第2話

 見えもしない、聞こえもしない、触れもしない。そんな存在が、確かにある。街の中でも、彼らに出会ったことはあった。いや、すれ違っただけか。ふっと気になって見上げた空がくすんで見えた時。いつもいつも、気の所為だとしてしまう、何かの囁く声。虫の鳴声か、葉の擦れる音か、風の流れか──。

 なんとなく、考えていた。自分にはもしかしたら、そんな妙なものを見ること、聞くこと、触ることができるんじゃないかと。けれどまだ、その存在をはっきりと捉えられたことはなく、いるんだかいないんだかも知らない不可思議な相手でしかなかった。街を離れる、春先までは。

 三月の中旬。ぼくは一人、居候先の家を出た。高校に上がる春だった。


 正午を少し、過ぎていた。

 穏やかな雨が音を立て、薄汚れた車窓を濡らしていく。外を見れば、都会の喧騒とは縁遠い田園風景が薄暗く浮かび上がった。もう駅からは随分離れ、この街の高い建物は山波の向こうに隠れてしまっていた。

 このおとなしい村で今この瞬間、ぼくを乗せたタクシーはかなり異色のものに見えるだろう。山に挟まれた静かな村の、唯一の舗装された道路であるようで、どこに降り立ってもあぜ道を通ることになるだろうかと感じられた。ぼくは、窓を伝う雫の間に目を凝らしつつ、かき曇る窓から、これから一人で住み着く町を眺めていた。と言って、その目はそれまで住んでいた都会との比較をして、物珍しそうにしているわけではない。寧ろ見覚えのある風景を久方ぶりに見て感じる驚きと感慨とが籠もった目で、雨影に沈んだ田舎を見詰めていた。

「お客さん」

 雨音ばかりの静かな車内で、突然沈黙が破られた。陰気な顔をした運転手が口を開いたのだ。

「もうすぐ着きますが……」

 ──なんとなくだが、彼の開口がその報告だけのためでない気がして、黙って待っていた。小さいながら忙しない雨音が再び車内を支配した頃になって、漸く彼がまた話しだした。「一つ塚の辺りですがね……どうもあそこは気味の悪い噂が多いらしい。まあ、この玉島全体も大概なんですが……」

 玉島の、一つ塚。ぼくがこれから住む家のある地の名だ。他人事ではないじゃないかと思い、「噂とは、どんなものですか?」と尋ねた。「いやあ、簡単に言うとですね……」と言いかけたとき、あっ着きましたと呟きがあって車が止まった。

 窓の外を見れば、眼の前を流れる細い川に、車では渡れない小さな橋が架けられ、その先に、なるほど薄黒い屋敷がぬっと姿を現している。雨の中では朧にしか見えないが、記憶の中に残る靄が、少しずつ散り始めた。

 彼の言葉の続きを聞いたのは、トランクから荷物を受け取っている最中だった。傘を差して外に出て、車の後ろでもうスーツケースと共に待っていた運転手に近づいた。暗鬱な目でくつくつ笑いながら一言、「幽霊ですよ」と。


 まだ昼だと言うのに、辺りは長い夕時の様に薄暗かった。

 水溜りとぬかるみのせいで、自然足取りが重くなる。重たい荷物が余計重く感じられ、なんだかこちらまで鬱々とした気になってしまう。靄のせいで歩を刻むごとに視界が悪くなり、車が去っていく音がとうに聞こえなくなっていると思うと、自分がこの地に置いてかれてしまったかのような錯覚さえ覚えた。

 三方を背の低い山に囲まれて、屋敷はのっそりと黄昏れていた。辺りには人っ子一人見当たらず、寂しい雨音だけが降ってくる。北向きの玄関が、妙に心地悪い。門の横には、こう書いてあった。

「穂上」

 異様に大きな門を押し開けると、重苦しくぎ、ぎ、と鳴いた。中を覗き、──遠くからではよくわからなかったが──途方も無く大きな木造建築を目の当たりにして、思い出を辿る糸が一瞬まやかしにでも遭ったかのようにぼやぁとした。ぼくは果たして、こんな大きな屋敷に住んだことがあったろうかと訝しんだほどだった。

