春子の冒険

大善山

春子、東京へ

春子が家を出たのは、十三歳の夏だった。

ポケットにはわずかな小銭。どこへ行くあてもなく、とにかく東京へ向かうことだけを決めていた。

東京駅に降り立った瞬間、胸を圧迫するような人の多さに立ちすくむ。押し寄せる人波に足がすくみ、改札の前で何度も右へ左へと視線を泳がせた。田舎の無人駅しか知らない彼女にとって、この世界はあまりにまぶしく、まったく勝手がわからない。

駅前広場の片隅に腰を下ろし、人々の足取りをじっと眺めた。家族連れ、スーツ姿の人、笑いながら歩く学生。見たことのない速さで流れていく都会のリズムに、ただ目を奪われる。

その時、隣に腰を下ろした若い女性が「お腹、空いてない?」と声をかけてきた。差し出されたのは半分に割ったフィッシュバーガー。かぶりついた瞬間、春子の目が見開かれる。熱く、香ばしく、田舎では一度も味わったことのない都会の味だった。胸の奥が急に熱くなり、思わず「ありがとう」とつぶやいた。

けれど都会は優しいばかりじゃない。

今度は見知らぬ男が隣に座り、「可愛いね、うち来ない?」と軽い調子で声をかけてくる。春子は即座に睨み返した。男は苦笑して頭をなで、そのまま立ち去った。子供に混じってからかわれたときも、負けずに拳を突き出したが、逆に面白がられて笑われる。悔しさで胸がむずむずした。

人混みを抜け出したくて、彼女は皇居の方へ歩き出した。整然とした並木道に吸い寄せられるように。途中、警察官と目が合い、じろりと睨まれる。追い払うような仕草に春子は反射的に睨み返した。

――なんで私だけ。私だってこの国の住民なのに。

強がりのまま、春子は石畳を歩き続けた。

都会の緑に包まれた静かな空間は、不安と高鳴りを同時にかき立てる。

やがて、黒塗りの車が目の前に止まった。ドアが開き、エレガントな中年の女性が降りてきた。春子の頭にそっと手を置き、微笑む。その柔らかさに、彼女は何も言えなくなった。

「どこから来たの?」と問われ、春子は小さく答えた。

「田舎から……」

女性の膝の上に抱かれ、車に揺られているうちに、瞼が重くなった。気づけば春子は、もう眠っていた。


春子、偵察の夜

車は静かに停まり、重厚な門の前でドアが開いた。

私は本能のように体をひねり、外へ飛び出した。アスファルトに足が触れた瞬間、心臓が喉から飛び出しそうなくらい脈打つ。

エレガントな女性は追いかけては来なかった。

ただ、車のそばに立ち、ゆったりとした仕草で手を振っている。その笑みは優しいのに、どこか得体が知れない。

私は数メートル走ったところで立ち止まり、振り返った。

――戻るべきか、逃げ続けるべきか。

頭の中で二つの声が喧嘩していた。

「知らない人についていっちゃだめだ」

「でも、あの人は危なそうじゃなかった」

決断できずにいるうちに、屋敷のシルエットが目に飛び込んできた。

門越しに見えるのは、薄暗い庭園と洋館のような大きな家。煌々と灯りがついていて、人の気配がする。

私は息をひそめ、フェンスの影からその屋敷をじっと見つめた。

――ここが何なのか、ただの金持ちの家なのか。それとも、もっと別の何かなのか。

迷いを押し殺し、足をそっと動かす。偵察だ。確かめてからでも遅くない。

春子の冒険は今はじまったばかりだ。

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春子の冒険 大善山 @ohnozen1963

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