外伝:葵と陽菜

 隼人さんが亡くなってから一年が過ぎた。季節は巡り、健太君と陽菜さん、そして私と私の子供たちが共に暮らすという、あの奇妙な共同生活も、すっかり日常の風景に溶け込んでいた。

 柔らかな午後の日差しが、リビングのローテーブルを温かく照らしている。庭では、四歳になった私の娘の優奈と、三歳になった陽菜さんの長女、陽子ちゃんが、楽しそうな声を上げて駆け回っていた。そして、私たちの足元では、それぞれのお腹の中から生まれてきた、まだ首も座らない赤ん坊たちが、すやすやと安らかな寝息を立てている。

 「……不思議な、感じがしますね」

 カップに注がれた紅茶の湯気を見つめながら、陽菜さんがぽつりと呟いた。

 「うん?」

 「だって、私たち、こうなる前は……健太君を巡って、火花を散らした恋敵、だったんですから」

 その、あまりにストレートな言葉に、私は思わず苦笑した。


 「私、ずっと分からなかったんです」と、陽菜さんは続けた。

 「高校三年生の夏、健太君が、急に人が変わったように勉強を始めたでしょう? 私、それが本当に嬉しくて。ずっと夢だった、同じ大学で一緒に先生になるっていう未来に、手が届くかもしれないって……。でも、同時に、すごく怖かった」

 「……怖かった?」

 「はい。健太君のあの熱は、私に向けられたものじゃないって、すぐに分かったから。彼の視線は、いつも職員室の、葵先生の席に向けられていました。あの時の私、嫉妬で、どうにかなりそうでしたよ。先生に、直接話をしに行ったこともありましたね。進路相談だって、嘘をついて」

 懐かしそうに、そして少しだけ自嘲するように笑う陽菜さん。私は、あの日の、進路指導室での彼女の、若く、そして真っ直ぐな瞳を思い出していた。

 「ごめんなさい」

 自然と、私の口から謝罪の言葉が漏れた。

 「あの時の私は、教師としても、一人の人間としても、最低だった。あなたの、あんなに純粋な想いを、私は……」

 「ううん」

 陽菜さんは、静かに首を振った。

 「謝らないでください。だって、私も、同じだったから。もし私が先生の立場だったら、きっと、同じことをしていたと思う。ううん、先生よりもっと、ひどいことをしていたかもしれない。健太君のこと、独り占めしたくて」


 私たちは、しばらく黙って、紅茶を飲んだ。庭からは、子供たちの無邪気な笑い声が聞こえてくる。

 「……彼との間に、取引をしたんです」

 今度は、私が告白する番だった。

 「英語で80点以上取れたら、キスをしてあげる、って。最初は、そんな、ほんの出来心だった。でも、彼は本当にやり遂げてしまって……。そこから、全てが狂っていったの。彼の、あの真っ直ぐな欲望から、私は、もう逃げられなかった」

 「……知ってました」

 陽菜さんは、静かに言った。

 「健太君、嘘が下手だから。それに、恋する女の子の勘って、結構当たるんですよ」

 そう言って、彼女は悪戯っぽく笑った。その笑顔は、かつてのライバルではなく、全てを分かち合った、姉妹のそれのように見えた。

 私たちは、同じ男を愛し、同じように悩み、そして傷ついた。辿ってきた道は違えど、行き着いた先は、同じこの場所だったのだ。


 「でも、」と陽菜さんが言う。

 「後悔は、してないんです。あの時の、必死だった健太君がいたから、今の彼がいる。そして、葵先生がいたから、健太君は、夢を見つけることができた。……だから、ありがとうございます、葵先生」

