生か死か(全編)
武内明人
生か死か
この世の中はパンデミックに襲われた。人々は生か死かを選ぶ時、生きたいと懇願する者で溢れた。
死とは限りなく近い存在であるが故に理解出来るような錯覚を覚えるが、生きている人間には自身が死に会うまで分かることはない。
人間は分からないと言う物事には臆病で脆いのである。それは社会という世界が人々の認識という言語で統一されているからであり、この世に人間と言うものはそもそも存在していなからである。
四駄郡西町、この国土の山間地域にある基幹集落にも似た町であるこの地にも細菌が蔓延していた。感染症、微生物が人に寄生し増殖しながら病気を齎す事を言う。
「お父さん、細菌怖いかや」蛭田トマキは地デジのニュースに流れる感染による死者の数字に怯えながら夫の蛭田少佐郎に小声で呟いた。「怖いかや言ったってんどうじゃあれしゃん」少佐郎は迫りくるこの町の総感染に打つ手が無いとしか言えなかった。「このままただ死を待つしか手立てはないのか、国は何をしているのか、具体的な政策を示すべきだ。」心の中には言いたい事が山程あったが僻地の一市民が何を言ったところで国が変る筈も無い事は誰しもが思っている事だと、捨て切れない気持ちを毎日一杯の玄米茶と一緒に何度も呑み込んできた。
地デジニュースは総理の緊急記者会見の映像に切り替わった。「皆さんの命は私が守っていきます。ウイルスをこの国から消し去る為に科学技術省と防衛省が連携し抗細菌拡散装置を開発中で有ります。これが出来上がれば細菌をこの国から消し去ることが可能となり皆さんに平穏な暮らしが戻る事をお約束出来ます。それまで自粛をお願いします。」この非常時に冷静沈着な表情で淡々と喋る口調が支持率の低下を招いている事は、一部を除いて市民の心には納得出来ていた。
「夕飯にすっかや」トマキはこんな時にと思いながらも「人間は食べんと死っかや、しょうないっかや」そう心に言い聞かせ少佐郎に食事を促した。
生きたい、そう考えたのは彼女一人ではない。しかし、この国には生きたいと願う者を否定する人間も存在している事も事実としてある。「人間は遅かれ早かれ死を迎える」大勢の人達はこの言葉に納得して仕舞う。死を経験していない生きている人間のその言葉を。
トマキはいそいそと無地の白い皿に乗った焼き鯖と夫婦茶碗にご飯、わかめの味噌汁そして白菜の漬物を炬燵テーブルに用意した。少佐郎は無言で手を合わす、トマキもはんで押すように倣った。
四駄郡は、この国の象徴でもある霊峰嵩開山の麓にある。嵩開山は国土の中心に聳え立ち4213メートルの高さがある。嵩開山からは薩皆川が流れその周りには櫂秦山脈が連なる。10年前、旧石器時代の遺跡や遺物が多く発見された事でかなりの人口がこの地にあったことに注目された。それまで燃料革命による林業の衰退、高齢が50%の限界集落となり三ちゃん農業つまり高齢夫婦とお母ちゃんがこの地を支えざるを得ない状況であったが、遺跡の発掘を取り上げた放送界が石器時代の住人達をそのまま現代にタイムスリップさせた生活風景をCGで復元し。都市部の人達の田舎暮らしへの不安であった土砂災害、山林崩壊、経済の問題、交通インフラそのすべてを解決させる要素を詰め込んだ番組によって山間地への移住を安心なものとした。。戦後行われた大規模な植林の管理不備を露わにし枝打ち間伐を適切に行って鬱閉を防いでいけばクラストが無くなり山林が崩れる事のない安全な土地になる事、都会の子供に対する異常な事件に関しても自然に囲まれると大人子どもを問わず闇の無い純粋な心を持つ事ができ、特に子供たちは体調を崩しにくく精神的なストレスを感じなくなるという精神医学のデータ、、この地の事件にも触れ都会で起こるような異常な事件が0であった事、戦争を否定する人たちが多く僻地に良くあるような差別、偏見を持たない、ノーマライゼーションでやさしい高齢者しかいない事などを紹介した。するとまず通勤圏内だという人たちから移住者が集まった。すると四駄郡の行政も動き始め移住者には土地と家を格安で与え新学校の申請を行い遂には大学まで出来あがった。火の着いた人流は留まる事を知らず陶芸家や旅館経営者、アクティビティー施設開設、飲食店などにより雇用を生んだ。何よりも移住者に長く親しまれているのは人口増加にも関わらず舗装道路を造らなかった事で、「自然と共生出来る処がキャッチーだ」とSNSなどでも拡散され、この10年の間に都市部からの移住者が半数を占める人口3000人の大きな群落になった。北町と西町の二つに分かれており地元住人の多くは家族経営の農家で産物は殆んどが原木椎茸。樹林地帯に適した農業を行っている。移住者が経営する飲食店では地元原木椎茸をメーンにメニューを作り多くのメディアで取り上げられている。高齢化で廃れるばかりの原木だがこの町に移住してくる人の年齢層は20から40代が中心で自らが進んでチャレンジしているおかげで重労働の原木栽培ではあるが益々盛んになっている。「蛭田の爺ちゃん。」四駄の地元の家は原木屋敷と呼ばれ一軒一軒が武家屋敷の如くに伝統のある家屋と広い庭を保持している。高齢者が殆んどでまともに玄関で呼び出しても相手にされないのは移住者が一番初めに覚えることである。少佐郎の家は庭に面した縁側から声掛けしないと大音量のテレビ音にかき消される。大声で呼んでいる若い青年はこの地で原木栽培にチャレンジしている豪達健斗22歳。少佐郎は引退してもこうして若い人達に原木のノウハウを教え込んでいるのだ。「はい。」ワンテンポ遅れる形でトマキが返事と共に縁側の障子をやっと開けた。聞こえるかどうか何時も不安な気持ちで待っている健斗は大きく息を吐きだした。トマキが「お父さん、健斗君」トマキの声を待たずに少佐郎は笑顔で「どうしたかや」又何かあったかと思考を巡らす。「爺ちゃん、椎茸が殆んど開いてしまって売れそうにない。」健斗は赤の他人と言っていい少佐郎を爺ちゃんと呼ぶ、それは、田舎の若いものの特権的言葉と少佐郎も解釈してる。悪意が無い、信用しているの証なのだ。「それはほだ木が乾きすぎじゃ。」ゆっくりと縁側に出て立ち姿のまま健斗と対峙した少佐郎が続けて「浸水はきちんとやっかや。」原木に種駒を打つ前に等サイズに切ったほだ木と呼ばれる丸木をしばらく浸水する。十分に水を含ませないと原木が乾いて椎茸の傘が開いてしまう。そうなると椎茸の旨み成分である胞子が全て落ちてしまいそのものの値打ちが下がるのだ。大きければ美味いと勘違いする事が多いのが椎茸である。健斗は、熱くなった表情で、「ちゃんとやったよ」と噛みつきそうな勢いだ。」その答えに少佐郎は空を仰ぎ、「そうか、この異常気象でもう4カ月近く雨が無い、健斗、ほだ木の周りの土に給水ポンプで水を流せ、溜まるくらいじゃ、子実体には絶対当てるなや」少佐郎は健斗よりも若い口調で指示する。「子実体ってなん」椎茸農業2年半の健斗には理解できない言葉だった。「椎茸の事かや」少佐郎の見下す事のないやさしい口調に恥ずかしさを余計に感じて健斗はすぐに山へ車を向けた。子実体の傘などに水滴などが付着するとその部分が黒ずんで売り物にならなくなる。農業は理屈だけでは生産はできない。自然のなんたるかそれを体で感じ取ることが大事だと少佐郎は健斗に身を持って教えたつもりだった。
この町に細菌が入り込んだのは2か月前の事だった。西町に一件しかない診療所に声がかすれて喋り難いと言う女性の患者が来院した。「先生、昨日から息が苦しい感じで声を出すのに無理しないといけないほどなんです。」診療医の積田医師は、喫煙者であったその患者に「扁桃が少し腫れてますね。今度取りましょうね。」と安易な判断でうがい薬を処方した、が、帰宅したその患者がその日の夜に息を引き取った。享年31歳だった。積田医師はおかしいと思ったが下気道呼吸器感染症による細菌性肺炎の死亡診断書を作成した。しかし、LRTI(下気道呼吸器感染症)は発展途上国の幼児の症例が多い。それがこの国でしかも大人でというのは中々考えにくいものだった。次の日には同じ症状の患者が5人来院した。症状が喉の痛みで扁桃に若干の腫れがあるという事、全員が喫煙者である事から不信感を抱きながらも明確な診断としては喫煙による扁桃の炎症と判断するしか無く扁桃炎と診察し、摘出も視野に入れ帰り際に症状が悪くなったら時間外でも診察するからと伝えた。「扁桃が異常に腫れてるわけでもないあの程度の腫れはごく自然に発生する、ましてや膿などは見当たらなかった。摘出手術をしないからと言って死亡する事はほぼ無い、然し、そのあり得ない事が今起こっているのかも知れない。」積田は不安なまま診療を終えた。その夜来院した5人のうち4人が息を引き取った。積田医師は、早急な対応策としてLRTIのワクチンである肺炎球菌ワクチンを発注した。今回の四人は20から30代の年齢層で成人してからの喫煙歴。どう考えても喫煙が死亡原因ではないと判断できる材料だ。「症状ではLRTIだが新たなウイルスでも発生したのか」積田医師は、机のパソコンで医学ネットワークにログインし、全国土の症例を検索すると同じ症例を挙げている病院が複数見つかった。「この件数から行くと現実は3倍の件数があるかもしれない。高山先生のところはどうか。」検索結果は該当なしだ。10年前にこの西町に自分の意志で診療所を開所した積田は未婚ではあるが趣味のバードウォッチングでこの西町を訪れ親との縁を切ってまでして移住して来た。根付くという言葉通り地域の為に心血を注ぎ続けている。患者の無い時間は隣の椎茸工場に出向きパック詰め作業を手伝う時もある。医師と言う職業柄手先が器用なのかパックのビニールの張りが周りのパートに比べしっかりしていると評判もいい。積田は研修医として在籍していた事のある高山南医療大学病院の院長高山佐美恵に連絡を取った。受付に電話を入れ名前を述べると佐美恵先生は快くすぐさま電話を受けてくれた。「5人の喫煙者が連続してとは尋常では無いわね。」佐美恵は、高山南の理事長高山剛健の一人娘で生まれる前から剛健は子供に高山南病院を継がせる事を決めていた。生まれたのが女子であったが迷うことなく佐美恵に英才教育を行い国外の医大へ留学させ全国土一と言われるほどの優秀な医者に仕立て上げた。佐美恵は剛健の強引な教育方法にも関わらずこの国土の医師をまとめ上げるほどの人格を養っていった。もしかすると生まれた時からその人格はあったのかもしれないと殆んどの医師は思っている。彼女の結婚相手には様々な医療関係者からのアタックがあったが佐美恵のお眼鏡に叶ったのは婿養子である常行だ。然し、良くある病院との違いは夫の常行の仕事は医療関係では無くIT会社の取締役社長であった事だ。高山佐美恵は家柄などの風習などに囚われない開けた医師としてこの国土の頂点にある病院の院長として信用が厚い。常識が無いと思った人も無く佐美恵先生ならば有り得る相手だと思った人が多かった。「うちでも呼吸困難になり死亡する患者が倍々で増えているの。」医療ネットワーク情報に上がっていないのは原因究明が出来ていない事が理由だ。佐美恵ほどの立場になると軽々しい情報漏えいは出来ないからでもある。絶対的な信用を置いていた佐美恵の不安そうな言葉に益々積田は自信を失い診断を誤っていたかもしれないと思い佐美恵に聞いてみた。「その診断名は何でしたか。」「殆んどがLRTI、ただうちの患者には喫煙者はいなかったわ、それに診察時には、死亡するほどの症状には思えなかったわ。」佐美恵も自身の診断に間違いがあったのかも知れないと内心冷や汗を感じていた。積田は大病院の高山先生でも分からない症例だと聞き小さな診療所ではどうにもならないのかも知れないと諦めかける自分の心の弱さを奮いたたせ「医者が諦めては命を守れない」とモチベーションを再び持ち上げ佐美恵に問いかけた。「矢張り処置はPCVですか」積田は自分に確信を持つ為そう佐美恵に尋ねた。答えは「イエス。」全国土から信頼の厚い大病院の院長の言葉として積田は安堵した。だがすぐに自分の気持ちに鞭を入れ死亡者が出た事を後悔して止まなかった。命の責任、それは生きている人間が考える死というものを一番理解している医師であるからこその後悔だった。
蛭田家のテレビは日中ずうっと着けたままである。老人二人の家庭にはテレビから流されるCMやバラエティーなどから流れる若い男女、子供の声を聞いているだけでも寂しさが紛れるのである。二人には息子が一人いる。蛭田少太郎、田舎暮らしを嫌がって都市部へ就職した。小中と何の疑いも無く将来、廃り続ける原木の巻き返しを少太郎も少佐郎と誓い合っていた。中学三年の卒業文集には自分の土地に駒菌施設を作り、自分が開発した椎茸を売って家族と共に新しい椎茸栽培をしたいと綴った。そんな彼が都会に出ていく事を決めたのは四駄郡にまだ都会の人流が流れ来る前だった。少太郎が嫌だったのは田舎特有の血縁ネットワークだった。蛭田の子と言う独特な表現方法が、一個人として生活したい少太郎には耐えられなかった。父少佐郎の跡取りとして一生を椎茸に捧げるそれが血縁ネットワーク界の常識なのだ。然し、当然の如く見るテレビに彼は感化されていった。同じ年代の人間が都会でやってる事は血縁に縛られた親の跡では無く田舎に残した親を喜ばせる自分と言う個人の名声と言う事に少太郎の心は大きく動かされた。この村にいては人生が死んでしまう。そう考え家を出ていく決心をし両親には告げずに実家を後にした。子供の選ぶ人生を否定するような親では無い事は分かっていた。賛成したかもしれない、然し、それまで一蓮托生として生きていた父と母に只申し訳ないとしか思えなかったから家出と言う形をとった。同級生のほとんどは実家の仕事を継いでいる。自分というものがしっかり見えているのかもしれない、そう少太郎の心の片隅にはあった。それ以来帰省は一度もない。ただ一度だけ、就職したと短文の手紙を送った。その後同級生の跡取りたちも農業の衰退とともに都市部へ流れていった。四駄郡は高齢者率50%の限界集落へと一歩ずつ近づいていった。
トマキは出て行った息子少太郎の事を何時も考えてはいるが二人共が寂しくなるだけだと口には出さない。勿論少佐郎も同じ気持ちだと分かっている。「このままわしらは死ぬのを待つしかないん。少太郎だけは生き残って貰えるよう神んさんにん願うかや」トマキは自分の命と引き換えにと念じた。
西町診療所の積田医師は次々と来院するLRTIの患者に追われ打つ手がないまま1週間が経過した。「それではレントゲンを撮りましょう」日を追うごとに原因を突き止めるべく奔走していく。レントゲンは小規模な病院などでは手間を取る、ボタンを押せば写真は簡単に取れるが、そのボタンを押せるのは医師に限定される。看護師で済む仕事をわざわざ治療をする医師が対応しなければならない、診療放射線技師法と呼ばれる。診療放射線技師がいない病院はかなり負担の掛る仕事と思える。それは核のボタンを押すのが各国のトップの人間に限られているのと似ている。積田はさらに採血、採尿と小さな診療所で出来うる限りの事を行いこの症例の原因究明に努めた。一つだけ全ての患者に共通の因子が見つかった。それは、気道が健康な人に比べ萎縮している事だ。「矢張りLRTIに近い症例である事は間違いない、積田は信じられない自分を否定し策を考え抜く事が大切だと考えるようにした。「もう一度高山先生に。」スマホを手にし、前回登録させてくれた高山南病院の佐美恵に直接電話した。「丁度いいタイミングで電話を頂いたわ、実は」佐美恵は積田に連絡するところだったと伝え、「この症例は全国で発生していて、いえ、全国土で起きてるの。それで医療機関ネットワークを使って緊急医師会議をする事になったわ。積田先生にももうすぐ連絡が入ることと思います。」積田は連絡を待つと同時にパソコンから独自に作成したデータベースを立ち上げた。表には症例名、発生年月、ウイルス名、起源国土、氏名、発言項目、ワクチン名、感染者数、病状、検査方法等、30項目余りを開発したソフトを駆使し5分とかからないスピードで作り上げ、会議が始まるころにはすでにホームキーに手を置いて待っていた。
