さちの春
ルイ
第一話
昔々、とある田舎町に子狐の姉弟がいた。姉弟はよく人間の子供に化けて人里に降り、些細な悪戯をして過ごしていた。姉のいなりは赤っぽい黒髪と赤い瞳の活発そうな少女の姿で草むらから飛び出し人を驚かせ、弟のたまは茶色いふわふわとした髪と青く丸い瞳で市場のりんごを失敬したりと、よく人間を揶揄っていた。
ある日、神社の祠で美しい娘が手を合わせているのを見かけた。黒い髪は丁寧に結い上げられ、小綺麗な藍色の着物を纏い、桜色の風呂敷包みを手にしている。娘は立ち上がると何かを探すように辺りを見渡し、目的のものが見つからなかった様子で少し肩を落として帰っていった。
「おいなりさんだ!」
いなりがキラキラした目で祠に供えられたいなり寿司を指差した。油揚げを甘辛く味付けしたいなり寿司が大好物だった姉弟は、くうとお腹を鳴らしながら鼻をひくひくと動かす。
「ねえ、たま。食べちゃおうよ」
「えっ、でも……ここの神様におこられちゃうかも」
「だいじょうぶだよ。神様はお社のほうにいるんじゃない?」
いなりは両手でいなり寿司をとり、片方をたまに差し出した。桜の花びらがひとつ、いなり寿司の上についていた。たまは恐る恐る受け取り、姉がいなり寿司にかぶりついた後に遠慮がちに食べた。
「こら、
荘厳な声が背後から聞こえ、姉弟はびっくりして飛び上がった。そこに立っていたのは、上品な着物を纏った美しい女。人間の姿をとっているが、彼女もまた姉弟と同じ人ならざるものであることは明確だった。
「わ、わたしたちも狐だもん」
いなりが目を逸らしながら呟く。たまはご飯粒のついた口元を慌てて手で隠した。
「おや、そうかい。しかし、お前たちは
「ふふん、いっぱい練習したもん」
「おっかあに習ったのかい」
「……おっかあはいないよ。ずっとふたりきり」
「そうかい」
いなりの顔が暗く沈む。ギュッと手を握る姉弟を目を細めて見つめる女は、まきと名乗った。彼女はここの稲荷神だと直感した姉弟は、人の変化が解けかけるほど怯えたが、まきは二人を罰することはなかった。
「また来てもいいが、供物には手をつけないでおくれ。腹を空かせているなら社のほうに来るといい」
そう言って、まきは霧の向こうに消えてしまった。
数日後、また祠の前で手を合わせる娘を見かけた姉弟は、茂みに隠れて様子を見ていた。すると、どこからかまきが現れて娘に声をかけた。娘はその白い頬をほのかに染め上げ、花が綻ぶように微笑んだ。まきも、目元を穏やかに細め娘を見つめる。彼女たちは並んで歩き、神社の方へ向かった。
「まき様はお一人で神社を切り盛りされているの? ここは神主様がいない社だと聞いたのですが……」
「神主はいない。まあ、切り盛りというか住み着いているだけだよ」
「まあ……神社で暮らしているの? 不便ではありませんか?」
「いいや、特には。食って寝て……そこにお前が会いに来てくれるから、退屈はしないね」
娘はぽっと顔を赤らめ、俯いてしまう。まきは、娘──さちが持参した花見団子を食べながら境内の桜を眺めた。
「……実は、さる名家のご子息との縁談が決まったんです」
ぽつりとさちが呟く。さちが言ったのは呉服屋の息子──雪之丞のことだった。彼は美丈夫で人々からの評判も良く、街の人々から良い噂ばかりを聞くほどの人物だ。
「でも、私は……」
切な気な瞳がまきを見つめた。まきもまた、悲し気に……その想いが気づかれないように微笑んだ。
「おめでとう。幸せになるんだよ」
その言葉にさちの目から涙が溢れ、さちは逃げるように境内を離れた。
◆
まきがさちと出会ったのは、狐の姿で倒れていた日のことだった。長い冬が終わり、春の気配を感じはじめた頃。生命の息吹がそこかしこで溢れ、山も活気づき始める季節だ。しかし、その時のまきは人に変化する力が衰え、狐の姿で祠の傍に横たわっていた。かつては街の人々が商売繁盛の御利益を求め足繁く通った稲荷神社は廃れ、神主も去って久しい。それでも、古くからこの神社を知る者は何人か参拝を続けていたが、それらも年を経るたびに一人ずつ減っていった。信仰する者がなくなるたびに、まきは自身の力がすり減っていくのを感じた。最近は悪しきものから境内を守ることもやっとで、まきはまだ神力が僅かに残る祠や社の近くで体を休めることが多くなっていた。
