彼の記憶
@Jutena
離別I
「起きて、起きなさい」
自分の声を除けば最も―あるいは自分の声よりも―聴きなれた声だ。
「聞こえた」というよりも「感じた」というほうが適切かもしれない。その日はもう夜更けで、およそわずかに5歳の少年を起こすような時間ではなかったし、彼の身体に起きる準備など皆目できていなかった。
体を激しく揺さぶられ、私はようやく飛び起きた。声の主、すなわち私の母は素早く私に背を向け、
「早く窓から外に出て、家から離れなさい。これまで伝えたとおりに逃げるのよ」と、彼女が普段見せる慈愛に満ちた様子からは想像もつかないほどの冷たい声でつぶやいた。
「私の身に何かあった場合、一切振り向くことなく崖に走り、そして一切の躊躇なくそこから飛び降りなさい」
それが母のいつもの教えだった。あんなに高い崖なんだから飛び降りたらきっと死んじゃうよ、と私が返すと、ナユトは運のいい子だから大丈夫よ、といつだって言われた。まるで私がそんなことでは傷つかないことを確信しているかのように。
今思い返してみれば、私たちは確かに奇妙な環境下で生活していた。
家は二人で住むにはあまりに広いし、家から隣の村までは歩いて1時間もかかる。村から買ってきたものと家の周りで育てた作物に加え、いつの間にか母が狩ってきた山の動物が生活の足しだ。母は私を村へ向かわせることは決してせず、私の生活範囲を家、家の前の草原、草原の中の川だけに限定した。とはいえこれらは膨大な広さで、子供の遊びに対する好奇心を十二分に満たしてくれる。あくまでも母からの口述だが、村や村の外についての話もよく聞いていたため、外の世界を知らないことについて不安を感じることもなかった。特に、自らの身の守り方については若干過剰だと感じるくらいには教え込まれた。親という立場上の漠然とした不安が母をそうさせているのではないかと、言語化は出来ないまでも当時の私はそのように感じていた。村に加えて家の背後に広がる山と、川から少し行ったところの崖には絶対に近づかないようにと言われていたので、そのことも相まって緊急時に崖へ向かえというのは私には意外だった。
幼く自我が確立していない子供にとって、親というのは神にも等しいような存在だ。神は子供に対して無償の愛を注ぐ一方で、子供は神の言うことに積極的に逆らおうとはしない。逆らって怒られてしまっては、子供は命綱を切られるような恐怖を感じるものだし、そうした傾向は親から子への愛情が深くなるほど強くなる。
そういう面からすれば、私の母は実に愛情の深い親だったのだろう。私は母の言うことをさも当然かのように信じ、部屋の窓を乗り越え、崖に向かって走り出した。
外に出ると、村のほうに小さな明かりが見えた。きっと松明だと思った。
その明かりは少しずつ大きくなってきて、家に近づいているように見えた。これが見えたから母は自分を逃がしたのだ、と直感したが、それを見て私がわかったのは、あくまでも誰かしらが近づいてきているのだろうということだけだった。
こうした諸々の状況を冷静に鑑みれば、私はとある恐ろしい発想に―すなわち、母は死を覚悟したうえで、せめて私だけでも家から逃がそうとしているのだという発想に―幸か不幸かはわからないにせよ、至っていたかもしれない。
人とまともに関わったことさえない少年にそれを求めるのは難しかったということは、当時の私の鈍感さについての真っ当な理由にになるだろうか。もしならなかったとすれば、日々の生活の中で、母に対して懺悔し、泣き叫びたくなるような罪悪感に襲われる頻度が大きく増えるであろうことは想像に難くない…
ともかく、崖に向かって走り続けた。少しした後に家の方が騒がしくなったと思って振り向いた途端、巨大な熱を帯びた空気の塊が私の背中を焼いた。一瞬気を失っていたか最早覚えてはいないが、正気に戻った後に家の方を見ると、家は真っ赤に燃え上がっている。家からは大層な量の煙が上がっており、この煙を見てもなお、私は「ああ、こんなに綺麗に煙が見えるということはきっと今日は月が綺麗な日なんだろうな」と随分と呑気だ。実際に目を家から少し上に向けると、眩く丸くて赤みがかった月がさも自らを見せびらかすかにように照っていて、その不気味な美しさに目を奪われた。