 左右を見ても、その先にある筈の「端」がなく、鬱蒼とした山の裾まで繋がっているように感じられた。軒先は馬鹿に高く、大して強くない筈の雨天が、さながら雷雨であるかのように、雨垂れがどぼどぼ零れ落ちている。泥で洗われた飛び石を歩いて玄関に近付くにつれ、記憶の糸の掴みどころを失っていることに気がついた。……玄関前に立った時、得体の知れない物の怪の唾液でも浴びたかのようにぞっとした。もはや、自宅に帰ってきているのだと言い切れる自信がない。

 そんな言い知れない感覚に襲われながらも、ぼくは鍵を差し込み引き戸を開いた。ひとまず休みたかったのだ。列車で三時間揺られた旅の終わり、一息つきたいものだ。

 背後を降る雨が若干強くなった。


 内装を見てほっとした。

 古くなった廊下は意外と健在で、ぼくの足取りに全く軋むことはなかった。細かな凹凸を足裏に感じ、仄かな古木の匂いを嗅いで、そういえばと思い当たる節があるのを密かに喜んだ。

 あれやこれやと昔のことに思いを馳せていると、自然と祖父のことも思い出された。たしかにあまり覚えていることはないけれど……

 襖を開け閉めしているうち、廊下の最奥まで来て六畳の居間に入った。仄暗い空気を手で払い、吊るされた糸を引いてみた。……明かりはつかなかった。仕方なく振り返ったところ、未だに置き忘れられた平机を部屋の隅に見つけ、その上に何やら四角いものがのっているのに気づいて驚いた。

 寄って眺めてみると、写真だった。黄ばんでいるのも構わず手にとって、思わず目を凝らした。その画面には三つの姿が映されていた。ぼくと、祖父と、猫。 幼いぼくの傍でしゃがむ祖父の顔を見つめた。微笑む様子は優しげで、どこか儚くも感じる。物静かそうな出で立ちで、切れ長の目などは自分と似ていると思われた。ひどく懐かしい気がした。

 ふと、小さい自分が抱えている猫に目を移した。虎さながらの縞の入った身体を子供に抱えられながら、じっとこちらを睨んでいる。名は「トラ」。祖父が亡くなった後すぐに引っ越したぼくは、その猫の行方を知らないし、もう死んでいるだろう──考えてみると、そもそも出生すら知らない。だけど、ただ忘れているだけかもしれない。

 ぼくは、十年前この町に住んでいた頃の記憶がない。全くないかと言えば嘘になるが、とにかくあやふやなのだ。今こうしてこの町に帰ってきた路々は、蒙昧とした霧の中に身を浸すようで、なんとなく恐ろしかった。

 だから、その写真はぼくに妙な感慨を生んだ。

 やがてその写真を元の位置に戻し、立ち上がって部屋を出た。それにしても不思議なのは、ここ十年誰一人住んでいない筈なのに、全然埃っぽくないのだ。祖父の血縁はぼく一人だけで、昨日までの居候先は、関係性を追うだけでも疲れるような遠戚だった。つまり、聞いた限りこの屋敷は放置されていたのだ。廊下の硝子障子を開けて眺めた中庭も、存外綺麗だ。芝の荒れた様子は見えない。ひよっとして、誰かが……。

 濡れそぼった草々の冷え切ったその先が水を滴らせながら時にしなり、弾む。やはり、少し雨が強くなってきたようだ。しっとりと沈む雨影を見つつ、縁側に腰を下ろす。

 そうして、旅の疲れにうつらうつらしていた。



 淡く儚い、変な夢を見た。

 さわさわ揺れる木陰の傍で、若い男の人が一人、本を読んでいる。足を伸ばして木に凭れ、眠り落ちてしまうような、静かに紙を擦る音。彼の顔は窺えなかった。風に流される髪に隠されて。


 ただただ、それだけの光景。だけど、どこか見覚えのあるようなないような、そんな心地がした。



 目が覚めたら、辺りは真っ暗だった。

 あまり暗かったので、まだ目を覚ましていないんじゃないかと不思議がったほどだ。視覚の後に雨音が耳に入り、ああそうか、眠ってしまっていたんだと身体を起こした。そうしてから、気が付かないうちに縁側の柱に身を寄りかけていたことを知った。

 何時だろうかと思い携帯電話を開いて見ると、もう十八時の少し前だった。随分長い昼寝をしてしまった。けれど疲れは一切消えてしまったようで、頭は冴えていた。雨脚が、相変わらずの天気を教えてくれた。

