六月二十六日(日)

 僕がこの世に生まれて二十三年と六ヶ月と二十六日が経った。そしてあの大地震から三ヶ月と十五日が経った。僕の結末はまだ来ていない。僕は未だに死に損なっている。

 おそらく僕の人生の結末は、今現在で予想出来る結末と大きくかけ離れているだろう。

 地震が起こり、唯香と出会って僕の人生観は大きく変わった。人間の思想なんてものはサイコロの目と同じようなものだ。何かの出来事によって地面が傾けば、コロコロと転がり、今と全く違う目が出る。何が正解なんてその時その時によって違う。

 僕は昨日もライブハウスのステージでギターを弾いた。昨日のライブはまずまずの出来だった。

 削れて使い物にならなくなったピックが一枚増え、唯香と過ごした日々からもまた少し遠ざかった。

 そして、それと共に唯香との出来事が本当に起こったことだという確信からも、どんどん遠ざかっていっている。時間と比例しているように確信は薄れていく。時折、僕の妄想が創りあげた現実なのではないかという疑念が湧いてくる。そして、もしかしてそれが真実なのかもしれないと思う瞬間もある。人間の経験や記憶なんてものはあやふやなものだ。幼少の頃に経験したと思っていたことが、実はテレビで見ただけの記憶だったなんてことがよくあるように。そして、時間が経てば経つほどそのあやふやさは増大していく。信じがたい出来事ならば尚更のことだ。それだけ唯香とのことは特異な出来事だった。


 しかし、そんなあやふやさを一蹴出来る様々な感覚も僕には残っている。


 唯香が消えたあの時、「実は君も実体の無い魂なんだ」と誰かに言われていたら、そのことを受け入れるのに僕は十秒もかからなかったと思う。「そうだったんだ」と素直にその事実を受け入れただろう。それだけ目の前で起こったことはリアルな出来事だった。

 記憶にしないといけないくらいなら出会わなければ良かった、と何度思ったことだろう。

 これまでの人生でここまで残酷な出来事は無かった。彼女との出来事に対して僕はこれ以上ないくらい無力だった。

 唯香は僕のことを『運命の人』と言っていた。そして目の前から消えた。

 唯香が僕にした話がどこまで本当だったのか今となっては分からない。全部が本当かもしれないし、全部が嘘かもしれない。

 もしもタイムマシーンがあったなら、僕はこの大震災があった前まで飛んでいって唯香と出会いたい。そしてあの地震のあった日、僕は彼女とこの東京で過ごす。そうすれば彼女は死ななかったはずだ。そして、僕達は元々あった『運命』という名のレールの上に乗っかった人生を歩んだのかもしれない。そんな想像をする。

 しかしそれは叶わぬ夢だ。

 唯香はこの地球上にはもういないし、二度と僕の前には現れない。

 もし運命というものに二度目があるのなら天国でまた会えるだろう。

 この事柄に対して僕は、ロマンチックなんていう安易な言葉で形容したくない。それだけの切実さが僕にはある。彼女がそばにいた時にはそれほど意識はしなかったが、唯香は確実に僕の運命の人だったのだと今は思える。彼女の存在が消えて初めて、僕はそのことを心の底から理解した。だから天国はあってもらわないといけないし、僕はそこに行かないといけない。これは恋心などではない。『運命』というものを確かめてみたいという僕の好奇心だ。そう思わないと僕はやりきれなかった。

 タバコをやめた僕はおそらく長生きするだろう。

 唯香とあの世で出会うのはまだ先になりそうだ。


 僕達は常に日常を生きている。

 この先、僕は音楽で成功出来るかもしれないし、どれだけ努力をしても夢で終ってしまうかもしれない。しかし、そのどちらであっても、『今』という時間がその時々の日常であることは死ぬまで変わらない。唯香がいなくなった『今』が日常であることを認めた時、僕は何も恐くなくなった。この人生においての覚悟が出来た。どんな『今』であっても生きてやろうと思った。僕はある意味では絶望しているのかもしれない。唯香が運命の人だったのなら、この人生で僕の運命の人はもういないということだ。