あくまでも自分の頭で考えたのがそうだったというだけであって、そんなことを考えるずっと前に、母が死んだという現実を否応無しに脳裏に叩きつけられていたことに間違いはない。
私は5歳なりに5歳の頭を使い尽くして、一生懸命に現実逃避をしようとしていたのだと思う。
そういうわけで、母は死んだ…恐らく。しかし、家の方はまだ騒がしい。
私を探して殺そうとしているのだ。そのために母は私を逃がしたのに違いない。生まれて始めて感じる、他者からの格別な悪意だった。
尉官という立場からみれば、今回の暗殺任務は役不足だ。
それでも彼が任務の指揮を命じられたのは、あくまでも目標の特異性にある。本作戦の目標はヴァスティカ集団脱獄事件の首謀者の一角であり、彼女の魔力は底の知れないところがあった。また、諸国民主化紛争の萌芽たるサリットの反乱においても革命派に入れ知恵をしていたとの疑惑がある。皇国の権威に泥を塗ったとして彼女の暗殺が指示されたことと、反乱鎮圧の立役者である彼が任務を命じられたことは当然のように思われた。暗殺の指示が出された3日後に異常な魔力の使用が検知されたことは、私たちにとっては幸運だったという他ない。そんなものは反乱鎮圧以来1度たりとも検知されていなかったからだ。
「実行部隊は俺とアリスを含む5人もいれば十分だ」と彼は言った。
何せ6年ぶりの共同任務だったから、私を信じてくれているのだと思い改めて嬉しくなった。確かに私が授かった能力は暗殺には最も適している。「ある運動中の物体を指定し、その運動を等速直線運動に固定する」というものだ。例えば銃から弾丸を発射した瞬間に弾に対してこの能力を用いれば、空気抵抗や風向きの影響を受けず、また一切の落下もなしにターゲットに向けて一直線に飛んでいく。ただスコープに見える十字の交点にターゲットの頭を重ねるだけの簡単なお仕事だ。
失敗したらどうするのかって?一度でも失敗したことがあったなら、私はこの世からとっくのとうにおさらばしているだろう。それほどまでに先の大戦は過激なものだったのだ。
確かに、彼女は私のライフルから放たれた弾丸によって倒れた。少なくとも、月明かりで見通しの良くなった双眼鏡からはそう見えた。
「松明をもって、目標家屋に3人、目標周辺に2人と手分けして捜索する」
と、彼からの指示だ。月明かりがあるとはいえ薄暗く足元を見ることすらおぼつかないような状態だったから、彼の判断は冷静で着実なものだった。
驚くほどに呆気なく、驚くほどに何の障害もない。とある疑念が脳裏をよぎった。彼女は既に魔力を使い果たしたのではないか、と。そんな疑念を頭の片隅に抱えたまま、家に入る。戸を押しても何の反応もない。そもそも、彼女は本当に死んだのだろうか。
応接間のクリアリングを済ませて広間へ向き直る。彼女が私に打たれたのは恐らく広間の中においてだ。3人が1列に並び、皇国軍式の最も確実なクリアリング方法の準備をする。何だかそうしておかないといけないような、殺したはずなのになお彼女の手のひらの上で踊らされているような、妙な恐怖心があったのだ。
戸に手をかけて力を加えた瞬間、脳裏がはじけた。長い夢を一瞬の内に見せられるような、奇妙な体験だった。そんな体験をするのはたいてい自分が死にかけているときだ、ということを彼女は経験則として知っていたが、迫る危機への対応をする余地もなかった。
湧き上がるような熱の片鱗を身体の表面に感じた時、彼は半ば反射的に能力を使うようにしている。今回の場合は爆発だ。ヴァスティカ唯一の生き残りでありながらこんなブービートラップを使うのか、とたわいもないことを考えながら、彼の身体は最大効率で友人2人を家の外へと引っ張り出す。
彼の能力は自身の移動速度の大幅上昇。この能力を最大限に利用し、彼はピストルとサバイバルナイフだけで前大戦を生き延びた。
