いつか、歌になる。
紅野まろん
第1話 貝にうたえば
「お前の音は、からっぽなんだよ」
霞がかった意識の中で、冷酷な声だけが、いつまでも響き続けていた。
音が鳴る。
静寂を切り裂くように、今の自分の雑念だらけの心を表すように。
激しく音の高さが上下するこの曲は、プロのフルート奏者でも苦戦する難曲だ。でも、私は違う。
夕方だというのに日が高く、日差しが強かった。額から汗が噴き出す。私は気にせず吹き続ける。音程も、速さも、強弱も、息の入れ方も、全てが完璧。歓声は鳴りやまず、眩いスポットライトが私を一層神々しく見せる。
透き通った音は、ますます勢いを増し、まるで暴れる川のようになっていった。指はひっきりなしに動き、息が絶え絶えになってくる。私は体が熱くなるのを感じた。さあ、ここからが最大の見せ場だ。
突然、目の前で何かが大きく巻き上がった。直後に、突風が吹き荒れる。私は決死の覚悟で吹き口に食らいつき、途絶えさせまいとますます息を吹き込んだ。風は、ターゲットを定め、足元に置いてあった楽譜を躍らせ、ひとりでにページをパラパラめくった。潮のにおいが鼻を強くついた。
それを合図に、私の中でぷつりと音がした。スポットライトも歓声も消え、波の音だけが響き渡る静寂の空間へと戻る。
「あーもう、やめだ、やめ!」
私は、手に持っていたフルートを放り投げて、砂浜に横たわった。ぽすっという間の抜けた音とともに、砂が散る。太陽に当たっている部分は「肌がとける」と直感的に感じるほどの熱さだったが、目を覚ますにはこのくらいがちょうどいい。
私は、幻覚なんかじゃない、本当のスポットライトを手にするはずだった。放課後も昼休みも返上して、何千回も練習した。
「なんで、理沙なの」
吹奏楽部の、全国大会の選抜メンバーに、私は選ばれなかった。
それどころか、私よりも6か月も後に入部した、理沙が選ばれたのだ。
喉の奥の方が乾いて、ひどい耳鳴りがする。
「からっぽって、なに」
顧問の先生に詰め寄り、抗議したときに言われたのが、この言葉だった。
「私のこと何にも知らないくせに!」
一粒の雫が零れ落ち、砂浜に染みた。一度決壊したダムは、もうとどまることを知らず、視界が滲んでまともに見えなくなった。
私は海に全てさらってもらおうと思った。フルートも、情熱も、あいつらも、そして私自身も。そうしないと、きっと正気じゃいられなくなる。
とりあえず、放り投げたフルートを拾いに行こう。
そう決心した私は、めまいを押さえつけつつ何とか体を起こすと、おぼつかない足取りで銀色の輝きへと向かった。
あともう少し、というところで、
「いだっ!」
何かにつまずき、顔から盛大に砂に突っ込んだ。口に入り込んだ砂を乱暴に吐き出すと、つまずいた「何か」をおそるおそる拾い上げる。
それは、貝殻だった。
海で染めたのかというような美しい青色の巻貝。
そもそも貝殻自体私には縁のないものだったが、こんなのを見たのは初めてだった。
「そういえば、貝殻に耳を当てると波の音がするって、お姉ちゃんが言ってたっけ......」
誰に聞かせるでもない独り言に、ふと姉の姿を思い出した。ふんわりとした笑顔、夏の日差しにさえ負けないギラギラとしたまなざし。最近は、すっかり忘れていたが、私はこれらが大好きだった気がする。
気づけば涙は止まり、口元がほころんでいた。私は、貝にべったりと耳をつけ、注意深く音に耳を傾けた。
ほんの出来心だった。貝殻に姉を重ねた。願わくば、姉の声が聞こえてくれないかと思った。
ただ静かだった。何も聞こえない。姉の声も、波の音も。小さな貝ではなく、深淵を覗いているような、そんな不気味な感覚に襲われた。
貝を手放そうとしたその時、風に混じって、奇妙な音が耳を触った。
一瞬ぞわっと鳥肌が立ったが、好奇心が勝った。もう一度、目を閉じて全神経を集中させて、必死に音を探した。
「ーーーーーっ!」
今度はもっとはっきりと聞こえた。
間違いない。これは、歌だ。
いつか、歌になる。 紅野まろん @marongurasse
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