「まあ……どうしたの、お腹が空いているの?」
そこにやってきたのが、さちだった。さちは手に持った包みからいなり寿司を取りだし、まきの前に置いた。
「お食べ……神様へのお供物ですけど、神様の使いに差し上げるのなら、きっと許してくれるでしょう」
さちはそう言って静かに手を合わせ、祠を後にした。その神が自分であるとは口に出さず、まきはいなり寿司を食べた。ほわりと温かなものが腹の中に広がり、まきは不思議な感覚を覚えた。
一晩経つと、まきに不思議なことが起こった。神力が戻ったのだ。全盛期とは比べようもないが、人の姿をとれるくらいの力が漲り、境内の結界も強まった。人の姿のまま戸惑っていると、背後から「こんにちは」と声をかけられた。
「お参りですか?」
「……いや」
「そうでしたか。ああ、もうすぐ桜が咲きそうですね」
さちはにこやかに微笑みながら祠の前にしゃがみ込み、ほうきで軽く掃除を始めた。まきはその姿を見ながら、近くの桜の木にもたれかかる。
「お前は、どうしてこんな寂れた神社に?」
「あ……祖母に聞きまして。母や私が生まれる時も安産祈願でお参りに来ていたと……ずっと来たかったのですが、なかなか来れなくて。やっと来れるようになりました」
ここの神──まきが人間に与える御利益に安産は含まれていないが、言わないでおいた。
「ここの神様はいなり寿司が大好きだと祖母が言っていたので、私も作ってきたんです。供えておくと数日後には消えていると。母や父は獣の仕業と言いますが、祖母と私はお狐様が召し上がってくださったのだと思っています」
まきの隠している耳と尻尾がピクリと動いた。さちの言う通り、供えられたいなり寿司やお揚げは一つ残らず食べていたからだ。
「申し遅れました、私、さちといいます。あなた様は……」
「名乗るほどのものでもないが……まきとでも呼べばいい」
「まき様……はい、よろしくお願いします」
深々と礼をされ、まきは戸惑う。よろしくと言われても、自分はこの娘にしてやれることはない。それに、まきが神と知れば、人間は欲深く願いを叶えようと懇願するだろう。社が建立された当時は純粋な信仰で崇められていた稲荷神社も、時代を越えるにつれて欲深い者が多く訪れるようになった。欲は悪しきものを呼び寄せる。利益を得ても、守られた結界の外に出た途端、悪しきものを纏ってしまう。そのまま家に戻ってしまった者の何人かは、家が傾く災難に見舞われることもあった。一時は「狐の祟りを受ける」と悪評も立ったが、それは稲荷神社の仕業ではなく、あくまで、人間世界で自身が引き寄せた報いである。しかし、それも人が信じれば真実となり、真実は神をも蝕んでしまう。まきが悩まし気に目を伏せたのを見て、さちは心配そうに声をかけた。
「まき様、どこかお体の調子が良くないのですか」
「いや……そんなことはないよ」
「よろしければ、これを。今日は多めに持ってきましたので、神様へもお供えできますし」
さちが手渡したのは、素朴ながら美しい模様があしらわれた干菓子だった。どこか見覚えのある模様に目を瞬かせると、さちは嬉しそうに微笑んだ。
「祖母が作った干菓子です。よくこの祠に供えていたと聞きまして……私がお参りに行くと言ったら、持たせてくれました」
「……そうかい。ありがたくいただくよ」
「はい、どうぞ召し上がってください」
和紙に包まれた菓子はほのかに甘く、ふわりと記憶が甦るようだった。
「……もしや、お前の祖母はつねという名か」
「そうですが……なぜ祖母の名を?」
「昔、ほんの少し話したことがある」
「昔……? 祖母はしばらくこちらに来れていないと──」
余計なことを口走ってしまった。まきは神風を吹かせ、身を隠した。突風に驚いたさちは目を閉じていたが、風がおさまるとまきの姿をしばらく探していた。しかし、もう近くにいないと思ったのか、祠に礼をして帰っていった。