爆発を確認した段階で、家屋周辺の捜索を命じられた2人はターゲットの息子の追跡を始めただろう。この爆発によって、ターゲットが魔力を既に失っていたこととターゲットの息子が家から離されたことが同時に証明されたからだ。彼の選んだ人材は優秀だから、指示がなくともそれくらいはやってくれるはずだ。
爆発なんて馬鹿な手段を使わなければ息子の追跡が始まるのはもっと遅かっただろうが、それでも爆弾を使いたかったのは夫を殺した皇軍への意趣返しだろうか。
ともかく、後のことは2人に任せておけばいい。
そのように考え、彼は大層に吐いた。能力を急に使うといつもこうだ。
崖があまりに遠い。
行ったことがないからわかるわけもないが、母の口ぶりからするにもっと家から近いものだと思っていた。追手が来ているのか、そもそも追手がいるのかどうかすらわからないのに、死の恐怖が背骨から湧き上がり、頭蓋に至って叫び出したくなる。
死、死だ。
母を殺した化け物が、そのまま私を潰しに来る。
巨人の足の裏にもてあそばれるような、気分の悪い鼓動がした。
足音が聞こえた。二つだ。遂に追いつかれたと思い、後ろを振り返る。向こうに二つの松明が見え、やはり二人の兵士が走ってくる。ここまでの道は平坦ではなかったから、自動車や馬を使わなかったのは妥当に思われた。しかし、本気で走る大人というのはこうも早いものかと驚愕した。
二人は腰の辺りにサーベルを下げており、また道が入り組んでいることから、銃ではなくサーベルか懐に隠し持ったナイフで私を仕留めようとしているに違いない。
周囲にあるのは、両手で何とか抱えられるくらいの大きな岩と細い流木くらいだ。抵抗しようにもこれではどうしようもない。
そんな一瞬の冷静さの後に、頭の中はどす黒く紫がかった恐怖に覆われる。死神に捕まったという実感は、私の思考を極限まで鈍らせるのだ。
殺すか、殺されるかだ。
そんな風に思った。現実的に考えればそんなことは不可能だし、よく考えれば別の方法があるかもしれないと思いつつも、考えることを恐怖が拒んでいた。
恐怖のせいなのか奮い立っているせいなのか、体が異常に熱い。風邪なんかとはまた違う、腹の奥から湧きたった血潮が体中に行き渡っていくような、内省的な熱に覆われる。命を削る代わりに自らを無理矢理ゾーンに入れ込むような、不思議な感覚に陥った。
死神が近づいてくる。息を切らせながら、時折自らの髪を脅かす松明に苛立ちながら…しかし、彼らが考えているのは目の前の少年に追いつくことばかりで、少年から反撃を受けることなど一切考えていなかった。
私の体温と殺意が頂点に至ったとき、二つの死神の首が吹き飛んだ。決して私が意図したわけではない。始めて人を殺した感想が驚きだというのも我ながら不誠実なように思われるが、しかし何が起こっているのかは少しも分からなかったのだ。当時の私は、状況から鑑みて、岩をすさまじい速度で飛ばしたのだろうと解釈することにした。今思いなおしてみても、やはり岩を飛ばす以外にはあの事象は起こりえない。子供が扱える魔力量などたかが知れているから、火事場の馬鹿力というのは凄いものだとしか言いようがない。
体温は高いままだし、すさまじい吐き気に襲われる。とはいえ、他に死神がいる可能性を考えれば休むわけにはいかない。
少しばかり歩くと、ようやく崖が見えた。早く崖から落ちてしまいたかった。
崖から川に飛び込めば少しは体温が下がるだろうと、本気で私は考えていた。崖から飛び込むことへの恐怖すら思考に入れられていなかったのだ。死を目の前にし、また魔法を濫用したときの精神的な疲労というのは筆舌に尽くしがたいものがある。
ともかく、私は祈るような思いで崖から落ちた。祈っていたのは自分の身の安全か、恐怖からの解放か、あるいはやはり思考を止めたままだったのかもしれない。
私を最後に見たのは、死神どもの部隊長だったらしい。死神に続き部隊長も私を追いかけ、丁度私が崖から落ちたところを視界に捉えたようだ。
そういうわけで、崖の高さから部隊長は私が死んだと判断し、皇国に作戦完了の旨を伝えた。
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