真のアプリを開いて、初めて変身した時の日の写真をタップした。そして、写真をバチ君に見せた。
「バチ君、これを読み込んだら、元に戻れるんじゃないかな!?」
水森さんと言い争っていたバチ君が、僕の方を見て顔を明るくした。
「ナイスだけーき!思い出は嘘をつかないもんな!名案だ!」
「考えたの俺だけどな。」
印藤さんの声には答えず、バチ君は僕のスマホに向かって飛んできた。背の大きな男の人が迫ってくるのは怖かったけど、バチ君だと考えると、目を瞑るくらいで耐えることができた。手に振動が伝わってくる。そして、その震えが収まったと感じると、僕は恐る恐る目を開けた。
「よっと!戻ったぞ、けーき!」
いつもの、やんちゃそうで、元気そうで、笑顔が眩しい、安心するバチ君が、そこにいた。服装も見覚えがあって、背も僕より小さい。僕はその様子を少しばかり、じろじろと見た。そして、じろじろと見た後…とても、安心した。
「けーき?」
子どもらしい、バチ君の声が聞こえてきた。僕のことを、不思議そうに見つめている。そして、もう一度、元気よく手を前に出してきた。けれど、僕は…その手に、ハイタッチが出来なかった。無垢な子どもである、バチ君の姿を見たら、尚更。危ない行動を、肯定するみたいで、
「…けーき?」
答えが出せない。けれど、このまま、何もしないのは違う。何かしてあげないと。でも、肯定か否定か…応援か、護るか…。だったら、僕は…。
「…バチ君。」
僕は、ハイタッチをせずにバチ君を、眉をひそめて見つめた。
「駄目じゃ無いか!あんなに危ない相手だったのに、何で一緒に逃げてくれなかったの!?」
「…けーき、何で怒るの…?俺、けーき達を護りたくて頑張ったんだよ!?なのに、何で!」
「その気持ちは、本当に嬉しい。だけど、僕は…バチ君にも、安全でいて欲しかった!傷ついて欲しくなかった…!」
声に出せば出すほど、想いは募っていく。どうして、なんで、君だけが、傷つかなきゃいけないの。
「それでも、俺は護りたかったのに!折角力があるから、色々なこと覚えたから、だから…!」
バチ君の顔が、段々泣きそうな顔に変わっていった。それを見るだけで、胸が締め付けられるように辛い。本当に、よく頑張ってくれたと思う。僕達のために、危険な行動をしてまで護ってくれた。褒めてあげたい気持ちはある。なのに、今後のことやもしものことを考えると、どうしても、これ以上危険な想いはさせたくない。もしものことがあったら…考えるだけで怖い。それは、本当に僕の、身勝手なエゴだ。だけど…どうしても、これだけは譲れない。
「バチ君はすごいよ…すごい強い。僕達を護ってくれたことも、本当に、ありがとうって思ってる。」
「だったら何で…」
「でも、不安なんだ!…嫌なんだ。バチ君が、傷ついたり、辛い目にあったりすることが。バチ君は優しいから、多分これからも、あんなことがあったら、僕達をかばってくれる。…でも、そうしたら、バチ君の負担は、ものすごいことになる。そうなったら…辛いことばっかりだよ…」
責任。それも、ありとあらゆる責任。それが、この幼くて純粋な子にのしかかる。そんなの、残酷だ。とてもそんな想いはさせたくない。僕だけで良い。
「…嫌だよ!俺も、大事なもの、護りたいんだよ!俺も、頑張れるんだって!」
「お願い、バチ君。一生に、一度のお願いなんだ。…これ以外は、自由にしてくれていい。だから、どうかお願い。聞いてくれないかな。」
「夜雷さん、あんた、褒めてやらねえと可愛そうだろ…!」
「…ごめん。どうしても、怖いんだ。褒めたら、バチ君、もっと頑張って…傷つくかもしれない。」
「…。」
バチ君はしばらく無言だった。何かを堪えるような声が、たまにバチ君の口から漏れてくる。それはきっと、嗚咽に近いものだ。堪えているものも、恐らく…。
そう思っていると、バチ君は、やがて唇を押さえることができなくなり、ついには、声をあげて、火が付いたように泣き出した。
「うわああああああん!!」
「っ…!」
胸が、グサリと刺されたように痛む。また、またあの時と同じだ。あのメールを見せてしまった、あの時と。聞こえてくる破裂音が混じる火花の音が、とても寂しくて、悲しい音に聞こえる。悪いのは僕だ。出来ることなら慰めてあげたい。けれど、もう…引き返せない。後ろを振り向かないで、前に勇敢に進んでいく皆みたいに、僕も何か決めないと。いや、半ば強制的に来てしまっただけだ。中途半端に伴う結果なんて、大抵悲惨な物。それを、人生で経てきたはずなのに…わかってたはずなのに。やっぱり、僕にとっては、決断は怖いものだ。
「わああああん!!!なんで!!」
「おい、夜雷さん!どうにかしてやれよ…!」
「…」
「夜雷さん…!」
「…俺らがとやかく言えることじゃねえかもよ。バチの面倒見てんのは、夜雷さんなんだからよ。」
「じゃあしょうがねえかってならねえだろ!泣いてんだぞ…!飲み込み早けりゃいいもんじゃねえんだぞ。」
「…」
「…帰ろう。バチ君。二人で、じっくり話そう。」
兎にも角にも、一度家に帰った方が良い。バチ君も疲れてるだろうし、二人を巻き込むわけにはいかない。心配させるわけにはいかない。僕はバチ君に向かって、屈んで、手を差し伸べた。
「うっぐ…!ひっぐ…!゛う、゛うん…!」
バチ君はそういうと、僕の胸元に顔をうずめて、僕の両腕を弱く握った。胸に、ズキリとした、刺されたような痛みを感じる。今度は、精神的な感覚ではなく、物理的な痛みだ。しまった…!今、バチ君は、泣いてしまっている。泣いている状態で触れたら、また…!そう思って覚悟を決めたけれど、無理だった。傷口に塩どころか、刃物で刺されているような感覚だ。口から、堪えていた声が、少しずつ漏れてきてしまった。
「ぐっ…ぐぁっ…!」
そして、その声が、水森さんに聞こえてしまったようだった。
「夜雷さん…?夜雷さん、大丈夫か!?」
「どうした?」
「夜雷さん、なんか苦しそうで…!っていうか、あんだけ火花の音してたのに、くっついちまって大丈夫なのかよ!?」
「っ、そうじゃねえか!おい、バチ、少し離れろ!」
「うぇっ…?う、うん…」
バチ君は泣きながら、僕の方から離れようとしている。このままでは…色々と、まずい…!もしも胸の傷がばれてしまったら…!皆を不安にさせてしまう!バチ君に、辛い思いをさせてしまう…!
「待って!大丈夫だよ!このまま、連れて帰る…ぐっ…!」
「大丈夫じゃねえって!」
「虎茶雨、バチを頼む!夜雷さん、弁償ならするから、許してくれ!」
そういうと、印藤さんは僕の服に手をかけた。嫌な予感がする。脳が、全力でそう叫んでいる。背中にゾッとするものが這った。
「止めて!」
「悪い!」
僕の叫びも空しく、印藤さんは僕の仕事着のYシャツを…ボタンの部分から勢いよく引き裂いた。ボタンの何個かが、勢いよく飛び、近くの道ばたに転がる。胸やお腹を、少し涼しい風が通っていく。風のせいで、傷口が少し染みるように痛む。けれど、そんなことは今は…どうでも良くないのかもしれない。目を見開いて固まっている、バチ君、印藤さん、水森さんにとっては。
「………けーき?……その体の奴…なーに…?」
「うっ…!うぐぇっ…!」
「…んだよそれ…!」
三者三様の反応。けれど、それら全ての僕に向ける感情は、同じ。不安だ。僕はそれを見ることができなくて、目線を下に反らした。その先には、僕の胸にこびりついた、おぞましい火傷の傷跡。加えて、下腹部辺りの新しい傷。…どうしよう。これがばれてしまったら、皆にいらない心配をさせてしまう。どうにかして誤魔化さなきゃ…!そう思ったけれど、もう誤魔化すことは出来ないほど、傷は大きく広がってしまっていた。
「う…あ…えっと…」
「ねえ、けーき!何があったの!?これ、火傷だよね!?それも、一番酷い奴!僕、読み込んだことがあるから、知ってるよ!?」
「それは…その…」
「…っ、夜雷さん、あんた、何やったらそんな傷つくんだよ…!?夜雷さんって、家電関連の会社っていってたけど、工場に努めているわけじゃねえだろ…?」
「えっと…それが…」
言い訳を考えようとしても、良い理由が思いつかない。
「日常で起きたなら、バチが知ってねえのは可笑しいし…さっきのあいつだったら、夜雷さんが着ている服にも変化が無いと可笑しいだろ…?じゃあそれ、何なんだよ…?」
黙っている間に、可能性があるかもしれない理由を、水森さんが一つ一つ潰していく。逃げ道は、もう無いようだ。そんなこと分かっているのに、僕はまだ逃れようとした。
「えっと、その…会社で、その…バチ君が寝てる最中に…」
「もしかして、バチがくっついたからこうなったんじゃねえか?」
「……え?」
…今、何て…?…え?
「…バチが泣いていた時、気のせいかもしれねえけど、火花の音がしたんだよ。その時、バチが電気だって事思い出したんだけどよ…。もしバチが涙を流したってなら、水と電気…感電するだろ?そのグロい傷は分かんねえけど、赤く腫れている部分は、間違いなくそうだろ?」
聞きたくない単語が次々と出てくる。どうして知っているのという焦りも、静かに湧き上がってくる。口からはか細い息が漏れ、冷や汗が首筋を這ったような気がした。
「そ、れは、ちが…」
「…そうなのか…?」
声のする方を向くと、バチ君がいた。
「俺の…せい…?」
その顔は、もう二度と見たくないと思う程、絶望していた。泣いていたはずの涙も、もう引っ込んでいて、恐れたような顔で僕のことを見ている。違う。違う!そんな顔をさせたいんじゃない!
