夜更けの渚まで
わた氏
夜更けの渚まで
——なぎ。
真っ暗なセカイに、声が聞こえる。
何処か懐かしい響きに顔を向けると、小さな人影が立っていた。
逆光に君は翳る。
人影はゆらゆらと、闇に彷徨う朧月のようで。
——なぎ。
君が、誰かの名前を呼んでいる。
無機質な機械音が耳を劈く。
少女の声をかき混ぜて。
雨の音は止まない。
波は行き来を繰り返す。
夜は深くて暗いから。
早く醒めてくれ。
早く明けてくれ。
早く壊れてくれ。
“ポーカー”という永遠のウツワを。“俺”という不死のナキガラを。
……俺はただ、死にたいだけなのに。
————
——それは、俺が森で首を吊っていた時だった。
「ねえ、そこの貴方。自殺なんて止めない? ……そう、貴方のことだよ」
ヤブから棒に声をかけられた。
瞬間、黒い閃光が頭上を掠める。
俺の首を圧迫していた糸はプツリとあっけない音を立てて途切れ、俺は重力に逆らえずしりもちをついた。
砂埃が俺を包む。
「ゲホっ、ゴホっ」
噎せ返る意識。無慈悲な空気が喉に再び吸い込まれていく。
晴れていく視界。その目は一人の少女を捉えた。
繰り返す拍動。俺はまた死ねなかった。
「バカみたい。死ねないくせに、自殺の真似事なんて」
大人びた、しかし幼さを残した声が響く。年は十五、六と言ったところか。
紫色の髪は肩のあたりで切り揃えられ、セーラー服は墨で色をつけたよう。スカーフの赤が際だっている。
少女は黒い影を手のひらで躍らせながら、鋭い視線を向けていた。
炎の如く揺らめく影には微かな血の匂い。
「血影師か」
俺たち“ポーカー”を蹂躙する、彼女らの名を口にする。
彼女は表情一つ変えず、答えた。
「そうだよ。だから駆除されてくれない?」
少女が腕を前に伸ばすと——咄嗟に後ろに跳ばなければ喉を貫通していただろう——漆黒の槍に形を変えた。
「っぶね?! 自殺は止めたくせに殺す気満々かよ」
身体を翻し、少女に向き直る。
血を吐いて、彼女は挑発するように言った。
「死にたいんじゃないの? だからボクが殺してあげる」
「死にたいさ。だがあんたらに殺されると後が悪い。血影を抜くのにどんだけの苦痛があるか知らねーだろーが、よっ!」
袖から糸を噴き出した。
陽の光に艶めく白銀の五線譜は瞬く間に少女の身体に絡みつく。
「っ!!」
身動きの取れなくなった少女に俺は交渉を持ちかけた。
「俺は何にもしてない無害なポーカーだ。だからお互い“何も見なかった”。そういうことにしないか」
「はぁ?」
怒りの滲んだ声を合図に、木々が揺れる。
風が少女の髪を巻き上げた。それを合図にしてか黒い渦が少女を包み、糸を残らずかき消す。反撃と言わんばかりに口を固く結び、取り出したのはカッターナイフ。慣れた仕草で袖を捲くる。先ほどまで隠れていた手首にはすでに何本もの赤い線が刻みつけられて——。
——俺の身体は動いていた。
血の流れる少女の手首を押さえつけ、覆いかぶさるようにして地に伏せる。
切り傷だらけのその腕を、俺は強く握っていた。
彼女の頬に、露が落ちる。止めどなく滴る大粒の雫は、頬を滑り大地に消える。
——俺は泣いているのか。
俺の影に収まっていた少女は、その涙の主を茫然と見つめていた。
「——っ」
息を呑み、瞳を小刻みにぐらつかせながら、“ポーカー”を視界に捉える。
ワイシャツの襟にパーカー、ズボンの裾まで純白の制服を。
子どもが描いた満月みたいに金色の髪を。
張り詰めた静けさが、俺たちを頑強に押さえつけてくる。
だがそれも、すぐに振り払われてしまった。
「がはっ!?」
少女が俺を蹴り上げたのだ。突き飛ばされ、木の幹に背を撃った俺に、彼女の追撃が飛んできた。
影の槍が首元まで迫り……しかし刃は喉元で制止し、首を裂くことは無かった。
「トドメ、刺さないのかよ」
「……泣き虫を苛めるなんてかっこ悪いでしょ」
と、槍を少しだけ離す。
「泣き虫……か」
何故俺は泣いていたんだろう。目にゴミが入ったわけでもあるまいに。
「貴方の望み通り、今日は引き上げてあげる。もうボクの前に出てこないでね。……今度はちゃんと、殺すから」
少女が踵を返し、背を向けたその時、俺はまた動いていた。
「お前、名前は?」
少女の手を掴んでいる。
不審な眼差しをしていた少女だが、暫く思案した後、口を開く。
「澪」
それだけ言って振り払う。
掴んでいた手の居所を失い、俺はその場に佇むことしかできなかった。
去りゆく澪の背を、ただ双眼に収めることしか——。
————
——なぁに泣いてるの?
