隣の花は赤い

@ast-n-ktst66

第1話 今日からお隣さん

─まもなく江戸川橋です。足元とホームドアにご注意ください。出口は右側です。


少しクセのあるアナウンスと共に、車両は、ガタンっと不親切に次で降りることを知らせる。

よろめく女性を横目に顔を上げると、薄汚れた暗い窓には、反対のドアに寄りかかった男が映る。


右目の上でセンターパートに整えられた、額にかかる綺麗な黒髪。皺ひとつない濃紺の高そうなスーツに、ダークチョコレート色のネクタイを窮屈なくらい隙間なく結んでいる。髪も衣服も朝のまま。知らない人が見れば、これから出勤するかのようだ。まさか残業帰りとは思うまい。

しかし、整った顔立ちには一日の重みが色濃く刻まれていた。切れ長の目の下に薄い影が差し、口角は両側に重石をつけられたように沈んでいる。透明感のある白い肌さえも、どこか色褪せて見えた。目の奥は光をなくし、もとより冷たく見える顔立ちは、その印象をさらに強めていた。


電車が緩やかにスピードを落とし、駅に到着する。

この時間、背後から押し寄せる人もいない。ドアが開ききってから、ゆっくりと足をホームに下ろした。


ふと、視線を感じて斜め前に目をやる。若い女性と視線がぶつかった。

一瞬、彼女の瞳が大きく見開かれる。——が、次の瞬間には慌てたように逸らされる。


「……っ」

心の中で小さくガーンと音がした。

(やっぱり俺、怖いのかな……)


一方その女性は、心の中でこう思っていた。

(……すごいイケメン。……でも、こわっ)





改札を出て、重い足を引き上げながら階段を上がる。お洒落な店のオレンジの光や、居酒屋の赤提灯が彼を誘う。


(いかんいかん……家に昨日の残りがあるんだった)


後ろ髪を引かれつつも足を止めず、角を曲がる。一本道を変えるだけで、街灯と自販機の光しかない寂しい通りに早変わりする。


少し傾斜のある坂道を、前のめり気味に歩いていたとき――視線の端で気配を感じ、ふと立ち止まる。

横の路地裏を覗くと、白い小さなかたまりが、じっとこちらを見上げていた。


近所に住み着いた人懐っこい猫。彼もまた、その存在に惹かれていて、勝手に名前をつけていた。


「……みぃこ」


声をかけると、猫は「ニャー」と短く鳴いた。

その瞬間、張りつめていた彼の顔が、ふっと緩んだ。


みぃこは急ぎの用でもあったのか、今日は甘えずにすぐに去ってしまった。

小さな尻尾が闇に消えるのを見送りながら、彼も歩みを再開する。


(……やっぱり、猫でも飼おうかな)


ふと浮かんだ考えに自分で小さく苦笑する。

いや、どうせなら犬だ。

俺の帰りを待ち侘びて、玄関を開けた瞬間飛びついて喜んでくれる。そんな奴がいたら、この足取りも少しは軽くなるのかな。


そんなことを考え歩いていると、気づけば、マンションについていた。フロントを通りカードキーをかざし、暗闇が広がる部屋の玄関をあける。


「あ、もやし買ってない…」




──宮野みやの正隆まさたか 29歳。独身。彼女なし。

大手銀行員、年収一千万越え、イケメン、高身長

…世間が羨む“完璧な肩書”を持つはずの男を待つのは、静まり返った暗闇だけだ。


綺麗に磨かれたリーガルの靴を丁寧に揃え、スーツをハンガーにかけ軽くブラシをして指定の場所にかける。ネクタイを解き、ふっと息をつく。

…いつも通りだ。この後もいつも通り。スラックス脱ぐためにベルトに手をかける。


綺麗に磨かれたリーガルの靴を丁寧に揃え、スーツをハンガーにかけ軽くブラシをして指定の場所にかける。ネクタイを解き、ふっと息をつく。

…いつも通りだ。この後もいつも通り。ズボン脱ぐためにベルトに手をかけたその時、




──ピンポーン





1人静かな部屋に、自分以外が発した音が響く。


(こんな時間に誰だ?…宅配じゃないよな、)


そんなことを考えながら、モニターの電源をつけると──そこには大学生くらいの女の子が映っていた。


画面は小さくよく見えないが、間違いなく若い女の子。


(なんでこんな子がうちに!?間違いか!?)


自分より華奢な女の子に、なぜか怯えを覚えつつ、遠慮気味に玄関の戸を開ける。


怖がらせないように──そう思って、できるだけ優しい顔をつくる。


「はい…」


派手さはないが、無駄のない整った顔。真っ白な肌に、艶のあるセミロングのグレージュの髪がよく映える。前髪は片方で大きなピンで留められ、質の良さそうなグレーのパーカーを着崩していた。まるでお風呂上がり…いや、多分そうなのだろう。だらしない格好なのに、上品な顔立ちがマイナスを打ち消している。


目が合う。あどけなさが残るのに強い目力。何を考えているのかわからない瞳に、吸い込まれそうになった。


しかし、それは束の間だった。

彼女のはつらつとした声が、正隆を現実に引き戻す。


「この度、隣の701に越してきました。立花たちばな 奈央なお

と申します。騒がしくご迷惑をおかけすることもあると思いますが、どうぞよろしくお願いします」


キラッキラの笑顔は、残業明けのサラリーマンには眩しすぎる。

その強烈な愛嬌に驚く間もなく、小さな体は、社会人六年目の自分も感心するほど綺麗なお辞儀を見せ、またしても意表を突いてくる。


(…ん? 引っ越してきた? 一人で!? こんな若い子が!? ここのマンション、普通にいい値段するんだけど!? いいところのお嬢さんか? はっ、もしかして今流行りの港区女子!?)


