混ざり、ねじれた路こそを征く

丹路槇

混ざり、ねじれた路こそを征く

 はじめから、三河のいかにも人間らしいかんじの仕草とか、選ぶ言葉とか、穏やかな声とか、そのぜんぶが苦手だった。

 たとえばそれは、スラックスから無造作にはみ出た制服のシャツすらなんとなく様になっているのとか、彼が笑ったり喜んだ顔をするとしぜんとまわりが穏やかで幸せな気分にさせられているのとか、忘れ物ばかりなのに劣等生には見えないところとか、半田という級友とつまらない言葉の応酬をしているだけなのに漫才みたいに見えて、不覚にも堪えるものがあったりとか。

「え、そんなこと? パンダのこと面白いなんて思ったことないよ、僕」

 ああ、また屈託のない笑顔。思考のなかの三河がいつも俺の邪魔をする。存在しない三河に勝手に苛立った俺を宥めなくてはならないのは、彼にとって少々気の毒なことだと思う。不機嫌な俺が深酒になるのも、そのあと必ずベッドで素っ裸になるまで服を脱いで、俺と同じ性の肉体にしゃぶりついてぐずぐずになるのも、ほとんど記憶を持たずに宵越しすることも。

 まあ、いいか。彼はそういうどうしようもない人間を世話するのが似合ってしまうところがあって、本人もさほど苦痛に感じていないようだから。むしろ、少しでも邪険にしていると、彼が碧ちゃんと呼んでいる三河の会社の有能な参謀が、すごいドラマチックに怒るらしくて、その話まで面白いからもう憎い。

 新しい糸を買った。銀座にある東京クラフトセンターという店が、自宅から少し距離があるけれど気に入って頻繁に行ってしまう。店で商品をみるとただでは帰れないのは分かっているけれど、オビラプトルが二頭くらい入りそうな紙袋いっぱいに買うのはさすがにやりすぎだ。

 テーブルにどさっと置いたまま、まだ片づけしていない紙袋から、芯に巻かれた新しい糸をふた締め取り出す。ひとつは染色されていない、地の色の麻糸を。紡績は硬めで糸番手は中細にした。もうひとつは赤茶系のグラデーションに染色されたモヘアを選ぶ。芯から繰り出したふたつの糸先を揃えた。

 立体の製作物は、曲線の作り方や目数の増減を細かに調整したい場合、細い糸でただひたすら小さく編んでいくに限る。ピクトグラムの解像度と同じで、一目が小さく編めればそれだけ選択肢が増えるという理屈で成り立っているからだ。ただ、今日のイメージは無骨に大きなものを作るイメージが浮かんでいる。もう完成品がポニーの仔くらいの大きさになってもいいくらい、なげやりな気持ちでもある。

 輪を作ってくさり編みを始めた。今日は亀の口先のような硬い上顎から作り始める予定だ。

 ざっと数段編んでから、机上に飲み物も、ノートも持ってきていないことに気づいて立ち上がる。カーテンを閉め忘れた作業部屋が斜陽に焼かれて熱をもっていた。ベッドがおいてあるところの間仕切りまで開けてからエアコンのスイッチを入れる。裸で混ぜ合っても苦しくないように。俺が未だ、冷めた気持ちであんたのそういうところが嫌いなのだと言えるように。

 作業机に山積みの糸やマーカーを除けて開いたままの大学ノートを拾い上げた。キッチンに寄ってからダイニングテーブルに戻る。グラスいっぱいに入れた氷の隙間に注がれた麦茶をごくごくと半分ほどを一気に飲み干した。居間で作業をすると、住居空間の中にベッドとトイレ以外の逃げ場が無くなることを後悔することを知っていながら、俺はいつもの部屋を抜け出して作業をする癖がやめられなかった。家の中でなら人目を憚らずに好きなことを好きなだけ続けられるというのを誇示しようとしているのか、もしくは単に、同じところに独りでいることに耐えられないほど根が臆病なのか。

 編み始め、やがて立体の姿を表す古代生物を思い浮かべる。糸束が無数の鎖状の輪を集積させて作り上げるのは、スコロサウルス・カトラーイ。白亜紀の鎧竜は背に平たい円錐をつけ、牙を立てても押しつぶしても屈することのない堅牢な姿をしている。尾の先にハンマーがついていることも有名だ。骨格から筋肉を推測すると、意志をもって上下左右へと自由に振り回すことができるというのが今の見解だった。きっと同じ生息域にいた捕食者(プレデター)からすれば至極厄介な存在だっただろう。死闘の末に互いに深手を負うこともあったのではないだろうか。