砂浜に小さな足跡を刻みながら、彼女は歩いてくる。
金色の月が見下ろす、夜更けの渚まで。
幼い身体に不釣り合いな傘が、絶えず雫が弾いている。
僕の隣で、足音は途絶えた。腰を下ろし、真っすぐ僕を見つめた。
——帰ろ?
そう言って、彼女には大きい傘を僕の身体に向ける。
月光が照らす顔は、靄がかかって判らない。
雨音が、波音が、次第に大きくなっていって——紡がれた名前は、掻き消えてしまった。
————
「起きた?」
俺と同じような白い制服に身を包んだ男が顔を覗かせる。
不老不死の存在——ポーカーの一人。
肩まで伸ばした髪は薄い水色で、首には雪のようなマフラーを巻いている。同じく白い学ランはポーカーの中でも有力であることを示していた。
「あんたか」
「悪い夢でもみた?」
「なんでそう思うんだ?」
「魘されてたから」
言われてみれば、悪夢だったのかもしれない。だが思い出せないでいた。何かを大切なものを見た気がするのに。
「さて、僕はもう行くから」
「どこに」
「人間観察」
「答えになってねーぞ」
曰く、それが趣味なんだとか。
変わった男だ。人間の中には、敵である血影師だっているのに。
「おい、俺も行く」
二人のポーカーは日の昇る方角へと歩き出した。
————
俺たちには、名前がない。
生まれた時に与えられたのは所謂コードネームで、意味の無い文字の羅列でしかない。俺だったら“赤段”、俺の上司であるこいつなら“那々糸”。
この習性は、人間の模倣であるらしい。だけど、模倣の域を出ることは無い。
人間の付ける名前には、多かれ少なかれ意味が内包されているから。
仮にだ。名前を持つということが、自分自身を持つということと同義であるのだとしたら……俺は俺になれないままだ。世界に足をつけることもできないのだろう。だとすれば、ポーカーという生き物は、生きている価値もないほどに不明瞭な存在だ。
「ほら、あれが」
木々の隙間から見えるのは、仰々しい着物を召した人たち。その群れを指さし、那々糸は言った。
大人たちは、集まった数人の少年少女を囲う。子ども——といってもティーンエージャーぐらいだが。少年少女は黒い制服を着ているため、大人と並ぶと不協和な印象を受けた。
その輪の中に、澪がいる。
静かな佇まいは、揺れることのない水面のようであり、凛とした姿はおよそ子どもとは思えない。
瞳はどこかを鋭く見定め、大人の言葉を淡々と受けている。
「おそらくあの子が一番血が美味い。つまり……」
「分かってる、血影が強力なんだろ」
血影の強さは血の美味さ——すなわち影をどれほど手懐けられるかによって決まる。澪はその点において、他の追従を許さなかった。
血影が強力な人間と言うのは、俺たちポーカーにとって天敵そのものだった。
影によって殺されると、それを身体から抜き取るために地獄を彷徨う羽目になる。死ねないまま、言葉で表せないほどの苦痛に悶える……それだけは何としても避けたかった。
血影師が俺たちを目の敵にするのも無理はない。
ポーカーは人を攫うのだ。ツクリカエテ、新たなポーカーに仕立て上げるのだ。
「嫌だね、こんなの」
そんな他人行儀な所感が口をつく。
しかし小言が漏れていたのか、
「奴らだ! 捕らえよ!!」
低い大人の叫びとともに、一斉に影が放たれた。
「逃げるよ」
「あ、ああっ?!」
まずい、足に巻き付いて……!