「違うんだバチ君!僕は大丈夫だから…」
「だってその傷…大きい傷の方も、俺が付けたんでしょ…?」
「違う!バチ君は、何も気にしないで…!」
「俺が泣いたからだろ!?…俺がっ、弱いから、泣いて、甘えて、そのせいで…!」
「違う!これはバチ君と何も関係が…!」
「関係あるだろ!そんなこと、俺でも分かるよ…!」
その声には、涙が混ざっているように感じた。胸が締め付けられる。
「俺、どうしても辛くなっちゃって…その時、けーきがいてくれたから、すげー安心したんだよ。…それが、けーきを苦しめてたんだよな…?」
「ち、違う!そういう事じゃ…!」
「ごめんね、けーき。もう、泣かないよ。」
「……」
伸ばした手が、行き場を失い、指先の力が無くなっていく。掴む手がなくなった手は、ゆっくりと開き、何も引き止められなくなってしまった。何か言おうにも、言葉は枯れて、乾いた風しか吹かない。ただ微かに、喉が動いて、か細くしゃがれた音が漏れる。全身の血の気が引いていき、視界がクラクラとする。どうしたら、良かったんだろう。ただ、バチ君を支えたかった。元気いっぱいで明るい未来を、誰も気がつかれないほどにそっと、影で支えたかった。バチ君が抱えるかもしれない何かを、受け止めたかった。目論見はたいそうなものだったけど、せめて少しだけでも、ほんの少しだけでも、支えてあげたかった。それが、何一つできないまま終わろうとしている。踏み出す一歩も、かける言葉も、支える手も…何にも、僕にはなかった。
「…帰ろう、けーき。…はじきもこさめも。」
バチ君の喉の奥で震えている声が聞こえた。それでも、僕は何も動けない。『嫌だ』『違う』『そうじゃないんだ』。もう少し、もがけただろうに、バチ君の」『ごめんね』の一言で、僕にはもう、何もなくなってしまった。
バチ君が水森さんに手を取ろうとした。
「っ…!」
水森さんが、驚いたように手を引っ込める。バチ君を見る目線は少し、怯えていた。
「っ、あ、ごめん!」
水森さんが、慌てて手を取ろうとしたけれど、バチ君は悲しそうな目をして、手を引っ込めた。
「ごめんな。怖いよな、俺のこと。」
「そうじゃ…ねえって…」
「無理しないで。…気遣うなよ。な。」
「…違うんだって…」
水森さんの零した声が聞こえていたのか、聞こえていないのか。それはわからないけれど、バチ君は両手を後ろに組んで、僕の方を見て言った。
「帰ろ、けーき。今日はもう休もう。」
「…………」
何も考えられない。目の前の純真無垢な子は、気遣うことを覚えてしまった。弱音を見せず、誰かを傷つけないよう、自分を隠した気遣い方を。既視感しない、たいへん見覚えのある方法。
「…いこうよ、けーき。」
いつもだったら、バチ君は僕の手を取ってくれる。元気いっぱいに引っ張って、笑顔で歩き出す。でも今は、近くで悲しそうに微笑んで、僕が進むことを待っている。
全ての選択を、間違ったような気がする。それでいて、取り返しのつかない、もう戻れないような結末をたどってしまった。打ちひしがれる暇もなく、僕はこのまま、無理やり前に進むことしかできない。『間違った』『嫌だ』。そんなわがままも言えないまま、僕は進むしかなかった。
「…」
何も言わずに、僕は、バチ君の近くへ歩み寄った。手を掴もうとして、避けられた。手の平を涼しい風が吹き抜けてゆく。
「…ごめんね。」
その寂しそうなで儚い声は、僕の耳を通り、夜空に吸い込まれていった。
「じゃあな、はじき、こさめ。」
バチ君の顔を見ることが出来なかった。けれど、きっと、僕がとても見たくない、悲しい顔をしている。…嫌だな。見たくないや。…悲しんで欲しくないよ。どうにかして、受け止めてあげたい。悲しみを晴らしてあげたい。けれど、もう、僕の手では、どうにもすることは出来なくなってしまった。…僕が何をしても、バチ君は僕を労り、気にかけ、そして、距離を置こうとするだろう。…自分が人間を傷つけてしまう存在であることを知ってしまった。
「あ、おい!バチ!待てよ!」
印藤さんが、手を伸ばし、バチ君の腕を掴んだ。けれど、バチ君はまた、悲しそうに笑った。
「やめてよ。…お願いだから、優しくしないでくれよ。」
「っ…」
印藤さんは、そう言われると、悔しそうな顔をした。手は中々離さなかったけれど、やがて、ゆっくりと、ぎこちなく、バチ君の腕から手を離して、力なくうなだれた。
「ありがとう。…じゃあな。」
バチ君はそう言って、歩き出した。僕は、ショックと困惑、それから…何て言ったら良いのだろう。一言で片付けるとしたら、『絶望』。後悔とやるせなさの波に、静かに溺れている。それでも、流されるがままに、進むしかない。僕は静かに、バチ君の数歩後ろを、ゆっくりと着いていった。印藤さん達に、何も声をかけられなかった。いや、申し訳ないけれど、印藤さん達のことは、考えられなかった。目の前の、か細く繊細に輝く小さい光が消えないように、追いかけることしかできない。
「夜雷さん…」
「バチ…」
後ろからの二人の声も、僕には聞こえなかった。
護る為に戦ってくれた。けれど、護る為には、自分の身を擬性にする必要がある。僕はその自己犠牲を、バチ君にしてほしくなかった。一生懸命になりすぎて、きっと疲れちゃうから。けれど、バチ君は、皆のことを護りたがっている。自分の力を、自分の為じゃ無くて、僕達のために使ってまで。…どうすれば良かったんだろう。何が正しかったんだろう。…この後、バチ君といつものように過ごすには、どうすればいいんだろう。
気が付いたら、僕の家に着いていた。家に着くと、バチ君は僕の方を振り向いて、また、悲しそうに、無理矢理取り繕ったような笑顔で言った。
「お疲れ、けーき。…胸の傷、病院で見てもらおうな。何か困ったことがあったら、俺が…あ…ごめん、俺、触ったらいけなかったんだ。…俺、今後は大人しくしてるから、安心してくれよな。出て行って欲しかったら、遠慮無く言ってくれよ、けーき。」
「そんなことは…!」
「良いんだよ。ううん、はっきり言ってくれた方が嬉しいんだ。俺が一番嫌なことは、けーきを傷つけることだから。俺のこと沢山優しくしてくれて、色んな事教えてくれて、友達も作らせてくれて…本当に、楽しかった。もうけーきのこと傷つけちゃって、何言ってるんだって話だけど、俺、本気で思ってる。だから、けーきを護る為なら、俺、離れるよ。けーきの言うこと、ちゃんと良い子に聞けるよ。」
「それは違うよ!」
『離れる』。その言葉に、僕は思わず食ってかかった。
「僕は離れて欲しいわけじゃない!バチ君に、気を使って欲しいわけじゃない!ただ…ただ、バチ君には、元気に過ごしていてほしいだけなんだ…!何の憂いも、何の悲しいこともなく、元気に!だから、今日戦ってくれた時、君が一人で色々背負っちゃうんじゃないかって、不安になったから、あんなこと言っちゃって…!でもっ、バチ君をそんな気持ちにさせたくて言ったわけじゃないんだ!だから…バチ君は何も悪くないんだよ!」
「…でも俺、傷つけたことには変わりないよ。けーきがボロボロになるくらい、酷いことしたんだよ、俺。…最低だよ。」
その言葉に、すごく胸が痛んだ。バチ君は、辛くなってしまって、ただ泣いただけだ。泣く事なんて、誰だってするし、誰だって、泣きたくなくても泣いてしまう、そんなどうしようもないものだっていうのに、それを最低な行為や、誰かを傷つける行為として捉えてしまうなんて、あんまりだ。でも事実、僕は傷ついてしまった。だから、バチ君にとって泣くという行為は、酷いことであるという価値観がこびりついてしまっているかもしれない。
…でも、そんなわけない。泣いてはいけないなんて、あんまりだ。泣くことが悪いことなら、僕達は何で、辛いときや悲しいときに涙を出すのだろう。何かを否定することは怖いけれど、これだけは確信を持って言える。間違って最悪な選択肢を選び続けてしまった僕でも、これだけは間違いだって、自信を持って言える。君は泣いて良い。ううん、君も、泣いて良い。
それを伝えるため、証明するために、僕は何を言えば良いんだろう。…バチ君に寄り添うためには、支えてあげるためには。エゴだけど、どうにかして伝えたい。…エゴ…。…もし、僕の人生の中で、数少ない我が儘が許されるのだとしたら。ううん、聞いてくれるのだとしたら。後悔の残らないものが良い。相手も、自分も。バチ君はきっと、皆を護るという気持ちは、揺るがないのだろう。でも僕は、バチ君だけに色々なものがのしかかることが嫌だ。けれど、バチ君は、皆を護れないことの方がもっと嫌だと考えている。バチ君は、そんな百パーセントのやる気で臨んでいる。でも、その百パーセントを背負うには負担が大きい。バチ君がその重荷を支えるために、僕に出来ることは…
無言の時間が、少しの間続いた。バチ君は少しの間僕から、バツが悪そうに目を反らし、指先を合わせて動かしていた。
「じゃあ俺、リビングの端っこにいるな。寝る場所もそこでいいから…」
相変わらずの、悲しみ混じりの笑顔でバチ君は言った。その背中を少し眺めて、僕は言った。
「…ねえ、バチ君。さっき、良い子に言うこと聞けるって、言ったよね。」
「……うん。言った。」
「じゃあさ、僕のお願い、聞いてくれないかな。」
「…うん。…なあに?」
「一緒に居よう。これからもずっと。」
「…え?」
「ぼろぼろになっても、僕は構わない。さっきも言ったように、僕はバチ君に、元気に過ごして欲しい。それだけで良かった。でも、僕は我が儘だから、もう一個増えちゃった。『バチ君が「もういいよ」って言うまで、傍に居させてほしい。』支えたいんだ。わんぱくな君のこと。」
「なんで…」
「…色々と考えたんだけど、バチ君は僕達のことを護りたいんだよね?」
「うん…」
「でも、僕は、バチ君の心を否定した。バチ君に負担をかけたくないって言う理由で。これはきっと、どっちも間違っていない気持ちだと思う。僕も、両方とも否定したくない。でも、両方の気持ちを取りたい。…無理難題だって、僕も思ってたけど、出来る方法があったんだ。」
僕はそう言って、バチ君に手を差し出した。
「不安や責任、色々なものを、僕にも持たせて欲しい。半分だけでも、ほんの少しだけでも、僕に分けて欲しいんだ。ちゃんと持てるかは分からないけれど、それでも、分けて欲しい。護ってくれるお礼に、僕に支えさせて欲しいんだ。…泣いて、良いんだよ。我慢しないで、預けて欲しいんだ。だから、お願い。一緒に居よう。」
今までずっと、極端だった。心配ばかりして、中々行動することが出来ずにいた。自分が、何かを引き起こしたら。そんなことを考えると、怖くて仕方が無かった。…もし、皆の真似をして、前へ進むとしたら。印藤さんや水森さんみたいに、何かに向き合って、進んでいきたい。こんな僕でも
前に進みたいから。
差し出した手が、行き場を失って固まる。この手を取ってくれるかどうかは、バチ君次第だ。僕は息を呑んで、バチ君を見守った。…バチ君の手が、少し動いた。迷いが多く見られる動きだったけれど、少しずつ、確実に動いている。人差し指、中指、次いで薬指と小指。そして、手全体から腕に欠けて、徐々に僕に近づいてくる。そして、僕の指先に触れそうになる距離まで近づいたとき、バチ君の手は、僕に触れることなく落ちて行ってしまった。
「…バチ君…」
「ごめん、けーき。」
バチ君は自分の手を、もう片方の手で覆いながら言った。
「やっぱり、怖いや…俺の手が触れるだけで、けーきやはじき、こさめが傷つくって考えたら…嫌だなって、思っちゃってさ…!」
そう言うバチ君の目は、少し潤っていた。けれど、バチ君はすぐに拳の裏で目をこすって、それを拭ってしまった。
「ごめん、ごめんねけーき…!」
『ごめんね。』なんて言葉、僕は毎日使っているのに、これほどまで胸が痛くなる言葉だとは思わなかった。謝らないで。って言いたいけど、心を軽くするためには言葉に出す方が一番だって、僕は分かっているから、止めることは出来なかった。僕はずっと、楽になりたくて謝っていたんだって、今になって、自分の卑怯具合が分かった。
「ごめんね…!ごめんね…!」
バチ君はずっと、手の甲で拭っていたけれど、それでも収まらないほど、涙が零れて、床に垂れている。本当に辛くてどうしようもない。押し寄せるものでいっぱいいっぱいだけど、どうにか呼吸はしたい。気持ちを吐き出したい。バチ君は、そんな気持ちで謝っているのだろう。…普段から保険をかけて、逃げ道を作っている僕とは大違いだ。でも、保険ばっかりかけている僕でも、バチ君を支えてあげたい。だから、バチ君に尋ねた。
「…分かった。でも、触れるのは無理でも、一緒に居ることはできないかな。もう少しだけでも良いから、ここで。支えたいんだ。」
バチ君は僕の方を見て、少しの間固まっていた。手は差し伸べられるけど、掴んでもらえない。でも、寄り添うことはできる。僕はそう思って、静かに微笑んだ。
バチ君は少しの間、深呼吸をしながら体調を整えていたけれど、少しして、段々と、顔がぐしゃぐしゃになり、涙がぼろぼろと溢れて、ついには大きな声で泣きながら、言った。
「俺もっ、一緒にいだい…!げーぎどいっ、じょに…いでもいいがな…?」
「うん。良いんだよ。」
「おれ、いっじょにいた、ら、ぎずづげじゃうがもじれないげど、ばがだがらいろんなめいわぐがげじゃうげどっ、いいの…?」
「馬鹿なんかじゃないよ。…一緒に居ようよ。」
僕は心の底から安心した。良かった。この、小さくて元気な光は、もう独りになることは無いのかもしれない。少なくとも、今だけでも、独りにはならない。消えないんだ。それだけで、嬉しかった。バチ君は少しの間嗚咽を漏らして泣いていたけれど、もう一度大きな声をあげて泣き始めた。
「うん…!いっじょに、いる…!」
部屋に響き渡る泣き声を聞いても、もう心は痛まなかった。この大泣きは、溜め込んでいたものを、解き放つことができた、喜びの泣き声だ。そう思える。…印藤さんや水森さんにも、後で連絡しておこう。既に、沢山の心配のメッセージが届いている。でも、友情は、崩れることは無さそうだ。…心底、安心した。きっと彼らは、これからもバチ君のことを支えてくれる。僕はバチ君の方を見た。バチ君は、床に座り込んで、大きな声を挙げて泣いている。
…もう、泣き声を聞いても苦しくは無い。苦しくは無いのだけれど…。バチ君の目からは、大粒の涙が、止めどなく溢れている。その涙を、僕の手で拭ってあげられないのが、とてももどかしく感じた。
…あれ、どれくらい経ったんだろう。確か、バチ君と、一緒に居ようって決めてから…。…どれくらい経ったんだっけ。混乱して、机に置いてあるカレンダーを見て、日付を確認する。…あれ、十一月…?ついこの前まで、九月だった気がするけど…。っ、頭が…痛い…!これは…徹夜の時に来る奴だ…!今回はっ、早く収まってくれると良いけど…っ!外が明るいせいで、余計に刺激される箇所が増える。僕がうずくまっていると、バチ君がモバイルバッテリーから、心配そうに顔を覗かせた。
「けーき…大丈夫か…?」
その声は、とてもか細い。そうだ。一緒に居ようって決めた後、バチ君は僕の傍に居てくれた。けれど、僕に触れることは決してなく、声もいつもより優しくなり、おとなしめになった。…元気が、減ってしまった気がする。印藤さん達とも、元の関係に戻ったけど、どうにも、遠慮がちな部分が見えているような気がする。そして、絶対に触れない。その様子を見ると、不意に考えてしまう。…本当に、これで良かったのだろうか、と。
「本当に大丈夫か…?けーきが飲んでいるそれ、体に良くないって聞いたぞ。」
僕は頭を抱えて、机からゆっくり顔をあげようとした。きっと、コーヒーのことを言っているのだろう。
「けーきは怒るかもしれないけれど…それ、コーヒーよりも、何倍も危険なんだよ…」
「え?」
つながるはずの無い言葉が、つながっている文章が聞こえてきて、僕は思わず顔を上げた。机には、何本ものエナジードリンクの缶。そのうち一つは、煙草が入っており、飲み口の周りには、煤が散らばっている。
…?…え、え?なに、これ…。何が、どうな、って…?…机を、間違えたのかもしれない。だって僕は、エナジードリンクを飲まない。味が苦手だからだ。それに、煙草も絶対に吸わない。でも、パソコンは僕のパソコンだ。電源が切れている状態だけど、右下に、バチ君が選んでくれた、アニメキャラのステッカーが貼られている。…どういう、ことなんだろう…。もう一度、机を眺めてみる。目に入った煙草の味を想像して、少しむせかえる。それに、さっき、『怒るかもしれない』って、バチ君は言った。けれど、僕は怒らない。というか、怒れないからだ。ましてや、バチ君に怒るだなんて。そんなわけがない。
「…ねえ、バチ君。僕…最近、何があったの?」
「え?…覚えてないのか?」
「うん。何にも…」
「けーき、最近ピリピリしてたぞ。エナジードリンクを沢山飲んで、煙草も沢山吸い始めて…。別に、けーきが良いなら、俺は良いんだけどさ…。その、やっぱ、心配だよ…。っ、あっ、怒んないでくれよ!?」
「怒るって、僕はそんなこと…っていうか、え?…これ、全部、僕が使ったの…?」
「…え?そうだけど…。俺が止めても、けーき、『うるせえ、俺の言うことに指図するんじゃねえ』って…」
「そんなこと、絶対に言わないよ!?」
「ひっ!お、怒んないでよ…」
バチ君の証言、態度全てが、僕にとって身に覚えが無い。…本当に、何が起こっているんだ…?怖い。身に覚えが無いものばかりで、怖い。体に悪寒が走り、震えてきた気がする。もう一度机にあったものを見た。…どれも、僕が生きていくうえで使わないはずのものばかりだ。これ、全部、僕の体の中に…
「うっ…!」
「けーき…?」
体が、拒否反応を起こしている。すごく気分が悪い。どうにか…収まってくれ…!