 冷たい床を押して立ち上がり、真夜中のような暗がりを懐中電灯で照らし歩いていく。どうしようか、もう眠くない。読書の続きでもしようと、をポケットから取り出して、廊下をうろうろする。電気と水道は明後日開通させる予定だが、そもそも廊下には電灯一つない。足元に何も転がっていないことが幸いだった。

 とにかくどこかの部屋に入ってしまおうと指先にかかった障子を引いてみて、電灯で照らしてみると、なかなか綺麗な六畳の部屋だった。雨戸のついていない硝子障子の向こうにはくぐもった庭影が見えて、この部屋が屋敷の周りを囲む庭に面していることが知れた。畳はくすんではいるものの汚れはなく、押し入れには布団があることから、恐らく客人用の部屋だったように思われた。ただ奇妙なのは──布団がかび臭くなかったこと。

 これには流石におや、と思った。先程から何かと、十年誰も住んでいない、そして掃除もされていないこの家に、誰かの手入れの跡が感じられるのはおかしなことだ。もしかしたら、遠戚の誰かがぼくに言わずに手入れしてくれていたのだろうか。彼らはぼくに、管理は自分でやれと言っていたけれど……?


 ──物心つく前には両親を亡くしていたぼくは、一人暮らしの祖父の家で育った。その祖父も他界したのはぼくが五歳の時で、わかりやすい血縁関係の殆どないぼくは、遠戚である有田夫妻に預けられた。遠戚といって、ほぼ血の繋がりは見えないけれど、彼らはいい人たちだった。子どものいない夫妻は、よくぼくを可愛がってくれた。

 ふと思い出すことがある。まだ幼いある日、夫妻にぼくの祖父や両親について根掘り葉掘り訊いた時。二人は顔を見合わせて、笑って「ごめんね、わたしたちもよく知らなくて」「そうだな。君の両親は交通事故で亡くなったことは聞いたんだが。不思議な一家だということと……」「ちょっと!」「ああ、ごめん!……」

 不思議な一家。ぼくは幼いながらその一言を奇異に感じた。

 それっきり、ほとんど両親や祖父のことを自ら聞き出そうとするのをあまりしなかったが、つい一ヶ月前、祖父が遺した屋敷の存在を知った。誰に手入れされるでもなく、ただ存在だけしているということを。その屋敷はぼくにとって、懐かしいながらも謎めいたものだった。そこで過ごした思い出はとても大切なものだとわかるのに、靄にかかったようでどうしても思い出せなくて……ぼくは夢中になってそのことについて聞き出した。ひょっとすると、祖父の思い出が何か、取り戻せるかもしれない。そう思った。

 だから、有田夫妻が止めるのも聞かず、真剣に頼み込んで引っ越しの許可をもらったのだ。そして、両親の遺産を通帳に入れてたった一人、ここまでやってきたのだ。


 硝子障子の外を仰ぎ見る。……夫妻はたしかに、「誰も手入れしてなくて」と言っていた。なのに、なぜ、この屋敷はこんなに「整って」いるんだろう?引っ越しの準備の際も一度も来たことはなく、祖父の死んだ日から何一つ、変えられていないはずだ。だというのに、部屋に埃は全く積もっていない、布団は綺麗、それに……窓ガラスも、雨曇りより別の曇りは見当たらない。

 覆いのない窓は冷たく、暗い闇夜の表面にぼくの顔を映している。暫くぼんやりと見つめていたが、ちょっと気になって近づいてよく見た時、思わずギョッとした。

 庭のほんの少し先まで、手に持つ明かりで仄明るくなっている。照らされて浮かび上がる薄い色合いはあまりに薄弱で、影がかさかさ動いている程度にしか見えなかったが、庭木があるのだと気が付いた。しかしその陰影を見上げた瞬間、雨滴をぼたぼた落とす緑木の枝先に、何か乗っかっているのが目に映った。ギョッとしたぼくは思わず文庫本を取り落とし、後退った。

 何か、いる。

 黒く、墨のような闇に紛れているけれど、たしかにそこから細く鋭い糸みたいな視線を感じる。じっとこちらを射竦めるような眼光が、硝子に張り付く雨水の奥にちらりと瞬いた。