漆黒の蛇が奇声をあげ足を締め付ける。そのまま宙ぶらりんにされ、俺は成すすべもなく血の混じった黒い縄に全身を縛り上げられた。
————
「ボクの前に現れるなって言ったよね」
埃まみれの牢屋に押し込められる。見張りは澪らしく、
「良かったね、僕の進言がなかったら今頃八つ裂きだよ」
意地の悪いことを言った。恐らく冗談ではなくマジなのだろう。
対して俺は身体中を縛り上げられ、五感も支配されていた。手足を動かすこともできなければ、澪の顔を拝むこともできない。聴覚も機能せず、今の声だって影を通して聞かされたもの。口も塞がれて小言だって言えないし、鼻も影に覆われて何度も窒息を繰り返した。底の無い海に引きずり込まれ、溺れているみたいだ。
血の匂いが鼻腔を劈き、吐きそうになる。
藻掻くたびに影が全身を強く締め上げるから、体力も気力も蝕まれていく。
————
「はやく殺したいのに。殺したくてたまらないのに」
少女の声が、脳を掻き乱した。
苦し気な吐息が、こびりついて離れない。
「殺せないよ……」
脳内を揺さぶり、駆け回るノイズは雨音にとてもよく似ていた。
影に耳を澄ますと、微かに波音が聞こえてくる。
潮の香りが、鼻腔を擽って。目が痛くて、身体がアツイ。
唐突に、血影から声が流れ込んできた。
——どこにいるの……? ねぇ。
誰かを探しているのだろうか。途切れそうなか細い音色には、荒い呼吸の音が混じっていた。息があがっているのだと分かる。
声は澪とそっくりな……というか、幼い頃の澪なのだろう。
——私がポーカーを皆殺せば、なぎに会えるんだよね。
潮の香が、血の匂いが、一層鈍く脳を揺さぶった。
——イタイ。イタイよ。
俺の嘆きか。それとも、彼女の悲鳴か。
——夜は深くて暗いから。
早く醒めて。
早く明けて。
早く壊れて。
——全部全部、終わらせて。
——ただ、会いたいだけなのに。
やがて抵抗もやめた頃、身体の影が散っていった。
————
気が付くと、手首と足首には影の手錠が嵌められていた。
他の拘束は解かれ、隣には澪が腰かけている。
氷のようにシンとした、冷酷な瞳が俺を捉える。
「ボクの影はどうだった?」
「死ぬほど苦痛だな。星の一つも付けたくねぇな」
「なら良かった。奮発した甲斐があったよ」
少女の手首には、刃物で切りつけた真っ赤な線が走っていた。
口角は上がっているが、左右非対称の歪な笑みだ。
怖いわけではないのに、肩が大きく跳ねた。
「満足したろ、もう身を引いたらどうだ」
澪の切り傷に目を落として、俺は告げていた。
色白の綺麗な肌だからこそ、荒々しい真っ赤な跡が目を惹いた。
それがあまりにも不釣り合いで、傷ましくて……見ているだけで鼓動が速まる。
胸の奥で、俺の知らない衝動が湧き上がってくるのだ。
目を背けたくてたまらないのに、逸らしてはいけないような。自分でも理解できない感情の波に、思わず胸を押さえた。
「できないよ。だって許せないから」
ぽつりと零すように、少女は言った。その目は俺でない、遠い彼方を目指していて。
「なんでだよ」
「ボクの友達、攫われたの。ポーカーに」
それきり口を閉ざしてしまった。静寂が薄暗い空間を圧迫する。
居心地が悪かった。ここにいるのがなんとなく気まずい。だが同時に、居なければならないような気もする。
次に沈黙を破ったのもまた、澪だった。
「……そういえば貴方、名前無いんでしょ」
「そう、だけど」
ポーカーに名がないってのは、案外知られていることなのかもしれない。