「現在起こっている症例について医師会議を行いたいと思います。」全国土医療機関長のアーネストグリーン氏の履歴書写真の様な動画を全ての医師がパソコンのモニター越しに注目した。高科学研究所のウイルス検査道程を細かく述べた後「故にこのウイルスをLRTIⅡ型と名付けます。」積田はアーネスト氏の英語を訳しながらLRTIⅡ型の特徴、身体への影響、外的内的な変化のデータを全てパソコンに入力しデータを表に反映していく。医師の中には病院のソフトに事務方を入れて入力させる者もいたが積田はパソコンに関して自分独自のデータベースシステムを作りたいと考えていた。かつて積田はIT会社の取締役社長をしていた。しかし、自社開発のシステムソフトウェアに海外からのハッキングが相次ぎ信用を落とすと同時に会社経営が苦しくなった。社員の生活を守る為大手IT企業に吸収される道を選んだ。自身は医学を学び開業医となった。吸収した大手IT企業とは高山佐美恵の夫が経営する会社だ。それが縁で佐美恵と出会い医師の素晴らしさを知りそのきっかけとなった。「細菌名をライノウイルス1007αとします。最初の感染者、男性25歳は既に高科学研究所に収容しており細菌のサンプルを採取済みです。抗体開発は、現在80パーセントの進捗です。それが完成すれば全国土で開発中の抗細菌拡散装置で散布が可能となります。」アーネスト氏は興奮気味に説明を続けた。「ライノウイルス1007αは、空気感染が主流と思われ検体者の皮膚に付着している菌が採取されています。付着したウイルスは上皮から侵入したんぱく質を栄養源にして体内で増殖します。増殖したウイルスは体内の水分が蒸発することで他の媒体へと向かうという事が分かりました。最初の感染者の住まいイドメカ市周辺の空気をMZPCR法で検査したところ5.9KPという高い数値を検出しました。この数値から市内全域にウイルスが蔓延し、全員が死と直面していると思われます。」それを聞いた医師の面々は誰しもが厄介だと思った。飛沫や接触による感染ならば、マスクや消毒で防ぐことは可能だが、空気感染となるとどうやって防げばいいのか。「なお、LRTIⅡは38度で変異し、上皮侵入力が無くなる事が分かっています。各国の気温によって患者への予防の呼びかけを工夫して頂きたい」モニター越しの高山佐美恵は我が国であれば季節は春先、気温の上昇はまだ早い段階、かなり厳しい表情だ。積田はワクチン完成までの代替について質問した。殆んどの医師も同じ考えだ。別の医師から抗RSウイルス人化モノクローナル抗体のパリビズナブが提案されたが大人への治験が終わっていない為肺炎球菌ワクチンの使用を推奨された。結局、医師たちが考える事以外の良策は無かった。それにもまして肺炎球菌ワクチンの効果は59パーセントの効果が精一杯だと結論付けられた。積田の頭に地元の事が浮かんだ。原木椎茸農家の中に菌床栽培を兼業している会社がある。菌床はオガコと呼ばれる木材粒子と栄養剤を混合し成形した媒体に椎茸菌を接種し培養をする。菌糸が伸び媒体を侵食することで子実体を形成する。その子実体が椎茸なのである。接種作業の際に環境が整わないと菌床を培養する段階で黴が発生する場合がある。もともと椎茸は黴の一種で食用黴なのであるが椎茸に外敵となる黴は取り除く。その中にぺ二シリウムという黴がある。ペニシリウムはペニシリンの原料となる。1928年にアレクサンダーフレミングにより発見された青カビである。他にも土の中にいる真菌や放線菌から抗生物質を発見した研究者がいた。ペニシリンは抗肺炎球菌剤として用いられる。「然し、空気感染だとすると抗肺炎球菌ワクチンを殺菌された場所で打たなければならなくなる。うちの診療所では難しい。いや、待て、インフルエンザワクチンは全く効果が無いのだろうか。インフルが、壁を作っている間に肺炎球菌ワクチンを打てば何とかなるのではないか。接種の段階で室温を38度以上に保てば何とか。もう一度ネットワークを通してアーネストに質問した。「ウイルスの相違が顕著に表れている為HIBは推奨できない。」とのことだった。つまり空気感染が大きな壁になっているという事だ。「環境だけで対応できるような弱いウイルスではない。」その答えは積田の意図する事ではなかった、彼はPCVを打てる状況を作りたいだけだった。然し、全体主義のお偉いさんに無菌室の無い小さな診療所の話をする方が無理があると思いなおし、自分を信じてみることにした。「全ての住人がインフルを摂取しているかデータを見直そう。」積田は早速自分の患者の電子カルテを収拾した。インフルエンザワクチンがどの程度持ちこたえるのかも分からないままだ。「移住組のデータが全て集まればいいが。」不安な気持ちを何度覚えれば安心感は訪れるのか誰にも分からなかった。積田の心に究極のストレスが掛る。
四駄郡西町の未舗装路、周りはコナラ、クヌギ、ブナ、ナラなどの広葉樹が等間隔に聳え枯れ葉が落ちた林床には太陽の光が隙間なく降り注いでいる。道路脇にはツル植物、ササ類が剪定され樹林との間には竹林も整列され育っている。町民による樹林管理が月に2回実施される為道路との境ははっきりしている。その坂道を積田医師が車で向かう先は隣町の北町だ。北町でも西と同じ状態が続いている。積田は西北二つの診療所が連携して患者を守らなければこのパンデミックは乗り切れないと考えている。常に北町診療所の坂柵医師との連携を取ってきた。得てして施療を行う医師は一人で抱え込みいい結果を齎さない。積田はそれを打開する為チームで動く事を坂柵に提案した。お互い看護師がいない為に手の足りない時ばかりで解決方法を探していた。積田の意見は坂柵も望んでいた事だった。お互い入院設備が無い事で患者や家族の負担が大きいが、この地域では訪問診療に頼らざるを得ない。若い人達は車で診療所まで来てもらえる。しかし、この土地の高齢女性免許取得率は1パーセントに満たない。夫と死に別れた女性の数は二人夫婦の家庭よりも多い。さらに寝たきりの高齢者や仕事を引退した高齢者が安全の為免許証を返還するケースは都会よりも進んでいて移動手段を持たない高齢者が多いのだ。さらに四駄郡が衰退する過程で、公共交通路線の廃止が決まりバスが走っていない。ガタガタと中古で買った20年前モデルの軽自動車は地面に敷いてある砂砂利の影響で乗り心地が悪い。然し積田には日常の事で気にする風もない。
医療は、かつて施療とも呼ばれ患者の命が大事だとされた。生活困窮者に対して無料で治療する時代もあったが、医師看護師の負担軽減と高度医療達成の為、政治介入によって施療はお金で命を守る医療と成って行った。医は仁術なりから医はお金なりの理念へと変化したのである。それでも少数の医師は開業医として医は仁術なりを続けている。そんな医師の一人である積田にも人には言えない苦しみはある。診療するための維持費は近隣の椎茸農家からの寄付により解消できているが施療して寄付を貰えば立派な医療だとする医師が殆んどであり積田自身もそう考える時もある。寄付を断る勇気の無い自分を叱責しているのである。
積田が北町診療所に着くと坂柵医師が出迎えた「いつも済まない、今回は一人ではちょっと無理だ。そっちも大変なのは分かっていたがほんとに済まない。俺は訪問接種に回る。ここを頼む。」坂柵医師は礼を言いながら外に溢れ返った診察待ちの患者に声を掛け訪問に向かった。駆け付けた積田は診察室に急いだ。隣町の診療所ではあるが、勝手知ったる診療所の為、器具その他必要なものの置き場所は頭に入っている。患者も何時も駆け付ける積田を知らない住民は一人もいない。一人また一人と診察しPCVを打って行く。
「矢張り殆んどがⅡ型でしたね。」全ての患者を見終わったのは4時間後の事だった。タイミング良く坂柵も帰院し「嗚呼、全てが感染者だった。積田有難う、助かったよ。」坂柵は深々と礼をし積田に感謝を述べた。「それではまた何かあれば連絡お願いします。」坂柵は積田が自分の患者もこなし切れていない事を分かってはいたが余りの慌て振りから尋常ではない事を悟った。積田に改めて敬意を払い呟いた。「正しく赤髭先生だ。」
積田は西町診療所に戻ると北町診療所に又戻って来たような錯覚を覚えた。診療所の作りが全く同じだからだ。経費削減として地元建築業者が開発した特殊パネル工法によるコンパクトハウスをリフォームしたもので無駄を省き6畳の部屋3室に診察室、レントゲン室、板壁を挟んで事務室と洗面所がある。積田は一人で診療所を切り盛りする為事務室は倉庫となり果ててはいるが。施療を続ける為、診察料などは患者の気持ちからの手渡し寸志のみである。手術室という洗練されたものは無い。診察室の一角を抗菌のビニールカーテンで覆ったものだ。材料は広葉樹を複数混合して作られている。勿論木材の広葉樹は樹林地帯の伐採分を地元の建物のみの特権で無償提供される。その為低コストで同一の建物となる。
「皆さんお待たせしました。」積田は、挨拶するだけではなく患者一人一人の顔相をチェックしながら全ての名前を頭の中で弾き出し診察室へ急いだ。パソコンを開くとホーム画面に四駄ネットワークと表示される。四駄郡独特のデータベースには個人情報として顔写真も流通する。診察室のドアに手を掛けると同時に最初の患者名を呼んだ。「蛭田トマキさん、どうぞ」トマキは少し苦しそうな表情をして診察室内へと進んだ。「トマキさんお珍しいですね。どうしました、今日は」今のパンデミック下を思えばそれを疑うのが当然ではあったが病は一つでだけではない。「積田先生、喉が何かや悪きなって」トマキは自分の首を擦って言った。「喉が痛いですか。」「いやぁ、痛くは無いんかや息がしにくい」積田はトマキの顎を軽く持ち上げ喉の腫れを触診で確かめてみた。「矢張り若干の腫れがある。」積田は少し焦りを覚えた。「年齢からしてLRTIⅡであれば肺炎球菌ワクチンを打っても効果の前に起こる肺炎に耐えられるだろうか」然し今のところ他の選択肢は無い。「それではレントゲンを撮りましょう」小さな診療所である、レントゲンも自らの手で行う。トマキは軽い肺炎を起こしていた。積田は発注済みの肺炎球菌ワクチンを接種し一旦自宅に帰した。トマキはデータベースからインフル接種者だった。矢継ぎ早に「城田弥生子さんどうぞ。」この町一番の長老105歳の女性だ。積田は忘れ物をしたような顔で椅子から立ち城田弥生子が杖を持って歩いてくるところを腕をしっかり持ち介助を行う。看護師がするべき仕事も積田は当たり前のサポートとして行う。アベックの様に二人で歩きながら弥生子が言った。「先生、いつもの持病で足が痛いかや、剛達さんとこのけんちゃんに連れて来てもろたかや。」積田は一瞬気の緩みを感じた、ウイルスでは無かった。長老には全国土一の長寿になって貰いたいと常々願っていたのだ。気を引き締めなおし、患者が苦しんでいると意識を改めて強く持った。足の触診をした積田は「骨は大丈夫ですね。骨粗相症のお薬とプロテインのお薬出しますね。」素早く診察室に設置した薬棚から城田用と書かれた薬袋をしわしわの手に握らせた。弥生子は持っている年代物のハンドバックにそれを仕舞い、またその中から白い封筒を引き出した。「先生、私からの気持ちかや。」達筆な文字で寸志と書かれている白い封筒を積田のそろえた足の上に置いた。「無理しないで下さいね。」封筒を机に置き、弥生子の片腕を引くと、杖を片手にゆっくりゆっくり小さな歩幅で歩きだした弥生子の介助をしながら外の健斗の車に送り届け再び診察室に戻った。机に置いておいた封筒を手にして四駄ネットに趣味が書道だとあった事は記憶にある。書道には老化が無い事を思い知らされた。積田は心が捻じれながら葛藤している、そう自己を診断した。
四駄郡は両町共総感染した。抗肺炎球菌ワクチンは新種ライノウイルスの重症化は防いでいるが合併症を引き起こし死亡者の数は町民の3分の1に及んだ。積田自身も感染し診療所を休診せざるを得なかった。ウイルスに侵された積田だが全町民の肺炎球菌ワクチン接種が終わると同時に診療所に閉じこもった。勿論感染をしている為軽傷とはいえ体を休める事もある。それ以上に自分の作ったデータから何か解決に繋がる事が無いかじっくりと調べたいのが一番の理由だ。「この端末を一体どれだけ操作し続ければ永遠の命をもたらす事が出来るのだろうか。」ITから医療へと言う異端児独特の考え方で積田はずっと人間の一生と言う事をテーマに治療を続けてきた。死と言う終点を解明する為に。然し、それは届いていても触れられない空気の様なものだった。作業を続けているとふとしたデータから状況を変える一手を掴んだ。「四駄郡の住民の内移住組の死者が明らかに多い、地元民のインフルデータの最終列のセルに行政側がAPW接種済みと言う項目を設けている。「APWとは何だ、行をたどっても死亡の文字が無い。」積田の指がキー一つ一つに吸い込まれ正確に素早く郡ネットワークシステムにログインし、APWと検索すると不良ワクチンと表示された。詳細は表示されなかった。「ワクチン、しかも不良、それで死者がいない。年月日欄を追うと丁度我々移住者が郡に入る前に終わっている。もしAPWワクチン接種が四駄で続いていれば死者が出なかった可能性があるということか。このデータが現実と同期するとすればワクチンが開発される前に死亡者を減らせるワクチンが出来るかもしれない。」遂に見つけた秘密兵器APW感染予防ワクチン。細菌を抑え込んでいるかはまだ分からない。然し、確率的には確信に近い。現在四駄郡人口3058人、そのうち死者1005人。死者の内インフル無しが842人、郡内に肺系の持病を持つ人は291人、死者3人という事は一慨には言えないが持病との関連は薄いと考えていいだろう。インフルは紛い成りにも壁には成っている。とてもとても薄い壁。データは無いがそれをAPWでカバーできているとすれば。」積田のデータベースには四駄郡の全ての情報が組み込まれている。それは自身が郡に自ら出向きこれからの施療には地域連携が欠かせない事を説得し相談し意見をぶつけ合って郡の担当者会議にも出席し決議がなされ、全ての住民同意の上出来上がったデータシステムだ。勿論情報は団体ばかりではなく住民の家庭に一台タブレット端末を無償レンタルし共有している。タブレット端末は積田がIT会社の時にお世話になっていた人達からの支援だ。個人情報保護の観点を批判する意見は全く出なかった。それほどコミュニティーが確立し、行政との信頼関係、それと積田の四駄に対する姿勢が噛み合った結果だった。自然界に融け込むという事は互いが生きるために必要だと認め合う事なのである。。もう一つ積田が過去に失敗したハッカーの問題があった。もしハッキングがあれば四駄郡が壊滅する状況にもなりかねない。そこで積田は独自で小規模のスーパーコンピューターを開発し、四駄ネットワークを使う端末は全てこの地で処理するシステムを考え実行した。そうすることで外部には分からないネット環境が整ったのだ。積田はAPWの情報を行政に出向く形で集めることにした。行政側はワクチンの効果の面では口が軽かった。然し、欠陥事項に関してはどうしてもいえないと突っぱねられた。営業マンの経験は無かった積田だがすっぽんの様に噛みつきながら離さなかったが聞き出すことは出来なかった。「今住民の半数の命を支えているのは、この地特有のAPW感染予防ワクチンだ。