「初めまして。702号室の宮野正隆です。よろしくお願いします」


紳士的な笑顔を保ちながらも、頭の中ではぐるぐる考えが渦巻く。


そんなこととは露知らず、奈央はさらに畳みかけてきた。


「こちら、ささやかではございますが、ほんのお気持ちです。受け取ってください」


渡されたのは、落ち着いた白い箱。どう見ても高級そうだ。


差し出された箱に一瞬手が引けたが、貰わないわけにもいかない。表情は崩さないまま、両手で丁寧に受け取り、ほんの少しぎこちなく頭を下げる。


「ありがとうございます。お気持ち、ありがたくいただきます」


「いえいえ、それよりこんな時間にお邪魔してすみません」

「いや、それは大丈夫です。でも、よく帰ってきたの気づきましたね」

「あ、それは…たまたまベランダで秋を感じてたら電気がつくのが見えたので」

「……秋を感じてた?」


奈央は楽しそうに笑って「では」と頭を下げ、部屋に戻っていった。


奈央の背中を見送りつつ、正隆も玄関を閉める。


(今どきちゃんと挨拶に来るなんて偉いな。愛嬌もあるし、若いのに礼儀もある。育ちのいいお嬢さんか…いい子そうでよかった)


そう安心しながら箱をリビングテーブルに置く。途中だった帰宅後の支度を終え、やっと重い腰をソファに下ろし、もらった箱を開ける。


「…これは」


中には、丁寧に包まれた高級シルクのタオルが二枚。

どう見ても、隣人への挨拶で持ってくるレベルの品ではない。


一瞬、目を見開く。

そしてすぐに、表情筋は疲れて重いのに、引きつった笑みが自然と漏れた。



※※※




(任務しゅーりょー!)


母親に口うるさく言われたお隣さんへの挨拶を無事終え、奈央はスッキリしていた。


「今どき挨拶とか古いんだよな〜。ほんとママはいちいちめんどくさ」


ぶつぶつ愚痴をこぼしながらカードキーをかざし、玄関を開ける。

スマホをいじりつつ、クロックスをノールックで脱ぎ捨て、そのままキッチンへ。


“挨拶済ませました”


スムーズに動いていた指が、送信直前で止まる。


“こんな時間に行くなんて非常識。もっと考えて行動して”


だるい返信が未来視できたので、結局送信ボタンは押さなかった。


「やめやめ〜。今度の土曜でいいや」


スマホの電源を切ってソファに放り投げ、鼻歌まじりで引き出しを漁る。

お気に入りの芋けんぴ、冷蔵庫のお茶、そして食洗機から直接コップをひとつ。

両手いっぱいに抱え、散らかった部屋の獣道を抜けていつもの定位置にドスッと座った。


ソファに腰を下ろすと同時に、小さなリモコンをテレビに向けて押す。

画面には、お気に入りのYouTuberの最新動画が流れ出す。


お茶をコップに注ぎ、さっきまで手放さなかったスマホをぽん、とお腹の上に置く。

代わりにポケットから、もう一台のスマホを取り出した。


しばらく無表情で画面を追っていたが、次の瞬間、奈央の顔がきゅっと歪む。

片手持ちから両手持ちに変え、勢いよく何かを打ち込み──そのまま耳に当てて電話をかけた。



「あ、ねー急にごめん。明日の予定、前倒しになったわ。んー…ほんと勝手だよねー。絶対うちらのこと下に見てる。10時からなんだけど、大丈夫そ? おー、ナイスーありがとー。うんうん、時間だけ変わって場所はそのまま。はーい、お願いしまーす。ばいちゃ」


電話口では呆れたように笑っていたのに、いつのまにか無表情になっていた。

数秒間、微動だにせず固まったかと思うと、ふと呟いた。


「……アイス食べたい」


さっきまでのだらけた動きが嘘のように素早く立ち上がり、テレビを消してキャップを被り、鍵を手に取る。


「行ってきまーす」




廊下を歩く奈央の視界に、トライアントフォントの「702」が映る。


──702号室。

その部屋の中では、宮野がタオルを手に取り、苦い笑みと共にため息をついていた。


「……ほんと不公平なもんだな」


静かな部屋に、不意に腹の音が鳴る。

その音が、昼をまともに食べられなかったことを思い出させる。


「早くご飯食べて、早く寝よう…」


───


(宮野……宮野なんだっけ? でもまぁ、まともそうな人でよかった。優しそうだったな…………よし、抹茶アイスにきーめた!)


奈央は足取り軽くエレベーターを目指す。


そこまで大きくないマンションの中、玄関の扉一枚を挟み、互いに相手のことを考える。


──二人はまだ、ただのお隣さんにすぎなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

隣の花は赤い @ast-n-ktst66

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画