僕がそう願っていると、隣から聞き慣れた声が聞こえた。
「けーきさ~ん!ヤニ休憩行かねっすか~?」
僕はうずくまって、声のした方を向いた。佐藤君だ。けれど、いつもよりも、大分口調が軽い気がする。
「って、あれ?具合悪いんすか?そんなガバガバエナドリキメるからっすよ~。本数決めて飲まねえと~。」
やっぱり、聞こえてくる単語は、違和感しか無い。エナジードリンクなんて、飲んだ覚えが無いのに。
「ねえしょういち。けーき、なんか変なんだ。一ヶ月くらい前からそうだったけどさ…」
「お、バッチ~。って、何が変なん?確かに一ヶ月くらい前からキャラ変わって驚いたけどさ。」
「それが、急に戻ったみたいになってさ…」
「…へ?まじ?先輩、大丈夫ッスか?ヤニ入れたら、頭冴えるんじゃないすか?」
「佐藤君…君…煙草、吸ってたの…?」
「へ?そうっすよ?…覚えてないんすか?先輩、喫煙室に入ってきて見たでしょ。」
「…?」
「意外な一面過ぎたっすけど、俺、こっちの先輩の方が好きっすよ。だから、取り繕わなくていいっつーか…なんつーか…とりあえず、大丈夫ッスか?」
「…だい、じょうぶ、だよ…」
心配させまいと、僕は答えた。すると、佐藤君は僕の背中を叩いて言った。
「いや、『舐めんな俺は最強だぞ』って言わないんすかー!」
「うぐっ、ごほっごほっ…」
「…まじで大丈夫ッスか?」
佐藤君はようやく笑うのを止めて、真剣に僕を見た。
「…何があったか分かんないっすけど、先輩って、バッチーの件といい、本当に何か持ってるんすね。…羨ましいな~。」
そして、再び呑気な口調へと戻った。笑い事では無いんだけどな…。とにかく、一度スッキリしたい。頭も、心も。まずは口をゆすごう。そして、水を買ってきて、胃の中を…
「あれ、せんぱーい。結局ヤニ休憩行くんじゃないすかー。」
「え?」
手元を見ると、僕の手には残り一本の煙草が入った煙草ケースが握られていた。…何で…?僕、考えてなかったのに…!思わず、煙草ケースを落としてしまった。乾いた音が、オフィスに広がる。手が震えて、視界も少しクラクラする。
「先輩、肩貸しますよ。…何処か行きます?」
「うん。…悪いね、本当に。」
「気にしなくて良いっすよ。あ、バチも連れてきます?」
「…うん、お願い。色々と、聞きたいし、誤解を解きたいから。」
「了解っす。」
佐藤君はそう言って、モバイルバッテリーを取ってくれて、僕のポケットに入れてくれた。
「そんじゃ、行きますか。俺も休憩したかったすから。」
そう言って、佐藤君が肩を貸してくれた時だった。
「夜雷いるか?」
ドアが勢いよく開くと同時に、低く、芯のる声が聞こえた。虚ろな目で見ると、菊池部長だった。…僕が、呼ばれている。…何かやらかしたのかな…?怒られることは慣れているけど、どうしたんだろう。
「はい…」
「チッ、何だらだらしてんだ。こっち来い。」
「…えっと、分かりました…少し、顔を洗ってきてからで良いですか…?気分が優れなくて…」
「ふざけてんのか?いいから早くこっち来い。」
「…はい。」
行くしか、ないみたいだ。僕は佐藤君の肩から、ゆっくりと腕を外した。
「ありがとうね。休憩、また今度一緒に行こう。」
「…了解っす。」
そして、一度顔を手で覆って、気持ちを整えると、そのまま菊池部長についていった。
薄暗い廊下に出て、少し先の角を右に曲がった部屋に通された。道中、菊池部長が何も言わなかったことが、余計に怖く感じる。誰も居ない、窓が一つしか無い個室。その部屋中に、ドアが勢いよく閉まる音が響く。思わず、体がビクッと震え上がる。その反動で、少し具合が悪くなる。少し、無言の時間があった。
『要件は、何でしょうか。』
そう言いたいけど、言える空気では無い。どうしたものか…そう思っていると、また低い声が聞こえた。
「お前、最近たるんでるぞ。ミスも多いし、煙草を沢山吸っているし、真面目にやってねえよなぁ?」
「え…そうなん、ですか?」
思わず、そう聞き返してしまった。まずい、と思ったときには、もう遅かった。
「は?舐めてんじゃねえぞ!」
大きな声が響き渡った。体が、硬直していく。
「お前よ、ただでさえ使えねえ奴が多いのに、腑抜けた事言ってんじゃねえぞ!お前拾ってやった恩を忘れたのか?何年この会社に世話になってると思ってんだ?」
「…はい。」
「そもそも、あの使えねえ奴らを使えるまで育てるのがお前の役目だろうが!なのに最近のお前は使えねえし、役立たずはどんどん増えていくし、イライラすんだよ!お前の役目を放棄してんじゃねえぞ!」
怒号と悪口による不安と恐怖が入り交じって、お腹の中がグルグルしているように感じる。どんどん、お腹の中に、変なものが溜まっていく。
「はぁーだりぃ!あのな、お前がミスする度に、上がうるせえんだよ!てめえの部下のミスも、俺の責任になるんだよ!ようやく出世したってのに、イライラすることばっかりだ!これ以上俺のストレス増やしてんじゃねえよ!」
怒号が響く度に、お腹の中が揺れて、体調が悪くなる。でも、今は話を聞かないと…そう思っているのに、体調は悪くなっていくばかり。前も見れないほど気分が悪い。
「おい、聞いてんのか愚図!そもそもお前が使えねえからこういうことが起こってんだぞ、給料泥棒が!ゴミ屑が!なのに最近は態度もふざけてきやがってよ!」
視界が、回る。怒号が、耳に響いて、頭が痛い。
「お前の代わりなんていくらでもいるし、今クビになったら、もう就ける職がねえってことは分かってんだろうな?それが嫌だったら、どうすれば良いか分かるよな?」
どうしよう、立ってられない。呼吸が、うまく出来ない。
「黙ってんじゃねーよぼけ!返事くらい出来ねえのか無能が!」
まずい、顔を上げないと。そう思って顔を上げると、部長が拳を振り上げていた。…嘘。そう思っている間もなく、拳が飛んでくる。
あ、ぶつかる。そう思っていた時だった。
「…っ、けーきを、いじめるな!!」
モバイルバッテリーから大きな声が聞こえて、バチ君が飛び出してきた。驚くよりも前に、バチ君が僕の前に出て、護ってくれようとしていた。…でも、もう、立ってられない。僕は少し後ろに、尻もちを着いて倒れた。
「なんだお前は!どけ!一発殴ってやらねえと気が済まねえ!」
「いじめるな!許さないぞ!」
バチ君は大きな声でそう言うけど、足は少し震えている。…バチ君も、怖いんだ。…それなのに、僕のために…!
「バチ君、良いんだ、無理しないで…」
僕がそう言っている途中で、菊池部長は、殴りかかってきた。
「バチ君!」
「っ!」
僕は思わず、目を反らしてしまった。しかし、次の瞬間聞こえてきたのは
「ぐぁぁぁぁぁぁ!?」
菊池部長の、むごたらしい叫び声だった。…え?何が、起きているの…?そう思って、顔を上げてみた。…痙攣している手、白目、口から吹く泡。…菊池部長が、感電していた。もちろん、感電した原因は…僕と同じ、呆然とみている、バチ君だった。
「…え?…え?」
困惑しているバチ君の前で、菊池部長は、ばったりと倒れて、痙攣を起こしていた。全身は黒焦げで、菊池部長だと分からないほどに、黒い。僕は、何が起こったのか分からないけれど、菊池部長に急いで駆け寄った。
「部長!?…部長!?」
何度も呼びかけてみたけれど、痙攣をしているだけだった。触れてはいけない。恐らく、感電をしているから。まだ意識はある。けれど、早く救急車を呼ばないと、命が危ないかもしれない。
「っ、バチ君!僕のスマホから、119番を押して電話、を…」
そう言いながら、僕はバチ君の方を見た。バチ君は、酷く驚いて固まっている。
「あ…」
思わず、言葉が漏れた。そうだ。菊池部長が倒れてから気が付かなかったけど、この状態にしたのは、他でもない、バチ君自身だ。バチ君の力で、部長を黒焦げにしてしまったんだ。そう思った時、血の気が引いてしまった。傷つけることを恐れていたバチ君は、この状況を見てしまったら、どう思うのだろう。僕が重傷を負って、バチ君はショックで震えてしまった。部長は、生死は分からないけれど、狭間を彷徨っているほど、僕より更に重症な状況だ。そんな状況を見てしまったら、バチ君は…。
…いや、駄目だ!考えさせちゃいけない!それに、このまま人が来たら、確実にバチ君だって、ばれてしまう。バチ君は人間じゃないし、世に出たら、どんな目に遭うか、いや、どんなことを言われるか分からない。そうしたら、嫌な想いばかり味わってしまう…!そんなのは、嫌だ!
「バチ君、電話で119番を押して、電話をかけてくれないかな!?」
「けー、き…俺…」
「早く!!お願い!!」
「っ、うん!」
バチ君は一度我に返り、僕の落としたスマホを手に取った。
「ロック画面の左下に電話のマークがあるから、そこを押して欲しい!電話がかかるから、かかったら貸してくれないかな!?」
「わ、分かった!」
僕はその間に、菊池部長をちらりと見た。…むごい。それに、散々酷い仕打ちもされた。けど…助けないと!見捨てて良い人なんて、いない!