 ふっと時間が消えた感じがした。一瞬気が遠くなってしまったらしい。ずっと見ていたとばかり思っていた木の上からは怪しい影がいつの間にか消え去り、はっとした時にはぼくは床にへたり込んでいた。

 ……一抹の幻影のような、不確かな光景。そんな曖昧なものを目にしてしまうなんて、やはり昼間寝過ぎたのかもしれない。

 なんだか、このだだっ広い土地でこの一点だけ灯りが点いていることが、妙な具合に心配になってきた。夜闇を完全に照らすには心許ない灯りなのだが、今は目立ち過ぎて逆に空恐ろしくも感じた。綺麗な布団を敷いて寝転がり、懐中電灯の光を弱めた。いい塩梅に手元を照らし、本が読めるように工夫する。このまま眠り落ちてしまえばいいと思った。幸い、腹は減ってない。風呂も、明日朝一番に近くの銭湯を訪ねよう。

 雨風がかちゃりかちゃりと雨戸を叩く。そこはかとなく哀愁漂う梅雨の雨などではなく、姦しいばかりの春嵐である。

 手元で紙が擦れ、窓辺で硝子が軋む。頁はゆっくりと進んでいく。

 立てていた腕が痛くなってきた。肘をどけてうつ伏せになり、腕を伸ばす。

 雨天ながら部屋に差し込む光はささやかに、硝子障子の影を映し込んでいる。

 影はそのまま、雨に濡れた様を呈していた。

 かさり。

 頁の端に指を掛けたとき、途端に冷水を背筋に浴びせかけられたかのように身震いした。いや、実際に雨水でも浴びたかという気さえして、硝子障子が閉まっているかどうか見ようと勢いよく振り返った。大丈夫、開いていない。外の景色も変わっていない。……そう安堵しかけたら、ぺらりと手元の頁が捲れた。なんだと外から目を放した瞬間、びゅうと突風が一陣部屋の中を駆け抜け、ぼくは布団ごと煽られ、部屋の奥へ吹き飛ばされた。廊下に繋がる紙障子が凄い音を立てて倒れ、悲鳴さえ上げる暇もなく身体を冷たい木床に虫けらの如く叩きつけられた。呻きながら目の前の白い布を掻き分けると、かちゃかちゃ透明な破片が零れ落ちた。……窓が割られている!

 そのことに気がついて自分がさっきまで寝ていた部屋の雨戸に目を向けた時、頭から血の気がさっと引いた。と同時に、ひゅっと息が詰まり目を見開き、布団の端を指先でひしと掴んだ。心の根も一瞬止まったかというほどに、その刹那、耳は何の音も拾わず眼球はただ窓に起きた異様な光景に張り付きぴくりともしなかったのだ。やや遅れてから血が胸からどくんどくんと流れ出し、顔がかあっと熱くなる心地がした。体の方ばかりが必死で動き出していながら、未だ心の方は呆然と、夜闇に浮かび上がる影に彷徨っているようで。

 瞼がさらに大きく開いた。それでようやく、自分の寝転がっていた窓辺に何が立っているのかを視ることができた。

「ばっ化け物……!」

 月明かりなんて綺麗なものじゃない、夜天光の欠片もない、雨風吹き付ける夜闇の中に、部屋の端に転がって止まっているただの懐中電灯が照らし出した一つの生き物。長く細い尾をたゆらに蠢かせて空中を撫で、よくしなる胴は四本の足を備えている。そして首の先にのった頭は牙の覗く口で裂け、ぎらりと光る一対の目は真っ直ぐにこちらを捉えている。獣臭い息を吐いてゆっくり近づいてくる様を見ていて、体全体を覆う体毛には縞の模様が走り、額の上には斑な柄が入っていることに気がついた。

 虎だ。虎が入ってきた。

 まさしくその姿は、いつか模した絵で見たことのある虎のそれである。絵巻物なんかで何度か見掛けたくらいだが、ここまで大きいものなのかと思った。なにせ、前足が今六畳の端の若干手前までやってきていてまさしく部屋を出ていこうとしているのに、後足はまだ部屋に上がってすらいないようなのだ。その分顔はとてつもなく大きく、鼻先はもう廊下に迫り出している。ぴちゃりと音を立てて、その図体から零れる雨水が水溜りを作っていた。

