朧月夜の大戦



私――山田信宏の眼前に屹立していたのは、ただ呆然と見上げるほか術のない、異様なまでに巨躯を誇る米軍艦であった。

鉛色に濁った雲を頂き、鋼鉄の船体はゆるやかに呼吸するような重低音を孕んで海面を震わせている。その存在はまるで、海そのものが姿を変えたかのようであった。人の力の及ばぬものの静かな威圧感――それを前にしたとき、恐怖ですらかえって薄れ、代わりに過去の記憶がひとつ、またひとつと胸の底から浮かび上がってくるのだった。


――あれは、前線へと出撃する日の二日前ほどであったか。


鹿児島の片隅にある質素極まる食堂。柱には幾度もぶつかった痕のような凹みがあり、煤で黒ずんだ壁には、誰かが残した指の跡が線のように残っていた。その粗末さですら、戦時下では妙に落ち着く“巣”のように感じられた。


その中央の小さな卓を囲んで、私は東岡、国崎と座っていた。

女将が置いてくれた湯気の立つ茶が、ほんの一瞬だけ、ここが戦場ではなく、昔の田舎の家の縁側のように思わせる温かさを運んでいた。


ふと、東岡が口を開いた。


「……俺には、帰ったら祝言を挙げると約した人がいるんだ」


その声は、最初は冗談のように軽く響いたが、語り始めるほどに深い湿りを帯びていった。

彼は、桃の木の下での思い出を静かに語った。


花影の揺れるその場所で、彼女は恥じらいながら微笑み、手を振って彼を見送った――その最後の笑顔の光景だけが、戦に引き裂かれた彼の胸底に、唯一消えずに灯り続ける“帰る場所”の証であったのだと。


その語りに引き寄せられたのか、私もまた、自分の家の裏手にあった一本の桃の木を思い出していた。

実は小さく、強烈に酸っぱく、少しでも齧れば舌が縮むほどのえぐみがあった。


子どもの頃の私は、よく遊び疲れた帰り道にその実をもぎ取り、一口食べては「まずい」と顔をしかめ、残りを母へ押しつけたものだ。


だが、母はいつも「美味しいよ」と笑って食べた。

本当に美味しかったのか、それとも私の前では実を無駄にしたくなかったのかは分からない。ただ、皺の寄った指で不器用に桃を割りながら、酸味に目を細めて微笑む横顔――その光景が、東岡の言葉に重なるように蘇ってくる。


あの時ほど、母の強さが温度として胸に満ちたことはなかった。


そんな柔らかな郷愁に浸っていると、卓上には珍しく日本酒が置かれた。本来、兵士が口にしてよい代物ではない。それゆえに、盃のふちに触れた瞬間の微かな震えが、背徳感と共に妙な甘さを帯びて喉を下りていく。


国崎が盃を片手に、鼻先を赤く染めたまま愚痴をこぼし始めた。


「――まったく、今日の少佐ときたらよ。あれじゃあ、怒りを通り越して哀れってもんだ」


酔いで湿った声が、店内の弱い電灯に揺れる影と重なり、疲れた兵士の心の奥を暴くように響く。


「どうせ俺らなんぞ、弾の一つでも貰えば終いよ。はは、」


軽口のはずなのに、その笑みは不自然に歪んでいる。

盃を持つ指は震えていた。酔いではない。恐れでもない。

ただ、刻一刻と近づく“終わり”の確信が、震えとなって指先に表れているのだった。


東岡はそんな国崎を静かに見守りながら言った。


「死ぬのなんて、案外あっけないもんだ。俺は日本を救った英雄になれるのだ。それは本望だ」


しかしその言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるための儀式のように響いた。


会話が途切れると、店内には湯の沸く音が響いた。

それは普段なら心地よいはずの音だが、その夜は、鋭い刃のように空気を裂き、私たちの胸に深く突き刺さった。


その晩、私は薄い布団の中で静かに涙をこぼした。

胸の内に溜まった恐怖と未練と哀しみが、ようやくひとつの形になって溢れたのだ。


だが、静けさは長く続かなかった。


――「食堂で騒ぎだ!」


叫び声を聞いた瞬間、私たちは反射のように立ち上がり、暗がりを裂いて走った。


扉を開いた瞬間、空気が凍った。


女将が、少佐に殴られていた。


頬は赤く腫れ、涙と血が入り混じるようにして伝い落ち、細い肩を震わせている。

しかし女将は、それでもなお、倒れかけた身体で少佐の前に立ちはだかっていた。


女将は、かつて子を戦で失ったと聞いていた。

それなのに、毎日欠かすことなく私たちに温かい食事を出し続けた。


『もう誰も飢えたまま死なせたくない』

と、そう呟いたことがある、と。


その理由が――いま、理解できた。


「……あなたに、あの子たちの何が分かるの」

「最期くらい……せめて最期くらい、あたたかいものを食べさせてやりたいのよ……!」


女将の声は震えていたが、決して折れてはいなかった。

少佐の表情が歪む。怒りにではない。

血走った瞳は焦点を失い、崩れかけた精神の影が見えていた。


「黙れ……」


低く濁った声が落ちた。

皮膚を叩く音が、ぬめりを含んだ泥のように耳に張りついた。


動けなかった。

恐怖ではなく、女将の“覚悟”を前にした自分の“覚悟の浅さ”が、私の足を縫い付けたのだった。


その晩、私は女将に宛てて手紙を書いた。


「女将さん。


 あなたは、私の母です。

 あれほどの痛みを負いながら、

 それでも誰かの最期のために立つ――

 その姿に、私はもう怯えませんでした。


 生んでくださった母とは別に、

 あなたは戦地へ向かう私の“もうひとりの母”でした。


 どうか、生きてください。

 あなたに出会えたこと、忘れません。


    山田信宏」


文字は涙で滲んだ。


実母へは声を録音した。


「母上、お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。

胸は日本晴れ。

本当ですよお母さん。少しも怖くない。

しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。

それは、今日私が戦死した通知が届く。

お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。

弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。

お母さん。

こんなことを考えてみましたら、私も人の子。やはり寂しい。

しかしお母さん。

考えて見てください。今日私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。

戦争はこの日本本土まで迫って、この世の中で一番好きだった母さんが死なれるから私が行くのですよ。

母さん。

今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。

だからね。お母さん。

今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。

でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。

お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。

私が一番怖いのは、母さんの涙です。」


録音を終えると、指先には整備士と握手した油の匂いと、その温度が生々しく残っていた。その匂いは、生を感じさせるものであった。


やがて東岡、国崎とともに少佐から酒を賜った。

少佐は空を見上げたまま動かず、頬を濡らした一粒の涙が太陽光を受けて宝石のように光った。


その酒は、言葉ではどうにも表せないほど美味かった。


「行ってまいります。」


操縦席に乗り込む。

金属の冷たさが掌に吸い付く。

しかし不思議と手は震えなかった。


そんな記憶のすべてが脳裏を奔り、

私は米軍艦へと急降下した。


「トトツートト」

「トトツートト」

「トトツートト」


モールス信号の規則的な響きが、

私の鼓動とぴたりと重なる。


視界が揺らぎ、太陽は朧月のような輪郭に滲んだ。


「ツーーーーーーーーーーーーーーーーーー」


世界が光に溶けた。

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夏目アキ短編集「16」 夏目アキ @Natumeaki

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