沿革北緯無限数にて

静谷 清

本文

 目を閉じると――あの頃の黄白い風景が思い出される。


「おまえが思っているよりも世界は広いが、世界はおまえの全てではない。沿――その果てまでも、世界は続いているのだ」


 何度も祖父から聞かされていた言葉だった。祖父はよく僕を部屋に呼んで、話をしてくれた。年寄り特有のぼそぼそしたしゃべりかたと低い声で、僕は聞き取れずに首を傾げていた。そうすると、祖父は笑顔で長いひげを揺らして、「れん雲丹うにのような子だ」と頭を撫でて褒めてくれた。意味は判らなかったけれど祖父のごつごつした手に触れられるとうれしかった。あれから七年経ち、祖父の葬式でその言葉を思い出した時は、目の奥から熱さを感じるよりなく。そして不愉快でもあった。


 泣いてしまうことが不愉快だったのではない。祖父はいつも無表情でときに人を不安がらせる僕を、ある種信頼していたのだ。こんな場で――嫌でも辛気臭くなる場で、周りに流されてしまう自分が情けなかった。七年経ち、十七歳にもなり、少しの理性的な精神を得たと思っていた自分に、祖父の死は呆然と立ちはだかってきた。


 晩年の祖父は認知症で気が荒くなってしまって、家族に迷惑をかけていたけれど、僕にとってはたった一人の心から信頼できる人だった。娘である母は泣いていたし、祖母も泣いたり黙ったりして、なんだか人の人生は積み重ねで決まっているようだった。


 僕もああなりたい。祖父みたいに聡明で人に優しく、人に愛されて死にたい。そんなことを考えながら涙を拭いていると弟の遥而ようじが喪服を歩きづらそうにしながらこちらへ来るのに気づいた。弟は自分より少し背が低い棺桶を見ながら僕に訊いた。


「兄ちゃん、じいじはどうしたん?」


 弟は楽しくなさそうだった。僕はその柔らかな頭を撫でて、こう言った。


「じいちゃんは死んだよ」


「死ぬ、ってなんなん?」


 僕は棺の中を睨むように覗き込んで、弟の方へ向いてから呟いた。祖父の顔は痩せていた。痩せていて雨に降らせてみたら顔に雨水が溜まるくらいのくぼみがあった。


「二度と会えなくなるんよ」


 その言葉の意味が判ったのか、判っていないのか「ふうん」とだけ呟いて、離れたところで椅子に座ってぼーっとし始めた。まだ弟には祖父の事も死の事も余り判っていないに違いない。けれどもそれは当たり前である。


 遥而という名前は母が読みを決め祖父が漢字を決めた。親元から離れ遥かなる地点へ行けども、その先に(親は)手をつけないという意味が込められているそうだ。廉という字には意味をつけず、本来の意味そのままの潔さだと聞いた。


 子は自らの名に対し何の感慨も持たないが、それにどこ迄の語彙を親が思索しているか考えもつかない。この場で燃え盛る骨の意味を知らぬように――あれだけ愛し、死んで悲しんだ祖父の事も知らぬまま終わるのである。


 僕は自らを理解されぬまま死ぬのが怖かった。愛さぬのが問題ではなく、愛されぬのが問題だった。祖父は愛されていた。けれど時々ひどく悲しげな顔をしていたのを思い出す。あれは死の近づきを予期していたのでも、退屈な日々に少しのため息が漏れたのでもない。幸せな日々、幸せな人生、これには幾ばくかの気がかりがあったのだ。祖父は死ぬ三年前、こんな事を言ってきた。


「廉は強くなりたいか。何があろうと家族を守り、自らを幸福にできると思うか」


 祖父はいつも溢れる強さを隠さず、自分の言葉にいつも正当な自信があった。けれどその言葉には疑問と弱さが内包し、孫の自分を見つめる目には一筋の疲れが覗くようだった。僕は「守りたいけれど不安はある」のような旨を辿々しく語った。


 すると祖父は「廉には強かに一本通った根がある。だからこそ不安がってはいけない。喜びを語り喜びを求めなさい。そうすれば、いずれ廉の中にも強さが生まれる」とこわばるような語気で答えた。僕が理由を訊くと「強さとは喜びだからだ。嘘でもいいから何にでも喜べ。その内に本当の愉悦というものが見つかる」と答えた。


 珍しく僕は納得しないまま祖父の部屋を後にしたのを覚えている。ポジティブであれ、と語った当の本人が疲れ果て、空吹くようにしていたのでは矛盾が生じる。祖父は長い人生に少し弱音を吐いたのだなと思った。


 目の前には火葬されて出てきた骨がある。僕達はそれをすり鉢で砕いて、箸で骨壺に入れた。弟は空気を読んだのか表情には出さなかったが、嬉々として箸で骨を砕いていた。


 将棋の駒ぐらいの大きさを心掛けながら粉骨をしていると、ふと祖父の小指についた傷跡を思い出した。右手の甲にある中手骨から水かきにかけての切り傷は、祖父が漁師だった頃に婿入してきた自分の船の漁労員―――つまりこの場合は僕の父親だが――に仕事中の失敗でつけられたらしい。祖父がそのことを話す時はいつも鼻をひくひくさせ、語るように喋るのである。