 いや、そうではないと思おう。


 唯香は、運命は色々なところに繫がっていると言った。それならば彼女がいなくなったというこの運命もどこかに繫がっているということになる。この先僕は、彼女以外の誰かと出会って結婚するかもしれない。その時、僕はその誰かを『新たなる運命の人』だと思って結婚するだろう。例え、結婚した後にその誰かが運命の人ではなかったと分かったとしても、それもまた運命だと思おう。その時、やはり運命の人は唯香だったのだ、と思おう。

 運命なんてないし、全ては運命だ。


 人の人生とは、永く続く魂のほんの一瞬の出来事なのかもしれない。

 そして人間の身体は魂のほんの一瞬の仮住まいなのかもしれない。唯香が消えた後、そんなことをよく考えるようになった。

唯香がフィギュアに乗り移ったように、僕もこの身体に乗り移っているだけなのではないだろうか。彼女がいなくなってから、そんな感覚が時々僕を襲った。僕が普通に人間サイズとしていられるのは、イメージを具現化する力が唯香よりあっただけなのかもしれない。そして、その事実を僕は忘れてしまっているだけなのかもしれない。人間は恐ろしいほど忘れることが上手な生き物だ。それは僕だけではなく全人類に言えることだ。その証拠に人間は天災や戦争によってもたらされたものを少しずつ器用に忘れる事が出来る。


 そして地震後の日本は少しずつ再生している。

 しかし、問題は山積みだ。被災地の人々が元通りの生活に戻れる日はまだ遠い。

昨日、見た夢を思い返す。

 今よりずっと文明の栄えた日本で僕は唯香と幸せな日々を送っていた。それは来世かもしれないし、もっとずっと先の事かもしれない。僕に予知夢を見る能力があるとするならば、地球や日本という国はまだまだ先まで続くということだろう。

 先日、僕は原発廃止のデモに参加した。覚悟を決めてそれに臨んだ。バンドであろうと音楽であろうと僕は捨てる覚悟を持ってそのデモに参加した。僕達は子供達に未来を残さないといけない。その為には僕の夢なんてちっぽけなものだ。


 唯香とのライブ映像をリアルタイムで配信した後、僕はその映像を動画配信サイトにアップした。再生回数はみるみるうちに伸びていった。映像は精巧に作られたCGとして世間には認識され、何の疑いもなく週刊誌や新聞の記事、テレビのニュースになった。僕が様々な取材に対してそうコメントしたからだった。当然だ。地震で死んだ人間がフィギュアに乗り移り、イメージをすることによって実物の縮小版になり、そして最後は歌を歌って消えたなんて誰も信じない。CGということにしようと唯香と話し合った末の配信だった。

 しばらくして大手レコード会社から連絡があった。動画として配信した曲をCDとして発売したいとのことだった。最新の音響技術によって唯香の歌だけが抜き取られ、その歌に伴奏が付けられた。CDはすぐに発売になった。曲名を言わなかったので、歌う前にカメラに向かって唯香が話した全文が、そのまま曲名としてCDジャケットにデザインされた。今現在、日本で最も長い曲名としても話題になった。

そして、発売から一ヶ月が経った今でもCDは売れ続けているらしい。僕はCDの売り上げを義援金として被災地に送ることにした。

来年の春になったらまた桜は咲くだろう。

 僕は今、小田急線に乗り、唯香の実家に向かっている。

 窓の外の景色を見ながらiPodで唯香の歌声を聴いている。流れていく景色がそのまま過去になっていくと思った。

 携帯電話が震えてメールが来たことを教える。真一からのメールだった。新曲が出来たらしい。どんな曲なのだろう? 一緒にアレンジを考えるのが楽しみだ、と思った。

 町田駅で電車を降りる。

もしもパラレルワールドというものが存在して、そっちの世界では地震が起こっていなかったら?

 そんなことをふと思った。

 そっちの世界では今も福島原発は稼動しているだろうし、もしかしたら唯香の言う通り、僕達はライブハウスで出会っているのかもしれない。


 道を覚えるのが苦手な僕が、はっきりと道を覚えていた。インターホンを押すと唯香の母親が出てきた。その後ろに白髪交じりの顔立ちのはっきりした男が立っていた。おそらく唯香の父親だろう。


 線香を上げると二人と向き合った。

 ゆっくりとした口調で、僕は唯香との間にあった真実を語り始めた。

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