「せんぱ~い?何かあったんすか~?って、はぁ!?」
扉が開く音と同時に、佐藤君の驚く声が聞こえた。
「なんなんすかこれ!?」
「佐藤君…」
知っている人とはいえ、まずい現場を見られてしまった。一瞬、思考が固まる。けれど、今はそれどころじゃない。頼れる人は、頼らないと!
「佐藤君!バチ君を連れて、別の場所へ行ってくれないかな!?」
「へ?」
「バチ君がここにいたら、バチ君がやってしまったとしか思われない!そうならないように、連れて、離れて欲しい!」
「はあ?え、そう言われても…っていうか、やったのは事実なんだから、何で先輩がかばうんすか?」
「お願い!今は佐藤君にしか頼めないんだ!…頼むよ…!」
「…」
佐藤君は少しの間、僕のことをじっと見つめていた。
「けーき!つながった…!」
「あ、ありがとう!」
僕は電話を受け取って、救急車の方に話をした。
「もしもし!?すみません、感電してしまった人がいて…!はい、はい、住所は…」
僕がそう話していると、視界の隅で、佐藤君が動いた。
「バチ、離れるぞ。先輩からの命令だ。」
「でも、そうしたらけーきが…!」
「いいから、来いよ。先輩の気遣いを、無駄にしたくはないだろ?」
「…!うん…」
バチ君はそう言ってうなだれると、モバイルバッテリーに入った。
「すげえ…。」
佐藤君はそう呟くと、モバイルバッテリーを手にして、僕の方に目配せをした。
「…はい。はい、分かりました。待っている間、できることは…!はい、分かりました!佐藤君、ゴム手袋を持ってきてくれる!?」
「了解っす!」
「ありがとう!…はい、はい、分かりました。宜しくお願いします。」
今できることは全てやった。後はこの後…どうなるか、だ。何にせよ、どうか生き延びていて欲しい。死んで欲しくないし、それに、バチ君のためにも…!
しばらくして、救急隊が到着した。それに、何故か警察も。様態を見て、救急隊の方は少し言葉を失っていた。菊池部長が運ばれた後、僕は別室にて、警察の方に事情聴取をされた。
「…はい、そうです。…急に、目の前で感電して…。本当なんです!僕にも、何故だかさっぱり…」
当時の様子を聞かれても、そう答えるしか無かった。怪しく思われても仕方がないけれど、バチ君が捕まるよりかは、何十倍もマシだ。そう思って、僕は下手な嘘で、事情聴取に答えていた。
事情聴取も一通り終わり、話の流れからみるに、無事に解放されるかもしれないところまで来たときだった。突然、一人の男性が、部屋に入ってきた。そして、警察官の方に何やら耳打ちを始めた。しばらくして、耳打ちが終わり、警察の方が言った。
「詳しくお話を聞くため、署まで同行をお願いします。」
「…ええ!?」
否応なしに、僕はそのまま連れられて、パトカーに乗せられてしまった。
「そんな…!」
僕がそう呟いたときに、窓の外に佐藤君が見えた。そうだ。僕はどうだっていい。バチ君が無事ならば…!そう思った時、衝撃の光景が見えた。佐藤君が、僕に向かって手を振っていた。それも、笑顔で。
「…え?」
思わず、口に出して呟いた。この光景を、呑気の一言では片付けられない。
「何で…」
そう呟く間に、パトカーは発進し、佐藤君達も見えなくなってしまった。
着いたところは、とても大きな建物がある場所だった。信じたくないけれど、大きく『警察署』と、建物に書かれている。下から覗くと、圧巻としか言いようが無い。
「嘘でしょ…」
思わず、そう呟いてしまうほどには大きかった。手錠をかけられた不自由なままで、僕は警察署の裏口から、奥へ、更に奥へと進まされた。そして、寂しい場所にある突き当たりのエレベーターまで案内された。さっきまでは人の声がいくらか聞こえていたのに、随分外れまで来たのか、もう人の声は聞こえなくなってきた。僕達の足音が、カツカツと響くだけ。それが、僕の緊張感を、極限まで高めている。エレベーターに入ると、エレベーターは、下に下がっていった。警察署にも地下はあるんだ。そう思いながら、この後のこと、残されたバチ君のこと、佐藤君が残した意味深な笑みなど、様々なことを考えていた。すると、急にエレベーターは、後ろに下がり始めた。
「うわぁ!?」
予測していなかった方向に働く慣性に、僕は驚いてよろけてしまった。僕の周りにいた二人の人物に起こされ、どうにか体制を整えた僕は、今度は上に移動するエレベーターに困惑していた。これは…何処に向かっているの!?いや、それよりも、何が起こっているの!?エレベーターの中では何も見えないから、余計に不安が募る。
ようやく、エレベーターが開いた。そこは、あまり変哲の無い、オフィスのような場所だった。グニャグニャとした移動で通されたにしては、思ったより普通の場所だった。窓の外を見ると、見覚えのある景色が見えた。
「あれって…エスベルトタワー!?」
警察署の少し遠くにあったはず…ってことはあのエレベーター、すごい長かったってこと!?いやそれよりも、ここどこ!?一つ分かるのは、ここは明らかに警察署では無いって事だ。
「ようやく来たのね、夜雷さん。」
聞き覚えのある声が聞こえて、僕は振り返った。
「貴方は…あの時の、ハンカチの方…!?」
金髪に、パリッとしたスーツ、それに、スタイル抜群の容姿。忘れるはずが無い。駅前でも、会社の脇でもあった、あの人だ。でも、なんでここに…!?
「ナンパならお断りよ。」
「いや、してないです…。いや、それよりも、何故ここに貴方が…!?もしかして、警察の方なのですか?」
「いいえ。私は違うわ。別の組織、と言っておくわ。」
「べつの組織…?」
僕が尋ねると、女性は長い髪を指で払い、言った。
「その話は、別の部屋で行うわ。ついてきて。」
そう言って、ハイヒールをカツカツと鳴らしながら早足で行くものだから、僕は不自由な格好で急いで追いかけた。移動する途中、僕は女性に尋ねた。
「あの、ここは何処なんですか…?確か、あのタワーの周りに、こんなきっちりした場所は無かったような…」
「…まあ、貴方は今後とも関わっていくだろうし、離しておくわ。ここは、表向きは廃ビルなの。実際に、表の入り口から入ったところで、中は荒れ放題の廃墟同然なんだけども、警察署の奥の入り口からのみ、ここに辿り着くことができるの。」
「警察署の入り口のみ…ってことは、この、その、よく分からない場所は、警察と深く関わっていると言うことなんですか?」
僕がそう尋ねると、女性は口に指を当てて、僕の方を見て言った。
「そんなにがっついて質問すると、女性に嫌われてしまうわよ。」
「あ、ああ…すみま、せん…」
色々と大変な状況であるのに、少しドキッとしてしまった。いけない、バチ君は今も大変な状況だし、何より…安否が分からない。佐藤君のあの笑みは、何だったのだろうか…菊池部長は、無事であるのか…。
「着いたわ。さ、中に入ってちょうだい。」
女性はそう言って、ドアを開けて中へ招いてくれた。中は机と椅子だけのシンプルな空間。素直に中に入ると、女性は、僕の後ろにいた黒服二人に向かって、
「貴方たちはここにいてちょうだい。」
そう言って、ドアを閉めた。部屋の中には、女性と僕二人きり。この女性との会話で、僕の頭の中の混乱が、一つでもほどければいいんだけど…。
女性は、僕の正面の椅子に、足を組んで座ると机の上に肘を立て手を組み、その上に顎を乗せて、こちらを窺うように話しかけてきた。
「以外と、普通の方なのね。」
「え、ええ…まぁ…」
その通りなんだけど、面と向かって普通と言われたことは無かったから、違和感を感じる。
「『特殊生命体 E―4037を飼い慣らしているから、どんなすごい人かと思ったのだけれどね…見かけによらないのかしらね。』
「…?その、E―4…なんとかって、一体…」
「ああ、貴方がいつも連れている生命体の事よ。」
「いつも連れている…もしかして、バチ君の事ですか!?」
「あら、貴方、あれに名前を付けているのね。貴方が言うバチとやらを、私達はそう呼んでいるわ。」
女性はそう言うと、また長い髪を指で払って、僕の方を見て言った。
「名乗るのが遅れたわね。私の名前は『アリス・ダブル』。気軽にダブルと呼んでも良いわよ。」
「あ、僕の名前は…」
「夜雷啓輝さんでしょう?資料に載っていたから知っているわ。」
「あ、はい…」
そっか、知ってるか…そりゃそうか。
「それで、E―4037…面倒くさいから、バチでいいわね。バチについて話すべき事があるわ。」
ダブルさんの芯の通った真面目な声が聞こえると、部屋の空気は一気に張り詰めたような気がした。思わず、椅子に座り直す。
「これを見ながら聞いて欲しいわ。」
そう言ってダブルさんが指を鳴らすと、近くの壁にホログラムが写し出された。
「わぁ…!」
見たことの無い技術に、少し心が躍りつつも、僕は写し出されたホログラムの形を見た。円くて毛玉のようで、顔らしきものがある。間違いなく、バチ君と初めて会ったときの姿だ。
「元々、バチはこのような姿だった。隕石から見つけたときも、このような姿だったわ。」
「隕石…!?」
「ええ。元々、バチはある日落ちてきた隕石の中から現われたのよ。半年くらい前に、小隕石が落ちてきたと、話題になったことがあるでしょう?」
「…え?そんな日、ありましたっけ…?」
「はあ?知らないの?貴方、どうやって生きているのかしら?」
そこまで言わなくても…でも、本当にそんなニュースがあったとしたら、僕だって覚えているはずだ。なのに、何も知らない。どうしてなんだろうか…
「まあいいわ。とにかく、私達『SGJP secret great job professional』は、隕石を調査しに行った。」
「しーくれっと、ぐれいと…なんと言いました?」
「嫌だわ。もう言いたくないもの、あんなダサい名前。文句ならここの社長に言ってちょうだい。」
僕の疑問を、ダブルさんはそう一蹴すると、話を戻した。
「隕石で見つけたその生命は、ぐったりとしていたけれど、息はあった。バチにはコアがあるのだけれど、そのコアを適切な状態で保存しておくことで、息を吹き返させることが出来たわ。」
「コ、コア!」
「ええ。実は存在するの。そのコアを使って、彼の位置を特定する手がかりにすることもできた。恐らく、コアが消滅したら、バチも消滅する。そのくらい密接で、重要なものだわ。」
「消滅…」
「おまけに、検査の結果、電力の何倍も強いエネルギーを、体の内部に秘めていた。そして、常に微弱な電力を身に纏い、未知数の胞子のようなものを飛ばしている。謎に満ちた生命体であったけれど、生命の源は電力であることには間違いは無かった。」
「確かに、電子機器の中にも入り込めますし、コンセント口にはりついて、電気を食べていたこともありましたね…」
「そうなの?興味深いわ。後でメモを取らせてちょうだい。それで、更に調査した結果、その纏うエネルギーが、今後の地球を救うかもしれないエネルギーになり得るかもしれないことも分かった。…貴方が今携わっている、エレカよ。」
「…!どうりで、似た力を持っているはずで…!」
「ええ。調査は必要であったけれど、ほぼ確実に、日常でも使用できるエネルギーになり得ることは分かっていた。後は、より深く、細かく調査していくだけ。そんな時に、バチが目を覚まして、脱走をしたの。」
「脱走!?」
「ええ。恐らく、コードというコードを辿っていったのだと推測できる。うかつだったわ。逃げ道は全て塞いだと思ったのに、マシンを起動させるために必要なコードをつたって逃げるなんて…アリス、何てことなの!」
ダブルさんは自分を責めているらしく、爪を噛んで悔しがった。突然だったからびっくりしたけども。ダブルさんは爪を噛むのを止めると、続きを話し始めた。
「そして、その生命体の後を、町中、いや、日本中の監視カメラを使って突き止めた。もちろん、警視庁と協力してね。」
「やっぱり、警察の方と深く関わりがある組織なのですか…?」
「ええ。私達は、警察の専門分野では無い、不可解な現象や生命体を研究して、危険性を突き止めることが仕事の団体なんですもの。公表すると色々とややこしいから、秘密裏にされているのよ。それと、さっきから脱線が多いわ。少し静かにしてくれないかしら?」
「あっはい…」
僕が黙ると、ダブルさんは満足をしたのか、話の続きを始めた。
「そして、監視カメラを探した結果、貴方を見つけた。深夜のオフィスで、不気味に仕事を続ける貴方をね。」
それって…!…いつのことだろう。バチ君は、気が付いたら僕の傍に居たから、経路が分からない。けれど、僕の会社は残業は当たり前だから、そんなことをやっていたと言われても、何も驚かない。