 だんだん近付く斑模様がやたらはっきりと見え出した頃になって漸く、自分の状況をまずいと理解できた。そうして早くと立ち上がってから初めて、自分の手足が異常な程に震えていることを知った。未だに掴んでいたと思っていた布団は剥がれて薄いシーツだけになっており、手の中で頼りなさげに揺れている。暗闇に手探りで触れた柱に手を当てると、ぶるぶると振動が身体の中心まで伝わった。がくりと落ちそうな膝をなんとか叱咤して持ちこたえ、かぶりを振って一目散に廊下を駆け出した。あまりの恐怖に、迫りくる虎を振り返ることなく。

 広い屋敷だ。何度も柱や壁に身体をこすりつけたり寄っかかったりしたが、とにかく廊下の奥へ奥へと、できるだけ入り組んだ道を追って逃げた。いつの間にか暗闇に慣れた目は、先のわからない道を何本も映していた。真夜中の通路は当てもなくうねり、そのまま絡みついて中の者を閉じ込めてしまいそうに思われた。──と、走り回っているうちに東西もわからなくなった。一体自分が屋敷のどこらへんにいるのかなど端から知らなかったが、迷い迷い見つけた道の先が、とにかく屋敷の奥に通じると信じて逃げ惑った。後ろにあの獣がいるか、確認してる暇はなかった。ただ、痛々しいほどに混じりっけのない冷気が屋敷全体に詰まっていて、身の隅々にまで異様な寒気を感じた。今更、ぞっとしたと言えばいいのだろうか。ひたすら走りながら行方なき自分の背に、今にも襲いかかって抉り殺してくるような怪物が迫ってきているこの瞬間を、たまらなく「怖い」と感じた。……しかしぼくは、その刹那の感情に違和感を覚えた。

 ──大体、ぼくには普通の「感情」が上手く備わっていなかったんだ。嬉しいのを誰かに伝えようとすることも、怒って何かを傷つけようとすることも、怖いものから逃げようとすることも……全て全て、諦めているのがぼくの人生なんだと思っていた。諦めているべきだと。そうやって生きてきた。

 だから今、こんな訳の分からない怪異に会ってしまったにも拘らず、心臓が全く別なことに関してどきんとした。

 自分は「怖い」と逃げている。

 怖い。怖い。逃げたい。どこかへ消えてしまいたい──。

 きっと、これが最後だからなんだと思った。この世にいる最後の今だけ、やっと人間らしい感情を誰かが返してくれたんじゃないか、と。あるいは一人歩きしていた心が、情をかけてくれたのかもしれない、と。

 だから、もう……ひとりでいることはない。一切合切失ってしまって、自棄になって昔のことを思い出そうとしなくてもいい。このまま、あの怪物に消してもらえば、どんなにか──。

 なんだろう。追ってきていない。気づいたらぼくはたった一人、真暗で静かな面廊を淀み歩いていた。微かな風音が何処か遠くから聞こえてくる。何気なく伸ばした指先は暗闇を梳いて流した。空しかった。

 ぼんやりと歩いては止まり、歩いては止まりただ真直ぐに伸びる廊下を進んでいく。ぼくは、吃驚するくらい穏やかな中を漂っている。人知れず彷徨う幽霊のごとき存在に化したかのような、やっとこさ坂の上に見出した煙が霧に紛れてしまって途方に暮れる人のような、計り知れない弱さを持って浮き沈みする「何か」になった気分で。

 ……たしかに、虎は追いかけてきてはいないようだ。耳を澄ましても、物音一つ聞こえはしない。ぼくが一人歩いているだけではこんなに静かだったのかなんて驚いている。誰もいなくても、これより静かになるなんてことはないだろうと思った。

 ただ完全に無の空間に入っているのかと言えばそうでもない。音こそしないけれど、夜目が効いてくると案外暗がりの中でも何か見えてくるものだ。それに、あちらこちらに極めて微弱な通り風が過ぎるのだ。その時はどこかに部屋があると考えるのだが、進む廊下が一本になってからここ暫く、それらしき襖も障子も手に当たらない。隙間風ではないとわかると、よく身体を凝らして確かめてから初めて、この風が前方から吹いてくることが判断された。

 ふと、不思議に思うことがあった──大体、この屋敷にはこれ以上なく不思議なことばかりだったが──。この真っ直ぐな廊下が、ある一家の屋敷にあるものとしては、殊の外長過ぎるのだ。たしかに玄関に入ったとき、東西の見えない程広い様子を朧に見たけれど、もしやこの通路は、東西を端から端まで横断しているのだろうか?あるいは、まだ目にしていない奥の方へと繋がっているのだろうか?

