第五十五話 そして世界は救われた
『消えろ』
神が、静かに、そう告げた。
彼を中心に、世界を「無」に還す、純白の破壊のエネルギーが、波紋のように広がっていく。
それは、もはや魔法ではない。
世界の存在そのものを定義する、根本的な法則の、強制的な書き換え。
抗うことも、防ぐことも、逃れることすらも許されない、絶対的な「
「姉御!」
ギルが、アイリスの前に立ちはだかる。
ゼノスも、最後の力を振り絞り、闇の障壁を展開した。
だが、無意味だった。
絶対的な破壊の波を前に、彼らの抵抗は、荒れ狂う嵐の前の、一枚の木の葉に等しかった。
誰もが、世界の、そして自らの終焉を、覚悟した。
その、瞬間だった。
ピシリ、と。
空間そのものが、凍てつく音がした。
神が放った破壊の波紋が、一行の目前で、ぴたり、と静止したのだ。
いや、静止したのではない。
時間が、凍り付いていた。
空間の一点が、まるで黒い鏡のように裂け、そこから、吹雪と共に、一人の女が音もなく姿を現した。
魔王軍四天王、「氷の人形遣い」レイラ。
「…ようやく見つけたわ、世界の歪みの中心を」
彼女は、神を睨みつけ、冷たく言い放った。
「私の完璧なコレクションに、指一本でも触れてみろ、三流の神。その存在ごと、永遠に、凍てつかせてやるわ」
『なぜ、お前がここに…!』
神が、初めて、狼狽の声を上げる。
「答えなさい、聖女アイリス」
レイラは、神を完全に無視して、アイリスに問いかけた。
「あなたが現れてから、この世界はおかしくなった。私の完璧なコレクションたちが…! 『存在が不安定になる』などという、ありえない現象が起きているのよ!」
神による世界リセットの余波は、レイラが収集した、悠久の時を経た古代の遺物から、その存在意義を失わせ始めていたのだ。
彼女はコレクションの一つである「次元の羅針盤」が指し示した歪みの中心、この場所に、別の遺物である「空間の鍵」を使い、半ば強引に次元の壁を破って駆けつけたのである。
『―――その通りだ、コレクター』
アイリス(ノクト)は、この千載一遇の好機を、逃さなかった。
『この世界の管理者が、
その言葉に、レイラの目が、カッと見開かれた。
「…そういうこと。ならば、話は早いわ」
彼女は、全魔力を解放した。
それは、自らの命すら燃やす、捨て身の輝きだった。
「奥義―――
彼女が展開したのは、壁ではない。一行の周囲に、絶対的な「静止」の空間を創造する、概念魔法だった。
それは、あらゆるエネルギー、あらゆる情報、あらゆる法則の運動を、分子の振動レベルで、強制的に停止させる究極の魔法。
神の「
神の破壊の奔流が、その静止の空間に触れた瞬間、色と形を失い、ただの「無」へと還っていく。
レイラの顔から血の気が引き、その美しい肌に、陶器のような亀裂が走る。
彼女は、世界の終わりを、自らの全てを賭けて、ほんの数秒だけ、食い止めていた。
その、奇跡のような時間稼ぎの中、アイリス(ノクト)は、最後の、そして、最も厄介な一手を、打った。
『―――最終警告です、管理者殿』
その声は、無限の空間に、冷徹に響き渡った。
『この規約違反行為は、全て記録させていただきました。これより、議事録を添えて、管理者委員会へ正式に提訴します。…よろしいですね?』
神は、完全に、思考を停止した。
目の前では、自分の力を完全に相殺する、狂ったコレクターが、氷の殺意を放っている。
そして、耳元では、駒であるはずの人間が、聞いたこともない委員会の名をちらつかせ、官僚的な手続き論を、延々と、まくしたてている。
力も、論理も、通用しない。
ただ、ひたすらに、面倒くさい。
彼は、神としての悠久の歴史の中で、初めて心の底から思った。
(…もう、いいや)
『あーもう分かったよ!』
神は、子供のように、叫んだ。
『
その捨て台詞を残して、神の姿は、まるで最初から何もなかったかのように、すぅ…と、消えていった。
彼が消えると同時に、破壊のエネルギーも、レイラの静止の空間も、そして、この無限の空間そのものも、ガラスのように砕け散り、一行は、再び、王城の禁書庫の、柔らかな光の中に、立っていた。
世界は、救われた。
武力ではなく、論破によって。
戦いが終わった後、レイラは、ふぅ、と息をつくと、不敵な笑みを浮かべた。
「世界の危機は去り、私のコレクションは守られた。…ですが、私のコレクションの中で、唯一手に入っていない最高の逸品…『聖女アイリス』は、まだ野にいるままね」
彼女は、アイリスに、挑戦的な視線を送る。
「この借りは、いつか必ず、あなたを私のコレクションに加えることで返させてもらうわ」
そう言い残し、彼女は、再び、冷気の向こうへと、姿を消した。
数週間後。
完璧な平和を取り戻した塔の自室で、ノクトは、
アイリスは、伝説の英雄となり、王国各地で巻き起こる事件を解決する、多忙な日々を送っていた。
そんな彼女の脳内には、今も時折、気まぐれな“神様”の声が響く。
『新人、緊急クエストだ。南方の港町で限定販売されている「海竜のうろこ味ポテチ」を、一刻も早く入手せよ』
もはや彼女は、その神託が時にあまりにも俗っぽいことに、疑問を抱かない。
「承知いたしました、神様。…して、その『ぽてち』とは、どのような聖遺物なのでしょうか?」
聖女の問いに
不本意な「神」と、勘違い聖女の、奇妙で迷惑な冒険は、これからも続いていく。
そして、今日もまた、自宅警備のついでに、世界のどこかが救われるのかもしれないのだった。
剣と魔法と引きこもり ― 自宅警備のついでに世界を救います ー 神凪 浩 @kannagihiro
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