「…………“なぎ”、なんてどう? “さんずい”に“者”って書くの」
うわ言みたいに、少女は囁く。俺じゃない誰かに語り掛けるような声音は、泡沫のような脆さと儚さを帯びていた。
——なぎ。
その名は、なぜだか身体にしっくり馴染んだ。複雑なパズルのピースがぴったり合うみたいな心地。しかしそのピースが何なのかは、分からないまま。
初めて聞いた名前なのに。どうして目頭がこんなにも熱いのだろうか。どうしてこんなにも、胸が温かいのだろうか。
「亡くさないでね。……生きている限りは、“なぎ”なんだから」
敵に向けるとは思えない、優しい声音が鼓膜を震わせた。
「なぎ……」
呟くと、胸の奥で何か熱いものが溢れそうになる。
雨の音と潮の匂いが、不意に蘇ってきて——
…………だけど、俺は拒んでいた。
雨音と潮の香は霧散していって、掴むことも叶わなくなった。
その名前は————俺には似合わない。
————
檻の中を、なおも沈黙が鎮座していた。
服の擦れる音と息を吸っては吐く音が、微かに聞こえるだけだ。
頭の中で、さっきの名前が反響する。
俺には似つかわしくないのに、どうにも染みついてしまった誰かの“証”。あの時の澪の声が、遠ざかっては近づいて——何度も明瞭に還ってくるのだ。
それはまるで、何もない虚ろな闇を灯す月明かりのように——優しく胸を擽る、懐かしい響き。
記憶を手繰る俺の横で、ふと少女は口を開いた。
「ここから出たい?」
と。棘の無い滑らかな声音で、俺に問うたのだ。
「え? あ、ああ……どういう風の吹き回しだよ」
罠か、と疑念の眼差しを向けると、
「お預けってだけ。一番影が強くなる時に……殺したいの」
顔の下半分を屈めた膝に埋めて、澪は呟いた。
「そんなことで俺を解放しようっていうのか? ポーカーが許せないんじゃないのか?」
「そりゃ許せないけど……逃げ出せるなら、そうしたいじゃない」
その瞳を牢の外にやり、少女は哀しそうに呟いた。
「じっとしててね」
次の瞬間、影がすべて散り散りになり、身体の拘束が解き放たれた。
「月が紅くなる夜——それがきっと、最後の戦いになる。容赦できないから、覚悟しといてね」
ついさっきまで穏やかだった少女の視線は、刃物のように鋭利なものへと変わっていた。
「全部全部、終わりにしたいの」
自分に言い聞かせるように、少女は言葉を紡いでいた。
彼女の宣戦布告を聞き届けた俺は、澪の視線から逃げるように檻から顔を出す。
見回してみたが、周りに人はいない。
——去り際の背中を擦ったのは、澪が口にした言葉。
生きてる限りは、“なぎ”……か。
理由は分からない。だけどその言葉が、何度も身体を廻り巡った。
————
死んだように侘しい夜が、世界を浸していた。
夜更けの渚——その月の満ち欠けを、何度見て来ただろう。
連綿と続く波が、真っ黒に翳る水面の糸が、月の光で露わになる。
素足を波に攫わせて、ボクは月に手を伸ばす。
あのポーカーの髪によく似た、眩しいぐらいの金色に。
——分かっていた。なぎがもう、この世界からいなくなったこと。
ポーカーを殺して、殺して。
“私”を閉じ込めて、ずっと戦ってきた。
そうすれば、きっといつか見つかるって思ってたけど。
“いつか”なんて、結局来なかった。
——ボクの身体は、長くない。
手首に伸びた無数の切り傷には、黒いモノが膿のように這い出ていた。
影が今も、ボクを蝕んでいる。
……きっと、次の戦いが最後だ。