 陽菜さんは、私に向かって、深く、深く頭を下げた。

 「私一人じゃ、健太君を、ここまで導いてあげることは、きっとできなかったから」

 「……陽菜さん」

 私の瞳から、温かい涙が、とめどなく溢れ出した。

 ああ、きっと、こういう運命だったのだ。

 最初から、こうなることが、決まっていたのかもしれない。

 健太君と、私と、そして陽菜さん。私たちの、この奇妙で、そしてどこまでも温かい家族の形。

 それは、過去の罪を清算するためのものではなく、私たちが、それぞれの愛の形を貫いた先にたどり着いた、唯一の、そして最高の答えなのだと。

 私は、腕の中で眠る、健太君との間に生まれた二番目の子の柔らかな頬に、そっと、口づけを落とした。


 陽菜さんの「ありがとう」という言葉に、私の瞳から、温かい涙がとめどなく溢れ出した。私たちはしばらくの間、ただ黙って、庭で遊ぶ子供たちの無邪気な笑い声に耳を傾けていた。その沈黙は、気まずいものではなく、長年胸につかえていた澱を、ゆっくりと溶かしていくような、穏やかな時間だった。


 「……葵さんは」

 やがて、陽菜さんが、少しだけ躊躇うように、しかし真っ直ぐな瞳で私を見つめて、言った。

 「兄さんのこと……隼人さんのこと、愛していましたか?」

 その、あまりに率直な問いに、私は少しも驚かなかった。彼女には、全てを話す義務が、私にはある。

 「ええ。心の底から。彼は、私が今まで出会った中で、最も誠実で、優しい男性でした。彼と過ごした時間は、本当に、穏やかで……幸せだった」

 その言葉に、嘘はなかった。

 「でも、」と私は続けた。

 「心の置き場所が、違っていたの。隼人さんは、私の人生という部屋に、温かい光を灯してくれた太陽のような人。でも、健太君は……健太君は、その部屋の、礎そのものだったから」


 私は、ゆっくりと、自分の過去を打ち明けた。

 「私は、健太君と出会うまで、誰とも付き合ったことがなかったの。男性に、触れられたことさえ、ほとんどなかった。勉強ばかりの、つまらない人生だったから」

 あの頃の私は、教師という鎧を身につけ、大人のふりをしていたけれど、その実、恋も、愛も知らない、ただの子供だった。

 「そんな私の前に、彼が現れた。あまりに真っ直ぐな、剥き出しの欲望で、私を求めてきた。怖かった。でも、それ以上に、嬉しかったの。私を、一人の女として見てくれる人が、初めて現れたことが。……彼が、私の、初めて身体と心を許した、たった一人の男性だった。だから、どうしたら良いか、分からなかった」

 恋に落ちた少女のように、ただ、彼の一挙手一投足に心を乱され、その熱に浮かされることしかできなかったのだ。


 「でも、陽菜さんの存在を知った。進路指導室で、あなたが、健太君のことを、本当に大切に、そして一途に想っていることを知った。その時、私は、身を引かなければならないと思ったの。私は教師で、彼は生徒。そして、彼の隣には、あなたという、太陽のような女の子がいる。私が、彼の未来を、そしてあなたの未来を、めちゃくちゃにしてはいけないって」

 隼人さんの、あの優しさに縋ったのは、それからだった。健太君から逃げるために。この、どうしようもない恋心に、蓋をするために。私は、隼人さんの想いを、利用してしまった。

 「もちろん、彼を愛する気持ちに嘘はなかった。でも、始まりは、そんな、私の身勝手な理由だったの。本当に、酷い女よね」


 陽菜さんは、ただ黙って、私の告白を聞いてくれていた。

 「……そして、皮肉なものよね」

 私は、自分のお腹を、そっと撫でた。

 「隼人さんとは、何度も肌を重ねた。でも、子供はできなかった。それなのに……健太君とは、たった三回。彼が高校生の時のあの初めての夜と、先生になって再会してからのあの最後の夜。そして、隼人さんと喧嘩して慰めてもらったあの過ちの一夜。……たった三回よ。それだけで、私は、二度も彼の子供を身ごもったの」

 その、あまりに運命的で、そして残酷な事実に、私たち二人は、言葉を失った。

 私は、隼人さんのことも、確かに愛していた。しかし、私の身体は、私の本能は、健太君だけを求めていたのかもしれない。

 私は、カップに残った、ぬるい紅茶を、一気に飲み干した。

 「……初めての男の人って、やっぱり、特別なのね」

 その、誰に言うでもない呟きは、午後の穏やかな日差しの中に、静かに、静かに、溶けていった。

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私の生徒だった君へ 舞夢宜人 @MyTime1969

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