自然と共に快適な生活を維持するため地元研究所で開発した。やぶ蚊の大量発生や蜂、山ネズミ、蛇、どんな外的要因にも体内の酵素で人的被害を防ぐ。APW接種者には年齢に関わらず死亡者が無い。この10年で都市部からの人流が増えたが、その間は接種が止まったままだ。積田は坂柵医師と情報を共有し、坂柵の意思もあり二人で地元研究所、四駄科学共同研に向かった。勿論、APWワクチンを再生成する為である。「然し何故APWは生産を止めたのでしょうねぇ。」坂柵は積田の説明からここの土地に住むにはこのワクチンは有効であると思った。彼も積田と同時期に北町に就任したが都会暮らししか経験が無く山林特有の虫の多さに恐怖心さえ覚えた経緯がある。「データにあった欠陥事項の為とは何なのか、情報開示をしている関係者もこの部分だけは口に裁縫でもしているようでした。まだまだ我々は地元人とは思われていない部分があるようです。」と積田は少し焼き餅を焼いていた。「しょうがないですよ、幾ら形式を積み上げてもその地で生まれた命で無い事は地の者ではない、それがこの国が作った地元人の意味です。」坂柵は特にそれを求めていないという言い方だ。四駄科学共同研は最盛期の面影は既に無くし現在は都市部からの移住組3人が菌床椎茸の種菌作りを中心に研究を行っている事はデータシステムにより分かっている。積田、坂柵二人の医師は研究所に着くと大理石調の山と森を露わしたモニュメントが二人の目を麗わせる。エントランスの一番後ろに立ち視界を建物の全域に注いだ。全体が白い壁で覆われロマネスクを思わせる。玄関は両側にアカイア式の様な唐草模様を施した円柱を持ち、荘厳なローマ遺跡に感じられた。研究という聖域を一点の曇りもなく守っているような穢れの無さを感じる。正面の巨大な射光ガラスは長年の自然との闘いで敗れ去った騎士の様に薄汚れていた。それは敗者の積年の恨みの為に悪魔に生贄として捧げられた人々の血液にも思えた。神と悪魔が共存する人間が絶対に足を踏み入れてはいけない場所。積田、坂柵両名はカラカラに乾いた食道に生唾を力の限り流し込んだ。恐る恐る押すのシールを確認しガラスドアを開ける。正面に受付、然し既に機能していないらしく内部照明の蛍光灯が無い。外観では分からなかったが内部に入ると鉄筋コンクリート構造である事がむき出しのモルタルから窺えた。内壁のあちらこちらにコンクリート腐食が見受けられる。「なんちゃってでしたか。」坂柵はこの建物が低コストで作られた城まがいだった事にほくそ笑んだ。「郡にバチカン宮殿は無理でしょう。」積田も同じ事にほほ笑んだ。その事が二人にとっては緊張感を和らげる事になった。受付を中心に左右にカーブ階段がある。二人は纏まって右の階段を上がる。一段目の灰色モルタル壁には矢印と二回研究室のプレート表示がある。階段を上がって行く途中見た目以上に長く感じ二人共運動不足を感じた。二階に上がるとセキュリティーを重んじた中廊下を挟んで第一から第五まで五つの研究室がある。「さすがに経費を掛けずに廊下は出来なかったみたいですね。」坂柵はなんちゃってを脳の中で訂正した。「それはさすがに無いでしょうね。」積田も人体の研究施設で侵入者が入りやすい構造にはしない事は知っていた。赤色蛍光灯が侵入を躊躇わせる。長さは30メートルほどでカーペットが張られているが赤色蛍光灯の明かりで色の判別は出来ない。向かって左側の一部屋のドアが少し開いておりそこからLEDらしき灯りが見える。白色に吸い込まれるように二人が歩いて行くと第二研究室のネーミングプレートがドア横の壁に貼ってある。全体にチェス盤が施されたドアを開けると抗菌ビニールカーテンが壁の様に張り巡らされていてその中に霞が掛ったように薄っすらと二人の影がある。「すみませんが。」積田が遠慮がちな小さな声でビニール越しに呼ぶとシャッという心地のよい音とメッシュ頭の男が笑顔を覗かせた。「はいっ、どちらの農家さんですか。」どうやら椎茸農家と勘違いしたらしい。「簡単に外部の人間を受け入れるものだ。それにしても開けるタイミングが早かったな。」と坂柵は呆れ顔になった。その理由は簡単な事だとカーテンを潜って分かった。ドア横に張り付くようにテーブルとパソコン、椅子があるのだ。「なるほど、侵入者も捕まえられるか。」坂柵の中にある甘い考えが消えていった。「いえ、私達は」積田が名乗ろうとするよりも早く男は「坂柵先生に積田先生。」驚きと不思議さが入り混じった顔で言った。3000人しかいない群落と思えば二人しかいない医者を覚えていない方がおかしな話だと二人共意外な感想は無かった。驚き顔の研究員は袴田竜樹と名乗った。袴田は二人に事務用椅子を勧め自分は空いている事務机に腰掛けた。あとの研究員はそのまま作業を続けている。「この大変な時に椎茸の話でも聞きに来たのですか、それとも菌床栽培に転職でも。」あけっぴろげな性格らしく礼儀が感じられない言葉だ。当然袴田もLRTIⅡ型に感染しており、死を恐れない人間にとって礼儀や遠慮などは無縁の為でもある。然し、積田、坂柵両名とも大志を持って仕事に取り組んでいる為か細かい所が全く見えない性格。それよりもAPWワクチンの製造が可能なのかが知りたかった。答えは「ノー」だった。袴田によるとかつての研究者は全て都心の研究所に転任しておりAPWワクチンに関する資料は全てシュレッター処理されたと語った。「何故資料は廃棄となったのですか」積田は残念な気持ちを隠さず歯がゆそうに聞いた。「簡単です。このワクチンは常にバージョンアップされていったんです。その過程で住民の一人が副作用によって死亡した、その時に郡の行政機関から製造中止命令が下されました。「一人だけですか。」坂柵は不思議そうに聞いた。「ええ、たった一人と考えればそれだけでとなるでしょう、そうでなかったのは四駄郡の住民への思いがあったんです。」袴田は当たり前の話だとした。「行政のですか。」積田は悟っている様子で問うた。「四駄郡は一体という言葉を崇拝してるってことです。都心で考える全体的な考え方をしない。一人一人の住民を大事にするってことです。我々がここに来たのもその考えに同調したからです。だから欠陥のある研究資料はいらないんです。私はその時の一研究員の弟になります、兄は都市部へ移動する前、この町に唯一忘れ物がある。お前には分かるだろう、そう言ってました。」彼の兄はこの村で奇跡を起こしたかったのかも知れないそう積田は思った。資料以外にも当時の研究資材も無くなっていた。絶望感を二人は覚えていたが積田の何気ない一言が希望の光を灯した。「お兄さんから研究の話は聞いていないですよね。」袴田の顔色が明るくなったように思えた。「兄の悪い所で自慢話は良く聞きました。」袴田の薄笑いでの呟きに坂柵が間髪いれずに「それは研究の内容を聞いたという事ですか。」袴田は頷いた。「研究が順調に進むのは自分の功績だとよく言ってました」積田も坂柵もアドレナリンが潤滑油となって脳の働きを促進させているように様々な思考の準備を始めていた。積田は自分の現在もっているウイルス沈静化の情報を袴田に話し、協力を求めた。不安になりながらも死亡する人間を見捨てる事は自分がこの場所にふさわしくない人間となる事だと考え協力を了承した。話を聞いていた男性と女性の研究員二人も協力することを決めた。男の方は帆高洋次、女は馬嶋紗希と名乗った。
袴田は自分の持っているAPW情報を一言一句相違なく二人に伝えた。彼もまた兄に劣る事のない研究者である事を窺わせる内容だった。「然し。」積田は肝心なものが欠けている事に気付いた。「誰がワクチンを作るのか。」袴田は自分には人体に関わるものは到底出来ないと断った。椎茸菌は失敗が効くが私の作ったワクチンで人が死んだらと責任の重さに耐えきれない様子だ。しかも兄から話を聞いただけで現場に入った事も無いと受け付ける余地は無さそうだ。帆高、馬嶋両名の研究員も袴田に倣った。「そうなると坂柵先生しか。」積田は坂柵がかつて研究畑にいた事をデータで確認していた。坂柵の表情には迷いが感じられなかった。気持ちが通じているように二人は頷き合っていた。積田は袴田に説明を反復させながら坂柵が開発する事を提案した。重い責任ではあったが正義感の強い袴田は決心を固めた。残りの人間は坂柵をサポートすることに決まった。五人とも問題を抱えながらも道はワクチンの完成一本で意思が繋がった。「機材はどうしたら。」袴田の顔がまた曇る。「それで行きましょう」坂柵の人差し指は菌床研究している分離器、攪拌用品、ガラス容器、シャーレ、ビーカー、フラスコなどの研究用品を指していた。袴田の喉仏が上下した。坂柵はあるものを見て目を丸くした。「AFMを使ってるんですか。それに血管スコープも」原子間力顕微鏡AFMはナノスケールでの観察が可能だ。「兄の置き土産です。」袴田は兄への尊敬の念を顔に現した。坂柵はワクチン開発が滞りなく準備できている事を悟った。しかし積田だけは迫る危機に焦りを覚えていた。
国土全てにLRTIⅡ型は感染し一人の無感染者もいない状況に陥っていた。我が国の総理も感染し高齢の為、政治運営が困難になってしまい、他の議員も恐れをなし大事な会議をキャンセルするという最悪の状況下、抗細菌拡散装置の開発も頓挫し国民は政府への不満から政治家狩りと呼ばれる集団が猛威を奮っていた。政治家が自宅に帰宅したところを狙う事件が多発。体力の無い高齢の政治家たちは若い力のあり余った集団になすすべもなく倒れて行った。警察組織も感染により機能を停止しており法はあっても只の文章に成り下がってしまった。人間は箍が外れると最後まで回り続ける。命を守る為には手段を選ばなくなっていった。絶望の淵に立った人間という生き物は社会のお荷物だった
国は都市部から崩壊し続ける。空気感染という目に見えない感染経路に全ての住宅が窓を閉め切りそれが家庭内感染を増幅させていった。死亡者は火葬する事も出来ない。火葬場の煙突から昇る煙がウイルスを撒き散らすというデマ情報がSNS上で拡散し海や山に放置する事例が続いた。ウイルスは年齢も体格も関係なく人間を殺して行った。人間同士の殺し合いも始まり特に食物の奪い合いによる殺人が多発していった。誰もが「死にたくない。」そう考えそう思った。かつて子供に親が「お父さん、お母さんがいつ死んでもいいようにしっかりしなさい。」といっていた、その親も死ぬのが怖くて怯えている。夫を亡くした老婆も普段から夫が迎えに来るのを待っていると言っていたが毎日お百度を踏み死を免れようと必死だ。死は誰しもが怯える表現をする。生きている反対側の世界は恐ろしいと。其れが死。踏み込んでみないと分からない、情報化社会でも分からないそれが死。
「まずはマウスでテストを。」積田、坂柵、袴田、帆高、馬嶋の五人はAPWワクチンの開発を進め積田の指示で一回目のラットテストに挑んだ。「矢張りウイルスが蛋白質と結合して仕舞います。」原子間顕微鏡を覗く馬嶋は首を振り言った。新種ライノウイルスは蛋白質と結合し増殖する事は分かっている、だったら結合させないワクチンを接種すればいい。単純なのだがミクロの世界ではそうは問屋が許さないのだ。研究というものは単純な発想から生まれる。それを実現する為に何十年何百年もの歳月を要する。「CHX(シクロヘキシミド)を使ってみましょう。」坂柵は蛋白質の合成を阻害するという実験結果のネット情報を参照にAPWのアナフィラキシー制御効果との併用を提案した。「媒体が持つかどうか」五人が同じ認識を持った。マウスにAPW+CHXを接種し新種ライノウイルスを充満させたガラスボックスの中に二十四時間放置した。
明くる日ラットの生存が確認できた。肺の委縮も無い事が分かると五人は治験準備に取り掛かった。普段の研究であればラットの段階で喜びもある筈だった。然し今もパンデミックで死に逝く人達の事を考えると実用化が進んでも喜ぶべきことでは無いと感じていた。原型があったとはいえたった一週間でワクチンの治験が始められるのは誰しもが持っている人間の火事場の糞力以外に無い。「治験は私の体で。」坂柵だった。彼も責任の重さを感じている一人だ。「いえ、この治験は危険を伴います。提案者である私が。」積田も自分の意見に賛同してくれた四人を実験台には出来ないと思っていた。その時二人の体を制するように袴田が強い口調で「そこは私しかいないじゃないですか。」正義感からのように感じられた積田と坂柵も医療関係者でも無い袴田には治験者になる理由が無いと思った。「私じゃないとこの町を救う事が出来なくなってしまう。仮に治験事故が発生した場合、ワクチン接種をするべき医者がいない事になる。それだけは避けなければいけませんから。」二人の医師は返す言葉が見つからなかった。命を救うものが救いを求めるものに守られる。医者のおかげで人間が生きているという考えは只の錯覚である事を思い知った。いよいよ治験が始まった。一番心配なのは過去の死亡例の反復だ。研究を進める工程でも死亡するような結果にはならなかった。袴田の説明通りに坂柵が細胞に手を加えても細胞死する事例は無かった。積田は他の四人に断りを入れてから「ちょっと所用で。」と言い残し研究室を後にした。行先は四駄郡市役所。彼はもう一度APWの死亡例の究明を試みようと思ったのだ。「このワクチンの何が死にいたらしめたのか。」原因究明は研究しているものの義務でもある。市役所に着くと人っ子ひとりいないという表現がぴったりくるような閑散さだ。今住民の求めるものは手続きではない。医療を求めているのだ。然し、自分は何も出来ず休診している。自分の責任感の無さに積田は心が完全に折れた。それでも役所の職員との話をする為に入口を入っていけたのはワクチンの可能性以外にない。入って行くと職員もまばらだった。こういう状況で話を聞いてもらえる要素は全くないと言っていい。普段なら受付の窓口に立っているのは女性職員だが、今日立っているのは男性職員だ。積田が近付くと後ろに下がるそぶりを見せた。感染したくないという気持ちからの様だ。「積田と言いますが、増宮さんいらっしゃいますか。」増宮は市民衛生課の課長だ。小声で「お待ちください。」男性職員は広い職員フロアの一番奥でパソコン作業を行っている男に媚を振るように何か説明している。積田を仰いだ増宮は積田の元へ歩いてきた。お互い頭を下げ、「お久しぶりです。」と挨拶を交わすと「今日は又何でしょうか」増宮は少しとぼけながら聞いた。積田の話は予想できている。積田は「どうしてもあの事を聞きださなければならない事になりました。」その言葉は二人の間に亀裂をもたらすのには十分な要因となった。増宮は苦い顔をして「こちらへ」と会議室へ招いた。「その事項は秘匿事項でありますので申し上げる事は出来ません。」頑なな意思を強く押し出した言葉に積田はAPWを再開発している事を説明し、理解を得ようと必死な体を見せる。「既に研究所は民間に移譲しましたので私のほうからどうという事は出来ませんが。」口に含んだ言い方に積田は勝手な事をするなと言いたいのだろうと理解した。積田には人の心を落とそうとする邪心は全くない。たくさんの命を失いたくないという純真な心が言葉を続けさせる。「今の状況はこの国土の崩壊です。」積田の断言にも増宮は動じることも無く「分かっている。」と言いたげだ。続けて「システムを読み解くとAPWを接種している地元住民には死亡例が無い事もご存じのとおりです。」積田は増宮のこれまでの表情から、自分と同じ考えを抱いているのではないかと思い始めている。思いを伝えるべく「もしかすると役所の方でもAPW再開発を望む意見が出ているのではないですか。」本音を突かれたように増宮の両眉が上がる。積田のこれからいう事が増宮の脳内にはっきり表れてきた。その通りに「郡の住民に対する切なる思いは私なりに理解しているつもりです。人の命は数で測られてはいけない。だからです。だから完全なるAPWワクチンの開発が必要であり、未完ではありますが救っている事は事実。緊急に必要なものを0から開発する過程でどれだけの人の命が失われていくのか、それを思うと私は生きる事に挫折してしまいそうです。」積田の表情は変わらないが言葉からかなり熱い心を読み取れる、それ以上に死に対面しているのはこの男も同じなのに自分はこの世に存在していないとでもいうような言葉に思えた。遂に、増宮は唇の糸を解いた。「積田さんにはまいりました。降参です。全てをあなたにお任せします。APWワクチンは害虫予防に絶大な効果をもたらし郡外の行政からも注文が殺到しました。研究は成功と誰もが思っていたんです。然し、当時の研究所所長であった袴田氏がある欠陥に気付いたのです。アナフィラキシーを押さえる免疫細胞が中枢神経を圧迫する場所に血栓を生む事を。」積田は血栓の件と袴田の兄が所長であった事に驚きの余りを表情だけでなく体で表わすほど椅子の背にのけぞった。ウイルスワクチンで何かしらの副作用が出るのは仕方が無いと思われたが血栓とはと、まれな事例に困惑し、発見したのが袴田兄でデータに無かった所長だとする言葉に人と人の繋がりは縁という立った一文字では表現しきれないものだと思った。血栓症はエコノミークラス症候群などに代表される血管が傷つく事でコラーゲンに血小板が付きたんぱく質などの刺激により塊が出来る。最終的にフィブリンが生まれ凝固する。其れが血管に詰まり脳梗塞など死にいたる時もある。他のウイルスワクチンでも血栓が出来た事例は珍しいわけではない。然し、それが良くある事でもそう考えてはいけないのが命を守るものの務めだ。「改善してという事にはならなかったんでしょうね。」四駄の住民愛が逆に人を死なせる事になってしまった事に積田はそれが行政側から周囲に口を開けなかった理由だろうと、食い下がった自分を悪人だと思った。それと同時に正義の心がウイルスに対する反撃を求めている。心の中には「それでもやらなければならない。」と天命を全うするべく本能が湧きあがった。