それから、さちはまきへの土産を持参して神社に通うようになった。さちが話すことは町での出来事や、今年は天気が良くて豊作になりそうだということ、甘味処の新作団子の話など、話題に尽きない。まきはさちの話を聞いては、人間の世界の暮らしを懐かしむように目を細めた。
ある日、いつものように参拝に来たさちと祠で会話をしていると、突然の雨に降られた。まきは自身の衣を広げ、さちを雨から守った。不思議なことに、薄衣のそれは雨を通さず、さちとまきはほとんど濡れずに社まで辿り着いた。
「まき様……ありがとうございます」
「構わない。通り雨だろうから、雨宿りしていくといい」
「はい」
外はざあざあと降る雨音が激しかったというのに、社の中は不思議な静寂に包まれていた。どこから出したのか、まきは火鉢と衣掛けを用意してさちを近くに座らせた。
「濡れた衣を掛けて暖まりなさい」
「あ……ありがとうございます。お目汚し失礼いたします」
着物はそれほど濡れていなかったが、まきの目が有無を言わさぬ光を帯びていたため、さちは仕方なく襦袢姿になった。着物はまきの手で広げられ「いい仕立てだ」と感心したように呟きながら掛けられた。そして、これまたどこから取り出したのか、まきは温かな上掛けをさちの肩にそっと羽織らせた。
「何から何まで……ありがとうございます、まき様」
「構わないと言った。いつもの礼とでも思うといい」
「いつもの……? ああ、お土産のお礼ですか?」
まきは答えず、外を眺めた。まきの言った通り、雨足は次第に弱まってきていた。まきは指先をほんの少し動かして風を呼んだ。さちの着物がふわりとなびいて、その一瞬で帯も足袋も乾いた。
「もう少し……温まっていってもよろしいですか?」
さちが控えめな声でそう呟いた。まきが「寒いのか」と返すと、さちはさっと顔を赤らめて「はい」と答えた。寒いはずはなかった。さちの額には、火鉢からの熱で汗が滲んでいたからだ。
「暑いのではないか」
まきが社の戸を開けると、雨上がりの爽やかな空気が吹き込んでくる。さちは視線を彷徨わせ、恥じ入るように目を伏せた。
「もう少し、まき様とお話ししていたくて、拙い嘘をつきました……申し訳ございません」
「私と話を?」
「はい……ご迷惑でなければ。帰れとおっしゃるなら、すぐお暇します」
しゅんと肩を落としたさちに、まきは初めて笑みを浮かべた。くつくつと笑った声が聞こえたのか、さちは驚いて顔を上げる。
「お前がそうしたいなら、好きなだけ居るといい」
「……! はい」
パッと微笑んださちの周りに、温かな気配が漂う。人ならざるものに好かれやすい人間は稀にいるが、さちもまたその気質を持っているようだった。それらは、まきのように実体や意識さえも持たないものたちだが、確かにさちの周りをふわふわと漂っている。この気配は、祠近くの桜や草花の精だろう。まきは床に座り直し、さちの話を聞いた。空が橙色に染まるまで、ずっと。
◆
さちは婚姻後も祠を訪れた。しかし、何度神社に足を運んでもまきの姿はなく、泣き別れた日から一度も会えずにいた。
「まき様ともっときちんと話しておきたかった」
そう呟きながら祠に手を合わせていると、ガサガサと茂みが動き、ぴょこんと二匹の子狐が現れた。さちは驚き、目を見開く。しかし、子狐たちの視線はさちの足元──祠の前に供えたいなり寿司に注がれていた。さちはふふっと笑い、お供えとは別に持っていたいなり寿司を石の上に置いた。
「この子たちも、お狐様の使いかしら……よかったらお食べ」
優しく話しかけると、二匹の子狐は恐る恐るいなり寿司をくわえ、サッと茂みに隠れてしまった。さちは微笑ましく茂みの向こうを見つめ、いつものように祠に礼をして帰路についた。
それから、さちが祠に行くたびに子狐が近くに来るようになった。赤毛の子狐がさちの周りをくるくると駆け、いなり寿司を期待しているのかと思ったさちは「今日はお供え分しか持っていないの」と言うと、子狐は気にした様子もなくさちを見上げた。さちは子狐の可愛らしい瞳に肩の力が抜け、思い出の桜の木の下で街の暮らしを子狐たちに語って聞かせた。
「ねえ、この神社……それか、この辺りに、まき様という人間の女性が住んでいるのだけど、知ってる?」