 今回の作品は、背を噛まれて欠けた円錐を持つ個体ということにした。まるでその時に生きていたように。過酷な支配の中、奇跡が重なって生きている存在として。

「すごいよねぇ、透くんは」

 また、俺の中の脳内三河が呑気に話しかけてくる。少し考えればすごいわけでも、何かと比較してマッチベターだったとも言えない、編み物という貧相な表現について、彼はいつもあまりあるくらい言葉を並べ、確かな意味を当てがおうとしている。

「はるか昔に、ヒトが洞窟に壁画を描いた時、世界はふたつに分かれたと思うんだ。それは、興味の中心が自分なのか、そうではない別のもの、つまりそのひとにとっての世界なのかという、ふたつの視点に。透くんの編み物は壁画の表現と同じだよね。ちゃんときみがいて、その先に世界がある。自分じゃないことに触れて表現しているっていう感じだ。ただ、今の僕らは、ずっと世界を見る視線を持っていながら、臆病にも自分だけに目を向けている。問題の提起がされても、社会へ是非を問う問わないは他人事。そういう情報だけが求められていて、商品として売り物にするとしても断然〝気持ちよく他人事を感じられる客観的風味の情報〟だ。でもそれって、思想の礎にはならないよね。この頃、そうやっていろんなことがよく見えるようになって、それで僕は何をしたかっていうと」

 その時の彼は、すごく饒舌で、排他的で、つまり自分視点だった。仕方がない、その時の俺も、ただ糸を手繰って針を動かし、手元とその周りだけの狭い領域の中にしか意識を置けない、単視点の世界にいたから。

 三河は話を続けた。

「そう、結果ね、いくつか仕事を断ることにした。消耗されることがわかっている『知』は、もはや需要に答える必要がないと分かったから。ねえ、透くん、きみの作るたくさんの作品、もはや生きているように見える、小さな恐竜たちはそうじゃないと思う。あれは研究者たちの磨き上げた知の顕在と同じだ。モノトニクスは情報の淘汰に巻き込まれることはない。むしろ、世界の混迷から置き去りにされて生き続けるんだ。ふふ、それってすごく不安で真っ暗。だけどさ、ひんやりしていて、気持ちがいいものかもしれない」

 彼の舌先からするすると滑り出てくる抽象的な表現に、俺はいつも通り尻込みした。ややこしい議論や言葉遊びについては、相手がパンダであればよほど明解に、的確な応答をもって進行するものだと思った。その時の両手に挟まった編み地を確かに憶えている。躯体の曲線を緻密に描くために増減の規則を練られたこま編みの変則的な減らし目が、瞬きごとに、今の手元と焦点を合わせてすうと溶け合った。

「くそ、ばかやろ」

 苦し紛れの悪態とともに、二本取りの糸を勢いよく引いた。これまでの過程をノートに記録されていた新しい生物の編みかけの形は、みるみるうちにその輪郭を崩し、統制から解き放たれ、ただの糸に戻ってゆっくりと床へ落ちていった。

 二本の糸がはじめに作った輪から解かれてすっかり分かれたのを見届けてから、グラスの残りの麦茶を飲み干した。

 編んでいるあいだには考えないようにしていた。そんなふうに都合の良いシナリオのもとで造られたものに本物はないのだということに。胡散臭くて嘘だらけに見える三河の方が、よっぽどそのままの真実なのだというのに。俺はそれを認められない。承服できない。苦しくて糸が捩れる。ああ、もう混ぜるだけ偽りが濃くなっていく。

 作業部屋にある置時計の針を見た。三河が仕事を終えて地下鉄に乗るのはまだ少し先のことだろう。俺にはたくさん時間が与えられていて、彼にはその半分ももらえていないみたいに絶えず何かに追われている。世界は俺の外側でだけ、ものすごい勢いで毎日回り続けている。本当に俺は家の中で壁画を描き続けるだけでこの先も生き延びようとしているのだろうか。

 突如、静かな家の中に大きな虫の羽音みたいな震動が起こった。テーブルの端に置かれたスマホがガタガタと暴走している。仕事の電話、あまり触り心地の良くない言葉を浮かべ、のろのろ手を伸ばして端末を持ち上げた。

 三河からだった。

「あ、出た。びっくりした?」

 声を聞いたら欠伸が出た。目尻に押し出された涙がにじむ。

「した。ミカのこと考えていたから」

「うわぁ……嬉しい、そういうの、もっと教えてほしいな。いや、いつも教えてくれてるか」

「ミカはあまり言わない」

「そう? 顔がうるさいの知ってて、無意識に遠慮しちゃってたかも」

「なら、今言って」

 スマホを片手で持ちながら、解いて床に落とした糸を拾い上げた。芯から繰り出した分の糸は、巻き直さずにその手前で糸玉にして使う。親指を使って新しい糸玉を作るのに、昔の電話で受話器をはさむのと同じようなかっこうで、右肩を持ち上げて両手を自由になるようにした。