 何にしてもこの通路の意味はわからない。どうして曲がり道も分かれ道もないのだろう。壁には出入り口の一つもなく、ただ平然と壁らしく暗黒を囲っている。雨音が通らないのは屋敷の内側だからだろうから、渡り廊下でもあるまい。地下に下りた記憶もない。

「……これは、夜が明けても気づかないかもな」

 いっそ、朽ちてしまうかも──と呟いたその時出し抜けに、行く先に出現した襖に驚いた。あまりにも唐突だったから、遠くに発見したその虚ろな姿がいやに近いなと感じた。さながら本当に何も無い道の先から湧き出たように。なんだか変な塩梅に嬉しい。

 よく注意してみると、視線の先から雨音が遠く、耳に滑り込んでくる。そっと近寄ったところ、何の変哲もない古い襖でしかなかった。流石に細かくは見えないが、多少の擦れて汚れた跡の他に装飾などは見当たらない。こんなトンネルのような所で、と半ば信じられなくて、右の引手に指を掛けてみたら、ちょっと隙間が出来て、案外すっと開きそうだった。あんまり軽く開きかけるから拍子抜けしたくらいだ。

 思わず唾を呑み込んだ。魔訶不思議がまた襲いかかってくるかもしれない。虎か、もっとわけのわからない怪物か、はたまた、この屋敷の世話をしている誰かか──開けてしまっていいものなのか。でも、もう虎は追ってきていない。朝になる頃までこの廊下で待ってこの屋敷を抜け出してしまえばいいのかも。──一瞬びくっと身震いした拍子にかたりと揺れた襖にまた驚きまた震える。……あんまりにやるせなくて、ええいままよと、さあっと襖を両脇に開いてしまった。

 広々としてるかという予想は大きく外れ、視界に現れたのは狭い六畳間。閉められた雨戸の隙間から漏れ入る夜光がしめじめと、墨のような闇を溶かしている。雨音風音が少し離れた所で騒いでいて、無音に慣れた耳を解してくれる。ここにこそ埃がたんまり積もっているものという想像とは裏腹に、入念に掃除されたに違いないと確信させられた清潔な畳と空気感だ。

 部屋の正面奥にあるのは、どうやら仏壇のようで。

「じいちゃん……?」

 どきっとした。仏壇のすぐ傍、写真立てに収まってゆるりと笑う、祖父の着物姿。胸から上だけ映されたその遺影を見て、そういえばじいちゃんは和服しか着なかった、洋服の袖に腕を通したところを見たことがないなとふっと思い出して、気づいたら膝と手を床につき、壁に寄って写真に見入っていた。たった一人で──何故か無性に、祖父が一人で佇む姿を思い出されてきた──微笑んでいる様子は悲しかった。堪えられなくなって、目元がじんわりとしてきた。やめろやめろと顔を拭おうとした手は痺れて動かず、ぼくはただ暫く、仄暗い仏壇の前で涙を零していた。


 ようやっと視界がはっきりしてきて、起き上がるのには結構時間がかかった。一丁前に涙は流すくせして、自分ではその理由がよくわからなかった。畳に散らばった水滴を指で拭う。──悲しいと感じたから泣いたんだ、と思う。随分久しぶりな気がした。

 仏壇に改めて目を向けてみる。

「じいちゃん」

 じいちゃん、とまた繰り返す。

 ……思い出されることがいくつもあった。それは十年前のこと、もう居ない祖父の姿だったり、飼い猫と戯れていたことだったり、一度屋敷で迷って蔵に閉じ込められたことだったり、祖父がいつも携えていた横笛だったり──。

 横笛?

