純白の魔物 ―― 化け物は家族思い ――

あずき

第1話 家族のために

 ルーヴェルド領は、緑豊かで静かな場所だ。

 鳥のさえずりと風の音が、穏やかな日々を知らせている。


 だが、森の中は少し違う。

 魔物や魔獣がひそみ、冒険者たちが勇ましく行き交う。

 そのため、森や町の一角は賑やかで、まるで別世界のような活気にあふれている。


 アリオスがふと目を上げると、雲の切れ間にぽっかりと浮かぶ島影が見えた。

 人々はそれを「クリムレイヴ」と呼ぶ。魔器の存在や危険を示す伝説が、子どもたちの教科書にも載っているほどだ。

 その空の孤島は、森の奥に潜む魔物たちの噂と同じくらい、町の人々の暮らしの一部に溶け込んでいた。


 窓越しの景色に夢中になっているとき、ドアをノックする音が響いた。


「読書中に失礼いたします。エルディオ様が書斎にてお呼びです。急ぎではないから、ゆっくりで構わないとのことです。」


 彼はアリオスの父、カレドリスが幼いころから仕えてきた執事――セリオスだ。アリオスは家族以外、部屋への入室を許していない。しかしセリオスだけは例外で、互いに軽口をたたくほどの間柄だった。


 幼いころのアリオスはセリオスに毎日のようにまとわりつき、ついにはカレドリスに叱られるほどだった。


「……すぐ行くと伝えてくれ。」


「かしこまりました。お茶はいかがなさいますか?」


「今日も長居したくない。少なめでいい。」


「承知いたしました。」セリオスは軽く会釈し、静かに去っていった。


 扉が閉じる音と共に、アリオスは短い溜息を吐いた。

(またあの話か……あいつは何度、俺に学園に行けと言えば済むんだ)


 重い足取りでエルディオの書斎へ向かう。アリオスの周囲だけ、真冬のように冷えた空気が漂っていた。


 ――


「来たか、アリオス。」

 重厚な机の向こうで、エルディオが書類から顔を上げた。その眼差しは鋭く、しかし奥底にわずかな憂いを秘めている。


「また学園の話ですか。」アリオスは椅子に腰を下ろす前に言い放つ。

「そうだ。」エルディオは即答した。「君は頭脳も優れ、魔法の才もある。学園に行けば、さらに多くを学べるはずだ。」


「必要ありません。」アリオスの声は刃のように鋭かった。「母や妹たち、兄を置いてまで行く意味などない。」


 エルディオは眉をひそめた。「君の未来を狭めるつもりか? 学園で得られるものは大きい。王都の研究者たちも、君の力に注目している。」


「俺にとって大切なのは家族だ。」

 アリオスは冷たく言い放った。

 その言葉に、室内の空気がぴたりと張りつめる。


 すると、エルディオは後ろに控えているセリオスに助けを求めるような視線を投げた。

 だが、セリオスは軽く首を振り、静かに一礼すると、「これは、エルディオ様ご自身でお伝えになったほうがよろしいかと。では、失礼いたします。」と告げ、迷いなく部屋を後にした。


 重たい沈黙が落ち、時計の針の音だけが響く。

 その沈黙を破るように、エルディオの落ち着いた中低音の声が静かに部屋に満ちた。


「……実は、もう手続きを済ませて寮の部屋も押さえてある。」


「……は?」


「君のお母さんからも正式に許可をもらった。だから君は、学園へ――」


「……あなたは、どうしても僕をこの家から追い出したいのですね。」


 アリオスの声には、押し殺した怒りと、にじむような悲しみが入り混じっていた。

 エルディオは一瞬だけ目を細めたが、取り繕うこともせず、ただ真っ直ぐに言葉を返した。


「違う。」


「アリオス、君は聡明だ。さらに魔術師としての素質を備えている。そして何より――家族を深く想っている。その意味が分かるか?」


「すみませんが、一ミリも分かりません。」


「君には守りたいものがある。ならば、そのすべてを守れるだけの力を得なければならない。その力を育てるには、学園で学び、知識を増やし、技術を磨き、経験を積み、そして広い社会を知ることだ。……これで、私の言いたいことは伝わったか?」