私は影に呑まれて終わる。喰い尽くされたなら、この世界から生きた痕跡もろとも消えてしまうだろう。
……そうなれば、“なぎ”は本当にこの世界からいなくなってしまう。
「だからって、どうしてあんなこと……」
あのポーカーに——泣き虫なあの男に、“なぎ”を繋ぎとめようなんて。
今までのボクなら、そんなこと考えもしなかったのに。
闇に浮かぶ月は、静かに世界を見張っていた。
身体に染みつく“夜”は、無情に無間を告げている。上にあるのに、終わりのない奈落を思わせた。
鮮明な輪郭は、ぽっかりと空いた……逃げ道の無い穴のよう。
歪みも淀みも無い、完璧な円をしていた。
だけど夜更けの満月は、海の上にあるみたいに、酷く歪んでしまっていた。
————
「綺麗な夜だ」
闇を怪しく照らすのは、充血した紅い月。その隻眼は限りなく完璧な円に近い。だけど望月を過ぎた、そんな未完成な月だった。
紅の窪みを引き立てるように夜は暗い。息は深い空に吸い込まれていく。
今宵は人間からすれば、恰好の舞台であった。影は満月に近づくほど大きく伸びる。さらに言えば、紅に近づくほど狂暴になる。つまり血影師の本領が発揮されるということ。
……澪もいるのだろう。
「行くよ」
那々糸が手を引く。
「どこに」
「味方の応援。手こずってるみたい……彼女の血影が強力みたい」
心臓のバネが跳ね上がる。
“彼女”というのが、間違いなく澪のことだから。
「行くしかないのか」
——夜は深くて暗いから。終わりなんて、どこにも無いのに。
俺は那々糸とともに、戦地へと赴いた。
————
捲れ上がった大地の中心にいたのは、澪だった。
一筋、また一筋と線を走らせ腕を赤く染める。液を吸った影が鼓膜を潰すほどの金切り音をあげて純白のヒトガタを次々に覆いつくした。混沌の黒い濁流に呑まれたポーカーはそのまま倒れ伏し、液状化して大地に吸収されていく。
もう何十人も葬り去ったようだ。そこかしこに溶けた残骸がある。今動けるのは、俺と那々糸だけだった。
彼女はもはや切り傷を隠さない。よく見れば腕にまで傷は伸びていた。足元には、彼女を沈めんとする血の池が広がっている。今も大地を侵食する赤い汁を、無数の黒い蛆虫が啜っていた。
澪ははふらつく足を叩き、俺たちを向き直した。
「可哀そうな子。影に喰わているんだね」
表情を変えることなく、那々糸は告げる。あまりにも冷静な声音には、感情が乗っていない。
こいつにとっては、ごくごく自然な……興味のない現象なんだろう。
「喰われているって、そんなっ……」
声が裏返りそうになる。
澪の眼光が俺を射抜き、身体が竦んで動けない。
三日月みたいに口角を上げて、影を身体に纏わせた。
「来たんだね。返り討ちに……してあげるから」
吊り上がった目は、かつて俺に名前をつけようとした優しさを無残にも引き裂いていた。檻の外へ目を向けていた寂しげな彼女はもういない。
「ケホッ」
紅蓮の反吐が地を濡らすのを合図に、黒い竜巻が少女を目として吹き荒れる。
「やめろ! 澪!!」
と次の瞬間。血影による蟻地獄が、大地を抉って腫れあがった。上空へ躱す俺の下から伸びる影は、虎の形に変わり牙を剥いて襲い来る。
糸を噴射し虎に巻き付けるのも構わず、慟哭の主は大口を開けていた。
「させないよ」
那々糸が文字通りの横槍を入れると、虎が横に逸れて霧散した。
口に入った血に、思わず顔を顰める。
「澪!!」
澪が振り向くほどの大声で、俺は叫んだ。