 その父は母親と法要や納骨について話している。葬式の日時は3日前に決まったもので、父は岩手の漁港へ出かけていたから、こちらへは今着いたばかりだ。着く前の電話で父は、「直溥なおひろさん(祖父)には随分世話になったしなるべく間に合わせたい」と言っていた。声が上擦っていて、しきりに鼻をすする音が聞こえた。


 僕は電話で七年前祖父に言われた「廉は雲丹のような子だ」とはどういう意味なのか訊いた。父は「雲丹ってのは棘と皮のほかに生殖器官と腸くらいしかないから廉が色気と食い気だけの動物って事じゃないか」と言った。そんな訳がないと思った。不愉快なので話を変えようとして、そこで何の気なしに祖父の指の傷の話をした。由来は知っていたがその失敗の内容自体は知らなかったのだ。父は「あれなあ」と少し笑って話してくれた。


「父ちゃんがお祖父ちゃんの船に乗っとったんは知ってるやろ?そん時に舷に当たって跳ねた雲丹が、おれの首に入り込んで、びびって網跳ね上げてもうたんよ」電話越しにでも恥ずかしげにはにかんでいるのが判る。父はがっしりとした体格だが、驚かせるとその身体を存分に働かせる為に余計被害が出てしまう。


「ほんで直溥さん、おれと一緒に網持ってたからバランス崩してもうて、あれ烏賊いかかなあ、獲ったもんで指切ったんよ」それを聞いて、この事を話す時の祖父の態度も判った。その頃は婿養子ではなくただの下っ端だったから良いが、家族になった以上愚痴として話すわけにもいかず、だからああやって昔話みたいに語ったのだ。


 僕は手に持った大きめの骨壺を撫でた。この頃は大事なものを愛撫する癖がついていたように思う。祖父もそうだった。よく僕の頭を撫でていた。けれど、この場合と祖父とでは理由が違った。僕は人生の中で手に入れた、壊されぬよう注意すべきものにのみ固執していたが祖父は、いずれ手放す事になる未練から手を伸ばしていたのだ。


 辺りはしんとなり、母はあっちやこっちや歩き回って葬式の片付けを手伝っていた。祖母は親戚の連中としみじみ何かを語っていた。大事な人を喪った人間にも休息は訪れないのかと思った。するといつの間にか横に座った弟から骨壺を貸せとねだられたので、貸したら急に手持ち無沙汰になった。


 暇になって辺りを歩いていると、先程の祖父を失った悲しみと苦痛がさらに頭を覆い始めた。暇が人を駄目にするというが、成程確かに、心の奥からさらに取り留めのない記憶や言葉が浮かんできては、そのどれもが祖父に関する事ばかりだ。十数年余りの積み重ねが、この瞬間みだりに昏い影となって僕を蝕むのだった。


 悪い言い方だが、祖父の教えや優しさが、終の瞬間まるで恩返しのように返ってきていた。これはまさに昏い話である。どれだけ幸せであっても残した人を悲しませてしまうという事は。


 そこまで考えて僕は思い出した。「強さとは喜びだからだ」と焦がれるように言った祖父の姿を。その萎びた姿がこういった矛盾の結果だと感じていたのだが――もしかすると、どれだけ家族を愛し幸せにしてきたとしても死ぬとこうなり、積み上げた強さは繋がらないのだろうか。人間は死には本質的に、絶対的に勝てないのか。人生という過程で喜びを持って幸せになろうとして、世にある不条理にも不運にも負けなくても、最後は結局負けて終わると、祖父は思っていたのか。


 僕は目眩がしたので、再び元の場所に戻ってきた。僕が座っていた椅子には骨壺が置かれていた。弟はどこへ行ったのか探すと、式で使われた祖父の写真が置かれた机に居た。茶の写真立てに入った簡素な写真だ。生前の祖父の希望で、自室のベッドに座った祖父の全体像が写っている。


 写真の中の祖父は笑顔だ。祖父は優しいが余り笑わないし、笑顔の写真はこれだけだ。弟はそれを見ながら「兄ちゃん、じいじ好き?」と訊いてきた。僕は頷いた。しかし先の件もあって僕は、遥而はどうだと訊いてみた。弟は「おれ、よく判らん。好きなんかなぁ?じいじの話あんま判らんし、でも何かじいじが時々頭撫でてくれるとうれしかった。そん時だけじいじ笑うから好きやった」と言った。


 そんな具合で朗らかな笑みを浮かべている弟を見て漸く気づいた。祖父は弟にもよく話をしていたのだ。


 遥而は兄(僕)と違ってよく笑い、よく泣き、一人で居る時もずっと何かを喋っている様な子だ。そんな弟が今日の葬式の間はずっとこんな具合で、やはり祖父が残したものは大きいのかと思った。けれど遥而は泣かなかった。家族みんな泣いたのに、遥而だけは平然としていた。それは弟がまだ幼いからや関係が希薄だからではなかった、祖父はたしかに遥而に遺してくれたのだ。遥かなる処へ向かう前に、葬式で泣かない方法を、死に負けない精神を。