 本当は、そういう他愛のない話をして逃げたくない。壁画を描く原始人みたいな暮らしをしていてごめんとか、たった今、スコロサウルス・カトラーイの作り直しを自らに課したことでどれだけの生産性非効率を被ったのか、きちんと客観的に処理できていることを弁明したい。三河もこの電話が終われば、今日の残務にまたしばらく戻らなくてはならないから、どちらにせよ俺との会話でそれを邪魔するのは間違っている。

「嘘。用だけ言って。俺もまだしばらく編むから」

 電話の向こう側では沈黙が続いた。俺もその先について促さなかった。時間がじりじりと消耗していく焦りはあったけれど、それにどんな言葉が必要か分からず、静寂のうちにふたつの毛糸玉を作り終えた。時計の長針が進む音がした。空になったグラスの結露がテーブルに落ちてぬるい水溜りになっていた。

「じゃあ本当に、用件だけ伝える」

 ようやく聞こえた応答は、普段となにも変わらない、優しい風みたいな感触だった。仕事の重要な案件でも、日常のソファの上でこぼす独り言でも、三河昌幸はいつでも自然で、人間らしい力加減で、その余裕が実際より少しだけゆっくり歩いているように見えた。

 ベッドの上で力いっぱい腰を振って男の体を抱く時の、俺を見下ろす両目を思い浮かべる。三河をヒトじゃない別のいきものに変えたい。

 どうぞ、と言ってから、俺は再び二本の糸を寄り合わせてかぎ針に引っかけ、くるりと新しい輪を作った。いちど解いたときに毛羽立った糸は、さっきとそっくりだがまた別の表現となって、鎧竜の頭部を形作っていく。

「ふたりで同じ家に一緒に住みたい。いつからがいいか、考えておいて」

 考える余地もなく答えはノー、当初からそう自分で決めていたのに、その時の俺は何も答えられなかった。三河は本当にそれ以上なにも言うことなく「仕事じゃましてごめんね、またあとで」と調子のいい結びをとってつけたように使って、ぷつんと通話を終えてしまった。

 電話が切れる前の柔らかい声を思い出しながら、二本の糸を引いてまた編み進めていく。一度目の時に許せなくて解いたあたりはもう過ぎていて、無骨な恐竜の鱗肌が広がっている。目に見えて姿が分かるようになると、作る側も嬉しくなるものだ。

 頭部がほぼ完成する。綿を詰める前にそのまま糸を繋いで鎧の背を進めようと思った。

 背中の丘陵を出すために大胆な編み方に変える。一段編むと体の表現は一気に無骨な印象に変わった。スマホでいちど切れた電話の画面を開き、こんどはこちらが折り返し発信した。

 三度目のコールで出た三河は少し戸惑っていた。日にちはあんたの都合でいいよと答えると、ちょっと機嫌を損ねたみたいだった。

「僕はいいんだってば。透くんの話をしてるの」

「べつにいつでもいいし、いつになってもしなくたっていい」

「そういうのがイヤだから! もう、お願い透くん、伝わって。なんとなくでいいから」

 ……ああ、そういうことか。

 三河は壁画の洞窟に住む覚悟をしたのかもしれなかった。誰よりも人間らしくて、ヒトに愛されて、生産的な活動をするのを喜びとしている男が。

 三河昌幸という男が。

 たぶん、少し前から、そいつは俺の男だ。

「なら、今晩これが、編み終わったら」

 どうやって迎えに来るのかなと適当に想像しながら、二度目の電話を切った。もしもこの鎧竜が編み終わらなかった時の三河の顔を想像するだけで気の毒で、でももしかしたらそっちの方がやっぱり正しい気もして、俺はこのまま製作の顛末を成り行きに任せることにした。

 寝室に続く部屋のエアコンのリモコンのスイッチを押して、設定温度を三度下げた。ひょっとしたら今夜、未完に終わるかもしれないスコロサウルス・カトラーイを見た三河を寝室で慰めるために。

 二本の糸が合わさって、かぎ針にすくわれるまでの間、何度も捩れる。狭い輪をくぐって、連綿と編み目を重ねて尾の先までたどり着くには、まだ長い長い道を進んでいかなくてはならない。無心で手を動かしながら、すうと鼻から息を吸い込む。部屋の中は洞窟と同じで、少しひんやりとして気持ちがいいと思った。


〈了〉 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

混ざり、ねじれた路こそを征く 丹路槇 @niro_maki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