走る人、茹でる人

クソプライベート

蕎麦屋 For 湯

夜明け前、店先の黒板に白チョークで書いた。「本日限定・給“そば”所」。字の右下、小さく「42.195」と書き足して消した。縁起がいい気がしたからだ。

 須田泰三、四十八歳。ふつうの蕎麦屋の、ふつうの中年。だが今日だけは、ふつうを越える。




 仕込みは三段構え。ひと口で飲める紙コップの「そばショット」二千五百杯分。輪ゴムのように指に引っかけて食べられる「輪っかそば」千本。塩分と糖分をほどよく含んだ温つゆを保温ジャグに十本。クーラーボックスには氷。アレルギー表記の札も忘れない。「※そばアレルギーの方は絶対に口にしないでください」。

 「本当にやるんですか、須田さん」

 常連の佐伯が笑いをこらえる。

 「やる。全員に食べてもらう」

 言い切った声に、自分でもびっくりする。厨房の壁には、古びたメモがマグネットで止めてある。丁寧な字で「向かい風の日はつゆ濃いめ」とだけ。視線はすぐ逸らした。


 作戦会議はとっくに済んでいる。大会本部へは事前に連絡し、沿道の私有地前での「無料提供・任意の補給」を確認。公道へのはみ出し禁止、火気厳禁。食品衛生の簡易講習も受けた。ボランティアは常連と近所の高校陸上部十名。「声出し係」「紙コップ渡し係」「保温つゆ補充係」「自転車搬送係」。

 「第一給そば所、十キロ地点。第二が二十五キロ、第三が三十五キロね」

 地図係の佐伯が最終確認する。

 「抜け道はこっち。車は使わない。全部、自転車だ」

 須田は、配達で使う電動自転車のバッテリーを二本差しした。ハンドルの内側には梱包用の薄手手袋。熱いカップは渡す人が火傷するから。


 午前九時、スタートの号砲が遠くで鳴った。歓声が風になって流れてくる。第一給そば所・十キロ地点。店の暖簾を外して持ち出し、旗のように掲げる。「無料!ひと口そば/しょっぱい温つゆ」。

 先頭の実業団らしき集団は、綺麗に列を保ったまま通り過ぎる。彼らには邪魔しないのがマナーだ。問題は後続だ。

 「どうぞ、のど通りだけでも!」

 紙コップを差し出すと、ひとりが躊躇し、ふたり目が笑って受け取り、三人目が「うまっ!」と叫ぶ。その声が伝染する。

 「ちょっと、そば!?」「まじで助かる!」

 ショットは十ミリリットル。喉に引っかからないよう、麺は細く短く。つゆはぬるめで塩を効かせた。走りながらでも無理なく飲める——計算どおり。

 「アレルギー表示こちらでーす!」

 高校生が札を掲げる。手際がいい。須田は、紙コップの山が減っていく様子に奇妙な高揚を覚えた。『食べてもらえた』という事実が、胸の奥に灯を点す。


 十五分後、第一陣が切れる。

 「撤収、第二へ!」

 自転車隊がクーラーボックスを積み、ペダルを踏む。コースと平行する旧道を急ぐ。赤信号では止まる。交差点では押して渡る。大会の邪魔はしない、と決めていた。

 途中、コンビニで氷を追加購入。レシートの金額がたまたま四千二百十九円五十銭で、佐伯が「なんか、きもい一致」と笑った。須田は笑いながら、心のどこかで数字を撫でた。


 二十五キロ地点。暑さが本格化し、表情が崩れてくるランナーが目立つ。ここで第二段の「輪っかそば」を解禁。輪っかにした冷やし麺を指に通して、走りながら噛み切れる。

 「指にかけるの!? 天才!」

 誰かが言い、周囲がどっと沸いた。

 「つゆは小さい紙コップねー、塩分大事だよー」

 高校生が声を張る。『塩分大事』は講習で教わったフレーズだ。

 須田は、時折ランナーと目が合う。その目の中に、疲労と、ありがとうの混ざった色が見えるたび、胸が締めつけられ、なぜか少し楽になる。

 保温ジャグの残量ゲージが下がる。補充。手は止めない。頭の片隅に、厨房の壁のメモがちらつく。「向かい風の日はつゆ濃いめ」。今日は海風が吹いていた。


 また撤収、三十五キロへ。ここは「壁」と呼ばれる地点だ。

 第三給そば所は、小さな神社の前。氏子総代の許可ももらってある。ベンチ脇に「そば湯」ジャグを置く。麺がもう受け付けない人用だ。

「そば湯、温かいの行きまーす! 胃に優しいやつ!」

 声がかれる。須田自身、水を飲むのを忘れていた。佐伯がペットボトルを押しつける。

 「お前も飲め。倒れたら元も子もない」

 飲みながら、須田は数を数える。高校生の一人がホワイトボードに「給そば数」を書いていく。

 2,036/2,500

 2,241/2,500

 2,389/2,500

 刻々と数字が増える。ボードの端に、佐伯がいたずらで「目標 42.195」と書いた。単位は不明だが、みんなで笑った。


 やがて最後尾の集団が見えてくる。伴走の自転車、救護の車。制限時間が迫っている合図だ。ボードは「2,497」で止まっていた。

 「あと三人!」

 紙コップを握る手に汗がにじむ。ひとり、ふたり——受け取って、笑って行った。

 最後のひとりは、年配の男性。脚は止まり止まり、でも目は前を向いている。

 「つゆだけでも」

 須田が並走し、歩道から紙コップを差し出す。男性は受け取り、少し迷って、飲み干した。

 「うまい」

 その一言の重さに、須田は深く頭を下げた。ホワイトボードが「2,500/2,500」に塗り替えられる。拍手。高校生が跳ねる。佐伯が肩を叩く。

 「全員、いったな」

 「いった」

 須田は、ようやく息を吐いた。


 店に戻ったのは日暮れ前。片付けの合間、厨房の壁のメモを外す。裏面に、もう一枚、小さな紙がテープで貼ってあることに気づいた。

 ——「三十五キロは甘塩。そこが“壁”。そこを越えられたら、完走。

  いつか全員に食べさせられたら、私も完走。みほ」

 丁寧な字。もう何度も見たはずなのに、今日までちゃんと読めていなかったのだと気づく。

 彼女のランニングキャップは、店の奥の棚に置いてある。ビニール袋の口をほどき、指で撫でる。つばの裏に、油性ペンで「42195」と書いてある。

 「バカだな」

 笑って言う。声が少し震えた。

 彼は、メモを新しいラミネートに挟み、カウンターの、客からよく見える位置に貼り直した。

 黒板の「給“そば”所」の“はらい”を指で整える。白い粉が爪に残った。


 夜、閉店間際。扉が開いて、ランナーのゼッケンをまだつけた若い女性が立っていた。

 「昼、そば湯いただいた者です。お礼を言いたくて」

 彼女は少し恥ずかしそうに笑い、手のひらを胸に当てた。

 「三十五で、やめようと思ったんです。でも、温かくて、しょっぱくて、泣きそうになって……。完走できました」

 須田は「それはよかった」とだけ言った。誰かに届いた。それで十分だ。

 レジの横には、さきほどのレシートがまだ残っている。四千二百十九円五十銭。くだらない一致だ。でも、そういうものを、大事にしてもいい日がある。


 シャッターを降ろす前、黒板の「42.195」を少しだけ濃くなぞった。数字の横に、小さく丸をつける。

 完走印、ということにした。

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