「袴田さんどうですかご気分は」APW+CHWワクチン接種後24時間が経過した。媒体は順調に回復していった。新種ライノウイルスは蛋白質との結合を拒絶されると消滅が早かった。袴田の体からは抗体が検出された。「良い目覚めです。」袴田の照れの無い笑顔に坂柵と研究員の帆高、馬嶋はついつられ笑いを返した。その脇で無表情の積田が四人に水を差す形で「もう少し期間を開けて袴田さんの様子を観察して血圧、血液検査を徹底しましょう。」坂柵以外の研究者たちは不満げに笑顔を閉じた。坂柵は、積田の言葉に医学脳が反応した。「副作用ですか。」読み取られる事も積田は計算ずくだ。まだ、増宮の話はしていない。いや、言い出せないでいる。坂柵は積田の行動や、帰ってからの表情を見て何かしら強烈な出来ごとに遭遇している事は医師の経験から読み取れていた。顔の表情で診断が出来るのは大部分の医師に有りがちだ。坂柵は何も聞かず「そうしましょう。」と一言言った。普通の医者であれば情報を得ようとする。然し、一蓮托生で四駄郡を守ってきた医師同士の信頼はお互いに求めなくても崩れる事は無いと信じていた。袴田たちは二人の間に入る事が出来ずただ、頼るのみだ。治験開始から10日が立った。毎日一回のウイルス検査と血液検査、血流スコープによる血栓の確認。これでもかこれでもかと積田は何かに憑かれたように検査を行いデータ化していく。肩をいかり上げた積田に坂柵は「結果は出ているようですよ。」と囁くと、積田は落ちた顔つきで坂柵を見上げた。坂柵も検査方法から血栓だと悟っている。坂柵は、慰めるように「私達は人間です。人間とコンピューターの違いお忘れですか。私達が急を要しているのは免疫を全ての人々に持たせることです。免疫を持つ事で二度は無いのです。赤ちゃんだけは母親からへその緒を伝って、中和抗体により免疫を持っても、半年でワクチンが必要ですが。」一拍置いて坂柵は続ける。「今までに私達が出来たのは対処療法しかなかった。其れが二度目を止めたとなれば正解と考えるのが必然的です。」積田は又心を落とされた。「そうです、人間は間違える事で学習する生き物です。同じ間違いを犯しても犯しても繰り返し学習する、その結果が人間世界の現実なのです。」坂柵に言われ積田はそんな当たり前の事も見失っていた自分が哀れに思えてきた。「さあ、ウイルスバスターを始めますか。」坂柵の冗談に研究に入ってから初めて五人ともが大笑いした。
研究、治験結果を高山南病院経由で全国土に配信し、APW+CHXワクチンの接種が各国で始まった。高山南病院を通す事でより安全性の確認ができ、信用の高い佐美恵が中心になる事で他の病院も安心してワクチンを使う事が出来る。IT企業ではあるが積田の経営者としての手腕を発揮したという事だ。四駄科学共同研のサンプルは陸海空で輸送した。このワクチンの強みは常温保存と振動に強い所だ。接種は継続的に打たなければならないが、その期間は2年に一回程度と抗体の強さを示している。其れが可能なのはAPWが一度の接種で長スパンの効果が継続する事実にある。注射の種類は命にかかわる危機的な状況を考え、体内の循環スピードを優先し静脈内注射を勧めた。しかし、新たな問題が生じた。都市部の医師が足りない。
「うちはあと12人で終わりだな。」積田は朝5時から夜10時まで接種を続け西町住人2628人全てを20日間で打ち終えようとしていた。5時から始めたのは高齢者に合わせたためだ。早寝早起きは昭和中期まで続いた子供のしつけの基本だった。夜の10時は勿論働く現役たちに合わせたのではあるが最近の若い人達の生活習慣も考慮した。積田は敢えて接種の優先順位は作っていない。そうしなくても医師の時間を患者に合わせる事で高齢者から若者まで満遍なく接種可能になる。それは誰もが早く打ちたいと思っているわけではないと感じてきたからでもある。パンデミック直後の国土のありさまを思うと人々がより死という現実に近づきその世界に安心感を持ったのではないか、そう考えてしまう。役所からタブレットにお知らせ動画を流してもらい、診療所に来ていない住人には訪問接種で対応する。西町は、未接種者に役所から緊急告知を出してもらった。北町の坂柵も積田に倣った。西町診療所には接種待機組が大勢押し寄せている。診察室で可能な限り無駄のないようにワクチンを打ち続ける積田の元に腰を曲げた老母が入ってくる。
「トマキさん、喉のほうはどうですか。」積田は注射針の交換をしながら蛭田トマキの体調を気にかける。「ずっと息苦しかったかや、でも死ぬ事ばかり考えかやなんともないん。」「それは苦しかったでしょう、でもトマキさんが昔打った予防接種で命は守られていたんですよ。」意味が通じたかどうかは分からないがトマキの顔は何かを抱えているように思えた。自分の勘違いかもしれないとおもいながら出された腕に注射器を指し抜くと同時に「ガーゼを押さえてください」とトマキの腕から手を離した。トマキは改まって「先生、うちの夫が今体調悪いかや、家で寝とんで来てくれんかやね。」積田は「夜伺いますね。」その言葉に疲れの色は無かった。その夜、最後の一人となった蛭田少佐郎の接種が終わり西町は全員の接種が終わった。診療所に帰った積田は自身の接種を自力で行った。
翌朝、診療所のメールボックスに高山南病院からメッセージが送信されていた。内容は医師不足でワクチンの打ち手が欲しいとの事だった。早速坂柵に電話を入れ現在の北町の状況を聞いた。「うちはあと三十人残っている、それに伐採作業でけが人が出てワクチン接種を止めざるをえなくなっている。」との事だった。積田は早速北町診療所に向かった。車を降りると挨拶なしに診察室に入り「坂柵先生、ワクチンのほうは私が。」と注射器の準備を始めた。「ここは駄目だ。これから手術に入る。」坂柵も素早く考え巡らしし用意を始める。積田は迷う事無く待合室の患者を乗って来た車に戻るように伝えた。全ての患者が乗合で同乗していた。坂柵は積田の気転に感服した。「車の中で接種か。」ふと、医療現場の立派な建物が意味するものは何なのかという疑問が湧いた。待合室の観葉植物、テレビ、壁に掛った立派な絵画、それらが医療にどう貢献しているのか。坂柵はどう考えてもお金の使い道にしか思えなかった。
積田と坂柵は町の接種が全員に行き渡った事を町内ネットワークで確認し都市部の接種会場へと向かった。
都市部の病院は院内感染を防ぐためと他の外来患者の妨げにならないように駐車場をワクチン接種会場として、半径二十キロ内の開業医に任せた。開業医のいない地域の患者を一手に引き受ける事でワクチン接種が急速に進んでいった。積田は名軟見総合病院に来ていた。「何だこの行列は」駐車場に設置されたプレハブの診察室の前には新型スマホの発売日の様に老若男女が列をなしている。「確か都市部では高齢者から順にではなかったか」不思議に思いながら患者を掻き分けて診察室に急いだ。途中、行列の中の80代位の男性と20代ぐらいの女性が口論していた。「高齢者から注射する事になっとるのに何で若いもんがおるんか」戦争時代を引きずる憲兵の様な口調で若年女性を叱っている。年上が先だろうとでも言いたげだ。「人の命に若いも古いもないでしょ」二十代の女性は老人には目を向けずスマホに何やら打ち込みながら空返事を続けている。言葉を聞くだけでもうざい存在、しかとするにも腹が立つといった気持ちからか。積田はどちらの言葉にも重みを感じた。命の重さは全て同じだ。然し、病院の警備員により高齢者以外の人達は整理された。その際、病院のガラス窓が何者かに破壊された。警備員が取り押さえたのが五十代くらいの紺のスーツを着た男だった。男は両腕を警備員に拘束されながらこう言った。「命を測りに欠けるのは閻魔大王のする事だ、この世の中は地獄なのか。」とマスクを外し唾を飛ばしながら叫んでいた。其れをする事で感染を広めたい意思であるが、空気感染ウイルスにとってはマスクは殆んど効果を持たない。。
簡易プレハブで出来た診察室に入った積田は用意された注射器で次々に溢れ返った患者を減らしていく。「矢張り病院という所は仕事に負担が無い、スタッフが付く事で劇的に変わる。」改めて施療から医療に変り作業効率が格段に上がっていった背景に素晴らしさを感じていた。午後四時、積田は看護師に次の患者を呼ぶように促したが、「先生、時間です。」自分より年長であろうその看護師は接種の終了を伝えた。意外な言葉にプレハブの窓の外を覗いた積田は「まだ居るよ。」と看護師の勘違いを指摘したが名軟見病院の診察は十六時迄だと教えられ恥ずかしさを覚えた。残りの患者は明日のワクチン接種の順取りだという事だ。「予約制だと幾ら言ってもキャンセル待ちだと言って聞かないんです。」とやや呆れ顔で言った。都市部は医療従事者から始まった為ワクチン接種までの遠い道程を医療側が体験できないでいる。いつ死んでもおかしくないウイルスが蔓延する中、何もしないで待てという方が酷というものだ。積田は疲れない医療体制が患者を救う事に繋がっているのだろうかと再度考えを巡らせる。医療と患者の間には痛みに対する認識の違いが大きな壁となっている。痛みは患者にとって最大の悩みであるが医療側にとっては日常という解釈でしかない。その隔たりは医師と患者の意思疎通として現れる。学はあってもコミュニケーションが取れないというのは国の教育に間違いを感じるところである。今日の接種が終わり滞在している病院側が取ったホテルに戻ったが、日頃の疲れからは想像もつかなかった医療の負担の無さは積田に眠りを与えなかった。「いっそ眠剤でも。」と思ったが睡眠に入る時の強烈な強制が積田には耐えきれない。仕方なく四駄郡から抱えてきたパソコンのデータを眺めているといつの間にか机の上で眠りに落ちていた。
翌朝も積田は看護師が驚くほどのスピードで接種患者を減らしていった。「次の方」看護師の指示に従い診察室に入ってきたのは四十前後の男性だ。「蛭田少太郎さんですね。」聞き覚えのある名前に、「都市部にも蛭田生があるんですね。」少し緊張がほぐれた積田に少太郎は「いえ、私は山奥の僻地の生まれでして。」恥ずかしそうに下を向いた。「もしかして四駄の方ですか。」まさかと思いつつも地元と離れて仕事をしている寂しさから接種を急ぐ自分の心を押さえ聞いてみた。「はい。」少太郎は周りに看護師がいないのを確認した。「じゃあ、トマキさんところの。」「そうです。」少太郎の目が少し潤み始めたように思えた。「奇遇ですねぇ、私は西町診療所の医師で積田といいます。」積田は丁寧にお辞儀をした。突然、少太郎が「母ちゃん、大丈夫でしょうか。」と積田に顔を近づけるように迫った。四駄訛りでは無かったが何となく都市部の言葉のニュアンスでは無かった。「トマキさんも少佐郎さんも大丈夫安心してください。」少太郎は再び下向きの顔で安心したようだ。「言ってはいけない事かも知れないけど、たまには。」家族それぞれには事情というものがある。一概に親子が一緒にとは言えない事は積田にも分かった。少太郎の肩とズボンを掴む手は震えていた。「お大事に。」診察室を出る少太郎は積田に深々と頭を下げ消え入りそうな声で「有難うございました。」と去って行った。積田は少太郎の心を覗いてしまったような気がして申し訳ない気持ちだった。「彼本人が一番分かっている事だったな。」いろんな人生がある。社会の為にと考える事が大志と言えるだろう、しかし家族の為にと人が考えればこの国を守ることにつながると積田は思った。
都市部のワクチン接種も終息を迎えた。積田はこの日が来るまでに人に関わらない日が無かった事を一番に思った。医は仁術なり、医と言うものは医療や施療に作られるものではなく、人が人により人の為に作られるのだと。医療だろうが施療だろうが関係ない。「それでいい、さぁ、地元に帰ろう。」
四駄郡西町。「お父さん、晩御飯にすっかや」毎日が同じ言葉。まるで同じ映画を繰り返しているように同じ時間に起き同じ時間に食べ、同じ時間に眠る。単調さにむなしさや後悔もなく、過去を振り返っては楽しかった事を何度も話し同じ時間を繰り返す。「このままわしらは時間と共に消えていくんかや」夕飯を並べ終えたトマキはそう思いながら何時もの様に少佐郎が手を合わせるとそれに倣った。その時、「お婆ちゃん、お爺ちゃん。」聞いた事のない肉声がトマキの耳に届いた。トマキは付けっぱなしのテレビのほうを見た。少佐郎もテレビに目線があった。しかし、画面はニュース画面で男性アナウンサーがパンデミックの終息を伝えている。それでも二人はテレビに視線を向けた。するともう一度「お爺ちゃん、お婆ちゃん。」さっきは女の子、今度は男の子の声だ。少佐郎は「近所の子供が来たんかや、何かあげんかや」とトマキに厳格な態度で呟く。醤油煎餅を袋ごと持ってトマキが縁側の障子戸を開けた。「母ちゃん。」僻地が嫌で出て行った少太郎だった。その両横には男女の子供と大人の女性が並んでお辞儀をしている。「お爺さん、少太郎が四人になって帰ってきたかや。」トマキの表情が女性らしさを取り戻した。
その後、国土は正常を取り戻し、かつて政治の力で作ろうとした抗細菌拡散装置の完成により、ナノウイルスは全国土から消滅した。