茶色い毛の子狐がキューンと鳴き、何かを伝えるようにぴょんぴょんと跳び回った。それを見た赤毛の子狐が飛びついて二匹はじゃれ合った。
「……なんて、狐さんに聞いてもわからないよね」
さちはため息をついて無人の祠と、いつか雨宿りをした社を見つめ、去って行った。
数か月後、さちの腹は目に見えて膨らんでいた。子を身籠ってからは女中に付き添われ境内を訪れるようになったさちは、相変わらず社と祠にいなり寿司を供え、手を合わせていた。
「奥様、お祈りするならば安産祈願の社へ行った方がよろしいのでは?」
「いいえ、私はこちらの社がいいの」
そう言って、さちは女中に支えられながらゆっくりとした足取りで社を後にした。まきに会えるかもしれない……さちは神社に来るたびにそんな期待を持っていたが、何度訪れてもまきに会うことはなかった。
臨月を迎えたある日の夜、さちは布団で横になりながら祈っていた。さちは家の者から外出を止められ祠に行けなくなったため、毎夜あの祠を想い、寝所で祈りを捧げるのが日課になっていた。眠りについたさちは不思議な夢を見る。毛並みの美しい狐がさちを見つめ、さちの足元に木の実や魚を置いた。木の実は栄養価の高いものや、出産時の痛みを和らげるものもあり、さちは「ありがとう」と受け取る。狐が一声鳴くと、さちの腹が優しい光を放ち、徐々に視界が白くなった。
「待って……!」
さちがハッとして起き上がると、そこは自室だった。障子からは朝日が透け、朝になっていた。慌ただしい足音が近づき、女中が「奥様、奥様」と呼ぶので返事をすると、すぐに襖が開いた。
「おはようございます、奥様。ご覧ください! 今朝方このような贈り物が届きました」
「それは……」
「どなた様からかは分からないのですが、見るからに奥様宛ての品かと。お産に使える鎮痛の実もありますし……こんな高級品、一体どちらの親切な方でしょうね」
「……」
それらは夢で見た狐の贈り物と同じだった。まだ跳ねている新鮮な魚や、色とりどりの木の実。きっと、夢に出てきたのはあの社のお狐様で、夢枕に会いにきてくださったのかもしれない。さちは手を合わせてあの神社を想った。
その夜、さちの陣痛が始まった。不思議なことに痛みはほとんどなく、産婆も驚くほどの安産だった。生まれたのは男児で、夫やその家族は後継者の誕生を大いに喜んだ。妻の役目を果たした安堵で、さちはそのまま眠りについた。
体が回復した頃、息子の竹彦を連れて、さちは神社を訪れた。
「稲荷様のおかげで、無事に出産できました」
社と祠に謝辞を告げながら報告すると、春の風がふわりと頰を撫でていった。春──まきと出会い、そして別れた季節だ。彼女は今どこにいるのだろう。神社に住み着いていると言っていたのに、いつ来ても、どこにも人の気配がない。さちがため息を吐くと、眠っていた竹彦が突然パチっと目を開け、空中に手を伸ばした。
「竹彦?」
さちが不思議そうに空を見上げ、振り向き見渡すが、何もいない。鳥や虫かと思ったが、それらでもないようで、竹彦は桜の木の枝をじっと見つめ「あうー」と手を伸ばす。すると、桜の花が数個、はらりはらりと竹彦の胸元に落ちてきた。機嫌良く手足をバタバタさせる竹彦にさちは不思議に思いながらも、祠を後にした。
さちはその後、三人の子宝に恵まれた。長男の竹彦、長女のかよ、次女のふみ。さちが輿入れした家は由緒ある呉服屋で、常に多忙を極めた。しきたりは厳しいが、生活は充実していた。店の休日にはいなり寿司や握り飯を持ち、母子で神社へ行くことが習慣になった。
「母上、見てください! 上手に巻けました」
「まあ、本当。竹彦は手が器用ね」
八才になった竹彦はいなり寿司を手にして誇らし気に笑った。竹彦は夫の雪之丞とさちの美しさを併せ持つ美しい少年で、心優しい男の子に育った。周りの同年代の男児は「厨房は女と使用人の場所」と馬鹿にする者が多いなか、竹彦は自ら厨房の料理人や飯炊の女中たちに学び、幼いながら料理の腕を上げていた。その熱心さは父の雪之丞が「呉服の勉強もしてくれ」と呆れるほどだった。
