第46話「夜の対話」
夜は意外と静かだった。月は雲に隠れ、私たちの小さな灯――油をしみこませた古い布を巻いた小さな蝋燭――だけが暗闇を割っていた。イヴァが風除けの石を並べ、私たちはその陰で膝を寄せ合うように座っている。足元で蝋がじんわりと溶け、小さな匂いが立ちのぼる。あの匂いはいつだって、私の胸をぎゅっと締めつける。
「静かね」イヴァがぽつりと言った。彼女の声はいつもと同じ低さだが、今夜はどこか投げかけるように暖かい。
「うん」私は手のひらを差し出す。まだ蝋のかけらが指の間に残っているのを確かめた。イヴァはその掌をそっと取って、親指で蝋をなぞる。皮膚がそこに触れるたび、冷たさと温度が交錯する。
しばらく沈黙が続いた。外では時折、遠い獣の鳴き声が風に溶ける。追手の影はあるけれど、今は遠い。二人きりの時間が、ひどく稀有に思えた。
「教えてくれる?」イヴァが唐突に言った。「なぜ、あなたは私を守ろうとしたのか」
問いは真っ直ぐで、でも決して詰問ではなかった。私はうまく言葉が出なかったから、代わりに自分の過去を小さく紡いだ。母の薬草、小屋の匂い、誰かが笑ってくれたときの記憶。言葉を紡ぐたび、胸が少しだけ軽くなるようだった。
「私、君の存在が怖かったの」イヴァがぽつりと呟いた。それは私に向けられた言葉でもあり、自分への言葉でもある。「怖い、っていうのは……失うのが怖かったのよ」
「失う?」私は問い返す。蝋燭の灯が二つの影を揺らす。
イヴァは視線を落とし、ゆっくりと話し始めた。母のこと、森の冷たさ、抱きしめたあの夜のことを。言葉は短く、断片的で、でもそこにある感情は濃かった。
「母を、――あのとき、私は抱いた。冷たくなった体を抱いて、ただ信じられなかったの。誰かに奪われた、っていう感覚。そこから、私は形にしたくなった。壊れる前に、なんとかして残したかったの」イヴァの声は、小さな灯火のように震えた。「蝋で固めるのも、箱にしまうのも、理由は全部そこにあるの。私は失うことに耐えられなかった」
私の胸がぎゅっと痛む。彼女の過去に触れると、自分の中の罪もまた深く影を落とす。けれど同時に、不思議な共感が湧く。愛が歪んだ形でしか表現されなかったとしても、その根っこは似ているのだ。
「だから、あなたのために――?」私が訊くと、イヴァは微かに笑った。笑いに含まれるものは安堵にも似ていた。
「そう。あなたが消えるのが、耐えられなかった。母をあのままにしたときの無力を、今度は私は繰り返したくなかった。だから、あなたのために、私は……」言葉を切ると、彼女は私の掌に自分の掌を重ねた。二つの手の間で蝋がほんの少し溶け、指の温度が伝わる。
長い静寂の後、イヴァが軽く息を吐いて――ふいに目を細めると、私の目をじっと見た。「ねえ、ひとつ見せてあげる」と言って、彼女は立ち上がった。私は驚いて体を起こす。何をするのか、知らないのに胸が早くなる。
イヴァの背中に立つと、彼女はゆっくりと毛皮の縁を外し、深呼吸を一つした。空気が濃くなるのを感じた。その瞬間、彼女の輪郭がどこか変わり始めた。足元の影が伸び、肩のラインが滑らかに変形する。私は逃げるでもなく、ただ目を見張った。
次の瞬間、そこにいたのは――雪のように白く、筋肉のしなやかな狼だった。大きな耳、柔らかな毛並み、黒い瞳が私をじっと見る。胸が高鳴ったのは恐怖ではなく、信じられないほどの驚きと可笑しさだった。
白狼は一声だけ短く鳴くようにして、私の名を呼ぶような目を向けた。イヴァの声が耳に戻る。「怖くない?」
私の答えは自然と出た。「かわいい」──簡潔で、飾りのない言葉。思わず笑いが出る。白い毛が風に揺れ、狼は首をかしげた。イヴァは少し拍子抜けしたように、そして嬉しそうに笑った。
二人で笑う。狼の鼻先が私の掌に触れて、温かさが伝わる。寒い夜に二つの暖かさが重なって、小さな灯がまた強くなるようだった。保存の衝動も、過去の傷も、ここではただ二人の一部に還る。
夜は深く、私たちはまた人の姿に戻った。だがあの白い毛の感触は、私の指先に残ったように思えた。告白と受容は、言葉だけで終わらない。手と蝋と灯のなかで、私たちの本質が静かに差し込んでいった。
白息の涯て 冬葵 @winter2580
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