西町診療所。「紗希、剪刀とピンセット、かんしの消毒頼む。」積田はチェーンソーで太ももを切ってしまった患者の手術を終え、次の患者への診察を始める準備をしながら馬嶋紗希に片づけを頼んだ。「分かりました。」馬嶋紗希は、研究所の椎茸種菌生成の仕事を辞め、共にウイルスワクチンで戦った積田の元へ転職した。積田の人間に対する心の持ち方に共感した部分が大きいが、もう一つ積田に対しての恋愛感情が紗希の心を突き動かせたのも理由だ。積田は後の部分には気付いていない。紗希の研究所での仕事振りから資格に掛らない仕事をさせることにした。機材の消毒に関しては、四駄の支援で自動洗浄機を導入している。後は、患者の呼び出し、受付、会計、書類の配送などを担当してもらっている。現在医療事務の資格取得を目指しているが、彼女は研究畑にいた経験から、医療研究者を目指して四駄の夜間大学に積田からの強い推薦により入学できた。特別枠で学習中だ。「白尾譲人さんどうぞ。」紗希が案内した白尾が積田の前に座る。「譲さん今日はどうしました。」積田は何時も思う。日々変わらぬ患者への最初の言葉、継続という意味では相手が安心するのかも知れない、しかし、コミュニケーションの面からいえば脳の無いありきたりな人間である様にも思える。「積田先生、何とかウイルスはもう終わったんですよね。」四駄の移住組はかなりの人々が倒れていった。APWが継続していれば助かった命だった。白尾もその移住組の若手で現在21歳。積田は35歳で未婚だが、白尾は既に二人目の奥さんと3人の子供がいる。16歳で結婚したと聞いた。「ライノウイルスと言うんですが、ワクチン投与で死亡者が無くなりましたよ。何か似た症状が有りますか。」白尾は少し戸惑い頭を触りながら「ワクチンを打ってからしばらくして頭痛が激しいんです。」と、か細い声で呟くように喋った。「頭痛ですか。」積田の脳内が研究所の赤色灯を表示した。活性化する脳内に「もしかして血栓か」慌てるように「殴られたような痛みではないですか。」脳梗塞の症状を試してみる。「先生は何でも分かるんですね。その通りです。喧嘩した時頭をやられたのと同じです。」白尾の言葉は安心感を持ち始めていた積田に突然発生した緊急事態宣言だ。ウイルスワクチンの有るべき姿が表面化した事を知らせた。すぐに白尾を救急車に乗せ高山南病院へ搬送した。そしてスマホで佐美恵に副作用の可能性を知らせ自分も医薬品ネットワークにアクセスし、ワクチンの副作用事例の報告書を閲覧した。
血栓の形成は血管壁の変化、血流の変化、血液成分の変化の三つの要因から始まる。この事例では、ワクチンによる成分の異常変化が要因ともとれる。「佐美恵先生どうでしたか、」患者を診ている間も白尾の体がどうなっているのかが気がかりでしょうがない積田の様子に紗希もいつもと違うと感じているほどだ。まだ言うべき時ではない事は常識として分かる事だ。「それがワクチンが要因かは確かではないですけど、大脳内に血栓が見つかっています。」その言葉は、佐美恵から積田への余命宣告の様に空白の時を齎した。何も言えない積田に佐美恵は「全ての医師が覚悟して延命措置を勧めたのですからもしワクチン接種の結果血栓が出来たとしても副作用の一つとして対応に全力を挙げる事が我々の使命ですよ。」積田にとっては救いの言葉ではあったが、全国土医療機関のワクチン開発より先に自分たちの精製したものを使うよう勧めた責任者としての重責が全ての慰めをはねつけた。「どうすればいい。」積田の不屈の闘志が重圧を押し返そうとしていた。ふと、一つの考えが脳内から漏れ出た。「坂柵先生に頼もうか。もう一度副作用専用ワクチンの精製を。」既に積田のシュミレーションは固まりつつある。北町診療所へコールした。
「それは別に構わないが、休診する理由は。」積田は坂柵に自分の担当する区域の診察も頼めないかと相談した。と同時に馬嶋紗希を北町診療所で働けるよう配慮してもらいたいと懇願した。積田は理由として実家の親が体調を崩したと嘯くことにしたが、坂柵にはそうでない事は見抜かれている事は承知の上である。積田がこれからしようとする事はAPW+CWXワクチン精製時の苦い経験をもとに責任元を自分一人にかけるという考えだ。誰にもつらい思いをさせないというコンピューターの様に完璧な青写真で勧める計画。人間が失敗から学習で得た結果だと強く思った。坂柵は、深く探ることも無く了承し、紗希を事務方として臨時に雇う約束をした。次の日、積田は聖地、四駄科共同研に身を捧げ、血栓解消ワクチンの精製を始めようとしていた。赤い通路を歩いている時今そこにある危機というハリウッド映画のタイトルを思い出した。医療関係の映画では無いが、タイトルの日本語訳が今の状況を表しているように思えたのだ。チェス盤の扉には明かりは無い。研究研は現在無人になっている。種菌研究者の三人がそれぞれここから離れていった為だ。定期的に研究者を入れ替える行政の方針により多くの椎茸種菌研究者を育てる事に繋がっている。国土にもっと多くの椎茸農家が出来るよう尽力しているのである。その事は積田も四駄ネットで知っていた事だった。この後、半年ほどで新しい人材がこの郡にやってくる。新鮮な気持ちと共に新たな研究をやり遂げる思いを痛烈に感じた。共同研は、積田ら5人で生成した当時とは設備が変化している。ワクチン開発以来APWを定期的に接種する方針が取られ精製用の研究室を一部屋設けた。もともと5部屋あった一部屋に最新設備の研究室を郡の税金と寄付の両方で作り上げたのだ。誰が自分の命を守るものに金を注いで反対するだろう、一番と言っていい行政の金の使い道に誰もが賛同した。公共工事に殆んどお金をかけないこの郡ならではの政策に移住組は益々増えている。住民の夢を託した部屋は、第3研究室。第2の向かいの部屋だ。それは新しい研究者たちに向けての郡の計らいでもある。ドアを開けると過去の抗菌ビニールカーテンではなくAIIによる機械操作機器が並べられている。その情報も積田には了解済みだ。「これなら自分一人で何とかなる。」希望と現実が合致したITに長けている積田の為の研究室とも言えた。ロボット工学に基づいた設備は究極に人的負担をなくす事が研究室内を見回して納得できる。設備の中心として部屋の真ん中に端末が置かれている。その周りには研究機器を扱うロボットアームが3台取りつけられている。早速積田は自分の有り得る限りのIT知識を注いで端末を叩き始めた。高山南の佐美恵に頼んでおいた白尾譲人の血液サンプルも今日の時間指定共同研に届く予定だ。その前にこの設備の全容を把握しておかなければならない。「端末起動と」パスワードは行政に理由を全て話し取得済みだ。パスが了承されると全ての機材に電源が入いった。ロボットアームが小さく動いた。積田はロボット操作での端末の扱いは初めてではあったが端末自体の操作は積田には容易い。表示される用語に沿ってキーを押せばいいのだ。集中している積田一人の部屋のドアがノックされた。「行政の役員が心配でもして見学に来たのか。」相手が分からずとりあえず返事をする。「どうぞ。」ゆっくり開くドアの向こうに女性の姿があった。「紗希どうした。」馬嶋紗希がそこに立ってお辞儀をした。積田は北町の診療時間のはずだと疑問を抱いた。「先生、私にも手伝わせてください。」知らせたはずの無い紗希の言葉に積田は少しパニックになった。「何故、私がここにいる事を知っている。」紗希を帰らせるつもりで突き放すように言った。「坂柵先生が教えて下さいました。佐美恵先生から連絡をもらったと。」紗希の言葉に不思議な感じがした。佐美恵先生にも研究をするという話はしていない。其れを見透かすように紗希は「佐美恵先生のところに搬送された患者の血液について検査結果を共同研にファックスしたいとの事でした。」積田はどこまでも甘い自分にあきれる事しかなかった。然し、もう他の人に責任を負わせることはしたくなかった。「ここはロボットが作業をやるんだ。一人しか人員は必要が無い。」自分でも冷たい言葉だと積田は思ったが、紗希は「私は医療研究者になろうとしている人間です。この作業は自分の真価とこれからの研究生活にとって無くてはならないものとなるそう考えています。それに、」紗希は、積田の心の中に入って行くように、「これからの人生を先生と一緒に歩きたいのです。」彼女の言葉が理解できなかった。何を言っているのか人生を一緒に歩くというのは意味を履き違えた言葉じゃないのかと思った。然し、紗希は積田の目を見つめ何も言わず何か言うのを待っている気が積田にはした。じれったい気持ちからか、紗希は返事をしない積田に「私では役不足ですか。」と小声で呟いた。慌てて返事を探す積み田だが矢張り何も言葉が見つからない。見る見るうちに紗希の表情は鬱状態へと向かって落ちていく。踏ん張りの効かない泥酔した女性の様に。もうだめかと積田が脳を掘り起こすように放った言葉は「俺なんかでいいのか」だった。恥ずかしさでどこにも行き場が無い体の二人きりの部屋のドアが再びノックされた。強盗犯が潜んでいたかのように慌てる二人を尻目にドアは開かれた。「こんにちは、クール便です。」積田と紗希は自分たちの行動に吹き出し大笑いをした。理由の分からない宅配業者は少し不機嫌な顔を見せたが作り笑いをし素早く去って行った。受け取った紗希から積田の手に渡ったのは勿論、佐美恵から届いた白尾譲人の血液サンプルである。「来たか。」積田は心強い味方を得て強く血栓薬の精製を決意した。
抗血栓薬はカプセル錠剤とする事に決めていた。インフル、APW+CWXワクチン療法が注射器によるものであり、人間的負担を考えた時に最善と思われたからだ。血栓溶解薬としては様々な方法が開発されてきた。その過程で、アスピリン、チクロピジン、クロピドグレルなどがあるが、副作用を考え、APW専用の錠剤を精製する方向で考えている。積田は、それでも危機が迫っている事に対して、今ある薬剤から、応用しないと間に合わない事も頭にいれていた。「積田先生、いったいこの血液はどういうものなのですか。」白尾譲人の血栓に関して積田はまだ周囲の人間には話していない。「そうだな、全て教えておかないと手伝いようが無いな。」積田は、馬嶋紗希に白尾の症例を佐美恵からのサンプルを交え口述した。「それじゃぁ、血栓によって心不全になり急性肺塞栓症を発症するという事ですか。」紗希は血液サンプルだけでは資料が足りていない事に気付いた。「CTによるヨードマップ、フュージョンは高山病院に頼んでいるのですか。他にカテーテル検査、シンチグラムなども。」積田は落ち着いた顔で「高山先生に病院内の全ての機材を使ってほしいと頼んである。」紗希は、少し焼き餅を焼いた。高山佐美恵は積田にとって私よりも大きい存在なのかもしれないと。研究機材の扱いを紗希と一緒にシュミレーションしていると備え付けのFAXが送信を伝える。「高山南病院からFAXが送信されました。」と言う機械音の響きに音声合成の少女アニメキャラを取り入れている為、二人共張りつめた気が抜ける。研究室の隅にある端末に小走りに向かっていった積田が素早く端末を操作し、FAXコピー機から送られた暗号化情報を暗号キーで開くと高山南病院と言う白色文字が表示された。スクロールして全体を見回すと文字列と画像、3D動画を含め30ページほどあった。宿主本人の肺動脈画像、造影CT、肺換気血流シンチグラフィを合わせた所見が中心だ。その資料から、血栓形成の要因が掴める。血管壁の変化、血流の変化、血液成分の変化。最後のページには白尾譲人の現在の症状が文字列と寝姿の動画で現されている。「この方、確か白尾さんですよね。」紗希にもこの患者の記憶が残っていた。「そうだ。頭痛を訴えていた。」積田の脳裏に診察した時の白尾の表情が蘇る。「少し、意識が薄いように思えます。」紗希も積田の隣で患者と接するうちに顔の表情からその苦しみや痛みが分かるようになった。端末を操作して病院名の次ページに戻した積田はカテーテル検査結果の肺静脈画像から血栓の位置を紗希に見せる。「これが問題のCTEPH、血栓即塞栓性肺高血圧症だ。」積田が静脈の血栓の位置を拡大させ紗希に見せる。紗希は余りにも鮮明な画像に驚き「殆んど詰まって壊死してしまいそうですね。」とつぶやいた。実際の血管の画像が高解像度で表示されている事で紗希の頭の中には既に頭の中に人間の肺静脈の人体図が浮かんだ。紗希は分からなかった事を素直に積み田に聞いた。「今回も接種と言う事ですか。」それはインフル、APW+CWXワクチンのいずれも継続的に接種していかなくてはならない事が続く中又、注射となると打たれる方が滅入ってしまうのではないかと考えたからだ。積田は同じ事を考えていると「今回はカプセルを作る。」と断言した。紗希は作った経験の無さに少し慄きながらもカプセルの言葉の響きから楽しくなってきた。積田は大まかなカプセル精製の手順を紗希に説明し始める。「秤量から始まり造立、打錠、検査、包装という工程は頭にあると思う。」紗希が逡巡し終わるのを待ち再び「秤量は、これを使う。」端末の周りに有る機材の一つを差し示した。「ふるい測りだ。」二人は秤の前で「この網に材料を乗せると自動で左右に動く。落ちる時には均一な材料が整う。下にある均一材料を乗ってある秤で計測する。」紗希は、それを一周見回し「ふるうスイッチはどこに」積田は「あれだ。」「端末ですか。」積み田は中心を指示し紗希の目線が端末に動かされた。二人は再び端末に戻り積田の指がキー上で跳ねると自立式のアームロボットがふるい測りの方向に動作し、たどりつくと同時にふるいが左右に高速移動し始めた。「すごい。」紗希には初めてのAI機能の現実に驚きしかなかった。「ロボットの赤い光を見ればいい。」動きに惑わされ分からなかったが赤い線上のレーザーが機材に当たっている。互いのセンサーが感知する事で動くようだ。「先生、もしかしてここにある機材全てオートメーション化しているのですか。」紗希の言葉に積み田は黙って頷いた。紗希は続けて「それで一人でやろうと。」積田のコンピューター知識は分からない紗希にも相当なレベルだと思えた。「まあ、昔取った杵塚だな。」薄笑いで返す積田に紗希は、「私は邪魔になりそうですね。」悲観的な顔で寂しそうだ。情熱家の積田は取り乱しながら、「オートメーションにも人は必要だよ。」積田は慰みにもならない言葉だと思いながらも、紗希の表情は少し元気さを取り戻したように思えた。紗希の気分は単純な事で変化したのではない。自分を必要とする本能が積み田の態度に表れた事からだ。紗希の心の中では私は先生と付き合う事が出来るのかもしれないと性的な気持ちが湧き始めていた。紗希は浮かれた気持ちを振り払うように、自分の出来る事を探す。今回のカプセル製造に必要な装置として、秤量器、造立コンテナ、フィルムコーティング装置、カメラ付きターンテーブル、PTP充填包装機、カプセル高速攪拌機、そして文字印インクジェット機が揃えられている、文字印のインクは可食インク。しかもそれを一つの自立型アームロボットで作業を行う。「私が出来る事と言えば、、精製水などの資材をロボット君に渡すくらいですね。」苦笑いの紗希に積田は、「オートメーション化は人間にとって脅威に感じる人が多い、然し、全ての作業のトリガーを作っているのは人間だよ。」「トリガーですか。」積田の言葉に紗希はシステムを分けて考え、そのきっかけを考えると全体が見通せるようになった。「人間は、端末に座っていればいいでは無く、オートメーションの中でルールが追いつけないところに気付く事で自分の仕事を得る事が出来る。人間にしかできない仕事をする事でスキルがアップしていく。」紗希にはやりがいのある自分の能力の可能性を引き出す要素になると確信した。紗希は落ち着くと一つ、積田の口から聞きたい事を思いついた。「先生、カプセルの文字印はどんなものになるのですか。」積み田は笑顔で「athns01」紗希は響きのいい名前を当たり前に問う「アテネですね。どうしてですか。」積田は「私より君の方が詳しいと思うが、ウイルスの起源だよ。」紗希はすぐに答える。