「最初はすぐに捕獲に入ろうとした。けれど、バチはいつの間にか、言葉を覚えていた。貴方と、意思疎通が出来るようになっていた。…知らない間に、バチは進化をしていたのよ。その事実に、我々は驚愕したわ。だから、危険性はあったけれど、そのまま貴方の元において、観察を続けることにしたの。電気の停止や、注入、操作…あの子って、本当にすごいのね。私達の予想を遙かに超えてくる。おまけに、人型になることまで出来るなんて。流石にあの時ばかりは、興奮を抑えられなかったわ。」
僕が混乱している間に、そんなことが行われていたなんて…。…ん?興奮?その状況下で?そう尋ねたかったけれど、また怒られるのは嫌だから、黙っておくことにした。
「変身、戦闘、おまけに感情までもを宿すなんて…人間に近づいているのは、本当にすごい。想像の域を遙か高く飛び越えてくるの。もうずっとドキドキしちゃって…観察、本当に楽しかったわ。ずっと続けていきたいくらい。」
「はぁ…」
この緊張感の無さに、流石に声は出てしまった。
「でも、そうはいかなくなった。民間人にまで被害が出てしまったのだもの。…先程の、菊池という男が、被害に遭った。」
その声は低く、僕のことを問い詰めるような、脅しているような声だった。思わず、溜まっていたつばを飲み、姿勢を正す。
「私達は市民の安全を守るために活動をしているの。…表向きだけれどもね。それなのに、被害を出してしまっては、もう調査を続けられない。畜生では無いもの。私でも流石に危機感を覚えたわ。だから、夜雷啓輝。率直に言うわね。」
ダブルさんは机に手を勢いよく置くと、僕の目を見て、はっきりとした声で言った。
「バチを、私達に引き渡しなさい。」
「…!」
一緒に居よう。そう約束したばかりなのに、その約束は正に今、打ち破られそうになってしまった。
「もちろん、面会は許可するわ。観察していたところ、貴方は随分とバチと仲が良さそうだったじゃない。護って、護られる。そんな関係であるほどに。私達も、鬼では無いもの。」
それならいい、とはならない。だって、あの子には元気で、明るく、そして…自由でいて欲しい。小さい子が背負うべきでは無い力を、たった一人で背負っている。そして、その力の恐ろしさに気が付いてしまって、今は苦しんでいる。そんな状況であるバチ君を、引き渡すだなんて…!そんなの、嫌だ!僕は手と足の指先に力を込めて、絞り出すように言った。
「…ぃや、です。バチ君は、渡せません…!」
「まあ、そう言うと思ったわ。端から簡単に交渉成立するとは思ってもいないもの。」
ダブルさんは、驚くほどあっさりと、そう答えた。必死で答えた僕も、思わぬ軽い返事に、拍子抜けしてしまった。
「でも…」
けれど、ダブルさんは、もう一度、今度はさっきよりも強めに机を叩くと、さっきよりも芯の強い声で言った。
「バチの危険性を知っても、まだ言えるかしら?」
「っ…!」
そこを突かれると、少しだけ痛い。けれど、約束したんだ。だから、屈する気は無い。
「感電の危険性なら、僕はもう気にしていません。それに、分かっています。だからこそ、慎重な対応をしているんです。それだけで、離れたりはしませんよ。」
「それだけじゃないのよ、バチの危険性は。」
「…え?」
「これを見て。」
そう言って、ダブルさんがホログラムを指さす。すると、ホログラムに、何か説明と、何かの図表が出てきた。
「バチの身に纏う電気が枯渇した時を、貴方は見たことがあるかしら?」
「…え?そう言われると、無いですね…」
バチ君はお腹が空いたらしいときは、勝手に電気を食べたり、お菓子や食事を取っている。だから、枯渇した時というのは、見たことが無い。
「いえ…」
「実はね、過去にコアを、自らの手で触れて、調べた学者がいたの。…私の同期なんだけどもね。長い間、調べていた。危ないかもしれないって、何度も言っていたのに…。それでも、調べることを止めなかった。…環境と、時間が悪かったのよ。その人、どうなったと思う?」
「…え?」
突然の質問に、僕は困惑した。えっと、何て言えば良いんだろう…
「…えーと…」
「分からないと思うわ。だって、想像したくないだろうからね。」
ダブルさんはそう言った後、ホログラムに触れ、少し切ない表情で言った。
「…私が研究室に入った時、彼の姿を見た。…彼は、徐々に塵となって、コアに吸い込まれていたの。」
「…え!?」
え、え?塵?塵って…あの?…どういうこと?頭が追いつかない。
「こっちを見て、まるで『ごめんな』って言っているかのような彼の表情…一生忘れることは無いわ。私が何とかしようとしたところで、同じように塵になるだけだったでしょうね。だから私、部屋の外に行って、ドア窓から見ていることしか出来なかった。…ほんとうに、馬鹿。」
そう言ってダブルさんは、ホログラムに触れていた指を少しなぞるように動かした後、僕の方を見て言った。
「後の実験で、そのコアは、電力が枯渇したら、周りにある有機物をエネルギーに変え、吸い取って糧にしていくということが判明した。絶縁体である有機物が電力に変わることは謎だったけれど、バチが感情を宿したときに、悟ったわ。無機物が、人間の真似をするためには、他の有機物から命を吸い取る必要があるからだ。って…」
「…!」
「私達人間は…いえ、生命は、全て有機物なの。」
その言葉は、念押しのように思えた。ダブルさんは、声のトーンをいつものように戻すと、僕を見て言った。
「さて、ここまで説明すれば、賢くない貴方でも分かるでしょう。あの子は危険な生き物。コアの力がバチに及んでも、可笑しくは無いのよ。…貴方も、塵となって消えたくは無いでしょう。」
「…」
塵となって、消える。…どんな痛さなんだろう。いや、どんな怖さがあるんだろう。想像が出来ない。けれど、きっと怖いことだって、嫌でも分かる。覚悟なら沢山してきてけれど、流石に塵になる覚悟は出来ていない。…怖い。
…でも。バチ君は、命を張って僕を護ってくれた。だったら、僕も命を賭して護らないといけない。あんなに怖い敵に、怖かっただろうに、立ち向かってくれた。それなのに、僕が逃げて言い訳が無い。今なら、日常に引き返すことが出来る。けれど、今だけは逃げちゃいけない。…前へ踏み出すんだ。もう、逃げないように。護るって…決めたんだから!
「それでも、バチ君は渡せません。」
喉の奥はまだ震える。恐怖は完全に拭えなかった。けれど、両足は踏ん張って、ダブルさんの目を見て言うことは出来た。…逃げ道を、自分で消すことは出来た。
「…そう。だったら、無理矢理連れて行くだけね。」
ダブルさんは淡々とそう言った。
「待って…!」
僕がそう言いかけたとき、ダブルさんは僕を蹴って椅子から倒した。
「うわあ!?」
視界が、勢いよく揺れる。そして、転がった僕を、ダブルさんは上から押さえつけた。相手は女性なのに、身動きが取れない。それどころか、どんどん息が苦しくなっていく。上から、圧力をかけられているせいで、呼吸が…っ!
その息苦しさは、鉄が擦れる音が聞こえたと共に、解放された。
「ぶはぁっ!!」
目一杯遺棄を吸った後、呼吸を整え、足下を見た。見ると、僕の足と、部屋の机の脚とが、手錠でつながれていた。
「…!」
これでは、身動きを取ることが、難しい…!部屋の出口も、明らかに机よりも狭い。僕を閉じ込めるつもりなのか…!僕はそう思って、ダブルさんを見上げた。
「恨まないでちょうだいね。民間の安全を護る為なの。」
ダブルさんはそう言うと、ホログラムの方へ歩いて行った。そして、バチ君のホログラムを消すと、何やらマップを表示し始めた。
「貴方は動けないけれど、せめて、バチの居場所を見せてあげるわ。…あら、会社から動いていないのね。」
「え?」
おかしい。僕は確かに、離れて欲しいと告げたはずだ。それなのに、なんで…
「この人は…確か、貴方の同僚ね。名前は佐藤照一。もう少し近づいて、音声もつけて見てみましょうか。」
その声と同時に、遙か上空から見下ろしていた視点が、僕の勤めている会社にズームアップして、一気に、佐藤君の居る部屋が移された。そして、少しのノイズ音の後、声が聞こえた。
「なあ…しょういち。けーきの言うとおり、離れなくて良いのか?」
離れたそれ程立っていないだろうに、懐かしく感じる声だった。けれど、バチ君がそう呼びかけている相手である佐藤君は、全く返事をせずに、バチ君を眺めている。…どうしたのだろう。
「なあ、しょういち。けーきが…」
「はぁ…うっせえな、けーきけーきって。今のお前を管理しているのは、俺なんだぞ。少し黙ってろよ。」
「「…え?」」
ホログラム越しのバチ君の声と、僕の声が重なる。…え?彼は本当に…あの、人なつっこい照一君なのか…?そんなはずはない。彼はいつも明るくて、お調子者で、でも、皆の癒やしで、良い子で…
「はぁ…しかし、ようやく手に入れた…特別な生き物。これで、俺も特別になれるのか!!」
佐藤君(?)は、笑いながらそう言った。信じたくない。けれど、声も、姿も、特徴も、まるっきり僕の見覚えのある佐藤君だった。…なんで。
「それにしても、ほんっっとにあの人はイライラしたなぁ…。俺に出来ねえことを、当たり前のようにこなして、こんなすげーもん連れてる特別な存在で、名前も特別で、皆からも特別扱いされて、なのに!!謙遜ばっかりして…。ああああ!ほんっとにイライラする!」
佐藤君はそう言って、頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
「何言ってるんだ…?早く、けーきを助けにいこう。けーき、捕まっちゃったんだぞ!?」
「だから?捕まってくれた方が清々する。」
佐藤君は淡々とそう言った。
「俺はずっと普通だった。名前も学力も行動も性格も家庭も環境も何もかも全部全部全部!…これからは、俺が特別になれるんだ。お前さえいればな。もうあのうざったい奴もいないし、クソみたいな部長も死んだだろうし、ほんと、生きやすくなるなー!」
佐藤君はそう言って、伸びをした。
「え…?死ん…だ…?」
バチ君の声が、少しずつ暗くなっていった。
「あ?死んだに決まってるだろ、あれ。あの状態で生きていたとしても、只の生き地獄だろうし、どのみち殺したことに変わりはねえだろ。ああでも気にすんな。あいつめっちゃムカついたから、死んで清々したわ。ありがとよ、バッチー。」
「………嘘……また、傷、つけた…の…」
「彼、言い性格しているわね。」
ダブルさんは淡々とそう言った。僕はずっと、信じられなかった。目の前で起きていることは、偽の映像で、本当の佐藤君達は、今もどこかで逃げていて…。でも、映像は、何度見ても本物だ。何度目をこすっても、何度耳を掻いても…
「また………俺の、力で…?」
「ああそうだよ。お前自身の力で、あのクソはげを殺して、先輩を刑務所送りにした。」
「俺…危険なの…?」
「まあな。でも安心しろ。俺が、お前の力を有効活用してやる。だから大人しくしてろ。」
その声と共に、佐藤君は、モバイルバッテリーにゴム手袋を被せた。
「うわぁ!?」
くぐもったバチ君の声が聞こえた。
「バチ君!」
「無駄よ。こちらから声は届かないもの。安心しなさい。私達が回収するから。」
相変わらず淡々とした声で、ダブルさんはそう言った。けれど、そういう問題では無い。一刻も早く、解放してあげたい。
「案外これでいけるもんなんだな。やっぱり電気系の生き物だから、絶縁体で包めば攻略はできるかも…」
「出して!ねえ、出して!」
「出す分けねえだろ。っていうか、人殺すほど危険な力を持っている奴が、暴れても良いのか?再び人、殺すことになるかもしれねえぞ?」
「…!」
その残酷な一言を聞いて、バチ君は静かになった。…酷い。バチ君の心の傷をえぐって、無理矢理黙らせるなんて…!
「お、大人しくなった。さ、これで俺の人生も明日から特別になるぞ~っと。まずはどうしようかな…この会社辞めて…あ、いや、社長恐喝して、会社乗っ取るってのもありかもしれねえなぁ~。なんせ、この力があれば、人を殺せんだからよ。はっはっはっは!」
佐藤君はそう高笑いしていった。
「…民間の目にさらされると、こうやって悪用されかねないのよ。だから渡して欲しいのに…」
ダブルさんは少し悲しそうにそう言った。
「ま、位置は分かったことだし、後は私達の仲間が回収してくれるでしょうね。」
どうにか、阻止しないと…!でも、この状況でどうやって…
僕がそう思っていると、ダブルさんが声を挙げた。
「あら?」
その声につられて、僕はホログラムを見た。見ると、見覚えのある格好の二人が、佐藤君の前に立ちはだかっている。あれは…!