 では何故自分には無いのだろう。ひとえに遺されたけれども気づいていないだけなのか。それとも――すると、「廉」と呼ぶ声がした。振り返ると、叔父が居た。母親の弟で、漁業を継がず看護師をしている母とは違い、祖父や父と同じ漁業を営んでいる。「どうした?一人で何やってんだ」気づくとまた弟はどこかへ行っていた。


「叔父さんはお祖父ちゃん好きだった?」返事もせず出会い頭にこんな事を訊いた。


「何でそんな事訊くんだ?」


「…さっき遥而が僕に訊いてきて、僕は好きって言ったんやけど皆はどうやったんかなって」叔父は少しうーんと唸って、こんな話をした。


 親父の事は好きだけど、少し変な所もあったな。気に入らないことがあると黙ってそっぽ向いたり。あと俺が小さい頃湯呑みを零すと延々とお前は落ち着きがないって叱った後、弥里みさとを見習えって姉ちゃんの事を褒めたんだが、その後こっそり姉ちゃんを部屋に呼んで、成績について説教してたりとか。俺の目の前で褒めた以上、居間でやると見習えつった意味が無くなるからなんだろうが、生真面目つーかなんつーの、気負い過ぎなんだよな。要するに。家族全員の飯を魚獲って食わせてんのに、あんな気回してたら体に毒だろ。繊細で――だから廉や遥而に反動で優しくしてたのかもな。一度俺と姉ちゃんを厳しく育てたから、俺はまだしも姉ちゃんは結構立派に育ったし、後は芋づる式に良くなっていくだろ?でもそうしたら暇になったから、色んな事お前らに教え込んでたんだと思う。………


 叔父はかなり身も蓋も無い話をしたが、むしろそれが自分にはありがたかった。今の自分には勝手に創り上げた祖父のイメージを崩す必要があると感じた。別に祖父は完璧じゃないし、完璧である必要も無かった。僕はやはり不安だったのだ。どれだけ考えても考えても、死に対する自信が持てなかったから。産まれてきた意味が、十七年生きた歴史が身近に現れた命の終わりに、無残にも負けそうになったから。


 ふと祖父が「芋づる式」と頭を撫でながら話しているのを想像すると笑ってしまった。あんなに尊敬していたけれど、いざちょっとふざけてみれば案外納得するものだ。あの長い髭も相当胡散臭い。父に訊いた「雲丹の答え」も本当な気がしてきた。


 すると叔父は祖父から相続した遺産を船に使うつもりだと話した。生前の祖父が乗っていた船を使いたいらしい。オンボロだから全部使うかもと笑っていた。表情に自嘲気味の微笑など浮かんでおらず、はっきりと将来への展望に笑みを浮かべていた。


 叔父と話していると父と母が呼んでいる事に気づいた。遺骨を持って家に帰るらしい。もう時間なのだ。僕は叔父と別れた後弟を探しに出掛けた。


 弟は葬儀場から少し離れ、火葬の煙が見える小高い木の下に居た。そこからは海が見えた。青く平らに光る日本海の上の疎らな雲。ここから島は見えずかすかな、遠い水平線で列島の先が見えるだけである。遥而も僕も海を見るのが好きだから、ここへ来た時からこの風景に目をつけていた。


 ああ、それにしても海とはどこまでも続いているのだ。実際は地球上という枠組みに収まっているのだとしても。


 今日の事も、祖父の死も、何もかも全てこの日本海を思えばちっぽけに映ってしまう。それに関してはともすると一種の爽快感さえ覚える。僕含め父も叔父も――そして祖父も、水島家の男達はみな海に溺れているに違いない。だから沿岸も沖も無限に感じるのだ。深い透明な水晶の上で大陸や離島や、国や魚や人間がまるで流されながら循環している。波による生命の輪は、永遠に続いていくかのように。


 僕は、ふと、いつかこの海に骨を撒くのだと思った。人を幸せにできない規則などはほっぽり捨て、自分なりの自然葬をやりたいと感じた。生まれてきたことに意味が無いのなら、意味を作れば良い。誰も生まれてきたことに理由なんて無かった。それは全ての生命は生きるだけで許されているからだ。何をしたって自由だ。生きているのなら全ては自由であるべきだ。


 自由であることも強くあることも同じなのだ。僕はあの、何度も聞かされてきた言葉を思い出す。


 沿革北緯無限数にて――沿革北緯無限数にて――


 風が吹き、木の葉が足元に倒れ込んだ。弟は黙ってそれを手に取る。そしてそれを海に向かって投げた。決して届かなくても、向かうところは一緒だ。流れに乗って生きる。僕達はそれだけで良い。それだけで幸せなのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

沿革北緯無限数にて 静谷 清 @Sizutani38

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