「BC430のアテネの疫病ですか。」全国土の中心地のネーミングに紗希は納得した様子で、積田もこの名前にするのを確定した。「それじゃぁ、始めようか。」積み田と紗希の共同作業が始まった。積田が端末の前に座り、紗希は、棚からrt‐paアルテプラーゼをロボットアームのそばへ置く。血栓に関しての知識は持っていた。然し、積田は紗希にもう一つそこへ置くように指示した。「APW+CWXワクチンを」紗希にはそれが何を意味するか理解できた。二つの液体を合わせ、造立コンテナのドライ装置で粉末にし顆粒にする、それがカプセルの中に含まれ人間の体内に入る。紗希には、既に自分の仕事の最終工程が見えている。「血栓の溶解薬はrt‐paだけでいいが、再発する可能性がある。APW+CWXを加える事で血栓の免疫効果を期待したい。」積田は自分の意図する事を紗希に言葉で伝えた。それほどAPW+CWXワクチンは万能のお墨付きが付いている。マウスにイベルメクチンを投与し、血中でウイルスが蛋白質と結合しやすくしてもAPW+CWXワクチンを打つとウイルスは瞬時にたんぱく質から離れ死滅した経緯がある。その事も紗希に詳しく、積田は言葉や動作で分かりやすく説明した。古い考えにあうんの呼吸という言葉がある。然し、現代社会で其れが難しくなっている。高齢者たちが積みあげたものは、現代で通じ無い事が多く、その理由として、ネット社会があり、少し前に始まったオートメーションシステムから、人間の肉体だけでは仕事が出来なくなったからだ。スーパーコンピューターによりAI技術の高度な発展。人間の脳はより軟らかくしなやかでなければコンピューターを操る事が難しいのだ。人と人とのコミュニケーションが現代人には必須となっている。常に言葉で接する事しか分かりあえないのだ。ニューラルネットワークからディープラーニングへ、ビッグデータを駆使するAIに人は負け始めている。そのAI最新システムを積田はこともなげに操作していく。紗希はその姿にパンデミック時の積田の言葉を思い出していた。「コンピューターと言う言葉に騙されなければパソコンなどは単細胞な人間と一緒なんだよ。複雑化して行くのは使ってる本人なんだから。」紗希は冗談と思い込んだ。然し、次の言葉で納得出来た。「例えば何故こうならないのか、何故こうしなければならないのか、私の思う表にしたい、とか、考える。端末は人間では無い事に気付かない。機械にはそれしかない。つまり、自分と言う人になる事は無いと思えば君の思う通りにしてあげる。其れが、コンピューターとの接し方なんだよ。」研究畑に長い間埋もれてパソコン一つ満足に使えない紗希にとって曇りがちな脳が晴れやかに鮮明さを取り戻した気がした。積田は着々とアームロボットなる人型に生気を与える。人間の持つ癖やストレスなどが無い華麗な動きを見せ始める。秤量機が二つのワクチンを定量ずつ混ぜ合わせる。そこへ精製水が加わる。コンピューターで処理できるため材料の誤差は生じない。そして備え付けのドライ機能により液体は顆粒へと変化していく。次の工程へ進むと造立コンテナが回転し始め顆粒を寸分たがわず均一化していく。そして臼と杵と呼ばれるフィルムコーティング機能で崩れや苦みを覆い隠す。完成したカプセルに入った薬剤を高速攪拌機で一定量で充填。キャップをし、athens01athans01とインクジェット可食印刷すれば飲み違いしにくいカプセルワクチンが出来上がった。ターンテーブルに備え付けられたAI仕様カメラで割れや欠けなどチェックする。アームロボットは、PTP充填包装機の前で止まり、元の位置に戻った。積田が止めたのだ。「紗希、そのカプセルをマウスに飲ませてくれないか。」紗希は既にカプセルを手にし、マウスのコンテナに向かっていた。ロボットアームでは、人間の理解できない動きをするマウスの口にカプセルを入れる事は不可能である事は明白だ。紗希は、慣れた手つきでマウスをやさしく掴み上げ、少し握りを強くすると口を開けた中に押し込んだ。小さいマウスだが、食道にまっすぐ入れれば簡単に入る。然し簡単に思うのは研究者の様な熟練技能がいる。「ここまでで、宿主の様子を見る事にしよう。明日、又手伝ってくれ。」端末を終了した積田に、紗希が、「はい。片づけに入ります。」作業終わりに片づけをするのは学生達にとっては、復習と同じだと紗希は考える。バラバラに散らかった器具や資材を元に戻すことで再度同じ作業をするのだ。積田も見習うように手伝っている。最後にロボットアームの点検を終えた二人は、そのまま、西町診療所へと帰って行った。積田は我が家の診療所に帰るとすぐに北町診療所の坂柵に電話を入れ「午後から診察しますのでそちらの西町患者をこちらで引き取ります。申し訳ないです。坂柵先生。感謝しています。手があかないようでしたらそちらが診察終了後残りの患者を私が引き取りに伺います。うちは、午後10時まで診察します。」積田の律儀な応対に恐縮しながら、「馬嶋さんもいるでしょうからお願いします。」積田と紗希がカプセルワクチンを精製するのは午前6時からで午後の診察は必ずするように二人で決めた。ライノウイルスが蔓延するまでは都市部に磁石でくっ付く砂鉄の様に医師のエリアが出来ていたが、最近は都市部以外に満遍なく診療所が建ち国土の隅々まで血が通うようになった。医科大も相当数増え、医師不足を懸念していたこの国土は医療大地となっている。パンデミックが人間の本当の常識を掘り当てたのである。お金が多く集まる所に医療から、全ての人達への医療へ変化した。命がお金よりも重いものだとこの社会が認識出来たのだ。ライノウイルス1007αは、人間を作った神々の使者であったのかもしれない。カプセルワクチン精製開始から1週間。積田と紗希はサンプルを数多く精製する事で完成品を作り上げようとしていた。数打つちゃ当たるではない。試作品が多ければ多いほど体質が違う人間に対して有効な薬の精製が可能となるからだ。その人に会う薬が二人の基本だった。血栓ができやすい体質の人、疾病のある人そんな人たちに五体満足な人の薬は与えられない。複数の宿主を検査するため、マウス、ラット、豚を使う。それぞれに、5つの臓器に疾病を生じさせる、肺、肝臓、心臓、脳、腎臓。その疾患に合うカプセルを飲ませる。「紗希、それが最後で良かったな」紗希は、全ての宿主にウイルスカプセルを充飲し終えた。紗希の手際の良さに積田はほれぼれしている。「さすがだ、自分でやれば3倍の時間が掛っていただろう。」その想いと同時に積田には有る疑問が浮かんできた。「APW+CWXワクチンの副作用は血栓に限られるのか。」早速、全国土医師ネットワークにアクセスし、ライノウイルス1007αの副作用事例のデータをかき集める。積田が使う研究所の端末は、全ての研究施設にも繋がる。そこから導き出したデータには3種類の副作用が発見できた。一つは、積田も知る血栓この事例だけがこの国土で報告されていた。他国土ではアナフィラキシーショックによる心臓停止、免疫過剰によるものだ。そして、最後に、慢性肺疾患だ。紗希も端末を覗きこみ「アナフィラキシーはワクチンの配合が体質に合わなかったのでしょうか。」積田は「んん、この研究報告書からは、そう窺えるな。カプセルの種類を増やした方がいいのかもしれないな。」積田は坂柵に絆された言葉を思い出していた。「人間とコンピュータとの違い。」それは勿論、100%が可能なのがコンピュータであり、人間は時に間違いをし其れを学習として取り込む。其れにもう一つ、一つ一つを意味あるものとして理解して行くのが人間だ。が、時代が進むにつれコンピュータは唯一人間にしかできない意味までも理解するかもしれない。強ち、出来ないと決め込むのも人間の成長を阻むものである事は坂柵も知っていたはずだ。「人は常に成長を止めない。100歳になろうと。其れが人間の本能だ。」可能性にかけて積田は紗希に新たなワクチンカプセル製造の協力を依頼した。研究者としての宿命を貫く為、紗希にも躊躇いは無い。まずはアナフィラキシーショックの改善だ。積田はAPWが強すぎる為に体質に変化が起こると考えている。然し、ワクチンのAPW量は適正な量だ。「俺に出来るとすれば。」積田が考えたのはAI脳で蓄積データから副作用を押さえる薬を調合する事だ。AIはディープラーニングの導入によりその機能はシンギュラリティーと呼ばれ人間を超えるコンピュータとして存在している。認識力は人間のそれを凌ぐ結果を齎している。数値化された羅列からその物体が分かるのである。その為のデータ収集を医療ネットワークで行う。四駄研端末をフル回転する。紗希は傍らで画面よりも積田のキーボードを打つ指使いをじっと眺めている。「まるでピアノを弾いているようだわ。」速さ、正確さ、そしてしなやかさ、どれをとっても見た事が無いキー入力だ。其れにこたえるように端末画面が次々にデータを表示する。全てを一つのファイルにまとめ上げた積田は、「ここからが四駄コンピュータの見せどころだ。」ファイルをAIファイルと呼ばれるものに変換すると、症例からの適正薬剤の表示と調合量が表形式で現れる。そこまで出てくると紗希の脳内で副作用製剤の精製準備が整ってくる。積田は端末操作を終え、「さて始めるか。」と当たり前の言葉を吐くと、紗希は頷きながら既に行動を起こしていた。あうんと言うものは経験で積み上げるものではなく、人間同士のつながりから生まれる。年齢とか、性別、好みなどは必要のない事なのである。紗希が資材を定位置に配置すると物言わぬ人型が人間の意思を汲むように作業を始めた。設備投資はコストがかかるというが、人型ロボット程、無駄のない低コストな仕事をする者はこの世に存在しない、そう積み田は自覚している。医療も少しずつだが、AI医療の推進を図っている。いずれは、今ある医者の仕事はほぼ無くなり患者とのコミュニケーションのみになって行くと信じられているのも現実だ。患者の世代もAIを信じられる世代に変化していっている。一昔前の夢物語が現実化するのも時間の問題だ。次々に製造工程を確実に実行していく、そのアームを眺めながら、ミスチェックをする紗希と積田。この作業でまだミスは一度も発見されてはいない。それでも、人相手の製品、二重、三重のチェックは必須である。「後、一つだな。」積田は紗希に声をかけながら自分にも言い聞かす。「先生、何故先生はそこまでして人を守ろうとするんですか。」呟く紗希の目線は作業台から離れない。積田は、こう答えた。「守ろうとするわけではない、死に絶える事により、生き物は本能として生存しようとする。寿命が短ければ短いほどだ。、人間が同類を守る本能で外敵を排除する。ただそれだけだ。」積田は冷たい言い方だったと思った。然し、紗希には、何故か「先生には人間に対する偏見が一ミリも無い。」という事が心に沁み込んだ。人型が停止した。全てのカプセルワクチンの完成だ。それでも二人には安堵は無い、もしかすると今この時点でも別の副作用症例が発生している可能性があるからだ。今できる事は一つやり遂げた。早速臨床へと進む。ラット、マウス、豚、全て紗希が対応した。積田も紗希の作業を見るうちにやり方は頭にあるが、紗希のスピードに追いつけるようなレベルではなかった。一人よりも二人、集約から分業へと変わるこの国土の変化が適切な考え方で行われている事が身を持って分かる。医療体制の変化もこうした経験から生まれていくのだろうと積田は感じた。まだ、日浅い医師と言う仕事、積田の一つ一つの経験が現代医療そのものだと誰しもが思うだろう。然し、積田の思う医師とは、延命治療に携わり寿命をまっとうする為に助力することではない。人間は、有老不死だと思っている。永遠に続く命を病気や怪我などの内外的要因から救い生き続ける事が出来るよう医術の発展に努める事だと思っている。生はあっても死と言うものは存在しないという事だ。「先生。」と紗希が積田に問う。「いくつものカプセルが有りますが、それぞれの効果に合わせて処方するのですか。」積田は当然の疑問と理解した。「いや、これはあくまでもサンプルだ。」この言葉で既に紗希は理解した。いくつものカプセルを一つの万能カプセルにまとめる。処方薬の問題点である薬が多すぎるという事を改善するという事だ。紗希は、「患者さんにやさしい薬ですね。」二人は、笑顔で顔を見合わせた。その日、二人はサンプルカプセル完成により体を休める為、それぞれに住まいに戻った。四駄研にも仮眠ルームがあるが、積田が「明日からのほうが大切になる。」と考え自宅での休息を提案し、紗希も了承した。夜、積田は心が休まらなかった。治験の結果を急ぐ気持ちと、紗希に対する気持ちの変化を押さえられない。「俺もいい年だ。落ち着く事も考えなければならない。」それでも今の仕事を終えるまではそれを許さない得体の知れないストレスが大きくのしかかっている。人が死にゆく中、幸せが訪れるのか。紗希も寝付かれない夜だ。然し、積田と違い二人の事で頭はいっぱいになっている。「人類が滅亡するとき、人間は何を選ぶのか。」その選択は人によって違うのか。そんな思いが二人にはある。命と呼ばれるもの其れが人間の認識によるものだとしたら、死は事実として成立しないものとなる。其れは、生にも言える事だ。この現実を人はどうとらえているのか、誰にもいや、その正解は元々ないのかもしれない。細胞の画像がある。其れは、人間が作った認識によって成立する。がん細胞が消えた。消えたという認識が無ければそのものは存在しない。そもそもがんと言う物質さへ存在していないという事になる。病とは何か。寿命とは。次の日、積み田と紗希の二人は動物たちの様子に少し安堵した。元気な動きで豚の鳴き声も研究室に響く。紗希が三匹の生物に餌を与える。撫でたり触れたりしないよう気をつける。何せ空気感染と言う厄介なウイルスがまだ生きている可能性がある。慎重な作業が求められる。一番、生存が危ぶまれる豚の脳梗塞。血栓が脳に達している事は、CTにより分かっている。映像カメラが表情を撮影し、外見も端末データには積み重なっている。マウスのアナフィラキシー症状も今のところおさまっている。肺問題のラットも順調な呼吸である事は紗希の手元でも確認できている。血液サンプルからのデータも人間の脳だけでは集約する事が出来ないほど数が多い。「でも、まだ動物実験の段階、人間まで辿り着けるのかな。」紗希は研究者として限られた期間に薬を作ることに無理があるようにも思えている。エビデンスの問題も無視はできない。APW+CWXワクチンも上市するには早すぎるものでもあった。そんな彼女の意図を察して「心配するな。全国土で薬の研究は行われているんだ。われわれよりも技術の高い人達が多い。競争しているわけではない。」積田の言葉は紗希の緊張を大部分取り除いた。そう言った積田ではあるが、このシステムに積田のノウハウで手を入れた結果を期待している事は紗希には言わないようにした。其れから1週間が過ぎた。三つの生命体は元気さを全く失わない。それどころか血栓に関しては発生時の5分の一程度の大きさに、肺に関して、健康体と遜色のない状態に、アナフィラキシーに関しても、APWが効果を失わずに体そのものの排出によって量を調整できるような状態になった。「もう一周様子を見たら人間の治験に入ろう。」と積田が明るく口を開くと、紗希の顔も笑顔になる。「宿主は決めているのですか。」紗希は、自分で治験者になろうと思っている。積田は冷静に、「もう決まっているんだ。明日、ここへ来るよ。」紗希の頭の中では駆け巡る人々がいるが、決まった人物の名前は出てこない。積田を問い詰める事は紗希には出来ない。積田の表情は余り賛成している感じがしないからだ。ただ、この治験には、脳か、肺か、けいれんなどの症状と言う条件がいる。