咄嗟に少女は手首に傷を入れる。ポタポタと血の垂れる音が拍動と共鳴した。再びすがる影に彼女はまた血を注ぐ。
「やめろって……言ってんだろ!!」
銀色の線を少女の腕に巻き付ける。影が動くよりも速く収縮して、そのまま倒れこんだ。
脆くなった腕を固く、砕けぬように抱きとめる。出会ったときのように、血の流れる手首を押さえつけた。
蒼白の少女は口から血を吐いて、俺をまっすぐ捉えている。
「傷ついてほしくないんだよ! お前に!!」
理由は分からないけど、嘘偽りのないネガイだった。
彼女は俺の顔を、今にも閉じそうな目でまじまじと見ていた。口をぽっかり開け、唖然と瞳の奥を覗く。やがて彼女は絶え絶えの言葉を紡いだ。
「無理、だよ。私は……もう」
血が口から溢れ出す。
「長く、ない……」
——ドスッ。
鈍い音が腹を揺さぶった。
「かはっ」
太く強靭な黒銅の槍が俺の胸を穿った。俺の腹を貫き、澪の胴にまで刃が及んでいる。
理解した途端激痛が走った。身を裂かれる感覚に言葉にならない呻きが漏れる。
朧気になっていく指の感覚を、辛うじて呼び戻す。
「影……言うこと、聞かないの……」
ぐらつく意識にとどめをかけるかのように、槍が引き抜かれた。全身を駆け巡る痛みとともに、鮮血が穴から一挙に噴き出す。
黒い澪の衣服も、赤く塗れていた。
「ああ……ああああ」
口からだらだらと温かいものが溢れる。逆流する紅い色と鉄の匂いに噎せ返った。
「ゲホっ、ゴボっ……」
少女の目は虚ろだった。瞳は色を失い、肌からぬくもりは消え、雨に打たれたかのように、指先は冷たくなっている。これほどまでに血を失って、命を削って生きていられるはずがない。瞼は今にも閉じそうじゃないか。
「死ぬ、な……み……お」
澪の頬を伝う涙は、血の色をしていた。
少女は俺の頬に手を添え、微かに微笑んでいる。
「な……ぎ」
柔らかにほころんだ口元は、もう動かない。瞳はゆっくりと閉じていく。
「み、お……」
伸ばした腕は垂れ下がり、主を失った影は血をむさぼる。
その影を那々糸が八つ裂きにする中、俺はただ澪の身体を抱き寄せるだけで。
動かない彼女の頬に、涙の雨が降る。
————
どれほど経ったのだろう。
澪の身体から流れていた血が、光沢を失い固まり始める。
あくまで束の間の時でしかないのに、あまりに永く錯覚してしまう。
自分が瀕死だったことも忘れて、子どものように泣きじゃくっていた。
那々糸による処理が終わり、影の残滓が大地に消えた後。
「……赤段」
俺を呼ぶ那々糸に、
「なぎだ。俺の名前、は……なぎ」
俺は途切れ途切れな掠れた声で言い聞かせた。
だってそうだろう。
生きている限りは————“なぎ”なんだから。
————
雨雲の立ち去った闇夜に、満月が揺れている。
波打ち際に、二つの人影が身を寄せていた。
一つは僕のもので、もう一つは——。
「帰ろっか」
少女は顔を綻ばせ、手を差し出す。
「……うん」
答えて、瞼を腕で擦る。
鼻水を啜り上げて、震える呼吸を整えた。
泣いてたなんて、悟られたくなかったけど。
夜は深くて暗いのに、きっと君には隠せない。
困ったように、だけど愛おし気に笑う君を月が映し出す。
終わり亡き“夜”には、残酷なまでに眩い明かりで。
——ホントにあなたは、泣き虫なんだから。
夜更けの渚まで わた氏 @72Tsuriann
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