 仏壇の正面に小さな桐箱があった。蓋の表面には「穂上」と墨で書かれているのみ。ぼくは何のためらいもなくパカリと開けて中を覗き、若干呆然としていた。

「横笛だ……」

 祖父の遺品を、祖父が決して手放さなかったその笛を、見つけてしまったのだ。それはたしかに祖父のものだとすぐにわかった。見覚えがあるのだ。

 一見して奇形な笛だと誰もが言うだろう。管は妙な具合に膨らんだり細くなったりしていて、どうも手に取りづらい。だがいざ指を合わせてみると、不思議な話、何かしっくりする。竹製の身は全体的に滑らかで、穴の数は七つ。右手側、すなわち吹口のある方とは反対側の端には、何か結びつけるためのものだろうか、小さな輪っかが飛び出ている。今は何もない。たしか祖父の持っていた頃も。

 桐箱の中には、横笛と共に折り畳まれた便箋も入っていた。これは朽ちた様子もなく、割と綺麗なままだなと感じて取り出して、はっと驚いた。表面に短く、「英一」とぼくの名が流麗な筆跡で表されていたのだ。慌てて内を開いて読み出す。

「英一

 万が一にも、英一がこの手紙を見つけてしまったのなら、許してほしい。こんな手紙を書いてしまったこと、そしてこんな手紙を英一に読ませてしまうことを。きっとこの手紙は、英一を苦しめることになるから。焼き払ってしまってもよかったんだ。もしどうしても読む気なら、読んでほしいというのが本音だ。けどその後で、どうかこの手紙の内容を忘れて東京に帰ってくれた方が、幸せかもしれない。

 英一を東京に遣ったのは、理由あってのことなんだ。勿論、引き取ってくれる遠戚がいたからというのもあるが、何より、この地に留まってほしくなかったんだ。そのわけをこれから話す。手紙を捨てるなら、今が最後だよ。読み進めるなら、驚くことばかりだろうが、おしまいまで読んでくれ、英一。


 私達穂上家というのは代々、陰陽師の類を生業としてきたんだ。陰陽師というと、占いや霊的なことをする、平安時代の安倍家でも思い浮かべるかもしれないな。そう、今の時代からすると到底信じられない、妖ごとだ。私だって最初は信じられなかった。だが、信じざるを得なかった。

 英一、どうか最後まで聞いてほしい。この世にはね、見えない、聞こえない、触れられないけれど、確かに存在している、まさに『妖ごと』なるものがあるんだよ。その正体は、強い思念によりあの世に行くことのできなかった霊なのだ。何かの未練、悲しみ、怒りで、この世にその姿を留めてしまった者たちだ。ただしかし、彼らを見ることができるのは、その素質のある者のみ。そう、例えば私たち陰陽師の子孫のように。

 そこでこの世において、一部の陰陽師たちはある役目を買って出たのだ。その役目とは、それらの霊の無念を晴らし、この世から祓う、いわゆる『祓い人』というものだ。霊は、誰かが祓ってやらない限りこの世に残り続ける。だから常に祓い人がいなければ、彼らは永遠に苦しむことになる。……その陰陽師の中に、私たちの先祖もいた。」

 まだ途中だが、驚くばかりの内容だ。ここまで読むまで暫く、息をしていなかったかもしれない。壁に手をつかなかったら、そのまま倒れ込んでいたかもしれない。頭がかあっと熱くなり、呆けたような目眩がする。……けれど、ぼくは祖父の手紙の内容を信じることにした。信じなければならないと思った。それはただ、現に先程の怪物を見たからというだけではない。

 ぼくが以前住んでた東京で、その幽霊なるものを見たことがなかったのは、人が異常に多かったことと、たんに外が怖くて出不精だったことが起因しているのだろう。

 元々霊とか妖怪とか、いるかどうかなんてさしたる考えもなかったけれど、ぼくには祖父の言葉が、妙にすとんと落ちた。ああそうか、やっぱりいたんだ、なんて。初めての事実を疑って、知識を総動員して「そんな非科学的なこと」と嗤うには、ぼくは十分幼かったし、信じるだけの理由もあった。

「祓い人、か」

 十中八九、先の虎は霊なのだろう。大方、虐待されて死んだ獣の怨念なのではないか。わからない。あそこまで凶暴になるものなのか。人の屋敷の部屋を吹き飛ばして。

 祖父はやっていたのか。あんな霊を祓うなんて仕事を。あるいは、もっと色んな霊がいるのかもしれない。……ぼくは気づかない間に、大変な役目を持っていたのか。そう、十年もの間、ぼくは知らなかった。今夜、初めて出会った事実を。