高山先生のデータにある白尾譲人が有力に思えた。そして次の日、二人が三体の経過観察をしているところに、ドアのノックが響いた。積田は、「どうぞ。」誰かが分かっているように軽く答える。ドアが開き入って来たのは、紗希の良く知る人物だった。「紗希君、頑張っているね。」ジャージとシャツと言う軽いいでたちで二人の居る端末へとやってきた。紗希は、少しパニックに陥った。「坂柵先生が。」診療所の仕事の事や、間違いがあった時、四駄の医療はどうするのかなど、いろんな事が脳を這いまわる。積田は紗希の異変に「済まなかったな。紗希には何も言わずに。動物による治験が成功したら、高山南病院に四駄に医師を2名派遣してくれるように頼む事を坂柵先生と決めたんだ。ほんとは私が治験者で、坂柵先生に経過観察をお願いしたんだが、先生に血栓が見つかった。」紗希は、過呼吸を起こすほどショックを受けたが自分で制御できるくらいで治まった。紗希の眼がしらは熱くなり、眼球は潤んだ。その表情を見た坂柵は「死にはしない。」と断言する事で紗希を落ち着かせたが、公言するほどの確証は無かった。積田が、「大丈夫、私が命を掛けてカプセルワクチンを精製する。」二人の命の繋がりに紗希も甘えた気持ちを捨てた。「坂柵、隣の部屋にベッドがあるから、疲れる前に休んでくれ。これは、医師の指示だ。」積田は、強く言わなければ坂柵は自分の身など擲つ人である事は付き合いから学んでいる。「分かりました、積田先生。」どんな状況でも場を明るくする人望のある坂柵医師に紗希、積田は敬服した。積田が再び端末操作をし、紗希に、坂柵の脳スキャン画像や、血液データ、高山南病院での治療カルテを見せる。血栓は、既に脳の血管を閉塞し始めている。血管壁にひっついている分、血液がかろうじて流れているという状況だ。紗希には、精製が喫緊に切迫している事が分かった。再び三種のカプセルワクチンのキャップを外し、資材を精製機にかける。AIロボットは寸分の狂いも無く同じ操作を行う。最後の工程に入り、作業を終える。万能カプセルの完成を迎えた。資材量を坂柵の血液データに組み込むと端末はシュミレーション機能から、感知率を弾き出す。「現在、65パーセントの確率で血栓が消えます。」とアニメキャラ声のおしゃべりが三人の耳に響く。三人とも微妙な表情でモニターを注視する。積田は顔を振り、端末に再び聞く。「坂柵のデータから、百パーにする。」と打ちこむと、AI知能が資材の配合量の変換をする。「紗希、これでもう一度。」素早く、紗希が新しい資材をテーブルに運ぶ。
「今から人体への治験を開始する。」積田は淡々と喋ったが、紗希は、唐突さに面喰っている。まだ、完全に動物治験が終わったわけではないのにそんなに急いで大丈夫だろうか。然し、積田の強引さがライノ撲滅に功を奏した。きっと積田にはカプセルワクチンの完成が見えているのだろう。紗希は、神の宣託として積田の言葉を受け取った。「坂柵先生、これをお飲みください。」坂柵にも積田の才気には絶対的な信頼を置き迷いようが無いものとしている。紗希が一粒を渡そうとすると「紗希、2錠にしてくれ。」積田は1錠の場合では、データが取りにくく、治験にならないという判断がある。坂柵は迷いのない飲みっぷりでコップの浄水と共に呑み込んだ。積田は、「坂柵先生、そこへ横になってください。」と、仮設ベットを手の平で案内するように促した。頭に負担がかからないよう体を先に横耐えゆっくりと頭を枕に収める。医師である為、積田も坂柵の動きに目線のみを向ける。患者に指示する医師が多いが、患部の痛みは本人にしか分からない。人は無条件に痛みを避けるのだ。「それでは、6時間間隔でデータを取ります。採血、CT、血管スコープ。これを反復。」積田の切れのいい言葉に紗希と坂柵は静かに頷く。積田は、坂柵の血栓が消えるような気がしている。勿論それを目的として製剤しているが他に何か神秘めいた空間が自分の脳の中に現れそこに三人の幸せな笑顔を想像出来ているのだ。単に浮かれているのかも知れないともう一度心を引き締める事にした。横臥している坂柵は何となく自分がこの場に居ない方がいいのではないかと思っている。治験者に自分で名乗り出たのだが、積田と紗希の事を考えれば、何も知らない第三者の方が良かったのではないかと。二人が急速に近付いている事は坂柵も当たり前に悟っている。そんな思いからか、出来るだけ目を閉じていようと考えた。3人ともカプセルが体内に落ち、融けていく様子をじっと見守っている。血栓の動物治験は対象不足で非常に難しい。今回、奇跡的にラットの試験に辿り着いたが、それはラッキーとしか言いようがない。其れは、高山佐美恵のおかげでもある。彼女が、全国土の研究室に片っ端から治験に合う動物を探してくれた。何の人脈のない積田に手を差し伸べる仏さまの様な佐美恵に返せるとすればカプセルワクチンの完成しかない。「焦らず大事にいこう。」慎重な仕事が求められる状況下、積田、紗希の二人は坂柵の思いも受け止めている。副作用を恐れず使えるAPW+CWXワクチンの完成に向けて。臨床試験は順調に進んでいる。坂柵の血栓は日を追うごとに縮小していく。紗希にはカプセルワクチンの成功にしか思えないでいる。然し、積田の表情は硬い。「何かあるのかな。」納得顔の紗希に積み田の思いは伝わらない。聞けば済む事のように思えるがその場の状況から考えて聞ける雰囲気にはない。積田は「おかしい、坂柵の血栓は縮小傾向なのに血圧が上がっている。何故だ。」坂柵の血圧測定は積田自身が行っている。そのせいで紗希に分かるのはモニターに映る血栓だけなのだ。坂柵は横になっているのに心拍数が高い。「紗希、脳CTのモニター画面を映してくれ。」紗希は「分かりました。」と言うより早く端末を慣れない手つきで操作する。まだ、端末の操作は素人同然だ。モニター画面に映し出された画像は脳に張り出す毛細血管を映し出している。積田は逡巡しながら見つめていると一本の血管の形状が気になった。薄っすらと一部がらっきょのように膨らんでいる。脳CTスキャナーでしか分からない画像だ。紗希もその画面に釘付けになった。二人共が「血栓が新たに。」とインクティブルブロウを受けた。坂柵も二人の気配に異変を感じた。そして、「もう一つが出来たか。」と二人に問いかけながら自身もその結果を確信していたようだ。「分かっていたのか。」積田は医師である坂柵が自らの体について何も知らないわけは無いとは思っていた。頷く坂柵に、「カプセルの効果がどこまで行くのかが問題だな。」と積田は言った。坂柵は、腹をくくったように静かに目を閉じた。全て二人にゆだねるという意思表示だ。「積田先生、ずっと引っかかっていた事はこれだったんですね。」意気消沈した顔で紗希が呟く。積田は、静かに頷いた。もう一つの血栓がまたも脳内に。次に待つのはどんな困難なのか、そして今ある血栓をカプセルワクチンは退治する事が出来るのか。三人は治験終了まで其れを待つしか方法を見つけられなかった。経過観察を続ける事で積田、紗希は気休め程度にも逃げ場を作っている。当の本人坂柵も同じ気持ちだ。全国土は、副作用による死者がウイルスで無くなる人の様になるかもしれなかった。四駄郡も例外ではない。頭痛を訴え高山南病院に入院していた白尾譲人が脳梗塞で無くなったとFAXが入った。副作用によるナノウイルス第2波である。世間はAPW+CWXワクチンを酷評し始めた。医師がワクチンを作った事をメディアは非難する。四駄研にも報道陣が多数詰め掛け三人はこの場所から離れる事が出来なくなった。積田は他の二人に非が及んだ事を後悔した。「私の為に迷惑をかけている坂柵、紗希に只申し訳ない。」感情は地に落ちるほどだ。眉間にしわを寄せる積田を紗希は、この状況で有ってはならないほどの笑顔で、「全国土の殆んどがワクチンに縋りました。先生は、先を見越してこのカプセルワクチンを作っています。其れが出来るのは先生の情熱しかないと思います。後悔は明るい未来を作りません。」坂柵も、苦しそうに、「積田先生しか、人間一人の事を考え、病気を治す医者は居ない。」積田は、二人に背翼を付けられたように再び明るい大空へ飛び立つような力を貰った。だからと言って積田はこの状況を変えるような良策は皆無だ。幾ら端末をこなれようが矢張り人間の事は人しか分からないそう思える。コンピューターが人を支配する世界そんなものがほんとに来る筈がない。正直にそう思った。積田は人間に出来る事の追及をするうち、佐美恵の顔が浮かんだ。「人間に出来る事にはチームワークもある。高山南病院にも蓄積データはある。もう一度、全国土で、状況打破をするべきだ。自分の事などどうでもいい。」積田は佐美恵の権威を頂戴し、医師会議の招集を図ることにした。四駄研の端末モニターから発信される積田の説明は殆んどの医師が同じ事例と対応方法だ。積田と同じように国を挙げてワクチンカプセル精製を行う国土もある。症例も酷似している。誰もが声を失う中佐美恵が口を開いた。「突拍子が無いと思われるかもしれませんが、APWに対する抗APWと言うものはどうでしょうが。」積田を始め全ての意思が驚きの表情をモニターに映した。佐美恵はひるまず続ける。「今回の副作用による連続した血栓は元々APWにあった副作用です。其れが欠陥で接種中止にもなってる。ナノウイルスが終息したと同時にその欠陥事項が現れたと私は思います。強すぎるワクチンを押さえるそういう操作が必要なのでは。」その理論は全く異論の無いものとなった。接種ワクチンの欠陥を消す事が副作用の解決方法であることは誰しもが思う事だ。然し、積田たちが積みあげたものは意味の無いものだったのか。APWは特効薬とはならなかったのか。医師らはその功績を称えるものが多い。それでも血栓の原因がそこにあれば打ち消さなくてはならない。佐美恵の見解は総意として認められた。欠陥ワクチンの始末は付けなくてはならない。全国土で開発されている抗ナノウイルスワクチンは初期のAPWを使わずとも成り立つような段階に来ていた。「紗希、APWワクチンの用意を頼む。」積田は容赦なく自分が開発した特効薬を抹殺に向かう。「不思議な事になったな。」横になっている坂柵の口が少し笑う。「APW+CWXワクチン開発した時に誰もが積田先生を神の様に崇めた。其れが、今、悪の権化だと。命が救われると宝物だが、命が奪われることになればそれはごみのように嫌われる。薬品精製は研究者にとっては劇物でも名誉なことだ。その為にたくさんの研究員が命を掛けている。全ての命が同等ならば誰も攻めるものはいないはずだ。」坂柵が再び目を閉じると、積田が言った。「人間と言う認識が無ければ我々はこの世には存在していない。だから人と人は命と言うものに左右される。名も無き者には成りたくないのさ。」紗希が、俯き静かにAPWを作業テーブルに置く。積田のリズミカルな指先が端末のキーボードを叩く。測ったように同じ動きでロボットアームは機械音を立てながらAPWの終末へと向かう。紗希と、積田、坂柵は血栓の観察を続けながら一方で新たな精製を行う。その日、坂柵の血栓は消えては出来消えては出来を繰り返した。明らかにワクチンが原因と思われた。その傍らで端末AIがAPWを打ち消す為のデータ構築を進める。三人はAIに身をゆだね睡眠をとることにした。その日から一週間同じ状態が続いて、積田に諦めの表情が出て来た日、紗希がCT画像に違和感を覚えた。「この血栓が消えていく周りに膨らみのある個所が無いみたいだわ。」坂柵の血圧を測っていた積田も「血圧が完全に安定してきた。」二人は顔を見合せながら、坂柵の表情観察を行う。顔色も息使いも健全な体と思える。坂柵が、気分が良さそうな顔で「重い感じが少し前から殆んど無い。脳はどうなってますか。」積田は脳スキャン画像をストイックな目で身じろぎせずに眺める。「んん、もしかするともしかするかもしれない。」カプセルワクチンは副作用を伴いながら完治に向かって進んでいるのかもしれないと積田は思った。然し、リスクとして自分の作ったカプセルワクチンは又悲劇を生む可能性があったと猛省した。ワクチン開発をAIで経験なしでやろうとした自分が只の馬鹿に思えた。研究者の血のにじむような経験により人を救う薬剤が出来ている事が積田にとっては神の力に思えてならない。「積田先生、まだバスターする者が残っていますよ。」坂柵がかつて言った「ウイルスバスター。」という言葉を積田も紗希も思い出した。「ここで止まる事は出来ない。」三人の意思が一つに再び繋がった。APW抹殺計画は元研究者の坂柵の復帰により力強いものとなった。坂柵が二人に提案をした。「私はAPWが悪いワクチンとは思っていません。確かに血栓発生と言うリスクを抱えています。然し、四駄、いえそれだけでは無く山林で暮らす人々には必要な製剤だと考えます。そこで、APW完成を私達で出来ないかと思うのですが。」二人も異論は勿論ないが、その結果が今の現状ではどうしようもないと考えた。紗希が、「全国土の人達の体内にあるAPWは悪い作用を起こしているのですから、新たにAPWの完成を目指すよりはまず対峙してからのほうが。」積田は「私も紗希の考えに同意だが、坂柵先生のおっしゃる事は私としては理想です。」坂柵は「積田先生、全国土に情報発信したんです。研究者は全国土に居ます。勿論、この国土にも。任せてしまってもいいのでは。」積田は責任から自分自身で解決しようとしている事を坂柵は言っているようだ。紗希も積田に一任することで積田に負担を掛けているような気がして、二人とも、目から鱗のように憑いているものが落ちた。坂柵の陽気な掛け声が掛る。「さあ、四駄研復活の日。」