 アリオスの胸に返ってきたのは、想像していたものとは正反対の言葉だった。

 ずっとエルディオを「何か裏のある男」として警戒し、敵視してきた。だからこそ、あまりに真っ直ぐな言葉に一瞬、思考が止まる。


(……なんだこいつは。俺はずっと反抗的な態度をとってきたのに。それでも、俺のために本気で考えている……?何を企んでいるんだ、この人は。)


 心の中で疑念と動揺が渦巻く。結論は変わらない――「恩を売ろうとしているだけだ」と。

 それでも、沈黙の時間を経て、アリオスはゆっくりと口を開いた。


「……分かりました。学園へ行きましょう。」


「……本当か!?」


「ええ。しかし、一つだけお願いがあります。――ヴェリナとアイリスも、来年から学園に通わせてください。」


 ヴェリナとアイリスはアリオスの双子の妹だ。アリオスが二歳のときに母が二人を身ごもり、翌年、難産の末に生まれた。


 当初は「妹たちのせいで母が苦しんだ」と思い込み、嫌悪していたが、出産後に母が見せた満ち足りた笑顔を見て、彼女たちが母にとっての宝物であることを悟った。


 それからは兄として二人の面倒を見たり一緒に遊んだりするうちに、アリオスにとってもかけがえのない存在になっていた。だからこそ彼は、この話を利用し、学園への入学を「妹たちのため」として提案したのだ。


「それは構わないが、ヴェリナはともかく、アイリスは本当に行きたがっているのか? 無理に連れていくのは良くない。二人の意思を聞いてから決めよう。」

「私も、初めはそうしようと思ったのですが……」


 エルディオが怪訝そうにアリオスを見やる。


「……アイリスには、“龍使い”の素質があります。」

「ドラゴンの、ではなく?」

「いえ――“龍”です。」

「……っ!?」


 エルディオは息を呑み、即座に思考を巡らせる。もし本当に龍使いの素質を持つのなら、なぜアリオスがそれを知っているのか。アイリス自身は気づいているのか。そして、どうやって見抜いたのか――。


 一方アリオスは、妹に相談もせず口にしてしまったことを悔いていた。本当にこの男に明かしてよかったのか。これがアイリスの負担にならないか。胸の奥で不安と焦りが渦巻き、冷や汗が背を伝う。


 龍は神に最も近い存在とされ、龍使いは「龍に選ばれた者」しかなれない希少な存在だ。ティエルマレの長い歴史においても、現れたのはわずか三人。その者たちは王族すら凌ぐ権威を持ち、龍使いが存在する国は龍の庇護を受けると伝わっている。


 だが同時に、制御できぬ魔素は魂を焼き尽くす。龍の力を扱うには高度な魔法操作が不可欠で、失敗すれば魔力は暴走し、やがて魂ごと消滅する――。


 二人がアイリスのことで思案に暮れていると、扉をノックする軽やかな音が響いた。


「エルディオ様、アリオス様。そろそろ夕食のお時間です。」

「…セリオスか。私は後で食べるから、準備はいい。」

「かしこまりました。」

「アリオスは、」

「僕はこれで失礼します。」


 アリオスが背を向け、部屋を出ようとしたそのとき、エルディオが少し微笑みながら声をかけた。


「アリオス。続きはまた今度、時間があるときに話そう。私はいつでも大丈夫だ。君の好きなときにおいで。」


 その瞬間、エルディオの顔にふとカレドリスの面影が重なった。アリオスは思わず目を見張る。


(父さんと似ているところもあったんだな…)


 アリオスは言葉を発さず、ただ静かにエルディオを見つめた。深い息をひとつつき、心の整理をしたあと、ゆっくりと部屋を後にした。

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