第4話三途川の岸に咲く彼岸花
あの日。
夢は白いワンピースを着て、ママの手を引っ張りながら、「遅れちゃうよ」と言った。
僕の風邪はまだ完治しておらず、布団の中で微熱にうなされ、鼻は詰まり、喉は綿を詰め込まれたように痛かった。林が僕の額に手を当てて、笑いながら言った。「感想、帰ってから聞かせてね。」お前、そんなの好きじゃないくせに、と僕は思った。
雨は大したことなく、しとしとと降っていた。
二人は行ってしまった。
ベッドで目を閉じて、百まで、二百まで数えても、眠れない──僕は突然飛び起き、服を着て、傘を探した。だって展示会場は家の近くだった。前にも通りかかったことがある、僕は道を覚えていた。出かける時、パパがママに電話しているところに遭遇した気がするが、僕には気づかなかった。
出かけるべきじゃなかった。
知っていた。
でも、怖かった。二人だけの会話の中に僕の知らないものが入っているのが、二人の仲良くじゃれ合っている姿が。
彼らだけの小さな世界に、僕の居場所がないのが怖かった。
雨の筋が風に煽られて傾いた。街角で誰かがクラクションを鳴らした。誰かが走って誰かの手を引っ張った。
水たまりを踏みつけた。かかとが冷たい水しぶきを上げる。
突然、後ろからパパが駆けてきた。顔色が真っ青だった。飛び上がるほど驚いた。こっそり抜け出して怒られると思った。
でも、怒られなかった。彼は僕を見ると慌てて抱きかかえ、ママたちが行った方向へ駆け出した。でも僕の頭はぼんやりしていて、その場で何が起こったのか、はっきりとは覚えていない。
その後、覚えているのは、廊下と、消毒液の匂いと、病院の冷たい白い光だけだ。白い布で覆われた二つの遺体の前に跪き、嗚咽を漏らすパパの姿と、もう一つのベッドで、体中を包帯に巻かれた林の虚ろな表情。
僕はそこに立ち、緊張のあまり指が外套のポケットの縫い目をぎゅっと掴んでいた。泣けなかった。泣くことさえできなかった。
あの夜、パパが何かの手続きに出かけている間、僕は林のもとに行った。夢と母親の死を目の当たりにして大打撃を受けたらしい林の頬には、涙の跡がたくさん付いていた。林を慰めたかったけど、どうすればいいかわからなかった。だから、必死に、記憶の中で林が一番好きだったであろう夢の笑顔を真似て、声を絞り出した。「リ…お兄ちゃん、大丈夫、私がついてるから。」
彼が僕の方に向き直ると、突然、狂ったように抱きしめてきた。林の腕力は強く、締め付けられて痛かった。
「夢…お前だよね、夢…ママの死ですごく恐ろしい幻覚を見た気がする。お前もいないみたいな。でもお前はここにいるじゃないか!そうだろ、夢!」
僕は夢じゃない、僕は夕だ。でも、林の姿を見た瞬間、何も言えなくなった。夢が林の側にいれば、林が元気を出せるなら、僕は夢になろう。夕という名の自分を、心の奥深くに沈めて。
「うん、私は夢だよ。ここにいる、どこにも行かないからね、リ…お兄ちゃん。」
あれ以来、僕は何年もかけて、あなたを愛していた夕から、あなたが愛した夢へと変わることにした──
「夢…お前の口元のそれは、夕の…」林は震えながら、手を僕へと伸ばした。
そう、僕は夕だ。僕は南宮夢なんかじゃない、僕は南宮夕なんだ!
僕は心の奥底から片手を突き出して、記憶を掴み取った。
これは僕のものだ。
僕が徹夜で見守った夜、僕があなたにかけた布団──
僕があなたの枕元で夜明けまで座っていた。僕が毎日笑顔でおはようと言っていた。僕があなたの好きな料理を覚え、あなたの好きな味のコーヒーを淹れられるようになった。僕が代わりに毎朝、パパと、ママと、お姉ちゃんと挨拶した。僕が姉の画風を真似るために必死で練習して、奔放な想像力を捨て、ママのアトリエに規則正しい廃墟を築き上げた。僕があなたに筆の握り方を教えた。僕が知っていた、あなたが絵を描く時、片方の眉尻がほんの少し上がることを。僕が知っていた、あなたが笑うと実はすごくカッコいいことを。僕が知っていた、あなたの心は誰の元にあるのかを。
全部知っている。
18歳の誕生日のこの日、アトリエであなたと一緒にいたのも僕だよ!南宮夢なんてもういないんだ、最初から最後まで僕なんだ…!僕が夢になってにこにこと話しかけていたけれど、夕が何を考えているか、あなたにはまったくわかっていなかっただろう?