坂柵の体調回復を待ち、APW完全体精製が始まった。「坂柵先生、製造工程は前回と同じでよろしいですか。」積田は、再び坂柵のサポーターとして作業に当たる。「いえ、今回は欠点の克服を第一工程にします。」坂柵が答えると、紗希が、「抗血栓薬の使用ですね。」坂柵は頷き、二人に抗血小板薬と抗凝固薬、血栓溶解薬の準備を頼んだ。抗血栓薬としては現在ではrtーPAの使用に頼る以外にない。抗血小板薬としてプラスグレルの使用を決めた。坂柵の後ろで紗希が困った顔で何やら言いたそうにしているのを積田が気が付き「どうした、紗希、」と問う。「実は媒体が全て死んで。」坂柵、積田の両名はあんぐりと口が閉じなかった。それでも、坂柵が、「昔の研究所に頼んでみよう。」と望みをつなぐ。三人とも自分たちの甘さにあきれ返っている。携帯でかつての研究所に電話を入れた坂柵の口から希望の光が放たれた。「明日、こちらに運んでくれるそうだ。」ラットたちが来るまで三人とも医師業務へ戻ることにした。次の日、坂柵宛てに研究所からの輸送車がマウス、ラット、豚を届けにやってきた。「届いたか、」坂柵の表情は満足とはほどおい浮かない表情だ。紗希が意味が分からず問いかける。「坂柵先生、何か問題でもあるのですか。」積田の脳裏に一つの論文が浮かんだ。動物ラットの適正についての論文だ。血栓に関して言えば、殆んどが対象になりにくい。人間との接種方法の違いが正確な治験としては欠落しているのだ。どの研究所も媒体についてはごく少数しかない、その為、送られた動物媒体も決して満足のいく対象ではないのだ。それでもこれらの動物媒体が無い事には製剤作業は出来ない。妥協するしかないのである。坂柵は紗希や積田に、「居ないよりはいい。いざとなれば直接人間で治験するさ。俺が媒体になる。血栓ができやすい事が分かったからな。」積田は、坂柵が命がけでこの研究を成し遂げようとしている事に心を痛めた。「また、自分のせいで坂柵が犠牲になろうとしている。」紗希も心配というより悲しみを憂いた瞳でいる。今度は積田が坂柵に「まあ、そう気張らず。」肩をポンと叩いた。研究は夜を徹して行われる。三人の体力は計り知れない絆で結ばれ留まる事が無い。積田は端末の入力スピードが研究所に居る間にさらに早くなり、紗希の動作はアームロボットを凌ぐ無駄のないスピードで動き、坂柵は、器具のマジシャンの様に操る。そして、APWワクチンを体内から消し去る薬品の精製が終わった。研究期間、3週間。これから動物実験へと移行する。其れを終えれば体を休める事が出来る。積田が「紗希、ラットたちの方頼む。」紗希は、頷きと行動が同時だ。この研究作業で一番疲れるのは紗希だ。動く行動範囲が他の二人の三倍はある。紗希は学生の時からずっと帰宅部である。どこをどうしてその動作が出来るのか若いというだけではその行動力は現せない。積田も坂柵も自分らの男の誇りが崩れていくように思えた。紗希は、早速籠付きの手押しの台車で動物たちを運ぶ。積田は、端末のデータ構築、坂柵は器具の下準備を行う。それぞれがそれぞれの役目を果たそうと必死に働く。人の命を助ける仕事は様々ある。警察、病院、レスキュウ、自衛隊。その中で命と直結した地味すぎるほど地味な仕事、それが研究の仕事だ。一つ間違えば人の命を落としかねないこの仕事にかける三人のストイックな働きぶりは尋常ではない。紗希がまずマウスをやさしい指先で籠から検査台の透明ケースに入れる。そして出来あがったばかりの抗APW剤をマウスの口へと流し込む。母親から餌を与えられるようにマウスの表情は軟らかい。きっと、紗希はマウスの母親代わりとして口を本人に開けさせているようだ。「このマウスは血栓が3個か。」積田が端末のモニター画面に映し出された脳画像を見て言う。既にこれらの媒体にはAPW+CWXワクチンを投与してある。データで解析された人間の三分の一ほどの抗APW剤を投与した。次は小豚への投与。三人が一番データ取得の価値があると踏んでいる媒体だ。坂柵から薬液を受け取った紗希は小豚のお尻の部分に針で挿入する。暴れると厄介な対象である為女性では少しやりにくいかもしれないと積田は思っていたが難なくこなす紗希の針さばきに医師二人も敬服しごくである。二番に価値の高いラットも接種が終わり、後は経過観察に入る。「これからは一人ずつ交代で観察しデータに挙げる。私から始めるから次は坂柵先生、そして紗希の順番でお願いする。」積田は坂柵の体調も気になっているが動きの一番多かった紗希を最後に据えた。それぞれ異論は無かった。紗希も坂柵を休ませたかったが、彼の性格上其れは叶わぬ事だと理解している。積田一人となった研究室で脳スキャン画像をじっと眺める。いくつかの血栓が膨らみを無くしていく。風船を膨らます時に吹いている息を止め吸ってみる、丁度そんな光景が浮かんだ。「生き物とは何だろう。」積田は脳裏に降りてくる思考を巡らす。命を持つという奇跡の中で死と言う自然がある。病気は外的要因から受ける体内の必然。生まれる事は奇跡と呼べるのだろうか。朝まで脳は活性化し眠りを忘れているようだ。次の朝交代寸前にマウスは死亡した。ワクチンが血栓に負けたのだ。「もう一度データ検証だな。」坂柵に観察を交代した積田は、診療所で仕事をし、その夜、マウスの血液データを洗いなおす。一つ分かった事があった。臨床マウスの血管壁が破れていたのだ。「このワクチンは予防にしか使えそうにないな。」物足りない気持ちが積田には辛かった。坂柵がいい話を持ってきた。ラットの血栓が著しく少なくなりほぼ完全な状態になったと伝えた。さらに紗希が、豚に関して臓器の改善まで見られると報告した。少なくとも研究は無駄には終わらなかった事がせめてもの救いだ。三人は、2週間後集合し、人間による臨床試験に移る事にした。治験者は、四駄の人間ではなく、坂柵が連れてきた。研究者時代の知人だと紹介された。勿論、血栓の為安静が必要な状態である。研究者らしく積田や紗希にも積極的に協力をするとのことだ。カプセルワクチンを開発しているところは、四駄研だけではないという事が治験者の話から分かった。然し、中の成分は全く違うという事だ。積田は今回、マウスの事例の反省から、血管壁に効く血管強化薬をさらに加える事を坂柵、紗希両名に伝えた。三人が集まる前に既に完成させている。積田は治験データ書類の作成の為、名前と年齢を聞くことにした。すると驚く事に坂柵の知人だとした人物は坂柵高一と言った。。坂柵は済まなそうに「従弟だ。」と苦笑いをしながら答えた。自分の親の兄の子だと伝えた。積田と紗希は驚きを隠せなかった。「坂柵先生はびっくりさせるばかりで。」紗希は、心臓に悪いという言葉を飲み込んだ。笑う状況ではないからだ。従弟の坂柵は血栓を抱える患者である。真摯に向き合わなければならない。「さあ、始めよう。」三人同時に持ち場へ向かう。積田は端末へ、紗希は、治験者のベッド。坂柵は、血圧計を持った。問題は、投与の量だ。一カプセルの製剤料が、どのくらい効果の上がるものか、検討はついていない。まあ、それを調べるのが臨床試験ではある。治験者は大人37歳、身長172センチ、体重63キロ、血栓による虚血性心疾患がある。「まずは、一カプセルを投与。」積田の指示を紗希が受けカプセルを坂柵高一に渡すとそれを口に入れ浄水で飲み込む。モニターに透視された動画が移り、溶け具合などを鮮明に映し出した。「溶け終わるまで2分というところか。」カプセルは想定通りの活躍をする。「これから三十分が抗体と抗体のバトルの時間だ。」坂柵医師が楽しそうに説明する。沙希は治験者の表情の変化を凝視している。その顔に苦いものでも嚙んだかのような眉間にしわを寄せ深い層になる時があることに沙希は気付いた。「先生、媒体が時々苦しそうにしています。」二人の医師は、それぞれ端末と診察を始める。「相当な抵抗にあっていますね。」坂柵が言うと積田は、「無理もない、ワクチンを除去するのは接種よりも苦しいのでしょう。」積田は申し訳なさそうに言った。そののち、治験者の坂柵高一は眠りに落ちた。経過観察は継続して行われた。「一刻の油断も許さない状況です。交代で休憩を取りましょう。」坂柵医師が言明すると二人はその指示を受け、積田、沙希、坂柵の順で交代することにした。休憩は30分。緊急事態になれば集合だ。が、その兆候もなく高一は深い眠りへと入っていた。「眠気を伴うようですね。」沙希が、坂柵に投げかけると「どうしても人間は眠ることで体内を復旧するからね。」従弟の寝顔は思い出せないほど昔に見た記憶がある。その時、端末が生命危機のアラームを響かせた。隣の部屋で休憩していた積田も駆けつけ、何事かとキーボード操作を行うと、血栓による血流つまりが発生している。高一の表情は蒼白に変わり始めている。坂柵がすぐに血栓溶解薬を投与し、安定するか観察する。「脈がしっかりしてきた。」安堵した表情で坂柵は強くつぶやいた。ほかの二人も胸をなでおろす。血栓の恐ろしさを改めて思い知った。「今回は何とか助かったが油断できないな。」自分の作ったワクチンでこんなに恐ろしいことが起こっていると思うと積田はやりきれなかった。何よりも自分に被害が及ばないのはさらに辛く堪えた。表情から積田が追い詰めていることを悟った坂柵は「まあ、そう深刻にならず、自分の仕事に専念しよう。」当たり前に言っている坂柵のその言葉は心の奥底にまで響いた。自分の身内が危機に面しても、他人を思いやれる人間性にただ脱帽するしかなかった。治験はさらに進みカプセル2錠目に入る。1錠では、血液検査から、APWは完全には消えていなかったのだ。沙希は、仰向けの状態の高一を側臥位にし、カプセルを飲ませる。今度は少し飲みにくそうだ。「そのまま、しばらく安静に目を閉じてください。」危機的状況を脱したとはいえ、高一はかなり衰弱している。沙希は慎重にも慎重に事を進める。積田は、沙希のマジックは動物だけじゃないと感心した。手鳴らすという表現は悪いが、沙希にかかればどんなものも素直になるだろうと思った。高一の状態は時間がたつほどに安定へと向かった。「危なかったな。」坂柵がぼそりと呟いた。本心が言葉を発したのだ。積田も紗希も露ほどにも心配な顔を見せていなかった坂柵の表情に少し安堵した。「一番心配していたのは坂柵だ。」積田は下を向き坂柵の気持ちを読まない事にした。「然し、こんなことではワクチンには不相応だ。」自分の失態に端末のキーボードのエンターキーを思いっきり中指で叩いた。何がそうさせるのか積田の思考は限界を超え続けている。「確か。」積田は一つの論文を思い出した。「アプロスレート。」積田の言葉に坂柵が、「アプロスレートソディウム、ナトリウムか。」二人は顔を見合わせ小さく頷き合う。「私もその論文読みました。」と紗希は明るい声で息を合わせる。一般的に血液凝固阻止剤としてはへパリンナトリウムが使われるが、最近、アプロスレートソディウムが注目されてきている。「でも。」と又静まり、「ここには其れは無いですね。」残念な声を響かせる。坂柵が「私の知り合いに聞いてみます。」いさんでスマホを滑らせる。話の先は坂柵の医大の先輩で都市部にある国立病院の理事長だと分かった。普段から丁寧な言葉使いの坂柵だが非常に恐縮した受け答えで通話を終えた。二人の方に向き直ると親指と人差し指でまるを作った。「おっけい。」ひょうきんさを併せ持つ坂柵には仁徳を感じる。どこかの病院に居てもトップになる器だ。積田は冗談一つ言えない自分の人望の無さに「俺は経営者には向いていなかった。」とはっきり悟った。2日掛ってアプロスレートソディウムが届き、製剤を再開した。「積田先生、ナトリウムをどのくらいの量で配合する予定ですか。」紗希の言葉に積田は、考えていなかった表情で、「端末に聞いてみます。」と怒りにまかせ強く叩いた指先は打って変わって、滑らかにしなやかな指でキーを操作する。「へパリン単位で12000という事は、アプロスレート単位で5000お願いする。」アプロスレートソディウムはまだ研究段階。確証は無かった。量を調整しなければアナフィラキシーショックが出る事を想定した。「分かりました。」紗希に迷いは無い。絶対的な信用、それだけが過去の大義を成し遂げた命の綱である。ナトリウムを点滴注射法で接種する。つまり水分と電解質を送る事で血液をサラサラにするのだ。其れにより、注意しなければならないのは血管が出血している場合だ。血管カテーテルカメラではその兆候は無い。「三人で経過観察しよう、痙攣の兆候を逃さないように。」坂柵が、一瞬でも見逃せないと強調するように強い言葉で言った。積田は端末から離れた。今はモニターやデータよりも現実をしっかり確認する事に徹する。紗希は、腕の脈拍の確認をひと時も欠かさず見守る。時間が立つに連れ、アプロスレートソディウムは治験者の顔色を真肌色に移し替えていく。24時間が経過したのを確認し、積田が、「そろそろ、休憩を入れましょう。交代制で。」と慎重に発言する。其れにこたえるように、坂柵が、「一番に休むよ。」の言葉に、積田や紗希に気を使わせまいとする坂柵のやさしさが手にとるように分かる。坂柵は、たぶん、目を閉じることもできないだろうと思った。積田は当然とばかり紗希を2番に勧めるが、「端末で目を酷使している人が先に休憩してください。疲れて見落とされても困りますから。」と積田は足元をすくわれた。社会では、そんなことは当然と思われるが、今の現実社会で休憩を人の後にする人はほんの一握りである。大概の人間は自分かわいさなのだ。映画やテレビドラマの様な人間はいない。些細なことではあるが、仕事の疲れは心をも奪ってしまう。自分が気付かず不条理に人を叱ってしまう。商品を売りたい、その為には手段を選ばない人間になってしまう。物を作る、人の疲れに気付かず長時間の労働を強いる。然し、医療は違う。相手は自分と同じ人、しかも命。疲れや痛みは自分のものとして考える事が出来る。積田は、ITから医療の道に転職した自分を少なからず褒めている。「少し目を閉じよう。」坂柵と交代に休憩している積田は浅い眠りに就いた。抗体が三順したころ治験者の血栓が全て消えた。「経過は順調。」坂柵お得意の冗談めいた言葉で、三人は笑顔を取り戻した。そして、抗APWカプセル「athens02」が完成した。全国土で精製されたものの内4錠目のワクチンとなった。この国土では「athens02」が推奨された。「終わったな。」積田がぼそっと呟くと坂柵、紗希の右腕が目の前にあった。互いに握手を求めている。積田と坂柵がまず最初に交わし坂柵と紗希へと移る。次に積田が紗希に右手を伸ばしたが何故か届かない。目をこらしたが紗希の姿が無い。目が泳ぎながら紗希の姿を探すと、足元にうつ伏せに倒れている紗希がいた。「紗希、どうした。」引き起こすと紗希の目は白眼に変わりつつある。「意識をしっかり持つんだ。」坂柵が脈をとりながら、「脈拍微弱。」と叫ぶ。積田は紗希の白衣をはがし、胸の衣服を強引に引き裂き左胸の心音を押しつけるように聞く。「駄目だ。心肺停止。」積田も叫ぶ。そのまま心臓マッサージを始める。「逝くな逝くな、俺の顔を見るんだ。」胸骨が折れる寸前まで押し、肺から出る限りの空気を口移しに紗希へ送る。然し、積田の願いをはねつける様に紗希の体は硬直に向かって突き進む。「駄目だ、駄目だ、そっちへ行っては駄目だ。帰って来るんだ、紗希。」世の中に時間軸と言う物を感じないくらい積田は救命措置を続けた。そして坂柵の手が積田の肩に触れた時、積田は力尽きた。坂柵も頭を振る。積田が紗希の胸元に組んだ腕は心臓マッサージをし続けた為、血管が浮き出している。それでも諦める事を拒む積田は、、端末により四駄ネットワークの緊急システムで救急車を動かす。「紗希、紗希。」言葉を持たない動物の様に名前を繰り返す。諦めきれず坂柵がダッシュで運んできたAEDを取り出し、3度ショックを掛けた。既に血流の制御が不能なのは積田にも分かった。「何故、俺には、命を守る事ができないのか。人間を蘇らせる薬を何故精製できなかったのか。役に立たない愚かな男だ。」積田にはこうして自信を冒涜する事しかできない。救急車が到着したが、隊員は死を確認するだけだった。今の積田には人生の終末に訪れた絶望という結末。「いったい、俺は何のためにワクチンや薬を作ったのだろう。自分にっとって一番かけがえのない大切な人一人、救えなかった。医師だと自分は言えるのだろうか。」涙は土石流の様に容赦なく目玉や鼻、口を押し流す。支流の鼻水が垂れても拭く意思が無い。全ての水が研究所を覆いつくすように。何も要らない。何も欲しくない。何もしたくない。只こうして紗希を手の中に抱いていたい。人間は何故死と言う世界に行かなければならないのか。生のままで何故いけないのか。医師は何故人を死から救えないのか。たった一人の命を。
生とは幸せに過ごすこと。死とはその幸せから遠のくこと。紗希と同じ幸せな世界で一生過ごせないのはなぜなのか。「死が自分に分かる事があるのだろうか。其れが分からなければ紗希とは暮らせない。不老不死、それは人間の本当の幸せなのではないだろうか。何世紀経てばそれは訪れるのか。」
生、死がある世界。死、生には戻れない世界。「しかしそれも全て生きているものの認識でしかない。」少しでも今、紗希の近くに居れたら幸せなのに。
馬嶋紗希の死亡診断書は積田自身が作成した。それには虚血性心疾患による頓死とあった。詰まり突然死である。家族と面会し始めて紗希には不整脈の兆候があったと聞かされた。致死的不整脈によるものだと彼は結論付けた。積田はスタッフの体調管理さへ出来ていなかった自分の至らなさに医師を続ける権利が自分には無いと四駄を離れることを決心した。
完
生か死か(全編) 武内明人 @kagakujyoutatu
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