親愛なる君へ

白川津 中々

◾️

 この手紙は大変身勝手なものだから読まないように。


 誰にも読まれない手記をなぜ残すのか。それは私の狭量に他ならない。秘密を残したまま墓に入ると思うと、胸が張り裂けそうになるのだ。それ故に、この手紙を君に託す。もし万が一、私のいいつけを破って目を通してしまったのであれば、その後の責と義の一切を任すから、よしなにお願い申し上げる。


 なお、読むのを止めないというのであれば私の方も遠慮なく綴らせてもらうから、悪しからず。


 君も知っての通り、私は妻と籍を入れてから三十年が経つ。その間に色々とあったが、表面上はごく普通の、どこにでもいるような家庭を築いてきたつもりだ。子供こそいなかったが人並みには幸福な彩りが添えられていると周知されていただろう。それはひとえに私が力の限りを尽くしたからである。世間様への顔向けと決して争いを起こしたくない小心とが重なって、平穏な、極々凡庸な家族が維持されてきたのだが、それは先に記した通り表面上の事である。その字面通り、私は裏で妻に対し、大変な裏切りをしていた。


 私の勤め先にカナエという女性がいた。

 彼女はどこか陰気で、微笑んでも目元に影ができるような辛気臭い女だったが、そんな気質が合ったのだろう。私達はいつの間にか、会話を弾ませるようになり、喫茶店へ行くようになり、酒を飲むようになった。カナエは思いの外饒舌で、一合二合入るとあからさまに陽気になる。その日の夜も、彼女は一人で講談が如くよく響く声を聞かせていたのだが、それがふいに、ぴたりと止まったと思ったら、頬につっと、線が引かれた。何があったのかと尋ねると、自分ばかり話をしていて、それが突然悲しくなったと言い出したのだ。馬鹿な事を言うなと思ったものの、その時の彼女の、涙に濡れて崩れた化粧を見ると、なんとも愛おしく、儚いもののように思た。私は彼女の中に、女を見出してしまった。

 カナエはそれを目敏く、抜け目なく察知すると、もっと静かな場所へ行きたいと言い出した。その言葉に従い私は彼女を連れ出して裏茶屋で夜を共に過ごした。


 私は酷く後悔している。

 カナエはまだ子供に近い年齢だったし、なにより妻を裏切ってしまったと、良心の呵責があった。けれども、妻とはお見合いで、お互いを知らないままに結婚して、なんとなし為人を探りながら、どこかよそよそしく過ごしてきた。脳裏に焼き付くような、強烈な情動は妻との時間で感じた事がない。カナエとのあの夜はまさに、焼かれるような、溺れるようなひと時だった。身体中の神経が逆立つあの感覚は、今でも忘れられない。


 しかしカナエとはそれきりだった。いつの間にか話す事も、一緒に何処かへ行く事もなくなっていた。歳の離れた男と馬鹿な真似をしたと後悔したのか、彼女なりに、私を気遣っていたのか。いずれにしても彼女は勤めを変えてしまった。もう、会う事は叶わない。私はカナエを忘れようと必要以上に妻と肌を重ねたのだが空虚で、横たわる妻にカナエの影を重ねすっかり罪悪感と悔恨に苛まれてしまうのだった。

 あの時、全てを捨てでもカナエと一緒にいればと何度考えたか。ただ、その度に、歳の差が頭を過ぎる。私より若い男が現れたら、きっとそちらへいってしまうのだろうと。いや、もしかしたら今この時も……


 それがもう疲れてしまった。もちろん、妻への贖罪の意味もあるが、私はこれから、自らの命を絶つ。この手紙をここまで読んでしまったのであれば、後はもう、君次第だ。私の罪を伝えるかどうかは任せるとしよう。


 私はカナエも妻も裏切った。その報いは、受けるべきなのだ。死ぬしかない。しかしこの死が酷く自己中心的で傲慢で、逃避である事も重々承知している。先述の通り、私は疲れてしまったのだ。この愚かな最後は、ぜひ情けだと思って見逃してほしい。


 親愛なる君へ。

 私の秘密を、この手紙をここまで読んでしまったのであれば、どうか、よろしく頼む。


 大変勝手ながら、式が終わるはまでは妻の様子をみていてほしい。あれは変に思い切りのいいところがあるから、血迷わないように、しっかり手綱を握っておいていただけると助かる。


 それでは、君が読んでいない事を祈って、さようなら。来世があるなら、そこで改めて謝罪します。

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