「…誰、あんたら。」
佐藤君の低い声が聞こえてくる。
「お前が持っている奴の友達。」
「そ。だから早くそれ、渡してくんね?怪我する前に。」
「印藤さんに、水森さん…!」
「印藤剏輝と、水森虎茶雨ね。彼らも、貴方の味方なのね。面倒くさそうだわ…」
良かった、助けに来てくれたんだ!でも、なんであそこに…?
「何それ?っていうか俺、掃除用具返しに行くだけなんだけど?どいてくんね?」
「その中にバチがいるんだろ?見苦しい言い訳をしてねえでさっさと渡せよ。」
「そもそも、片手だけの手袋を、何に使うんだっつーの。」
二人に問い詰められ、佐藤君は少しの間黙っていたけれど、少しして頭を掻いた。
「はぁ…何?お前らも、この特別な力が欲しいわけ?」
「ちっげーよ。友達返せって言ってんの。」
「会社の入り口無理矢理突破してきたから、早くしないと結構人来るよ。本性見せたくねえだろ?」
「…黙らせるか。」
佐藤君はそう言うと、印藤さん達に殴りかかった。
「ラッキー。正当防衛な。」
印藤さんはそう言うと、手慣れた手つきで拳を避け、少しの間攻撃を受け流すと、佐藤君の首の裏を、チョップで叩いた。
「がっ…!?」
佐藤君はその声と共に、ばったりと床に倒れた。気絶したみたいだ。その間に、水森さんが、ゴム手袋からモバイルバッテリーを取り出した。モバイルバッテリーの中から、バチ君が顔を出した。
「こさめ…はじき…!」
本当は泣きたいだろうに、涙を堪えたような声が聞こえてきて、僕は安堵と共に、胸が締め付けられた。…でも、バチ君が救出されて、本当に良かった。
「厄介そうね。」
ダブルさんがそう呟く。でも、その通りだ。格闘技を習っている印藤さん達なら、SGJPの方達と、張り合えるかもしれない。何はともあれ、安全に逃げて欲しいけれど…逃げれるのだろうか。
「スマホ見たら、助けてって、夜雷さんからのメッセージが来て…意味分かんねーって思ったけど…こうなっていたのかよ…」
「救急車が夜雷さんの会社の方に走っていったから、つけてみて良かったよ。そしたら夜雷さんが連行されていくんだもん。びっくりしたわ。…何があったの?」
「…俺が、全部悪いんだ…」
「…そう、なのか…」
「とりあえず話は後だ!会社の警備が何時追ってくるか分からねえから、早く逃げるぞ!」
そう言って、印藤さんは、バチ君の手を掴んだ。
「っ、駄目!」
バチ君はそう言って、印藤さんの手を振り払った。
「どうした?癇癪なら後で聞くからさ。今やべーんだって…」
「そうじゃなくて!俺に、触ったら…はじき達も、し、死んじゃう、かもしれない…だから俺に触っちゃ駄目!」
「はあ?…どうしたんだよ、いったい。」
「…お、れが…俺の、せいで…人、が…死んだ…!」
「…!」
「…」
「俺が力を使ったせいで!俺が余計なことをしたから、人が死んだ!…だから、俺に触らないで…!はじき達まで傷ついたら…俺、もう…!」
声はくぐもり、しゃくり上げたような声が途切れ途切れに聞こえる。顔はくしゃくしゃになり、涙が一滴、こぼれ落ちた。
「耐えられない…!!」
大粒の涙と共に、その言葉は大きな声であふれ出た。
「ごめ、んっ、なざい…!だっ、えられっ、なぐで…!」
何度も聞いてきた、『傷つけたくない』という願望。その願望は実現されることなく、現実に打ち砕かれた。バチ君はついには絶望を味わい、今まで我慢してきたものを、吐き出しそうな感情に変えて、零してしまった。ずっと、ずっとずっと、バチ君が堪えているもの、耐えていたものを、受け止めてあげたかった。でも、僕にはそれが出来なかった。僕にそれが出来なかったせいで、バチ君に長いこと、苦しい想いをさせてしまった。…バチ君の感情は、爆発してしまった。僕が、弱いせいで…!
「…言いたいこと、終わったか?」
「…え?」
予想外の言葉に、バチ君は泣き声を緩めて、顔を上げた。僕は何も言えなかったけど、内心戸惑っていた。
「…頭使うの嫌いなんだけどよ、バチが言っていること、すっげー難しい問題だって事は分かる。」
「…むずかし、い…。すっごく、むずかしい、けど…おれ、ひとりでがんばるから…。」
バチ君が何か言う前に、印藤さんはバチ君の手を掴んだ。腕ではなく、手のひらを、しっかりと。
「…ぅえっ?」
「嫌だ。俺が嫌だから、お前の頼みは聞かない。お前の抱えてること、めんどくさいから今は考えるの止める。以上。」
「え?ちょ、はじき!」
「お前、俺らのことを傷つけたくないってことは、俺らのことが大事ってことなんだろ?」
「そっ、そうだけど!」
「だったら、大事な友達の言うこと聞けよ。大切にしたいんだろ?」
「…!」
戸惑いながらも、バチ君は、もう片方の手で印藤さんの手を外そうとした。けれどその手を、水森さんが、両手でしっかりと掴んだ。
「こさめっ…!」
「…俺も、嫌だからって言いたいけど、それだとお前が混乱しそうだから…少し詳しく話すけどさ…」
水森さんは、口を少しもごもごと動かした後、言った。
「お前が人を傷つけても、お前が例えやべーことをやらかしても、俺たちが知っているお前のままだったら、俺、お前のことを信じれる。お前のこと、よく知っているから。今回だって、何か事情があったんだろ。だったら後で、一緒に皆で考えよう。」
「でも、こさめ達は、関わる必要が無いんだよ…?」
「…あのな、ゲームとかでもそうなんだけどよ…ダメージとかって、メンバーがいれば分割して、軽減することが出来るんだよ。電気だって、流れる人が多いほど、威力も分割できる。…バチ、最近、遠慮していることが多いだろ?その、抱えていることとか、辛いこと、俺らに話してくれよ。その痛みとか、分割できるかもしれないだろ?俺らは、お前が思っているほど弱くは無いぞ。」
「…」
「最後に上手いこといって格好つけようとしたろ。」
「うっせ。」
バチ君はそのまま下を向いて、迷っていた。けれど、また大粒の涙をこぼして、大声で泣き始めた。
「みんなぁ…!」
あ…今の泣き声。あの時と同じ泣き声だ。一緒に居ることを決めたときと、同じ泣き声。聞いていても、胸が痛くならない。抱えていたものが落ちて、楽になったことへの喜びの涙。…良かった。抱えていたもの、少しは楽になったんだね。
「わ、また泣いちゃった…!」
「このままで大丈夫って事か?ならさっさと外出るぞ。」
「逃げても無駄よ。捕まえるわ。」
ダブルさんが独り言を呟く。でも、そうはさせない。何か策があるわけじゃないけれど、皆が頑張っている中で、僕だけ何もしないわけにはいかない。せめて、少しでも自由になれたら…!僕がそう思って、立ち上がろうとしたときだった。
「!?何だあれ!?」
「避けろ!」
ホログラム越しから、印藤さん達の悲鳴が聞こえた。慌ててホログラムを見ると、画面いっぱいに、謎の触手が広がっている。窓ガラスを突き破って、部屋の中に入ってきたみたいだった。…二人は、無事なのだろうか。
「何よこれ…!知らないわ…!ダブルさんは慌てて、他のカメラに切り替えた。そこには、逃げながら階段を降りていく印藤さん達が見えて、そのすぐ後ろから、触手は勢いよく伸びてきた。
「危ない!」
僕は思わず叫んだ。水森さんのすぐ後ろに、触手は勢いよく伸び、壁を破壊した。すさまじい威力で、僕は息を呑んだ。監視カメラは切り替わり、次の画面になった。またしても、印藤さん達が逃げている後ろ姿が見える。しかし、触手が伸びてすぐに、画面は監視カメラ自体を映す映像になってしまった。
「…!?何が起きてるの…!?」
ダブルさんは焦って切り替えたけれど、どの画面も、監視カメラを延々と映しているだけ。
「shit!」
流暢な英語でそう言うと、ダブルさんはホログラムを閉じた。そして僕の方を見て言った。
「今、地上で確実に何かが起きている。私は見てくるから、貴方はそこにいなさい。…命をまもるためにも。」
そう言い残すと、急いで部屋を出て行った。
僕も急いで後を追おうとしたけれど、部屋の出口で、机がつっかえてしまった。くそっ、どうにかして外を、バチ君達の安否を確認したいのに…!そう思って机を引っ張り、机を壊そうとしたけれど、机は頑丈だった。一瞬迷ったけれど、時間は恐らく無い。僕は自分の右足を壁にぶつけて、どうにか手錠を壊すことにした。位置を微調整して、勢いよく壁にぶつける。
「っ!」
手錠越しに痛みが広がってくる。けれど、今はためらっている場合では無い。僕は続けて打ち付けた。
「ぐっ…!」
何度もぶつけて、時には生身の部分をぶつけたけれど、諦めなかった。だって、バチ君が、印藤さんが、水森さんが…大変な目に遭っているから!
「っ、ああああああああ!」
自分でもびっくりするほどの叫び声で、僕は痛みを誤魔化した。
何度も打ち続けた結果、ようやく手錠はひしゃげて、ゆっくりと開いた。よし、動ける!そう思って立ち上がろうとすると、右足に鈍い痛みが走った。
「っ…!」
予測はしていたけれど、右足に結構な痛みを負った。けれど、これだけで止まるわけがない。僕はそのまま、廊下に出た。そして、外が見えるところまで、右足を引きずりながら、どうにか移動した。廊下は薄暗く、外はもう夜に近い色になっていた。…でも、それにしては暗すぎる。街頭とかも点いていて良いはずなのに…。
ようやく窓に辿り着き、外を見た。…あり得ない。街はほぼ、壊滅状態だった。ビルというビルはほとんど崩れていて、折れかかっているエスペルトタワーの近くに二つの動く影があった。あれは…
「バチ君?」
遠くからでも分かる。あの見覚えのある、眩しい光を放っているのは、紛れもなくバチ君だ。そのバチ君が、何かと戦っている。その何かは、大きな触手を操って、バチ君を攻撃し、街を壊している。ビルでバチ君達を襲ったのも、あの触手だろう。けれど、あの触手は何で、僕達を襲ってきたのだろう。そう考えていると、触手が、大きく横払いをした。そのすぐ後に、まばゆい光が飛んできた。思わず顔を腕で覆い隠し、目を瞑る。ものすごい音が隣から聞こえ、土埃混じりの風が吹いてきた。衝撃が収まり、音のした方に顔を向けると、そこにはガンマン姿のバチ君がいた。
「バチ君!!」
僕は痛む右足を引きずって近づいた。
「けーき…?なんで、ここに…?」
「バチ君!何あの、でっかいもの!何でバチ君達に襲いかかっているの!?」
「分からねえ…けれど、相当な、暴れ馬だぜあいつは…」
「暴れ馬って何~?全然可愛くないんだけど~。」
知らない声が聞こえて、思わず窓の外を見た。そこには、触手の上に足を組んで座る、謎の少女がいた。黒髪のツインテールに、所謂地雷服と呼ばれる類いの、可愛さが詰まったよく見ると、その触手は謎のノイズのようなものがかかっていて、見覚えがある。
「君は…?」
「え~覚えてないの~?ま、そっか。アタシがあんたのこと乗っ取っていたから、記憶無いか~。」
「…え?」
頭が真っ白になる。…どういう、ことなんだ?乗っ取っていたって…え?