五歳のかよは竹彦とは違い、物心つく前から呉服に興味を持ち、生地の目利きが常連の間で話題になるほどだった。子供ならではの直感が鋭く、男でないのが惜しいとまで言われるほどだ。
生まれて数か月のふみはおとなしい赤子だった。おしめや授乳を知らせる以外ではほとんど泣かず、眠ってしまえば静かすぎて「ちゃんと息してるか?」と家の者たちに心配されるほどだった。
さちと子供たちは弁当を持って神社を訪ねた。やはりまきはいなかったが、桜が見事に満開を迎えており、お参りの後、桜の木の下で弁当を食べた。すると、境内の方から幼い子供が二人現れた。
「母上、子供がいます」
「あら、本当……この辺りに家があったかしら」
もしかして、まきの子だろうか──そんな想いが一瞬頭を過ぎる。さちは首を振って子供に微笑んだ。
「よかったらあなたたちもお食べ」
「このいなり寿司は私が作ったんだ!」
竹彦が胸を張ると、子供二人はパッと笑顔になり近づいてきた。二人はいなりとたまと言い、姉弟らしい。親はなく、二人きりで暮らしている。気の毒に思ったさちは「お家はどこ?」と聞くが、たまがそわそわしていなりの後ろに隠れ、いなりは「この近く」とだけ言った。
いなりは、さちに抱かれながら乳を吸うふみを見つめて「かわいい」と微笑んだ。たまもいなりの後ろからそっと見つめて「お団子みたい」と微笑んだ。いなりがぷくっとしたほっぺをツンと触ると、ふみがパチっと目を開けじっといなりとたまを見つめた。いなりは驚き後ずさり、たまも目を丸くするが、ふみは泣くこともなくいなりとたまを不思議そうに見つめていた。
「わあ、ふみが知らない人を見ても泣かないなんて珍しいね」
「そうね、二人が優しい子だってわかってるんじゃないかしら」
いなりとたまは互いに顔を合わせ、頭を掻いた。その仕草は、まるでいつかの子狐のようだとさちは思った。
ふみには秘密があった。物心ついた頃から、いや、それよりも前から、ふみは人ならざるものの気配を感じることがあった。それらの気配は呉服屋の中、街の中──至る所にあるため、最初は全て人間だと思っていた。しかし、母を含めた周りの人はどうやら気づいていないと知った時から、ふみはますます口数少なくおとなしい娘になった。
人ならざるものは基本的に話さない。呉服屋の中にいるそれらは、特に何かをすることもなく布地の近くでじっとしていたり、機織り機の上で機織り娘を見守るように佇んでいるだけだ。しかし、それらはある種の守護であるのだとふみは感じていた。近くで火事が起こってもこの呉服屋だけは無事だったり、丁寧に繕われた生地や着物は虫食いもなく評判がいい。不景気とされる時期にもよく売れて、御用達にまで選ばれていた。いつしか、あの人ならざるものたちは、商売繁盛の神様の使いなのかも、とふみは思うようになった。
ふみは一〇才になった。子供たちが成長し家業が忙しくなっても、母と兄妹たちは祠に行くのが習慣だった。母のさちが父に頼み少しずつ社を修復するようになってから、境内はこざっぱりして前よりも参拝者が増えた。今日も若い夫婦が二人、お参りに来ていた。
「ふみ!」
境内の影から元気な声が近づいてくる。神社の近くに住むといういなりだ。いなりもまた美しい娘に成長し、この世の者とは思えない美貌を持っていた。実際、いなりは人間ではない──そのことをふみは知っていた。昔から、いなりの後ろに狐が見えていたのだ。けれど、ふみはそれを誰にも言わなかった。
「いなり様、お久しぶりです」
「もう、『イナリサマ』なんて呼ばれたら神様みたいじゃない! 珍しいね、ひとりでくるなんて。……竹彦は?」
「ふふ、心配しなくても、兄上からいなり寿司を預かってきました」
「やった!」
いなりは目を輝かせて包みを開け、早速頬張った。ふみは穏やかに微笑みながら、いなりの後ろを見る。
「あの、たま様は?」
「たま? うーん、あの子はちょっと元気なくて……このいなり寿司、もらっていってもいい?」
「もちろん。薬はあるのですか? お医者様に診せなくても?」
「うん、ありがとう。薬草を煎じて飲ませたから、明日になれば元気になるよ。いなり寿司もあるし」