だから、これらを僕の手から奪わないで。
夕を別の名前で呼ばないで。
南宮夕という僕を、ちゃんと見てほしい。
そう言えれば良かったのに、でも──
「何言ってるの、お兄ちゃん?私とキスして嬉しくて、もう頭がおかしくなっちゃったんじゃない?これなんかほくろじゃないよ、ただの絵の具の染みだよ。」
必死に口元をこすった。その存在を消し去ろうとした。でも、それが無理だと分かっていた。僕の涙は抑えきれずに溢れ出た。僕は林の体から離れて、床に跪き蹲り、泣きじゃくった。夕には戻れない。夕に戻れば、夢への林の愛はどこに向けられるのか。あの時の林をもう一度見たくない。分かっている、でも涙が止まらなかった。
「ごめん、夕…僕はクズだ。ろくな兄じゃなかった。でもさっきのあれ、思い出した記憶の中にあって、夕だけにある場所と全く同じなんだ…なんで忘れていたんだろう…自分の身勝手な感情のために、夕をこんなふうにさせてしまって…」林の表情は激しく歪んでいた。
しかし、その言葉を聞いて、僕の感情がまたこみ上げてきた。金切りのような悲鳴を上げた。
「なんで泣くのよ!!! 私は夕なんかじゃない!!!私は夢よ、南宮夢!南宮家の長女!お兄ちゃんが一番好きな夢なのよ!お兄ちゃんが好きなのは夢でしょ!!!夕じゃないよね!!!だから私は夢なの、夢になるんだよ!お願い、リ…愛してるよ、愛してるから、私を…あなたが愛する夢にさせて…」
林は僕の叫びに驚いたのか、茫然と見つめていた。
長い間、声を出さなかった。
彼の喉仏が二度、動くのを見た。何かを飲み込もうとしているように。イーゼルの影が床に落ちて、まるで扉の枠のように見えた。扉の内と外、絵の中と外。彼は敷居の上に立ち、つま先がわずかにずれ、また元に戻った。
彼は立ち上がり、絵筆を取り、絵の具を付けた。そして肖像画にそっと一筆加えた。
そのあとしゃがみ込んで、僕をその腕の中に包み込んだ。
もう僕の口元には目をやらず、ただ泣き腫らした僕の目を見つめた。なんでこいつは泣いてもこんなにカッコいいんだろう。
彼がうつむき、その口づけが降りてきた。
今度は、さっきよりもゆっくりと。結び目を作るように、緩んだ箇所を一つ一つ締めていくように。僕は目を閉じた。まつげが光の中で細い陰を落とした。このキスだけが世界の全てになるように努めた。
雨音は戻ってくるな。
廊下も、消毒液の匂いも、冷たい白い光も戻ってくるな。
虚ろな林も戻ってくるな。
過去の南宮夕も戻ってくるな。
「おめでとう、夢。」彼がキスの合間に、そっと呟いた。
「ありがとう、リ。」僕は答えた。
そう言い終えると、僕はまた彼を強く抱きしめた。林の零した涙が僕の頬を伝うのを感じた。
風に吹かれてキャンバスが軽く震えた。夢であったその顔に、夕の証であるホクロが一点加えられ、紙の上にしっかりと立っていた。それは書き換えられることのない句点のように見えた。
大丈夫、大丈夫。
僕はこの紙の上で、一生をかけて。
一つの名前を、もう一つの名前に描き替えていく。一人の人を、永遠に描き出す。僕たち三人の間に、彼岸へと結ばれていく恋を描き出すために。
僕は、夕。
林に出会った時、僕は夢となったのだ。
愛してるよ、お兄ちゃん。
(終わり)
マンジュシャゲ @lero2345
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