「ご苦労様~おかげで、こいつの源である電気という電気を、全てストップさせることができたわ。まあ、その分体疲れちゃってるだろうけど…ちゃんと回復する方法を学んだし、それやったから許して?」
謎の少女は、そう言って両手を合わせて、僕に向かってウインクをした。
「回復…?」
「そ。エナジードリンクとか、煙草とか!人間がよくそれを使っているのって、回復するためでしょ?私知ってるんだから!」
そう言ってはしゃぐ彼女とは対照的に、僕は真っ青になっていた。…え?じゃあ僕は、体を乗っ取られて、体に悪いものを強制的に摂取させられた挙句、バチ君を不利にさせてしまった…ということか…!?…何てことを、してしまったんだろう。恐ろしさに、両手が震える。一体何時から…そう思っていると、すぐ隣で銃声が聞こえた。見ると、バチ君が銃を構えて、発砲していた。銃口からは火花が出ている。
「…はっ、黙っていろよ。綺麗な鳥も、うるさいと煙たがられるんだぜ?」
「…きっしょ。っていうか言ったじゃん。もうあんたのパターンはわかりきってるって。一度戦ったんだから、覚えているに決まっているでしょ。」
「一度戦った…?」
「そうだよ、忘れんぼさんだなー。…ま、でもそっか。あの時のアタシ、ちょーブサイクだったから、仕方がないかー。」
一度戦ったことがある…?もしかして、皆で一緒に帰った日に出くわした、あの謎の生命体のことか!?あの生物と、目の前の女の子の容姿は全く違っているけれど、触手にかかっているあのモヤの形状は、見覚えがある。
「…もしかして、あの時の…!」
「多分、あんたが思っているので正解だよ。アタシめっちゃ盛れてなかったし、思い出してくれなかった方が嬉しかったんだけどね。」
「あ、ごめん…」
「え、素直に謝るの?ウケる~変なの。」
「けーき!謝っている場合じゃねえぞ!速く逃げろ!」
いつもより低いバチ君の声が響き渡る。いつにも増して、真剣だ。
「かっこいいね~。ま、用があるのはこいつだし、あんたには興味ないから。体貸してくれたお礼ってことで見逃してあげる。だからさっさとどっか行って~。」
謎の少女はそう言うと、またバチ君に攻撃を始めた。触手が勢いよく壁を突き抜け、土埃を立てて、建物が崩れる。
「バチ君!」
土埃が晴れた先は、誰も居なかった。後ろを振り返ると、バチ君は宙に浮いて、謎の少女と距離を取っていた。良かった、どうにか躱せたみたいだ。
「ちえっ、本当にうざい。ちょっとは当たれっての。」
「悪いが、この体は明日の一杯の為にとってあるんだ。当たってやることはできねえな。」
「はいはい、かっこいいかっこいい。」
謎の少女はそうあしらうと、また触手を伸ばして攻撃をした。バチ君は躱して、更に何発か銃弾を撃つけれど、効いている様子は全く見られない。苦戦しているみたいだ。…僕に、何かできることは…!
「っ、そうだ!バチ君!違うファッションに切り替えるんだ!」
「そいつは妙案だが…!くっ、未知数だ!危険かもしれねえ!」
バチ君は銃で応戦しながら、苦しげに答えた。
「でも、多分攻撃は詠まれちゃってる!新しい方法を見せなきゃ…!」
「何が起こるか分からない!もしかしたら、攻撃に向いていないスタイルかもしれない!ピンチの賭けはロマンがあるが、決して甘い味とは限らねえだろ!」
「っ、そうかもしれないけど、今は他に手段が思い浮かばないんだ!バチ君のためにも、やるしかないんだ!お願い!」
「かっこつけさせてくれよ!…守ってる時くらいはさ…!」
こっちを向いてそう叫ぶバチ君の顔は、少し恐怖に引き攣っていた。その顔を見て、僕は何も言えなくなってしまった。そうだ。バチ君は強かったから、忘れてしまっていた。バチ君だって、怖いんだ。何が起こるか分からない。ずっと痛い時間が続くのに、一番前で、僕達を護る為に戦ってくれているんだ。例え姿が変わっていても、バチ君は変わらずにバチ君のまんまなんだ。怖くなくなっているわけじゃないんだ。
でも、このままだと、何も変わらない。むしろバチ君に不利な状況が続くだけ。それでも、何も言えない。でもこうしている間に、バチ君は押される一方だ。バチ君が幾弾かの銃を撃つけれども、触手で躱されてしまう。指パッチンで、弾を大きく感電させたとしても、間一髪のところで避けられてしまう。距離を詰められ、少女の拳が、少女とは思えない力と打撃音の重さでバチ君を攻撃する。
「バチ君!」
「耐久力もありそうね。面倒くさ~い。」
「多少面倒くさい方が、魅力的に仕上がるのさ。」
「そんなわけなくない?今のあんた、全然かっこよくないしさ。」
「そうか?じゃ、これならどうかな?」
そう言うとバチ君は、今まで退いていたけれど、突然少女に詰め寄った。そして、少女の腹部に銃口を突きつけると、
「ban!!」
そう勢いよく叫んで、引き金を引いた。少女の腹部に埋め込まれた弾丸は、やはり電気を帯びていた。そして、バチ君が指を鳴らすと、少女の体は電気に包まれた。
「ぎゃああああああ!?」
甲高い叫び声が、暗くなった街に響き渡る。残酷だけれど、どうやら効いているみたいだった。ようやく、攻勢が巻き返せるかもしれない。胸が痛むのは、今だけ我慢しなきゃ。
「しびれるだろ?それはきっと、俺に惚れた証拠ってことさ。」
バチ君が、カウボーイハットのつばを、指先でピンと弾いた。けれど、口元は真一文字に、キリッと結ばれている。
「…確かにしびれたわね。でも残念、貴方のこと…」
モクモクとたった煙の中から、モヤのかかった触手が勢いよく伸びてくる。効いている様子はあったけれど、やっぱりそう簡単にはいかないか!触手が何本か、バチ君の体に当たる。バチ君は銃を構え直し、臨戦態勢を取ったけれど、持っていた銃を弾かれて、落としてしまった。
「!」
急いで取ろうとして伸ばした腕を、触手が絡めて押さえつける。煙が晴れて、眉をひそめた少女が立っていた。
「大っ嫌いなのよね!デリカシーとか無さそうで!」
「大胆でワイルドって、言ってくれよ…!」
「言うわけ無いじゃん。そもそも、毎日愛してくれなきゃアタシ嫌だし。」
「そういう君も、俺を宙づりにするのは、大胆じゃないのかい?」
「そうだね。だから、今すぐ止めてあげるね。」
そう言うと、少女は触手をきつく締め上げた。
「ぐあっ…あああ…!!」
「バチ君!」
バチ君の悲痛な叫び声と共に、腕がどんどん締め上げられていき、ついには、あり得ない方向にまで折れ曲がっていった。生きた心地がしない。全身の血の気が何処かへ逃げていく。そして、そのまま腕は絞められていき…ついには、根元から、ぶちっと…取れ…た…!?
「があああっ!?」
「バチ君!?バチ君!?!?」
信じられないほど声が裏返り、喉がガラガラと震えた。自分の耳や頭にガンガン響くくらい叫んだ。
目頭が熱くなり、声が震えるけれど、気にしていられない。だって、バチ君が、大変なことに!!
「バチ君!」
「大丈夫だけーき!」
バチ君がそう叫ぶと、バチ君の取れた箇所の腕からまばゆい光が放たれた。そして、その光は伸びていき、何本もの繊維のようになり、腕のシルエットを形作っていた。そして、次の瞬間にはバチ君の腕は元通りの状態に戻っていた。僕はそれを見て、その場にへたり込んでしまった。良かった。いや、良くない。けれど、少しだけ安心してしまった。寿命が、半分くらい減ってしまった気がする。
「この通り直る!大丈夫だからなけーき!だから…」
バチ君がカウボーイハットを被り直しながら、僕を見て言った。
「泣かないでくれ、けーき。護ってみせるから。」
そう言うとバチ君は、きっと怖いはずなのに満面の笑みで微笑んだ。そして、近くに落ちている銃を拾い上げた。そして、少し震える手で、もう一度構え直した。
「そのために両足で踏ん張ってんだよ…!」
もう一度、敵と戦う覚悟を見せていた。けれど僕は、安心して見ることが出来なかった。もう、今の状態では、相手に攻撃が効かない。これ以上攻撃し続けたら、さっきの何倍酷い目に遭うか分からない。嫌だ。僕は声を荒げようとして、その声を喉の入り口で止めた。どうやって、止めたら良い。そんな気持ちが浮かび上がってきた。それに、今頑張っているバチ君を止めて、あの日みたいに、がっかりさせてしまったら?そう思うと、怖い。どうしようもなく、怖い。失敗したくないんだ。今は選択肢一つでも間違えてしまったら、悲惨な結果になることは間違いない。かといって、このままじっとしていても、悲惨な結末になることは明らかだ。なのに、それでも、新しい行動を取ることが怖くて仕方が無い。このまま、何もしないで解決することを望んでしまう。すさまじい破壊音と、衝撃音の中で、僕は静かに絶望した。
「「夜雷さん!」」
後ろから、聞き覚えのある二つの声が聞こえた。振り返ると、印藤さんに水森さん、それからダブルさんが息をきらせて駆け寄ってきた。
「はぁ…ようやく見つけた…!っていうか、何だあいつ!どんどんでっかくなってくんだけど!?」
「皆…どうして、ここに…」
「私が案内したのよ。未知の生命体がもう一体いたうえに、被害も尋常じゃないものになっている。こうなった以上、捕獲よりも拘束する方が優先するべきだわ。だから、バチを良く知る二人にも、色々と知ってもらおうと思ったの。」
「なあ夜雷さん。バチ、今どんな状況だ?」
印藤さんが、僕の肩に手を置いて尋ねた。僕は諸々の事情を話そうとした。
「今、バチ君は…」
話そうとして、思わず口をつぐんでしまった。何を話すのが、正しい?何を話したら、最悪の結末を辿らないで済む?…何も、話したくない。でも話さなきゃ。だけど、頭の中で、選択をしなければならないという強迫観念が、僕の首を絞めてくる。その強迫観念が、選択をさせないという選択を、無理矢理取らせようとしてくる。でも…そんなのは駄目だ!
「大変っ…!なんだ…!」
絞り出した言葉は、何とも単調な言葉だった。
「…分かった。大変なんだな。」
僕の拙い言葉で何か汲み取ってくれたのか、印藤さんは力強くうなずいてくれた。その様子に、どこか安心する自分がいた。何が起こっても、全て受け入れてくれそうな力強さと、覚悟の籠もった目…。そうだ。何を忘れていたんだろう。印藤さんは、ううん、印藤さん達は、僕よりもずっと強い人たちだ。ずっと、前へ進もうとすることが出来る、強い人だ。だから、僕も言わなきゃ。言いたい。だけど、まだ怖い。それでも、ほんの、少しだけ、前へ。
「今の戦い方じゃ…勝てない…!」
「!」
過程も内容も、全ての細かい部分も話さずに、ただそれだけ絞り出すことが出来た。印藤さんはそれを聞くと、僕に話しかけた。
「じゃあまた、変身しなきゃいけないってことだよな?夜雷さん、何か良い感じのフアッションの写真とか無いのか!?」
「…ごめん…」
「っ、じゃあ、ネットで検索して…」
「多分無理。今は電気全般が使えなくなってる。…誰かが、電力会社のサーバーやら何やらをぶっ壊したのか、さっきから全然使えない。」
「じゃあ、他は何か…」
「まだ一つ…」
「え?」
「まだ一つ…バチ君は違うスタイルを覚えているはず…」
「本当か!?」
謎の生物と初めて戦ったあの日。バチ君は、毎日着ていたファッションスタイルを忘れたと言っていた。バチ君が読み込んだファッションスタイルは、あのガンマンの衣装で四着目。なら、バチ君が記憶しておけるファッションスタイルは最大三着。古い順から消えていくとしても、まだ三番目に記憶したファッション…着物スタイルが残っているはず。それに着替えてくれれば、何かが変わるかもしれない。…しれないけれど…
「バチ!もう一着残っているなら、早く着替えろ!」
「はじき…!…だが、もうちょい、この風を感じていたいんでね。悪いな!」
「かっこつけてんじゃねえ!そんな場合じゃねえだろ!夜雷さんも、何か言ってやれよ!」
「…」
…無理だ。僕がもし、何か間違えてしまったら…。今度こそ取り返しがつかない。
「夜雷さん、もしかして、あの日のこと引きずってる?」
「…え?」
そう優しく肩を叩いてくれたのは、水森さんだった。少し眉をひそめて、僕のことを見ている。
「あの日、すごい思い詰めた顔してたし、あれからバチの様子、変わったから。…何かあったんじゃないかって。」
「…」
そんなことないよ。ほら、言わなくちゃ。水森さん達まで不安にさせてどうするの。そう思っているけれど、声は出ない。図星だからだ。
「…もしそうならさ。今こそ、声を出さないと駄目じゃない?」
「…?」
「あの日のこと…俺も、後悔してる。バチは俺たちと友達で居たかったのに…もしかしたら、俺たちに『大丈夫』とか、何か言って欲しかったのかもな。でも、俺が手を引っ込めちまったから…バチは俺たちと、距離を置いたんだと思う。」
「それは…」
どう、なのかな。水森さんのせいじゃなくて、完全に僕のせいだと思う。でも、何か言って欲しかったかもしれないということは、本当だと、僕も思う。
「今、あいつには頼りになるものが無い。自分一人で、全部済ませようとしてる。…そんなの、絶対無理だ。経験したから、分かる。なんかぐちゃぐちゃになって、でも責任だけ嫌でも残るから、周りの事なんて見えなくなる。必死に、必死にもがこうとして、安心できる場所が無いから、訳わかんなくなるんだよ!無性に叫びたくて、泣きたくて、投げ出したくて…!」
水森さんは何か思い出したのか、少し苦い表情になった後、僕の方を向いて言った。
「だから頼む夜雷さん。あいつの頼りに…支えになってくれねえかな?あいつはあんな想い、しなくて良いんだよ…!支えてやってくれよ!」
片腕の袖を掴んで、水森さんは叫ぶように言った。過去の自分の思いを背負った、必死な顔。その想いは、きっと何年も味わってきた、軽くない苦しみ。それら全てをもってして、僕の背中を押そうとしてくれている。
「そうよ。それに、貴方は何かを怖がっているみたいだけれど。」
後ろからダブルさんが、カツカツとハイヒールの音をたてて近づいてくる。
「失敗は、何事もつきものなの。怖いことは誰だってあるの。だけど、そこから何も得られないなんてことは、絶対に無いの。失敗だって、トラウマだって、何かを得られるの。何も手に入らないくらいなら、突っ込んで何かをつかみ取ってきなさい。」
そして、ダブルさんは僕の顎を、人差し指と親指で挟み、くいと上に上げて言った。
「そうしたら、一緒にお茶くらいはしてあげるわ。」
そして、僕のおでこを人差し指で押した。思わず、少し見とれてしまった。
「うわ、すげえテクニック。誰だってイチコロだろあんなの…」
「ナンパならお断りよ。」
「してねえって。したいけども。」
我に返り、もう一度バチ君の方を見た。戦況は、さっきよりも苦戦している。早くどうにかしてあげないといけない。他でもない、僕自身が。一歩を踏み出さないと。ううん、踏み出すんだ!沢山押してもらったんだ!だから、どんなに怖くっても!バチ君の為に!