いなりはにっこり微笑んだが、ふみは心配そうに眉を下げる。最近寒くなってきたから心配なのだ。そう言うと、いなりは「寒い?」と首を傾げたあとに、慌てて「そうだね、あったかくするね」と言い直した。
「それよりさ、最近、さちおばさんを見ないけど……どうしたの?」
「兄上の結婚が決まったから忙しくしていて。姉上も商家との婚約が決まって、家はみんな手が回らないみたいです。落ち着いたらまたみんなで来れると思います」
「そっか、楽しみだね」
いなりの笑顔に頷くふみ。すると、いなりがおもむろに宝珠を差し出した。
「これは?」
「お守り。ふみの家に悪いものが来ないように。あのね、これは稲荷様の宝物なの。さちおばさんには絶対秘密だよ」
「稲荷様の宝物……なぜ母上には秘密なのですか?」
「秘密なのは……わかんない! 稲荷様がそう言ってただけ」
「たま様は稲荷様とお知り合いなのですか?」
「あ、え、ええと……とにかく、それは特別な宝物なのよ」
えへんと胸を張るいなりに首を傾げつつ、ふみは宝珠を光にかざした。一見すると透明なガラス玉だが、陽の光でキラキラと虹色に輝いている。先日、着物を仕立てた代金とともに下賜された万華鏡の輝きのようだ。
「きれい……こんなに透明でまん丸な玉、見たことないです。それに、光にかざすといろんな色が見えるのですね」
「へへ、気に入った? 約束だよ、こっそりしまっておいてね」
ふみは頷き、首にかけていたお守り袋にそろそろと宝珠を入れた。
「またみんなで来ますね。たま様によろしくお伝えください」
「うん、またね! ふみ!」
いなりはふみの姿が見えなくなるまで手を振っていた。ふみが階段を降り、鳥居から出たのを確認してから、いなりはくるりと一回転して狐に戻り、たまの待つ洞窟へと向かうのだった。
ある日のこと、家族で神社を訪れた際にふみは「それ」を見た。社の影に佇む神々しい気配。立派な狐の尾を持った美しい女性が、母──さちを見つめていた。
「まき様……?」
ふみは直感でそう感じた。母が昔、この神社で交流していたという美しい女性。しかし、視線を外した瞬間、その気配は消えてしまった。
「母上、境内に忘れ物をしたようです。探してから帰ります」
「そう? 竹彦、ついて行っておあげ」
「いいえ、すぐ戻るから平気です。先に行って構いません」
「早く戻ってこいよ」
竹彦の心配そうな声に頷き、ふみは境内に引き返した。
境内は静謐な空気で満たされていた。『人ならざるもの』の気配がない。ふみはそっと境内に近づき「まき様……ですか? いらっしゃるのですか?」と声をかけた。当然のことながら、静寂しか返ってこない。ふみは両手をぎゅっと握り、社に向かって声を上げた。
「まき様、母に会ってあげてくれませんか。今もまだあなたの名を呼び、一人で泣いている夜があるのです」
さちは穏やかで優しい母だが、『まき様』という名を呼び一人密かに泣いていることをふみは知っていた。父のことは家族として愛しているのはわかるが、それとは異なる深い感情をまきに対して抱いていることはふみにもわかっていた。
「──人と神は交わってはならぬのだよ、人の子よ」
厳かな声が境内に響き、ふみの目の前に美しい女性が現れた。人間にしか見えないが、ふみの目にはしっかりと狐の耳と尾が見えた。
「やっぱり……ずっとあの家を、私たちを守ってくださっていたのはあなただったのですね」
まきは人知れずさちを悪しきものから守っていた。さちの清く優しい心は妖には魅力的で、良いものも悪いものも多く引き寄せる。その心を喰らおうとする妖怪たちをまきは強力な神性で排除していた。
「神が一人の人間ごときを守るなど」
悪しきものは決まってそう唸りながら消えていった。確かに、神性を注ぎすぎた人間はその圧に耐えきれず死してしまうこともある。まきはそれでも、さちを守りたかった。故に、さち個人への加護を緩め、さちの家全体を守ることにした。実体を持たない使いをさちの呉服屋に住まわせ、生地を虫食いから守り、機織り機が壊れないよう守らせた。また、火事の時は友人である水の神を呼びつけて呉服屋を守った。以前より水の神にも供物のいなり寿司を分け与えてきたこともあり、その礼だと快く協力してくれた。稲荷神であるまきの本領は商売繁盛である。長年、さちに供物と祈りを捧げられたまきの神力は年々増していき、その見返りにほんの少しだけご利益を与えただけだ。それをうまく使い、繁盛させたのはさちと、夫の雪之丞の手腕だった。