 手紙の残りの部分をさっと読んで暗記し、木箱の中にしまった。それから例の笛を手に、ぼくは雨戸を開けて部屋を飛び出していった。


「今、英一が手にしているであろうその横笛が、霊を祓うための道具だ」

 濡れた手でぎゅっと握りしめ、横笛を手放さないようにする。そうか、そのための笛だったんだ。いつもじいちゃんが手に提げていた理由が、やっとわかった。じいちゃんは、霊と対峙していたんだ。霊たちは、恨みに思っていたのかもしれない。怒っていたのかもしれない。生前出会った、何かに対して。あの世に飛ばされる力を振り切って、この世にとどまり続けるほどに、その思いは強く、烈しく、燃えるように。

 靴下が冷たく、気持ち悪い。雨に打たれながらぼくは走り、探す。行き先のなくなった、怪物のような魂は、その図体からした予想とは裏腹に、なかなか見つからない。泥が跳ね、水が濁り、風が暴れる。誰かが見つけなければ、霊はずっと、ずっとそのまま苦しみ続ける──。

 先程の身も凍るような感じは、今はもう不思議となかった。多分、霊を祓うことができると、祖父が教えてくれたからだ。そして、何よりも可笑しなことなのかもしれないが、ぼくがとにかくあの怪物を昇天させてやりたくて走っているのでは、決してないこと。退治したいなどとは露も思っていないのだ。むしろ今だってずっと、醒めることのない恐ろしい夢から逃げ廻っているような心地でいる。雨影の向こうから今にも襲いかかってきそうな化け物の記憶が目の前にちらついて、怖い。祓えなくて喰われる寸前、祖父の言葉が嘘だったと思うことが、怖い。走る泥まみれの足の冷え冷えした感触が、怖い。雨に濡れ額やこめかみを通り、片目を覆わんとするばかりに張り付く前髪が、どうしても怖い。怖くて、心臓がバクバクと煩いし、顔の表面が真っ赤に熱を持っている。怖いけれど、足は必死に動くし、眼球は霊の姿を探す。

 もう去ったのだろうか?いや、屋敷はとにかく広いからすぐに見つかるとも思えない──。耳が微かにとらえた唸り声に、ぼくは獣のように身震いした。痛々しいほどに全身は敏感になっている。ぼくは笛を強く握り締め、いつでも吹けるようにと口元に固定していた。そうして再び屋敷へ入ろうと、さっき破れた窓から上がった。


 ──虎と目が合った。


 時間にしてみれば、ほんの数秒だったと思う。まるで角で出くわした友人のように、ぼくらはお互いの顔を見た。 彼は部屋の中央に鎮座し、ふてぶてしい顔で俺を見つめている。虎のような黄と黒の縞模様を呈した、普通の、いわゆる「虎猫」。大きな図体は、暫く誰からも撫でてもらっていなかったらしい荒れ果てた毛並みを揺らしていた。

 視線が交錯した時、ぼくの頭は妙にすっきりと落ち着いた。がむしゃらに掴んでいた笛に籠もる力がすっと抜けて、自然と膝が折れた。記憶をたどる糸が手繰り寄せられて、この無駄に広い屋敷に穏やかな懐かしさを感じていた。

 こんな話があった。祖父の亡くなった後まもなく、その飼い猫が姿を消したという。葬式に来た俺はその猫の行方について周囲へ尋ねたが、ただ「居なくなった」という答えしか返ってこなかった。

 畳の上に座り込んだ俺にすり寄ってくる虎猫に、俺は手を差し出す。ひんやりとした手触りに改めて驚きながらも、ぼくはその手を猫の首元から離さなかった。

 ──正面から見直して、一つの物語を考えて納得した。ぼくはまだこういった存在に対して知識が乏しいけれど、おそらくあの猫は祖父の死後に、屋敷を継ぐ人が現れるまで守り続けてきたのではないか。いつ来るかも知れないその人を待つために、屋敷を守るための力を得るために、猫は自ら──。

「……もっと早く会いに来ればよかったな」

 

 トラ。


 ゆっくり口元に笛を持っていき、一音だけ、長く高く、吹き鳴らした。音は震えているのに、心優しく雨音をくるんで一緒に昇っていった。鈴の音がする。濁りのない優しさを湛えて、溢れるように鳴っていた。

 



 背後の庭を細やかに叩く雨音は酷く平和で、更けた夜にも透明な明るさがあった。まだ止まないだろうが、ぽつんと一人、屋敷に残されたぼくの耳には心地よく響いていた。

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霊の目礼 蛍野土産 @ihd

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