「バチ君!!」
声を限りに叫んだ。バチ君が僕の方をちらりと見る。僕はそのままけれど、あれだけ背中を押してもらったというのに、何も言葉が思いつかない。逃げてばっかりの僕に、かけられる言葉なんてない。…いいや、凹んでいる場合じゃ無い!言葉を探すんだ!バチ君が安心できる言葉を!早く!バチ君が待っているんだから!
そう考えた時、ある言葉が脳裏をよぎった。そのよぎった言葉を、僕は掴んで、しっかりと握った。
「バチ君!!」
もう一度、大きな声で叫ぶ。足がフラフラして、視界が少しクラクラする。けれど、視界の先のバチ君ははっきり見える。僕は目線をそらさずに、もう一度叫んだ。
「大丈夫!!」
喉がヒリヒリと痛む。思わず、少し咳きこんでしまう。けれど、咳をしている場合ではない。僕はバチ君の方を見た。こちらを見て、少しぽかんとしているように思える。伝わっているのかはわからない。けれど、気の利いた言葉も、心に響くような言葉も、僕には思いつかない。だから。
「大丈夫だよ!!」
もう一度、大きな声で叫んだ。大丈夫。単純で、簡単な言葉。誰でもいうことができて、下手をしたら、何も考えずに使える言葉。それに…僕が普段から、保険をかけるために使っている、ずるい言葉。ずるくて、簡単。だけれども僕は、その言葉に、僕の想いを全部込める。一生懸命に、真剣に。そうすれば、少しは中身のある言葉になるかもしれない。僕の想いなんてたかが知れてるほどの力しかもっていないけれど、それでも、役に立ちたい。もう、後ろから見ているだけは、嫌だ!
「けーき…」
爆音の中、バチ君の声が聞き取れたような気がする。僕の方を見て、口を開けて、何かを言っているように思えた。僕は口の動きだけで、何を言っているか読み取ろうとした。
「バチ!横!」
印藤さんの大きな声と共に、数本の太い触手が、バチ君を攻撃した。
「他所見するとか、よゆーそーじゃん?アタシ前にして違う方見るとか、マジむかつくんだけど。」
一瞬の内に轟音が鳴り響き、土埃がもうもうと立ち上げている。職種の太さが、威力の壮大さを物語っている。あれはを食らって、少なくとも無傷でいられるはずがない。おまけにもう一本、触手の追加攻撃が飛んだ。
「バチ君!」
痛む喉で、もう一度叫んだ。声が裏返る。そんな、僕が呼び止めたせいで、バチ君が…!
「バチ!返事しろ!」
水森さんが叫んでも、返事は返ってこない。…うそでしょ?何も考えられずに、視界が固まる。体も、思考も、呼吸も。僕の目の前で、ゆっくりと煙が晴れていく。あのまぶしい光は、見えない。そんな…!そう思っていた時だった。
一筋の、目映い閃光が、目の前で灯った。あまりにも眩しすぎるその光は、立ちこめていた煙を、一瞬のうちに晴らした。目を覆いたかったけれど、目が離せなかった。そこには、さっきとは違う、和服スタイルのバチ君が、まばゆい薙刀を持って、凜々しい出立ちで立っていた。周りには切り落とした触手の先端が散らばっており、バチ君は心なしか、大人びた表情で、僕を見て微笑んでいた。
「案外、心配する必要なかったんだな。…変わることって。」
どこか安らいだような、安心したような笑顔だった。そして、肩にあるふかふかの襟巻きに顔を委ね、長く鋭い薙刀を持って、目を瞑ってはにかんだ。その笑顔を見て、僕も思わず笑みが零れた。
「沢山心配させちまって、ごめんな。…もう大丈夫だからな。」
…良かった。もう怖くないんだね。
「はぁ~?変化しちゃったの~?だる~。」
謎の少女の、いかにも不機嫌そうな声が聞こえて、僕はそちらの方に目をやった。
「ま、また対策してぶっ潰せば良いか~。うち、やればできるタイプなんだよね。」
そう言うと、切れていたはずの触手を、一瞬のうちに再生した。そして、もう一度、そして素早くバチ君に襲いかかった。こういったことが起こる度に、何度も『バチ君!』と叫びたくなる。けれども、今回はその必要は無さそうだ。バチ君はこなれたように薙刀を振り回して、次々と触手を切っていく。そして、最後の一本は切らずに、触手の真ん中に長刀を刺すと、それを軸に宙返りをし、謎の少女に斬りかかろうとした。
「…!くんなっての!」
謎の少女はそう叫ぶと、全身が黒い液体となり、地面に溶け込んだ。そして、地面に溶けたかと思うと、触手が大きく揺れ、やがて切れた触手の先端から、どろりとした液体と共に人型が現われ、少女が顔を出した。
「うおっ、ずるくねえかあれ…!?」
「ゲームだったら…いや、あんまりないかも…」
「バチ君!」
「分かっているから大丈夫だぞ。教えてくれてありがとうな。」
それを見越したのか、確認したのか、バチ君は僕に優しくそう言うと、地面を勢いよく蹴り、少女の目前まで一足飛びで飛んでいった。
「は!?きも!」
しかしその頃には少女の触手は再生していて、今度は攻撃するより、何重にも触手を重ねて防御態勢を取った。しかし、バチ君は大きく薙刀を振りかぶると、そのまま一回転をして勢いをつけ、幾重の触手を一刀両断した。割れた触手の先に、少女の驚いたような顔が見えた。そして、その隙を逃すことなく、バチ君はまた距離を詰めた。少女はバチ君をにらみつけると、またしても全身が黒い液体に包まれ、バチ君から一番離れた触手の位置に、素早く移動した。
だけど、バチ君は見越していたみたいだ。触手の先端に謎の少女が移動した時には、もうバチ君は、宙返りをして、少女の目と鼻の先にいた。そして、薙刀を素早く振るった。けれども、少女も反応できていたらしく、すぐに液体となり、別の場所へと移動してしまった。
「…本当に、すばしっこいんだな。向かってこないのか?お前が殺したい相手だぞ。」
「…よくも…」
少女の声がいつもより格段に低く、僕はその声にゾッとしてしまった。見れば、少女は左頬を抑えて、バチ君を睨んでいる。どうやら、かすり傷程度は入ったみたいだ。
「よくもあたしの可愛い顔に傷をつけてくれたわね!?」
おおよそ少女とは思えない怒号が響く。思わず肩をすくめてしまう。けれども、バチ君はお構いなしに、余裕そうな笑顔で言った。
「悪いな。護らなければいけない奴の前だったから、ついかっこつけちまった。」
「こんなにも可愛いのに…信じられない!!」
「確かに可愛いな。けれど、今はそれよりも大事なものがあるんだよ。もう大丈夫だって、安心させてやらねえと。だから…ごめんな。」
バチ君はそう言うと、薙刀を構えた。
「俺に倒されてくれ。」
そして、またもや一足飛びで、少女との距離を詰めた。
「だから…読めてるっつーの!」
少女は苛立った様子で、触手を前方に放つ。けれども、触手を放った頃にはバチ君は前にいなかった。バチ君は少女の背後を取っていた。横から見ていたから分かる。前方に距離を詰めたように見えて、懐に潜り込み、そのまま背後を頭上高く跳ね上がったのだ。少女が振り返った頃にはもう遅く、バチ君は勢いよく薙刀を振り下ろし、少女の片腕を切り落とした。
「っ!!!!ああああ!!!」
少女の悲痛な叫びが響く。僕は見た目のグロテスク具合と、悲痛な叫び声のせいで、一瞬、具合が悪くなった。けれども、もう目は反らさない。バチ君が一生懸命に戦っているんだ。僕は口を拭って、前へ向き直った。バチ君は薙刀を勢いよく振るい、薙刀に点いていた液体を振り落とした。
「これでおあいこだな。痛いだろ?俺も痛かったんだぜ。分かってくれたか?」
「くそっ、よくも!!」
「そんなに叫ぶと、喉が痛むぞ。可愛いのに台無しだ。」
「うるさい!黙れ!!!」
「じゃあ悪いけど、静かにしてもらうぜ。」
バチ君は静かにそう言うと、背後から伸びてきていた触手を切り落とした。そして、薙刀を頭上で振り回し、少女から出ていた触手に勢いよく刺した。
「直接は気が引けるからな…」
そう言った後、苦しむ少女の前でバチ君は両手を勢いよく合わせて言った。
「食らいな。避雷針だ。」
そう言った後、バチ君の薙刀がまばゆく光ったかと思うと、次の瞬間に少女に電流が走った。
「ああああああああああ!!!!」
電気が目に見えるくらい勢いよく感電をし、少女はむごたらしく痙攣をしている。大きくのけぞり、かと思ったらうずくまり、苦しそうにしている。バチ君はその様子を、ただじっと見つめていた。やがて、少女が動かなくなると、バチ君は薙刀を引き抜き、僕達の方を見て言った。
「なあ、この子、どうしたらいい?動かないように拘束する必要があると思うんだが…」
「…」
「…す…」
水森さんの声が横から聞こえた。
「すっっご…!!!なんだよ今の、かっこよ!!」
その声で緊張がほぐれた。バチ君が一生懸命戦っている様を見届けようと、僕は全身に力を入れて踏ん張っていた。それが今、終わったのだ。バチ君の勝利だ。そう思うと、安心が勢いよく押し寄せてきた。支えていた手の筋肉が緩み、僕は、肩から地面に崩れた。
「っ、夜雷さん!!!!」
「だ、大丈夫…」
僕は緩んだ顔で、印藤さんに言った。
「すごく…安心しちゃって…」
「…はあ、心配させんなよ…」
「なあ、どうやって拘束する?」
「…今、私達の組織が取り押さえるわ。無力化できるかは分からないけれど、押さえ込むことはできるはず。」
ダブルさんが冷静にそう言った。
「そっか。分かった。…ふう、けーき。」
バチ君の、いつもより優しい声が聞こえた。僕は寝転びながらそちらを見る。
「終わったぞ。もう安心だ。」
そう、満面の笑みでそう言ってくれた。少し大人びている風貌だけれど、笑顔には無邪気な幼さと、わんぱく具合が垣間見える。やっぱりどんな時も、バチ君はバチ君のままだ。
「…うん。お疲れ様、バチく…」
「おい、後ろ!!!!」
「あれって…!!」
印藤さんと水森さんの焦った声が同時に聞こえた。その声を聞いて、一瞬で緊急事態を悟った。何があったかは分からない。けれど、まずい状況なのかもしれない。
「バチ君!」
そう叫んでバチ君の方を見たとき、バチ君の背後には…倒したはずの、触手が見えた。
+-(ハイタッチ) ゴチャラ @YUKI05061025
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