まきはもう、遠くで見守っているだけで十分だと思っていた。まきは人間が好きな神だった。一千年を超える長い命の中で何度か特別な魂に惹かれることはあったが、さちほど執着と呼べるほど気にかける人間は初めてだった。
「まき、あんたはその人間に恋をしているんだよ。ご覧、その腑抜けた顔を」
水の神がクスリと笑って水鏡を向ける。まきは鏡に映る己をぼんやり見つめながら「恋」と呟いた。
「私は、さちの前に姿を現すことはない」
「なぜ……」
「お前は、母が神隠しに遭ってもいいと?」
ふみは、ハッと息を飲んでまきを見つめた。おそらく、会ってしまったら攫わずにはいられない。神の領域に母を連れて行ってしまう。それでも良いのかとまきは聞いている。
「それは……でも……」
「優しいね、さちの娘。どうかこれまでと同様に、知らないふりをしていておくれ」
「まき様、待って……!」
ぶわりと強い風が吹き、ふみは目を閉じた。その一瞬でまきは消え、神社には静寂しか残っていなかった。
長い年月が過ぎ、さちが神社に来れる日は大きく減った。杖をつき、子や孫たちに付き添われて祠にやってきたさちは、皺くちゃになった手を合わせていつものように祈りを捧げた。
「おかげで皆、大病もなく過ごせております。ありがとうございます」
さちの家は孫やひ孫も生まれ、賑やかな大家族となった。この稲荷神はさちの家の守り神として崇められ、一家は定期的に参拝していた。
「おばあちゃん、お花があるよ」
「本当ね、お参りに来る人が増えたからね」
街の名家が熱心に参拝する神社と評判になり、神職の家から神主がつくことになった。今ではよく整えられた境内で巫女がほうきで掃除をしている。雨風により朽ちかけていた社も補修され、参拝者が鳴らす
さちはゆっくり目を閉じる。瞼の裏には、出会った頃から色褪せないまきの姿が今でも映った。死ぬまでにもう一度会えたなら。そんな思いを抱きながら、まきは孫に支えられて神社の階段を降りて行った。
春の陽気で一気に桜が満開となった卯月。それに反して、家中は深い悲しみに覆われていた。
さちが横たわる布団の周りには親族一同が集まり、さちの最期の時を見守っていた。夫の雪之丞は数年前に既に旅立っており、さちは夫なき後も相談役として呉服屋を支えていた。家を継いだ竹彦一家、商家に嫁いだかよ、ふみ──そして孫やひ孫たちが、涙を堪えながらさちの最期の時を見守っていた。
薄れゆく意識の中、さちは重くなる瞼の隙間から眩しくも懐かしい光を感じた。ゆっくり目を開けると、あの日と変わらない、美しい衣を纏ったまきがさちを見つめていた。
「まき様……」
うつろに呟いたさちの言葉に家族たちは戸惑ったが、ふみだけは涙を流して「やっと会いにきてくださった……」と、まきのために場を開け平伏した。ふみの娘が不安そうにふみを支える。まきの姿が見えているのは、さちとふみだけだった。
「人の子の一生は短いね……」
まきが金色の瞳を細めて悲しげに呟く。皺が刻まれたさちの頬を優しく撫でると、さちは穏やかに微笑んだ。
「お元気そうで……よかった」
さちは命が消えゆく最期の時でさえ、まきの身を案じた。そんな純粋で無垢な心に、まきはどうしようもなく惹かれていた。
「ゆっくりおやすみ、さち。愛しているよ」
その言葉に、最期の力を振り絞ってさちは目を開いた。涙がひとすじ流れ、なにかを言おうと口を開けたまま、さちの命の灯は消えていった。
鏡台で光が反射する。飾り座布団に置かれた宝珠が陽光で虹色に輝いていた。ふみは母の手にガラス玉をそっと握らせ、涙を流した。まきの気配は既に消えていた。花見日和の、ある年の春のことだった。
さちの春 ルイ @ramble25
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