第2話 バスの眺め それはロードムービー
何年かぶりにバスに乗った。車で移動する以外は、電車ばかりを使う。東京の異常な電車網の発達で、電車が当たり前の移動手段だろうが、世界的に見たら、移動は自家用車だ。車以外なら、世界的にはバスが一般的な移動手段だ。
渋谷からいつもなら、自宅のある梅ヶ丘には電車を使う。今日は道玄坂上にある取引先に立ち寄った。会社には直帰と伝えてあるので、渋谷の駅に戻ろうと思ったが、バス停に「梅ヶ丘」という文字を見て、同僚に「僕はバスで帰ります」と咄嗟に口に出た。
「アキラさん、お近くでしたっけ?」
「梅ヶ丘だから、このバスで一本なんです」
皆は、足を止めずに、渋谷に流れて行きながら「お疲れさまです」と何の意味も意識もない挨拶をして、あたかも別れる前から、アキラ自体が存在していない位の軽い扱いをした。アキラは表情を変えずに、自分の存在をただ梅ヶ丘行きのバス停に認めてもらおうとした。
アキラはバス停の時刻表を見るだけなのに、バス停の表示板に軽く指をあて、自分がここにいることをバス停に認めてもらおうとした。
5分も待たずにやって来るバスを246号線の喧騒の中で、待ちわびた。眺めても来ない。アキラは、視点をできる限り、遠くではなく、バス停のポールに定めようとした。
バスに乗り込むと、窓の外に目をやった。進んでいくと、少し過去の風景が目に残り、いま見ている風景がそれに重なっていく。目を閉じて、頭を振り払い、正気を保つが、やはり風景は、ずっと二重に見える。
きっと気のせいだと考えながら、そして疲れているからだと自分に言い聞かせ、硬い座椅子に身を沈めた。
代沢の狭い通りをバスはすり抜けていく。ただコンクリートの壁に奇妙な小さな窓がある建物の前で渋滞に巻き込まれたバスは止まった。古びた壁は、何かの記憶を呼び起こした。この建物は昔からあったのに、近くに住んでいたのに気がつかなかった。もしかしたら、今日、アキラのために誰かが造った壁ではないかと思った。
ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』で都会を走る風景を思い出した。主人公トラビスは、この壁に似た写真を頼りに、旅を続ける。記憶を失った彼にとって、その壁の写真が唯一の過去なのだ。パリ・テキサスという地名に、この壁がある家に住んでいたのかもしれない。彼はその家を探している。
アキラは目の前の壁を見つめながら、「自分の家に帰らねばならない」と強く思った。
先月受けた産業医面談で、アキラは心療内科を薦められた。睡眠障害だと言われ、薬を飲んでいる。確かに眠れるようにはなったが、日中からずっと眠い。
だから、何かがおかしいのだと思っていた。薬でラリっているのだ。
バスは進んだ。
過ぎ行く街の景色は、アキラが知っている風景とは違って見えた。
時代遅れの激しいエンジン音と、空でヘリコプターが真上を飛んでいるような爆音が、アキラを叩いているように響いた。
フランシス・フォード・コッポラ監督は、『地獄の黙示録』で、この爆音を消して、ドアーズの音楽やワーグナーの『ワルキューレの騎行』を流したのだ。
アキラは、この映画を真似sいた。けたたましい喧騒を消して、ドアーズのドラッグ風の音楽を頭に流していた。
また明日も職場に行く気にはなれなかった。梅ヶ丘駅が近くなってきた。帰れば妻のタカコがいる。もしかしたら娘のユイも学校から帰っているかもしれない。
何気ない日常を守るためには、会社を辞めるわけにはいかない。
逃げる? どこに? タコエビ @ebitako311
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