第32話 空


 エレベータの外には荒涼とした景色が広がっている。

 地面は砂利だ。

 天井は暗く、あるはずの壁が広すぎて見えない。

「ここって……」理紅が辺りを見回しながら言う。「何回か来たことあるよね?」

 たしかに、たびたび夢の中で訪れた場所に似ている。

 いつもふたりでレバーを操作する夢。

「レバーはないけど」と僕。

「探せばあるかもね」と理紅。


 理紅は僕の手を握って歩き出す。

 あまりに広大な敷地だった。

 街の中央広場より大きな空間に、僕は立ったことがない。

 前後左右のどこにも壁が見えないという経験は初めてのことだ。まともに立っていられないような不安を感じてしまう。

 そんな景色の中を、理紅は迷いもなく進む。僕の足がときどきもつれてしまうくらいの早足だ。

「ねえ、理紅、あてがあって歩いてるの?」

「まさか。はじめて来る場所なのに」

「だったら、もうちょっと、ゆっくり歩こうよ」

「あっ、待って。何かある」

 理紅が指さしたほうを見る。

 細長い、つるんとした、卵を横たえたような物体が見えた。

 無数に。

 見渡す限りに。

 暗闇の中に整然と並んでいる。

「あ、なあんだ」と理紅が言った。

「なんなの、あれ」

「カプセルだよ。冷凍睡眠用の」理紅が周囲を見渡す。「ここ、冷凍庫だよ。こんなところにあったんだね」

 僕も改めて周囲の状況を観察してみる。

 果てのない薄闇の中にぼんやりと輝くカプセルの列。

 ここが、冷凍庫……。

 僕たち以外の、全人類が眠る場所。

「理紅が凍っていたのはどの辺り?」

「そんなの憶えてるわけないじゃん。夢の中みたいに広いんだよ、ここって」理紅は遠くを見たまま言う。「もうちょっと奥まで進んでみよう。あてはないけどね」


 理紅は臆することなく、僕の手を引いてずんずん進む。

 左右には、人々がおさめられた冷凍カプセル群。動物園の通路を歩いているときと、似たような気分だ。仕切りもなく、カプセルは無造作に砂利のうえに並べられている。寒々しい荒野の、見渡す限りの、ずっと向こうまで。

 それぞれのカプセルには、中におさめられている人間の名前や生年月日が記されている。

 カプセルからはコードやらチューブやらが生えていて、背後に並ぶ巨大なマシンに接続されている。

 大昔のSF映画みたいな微笑ましい光景。ちょっと笑ってしまいそうになる。

「ねえ、これって、ほんとにちゃんと凍っているの?」僕は隣の理紅を見上げて言う。「それに、ほんとに問題なく蘇生できるの?」

「どういう意味?」

「あまりにもフィクションじみてる。古い映画のセットみたいだ」

「古い映画のセットなのかもね」

「え?」

「でも私はちゃんと元通りになったよ」

「そうだけど……」

「それにしても」理紅は遠くを見据えて、怪訝そうに眉をひそめる。「たしかにすごい数だけど、これで全部? とても人口の全てを冷凍する気があったとは思えないね。最初から」

「ここに眠っているのは、選ばれし者、なんだよ」僕はまた思いつきを喋ってしまう。「だから、戦って、人間の数を減らす必要があったんだ」

「誰かの思惑通り?」

「うん……でも。誰かって、誰だろう?」


 僕たちはカプセルに刻まれた名前を読みながら歩いた。あまりに広くて、とても全部を見て回ることはできない。

 見た範囲には、知っている名前はひとつもなかった。

「霧川は、やっぱりいないのかな」

「どこかにいるかもよ。でも、もう、どっちでもいいじゃない」理紅は僕の頭にぽんと手を置いた。「先に進もう。私たちは二人で生きていくんだよ」

 理紅の声には、どことなく寂しそうな響きがあった。

 僕は、理紅の前では二度と霧川の話をしないことに決めた。



 僕たちは歩き続ける。

 砂利を踏みしめながらという慣れない行軍のせいか、すぐに足が痛くなった。

 疲れているけど、水もないし、サンドイッチもない。

 いつのまにか冷凍カプセルの並んだ区域は、遙か後方に遠ざかっている。

 周囲には何もない。

 進むにしても、戻るにしても、判断が難しい頃合いだ。

 少し休もう、と理紅に提案しかけて、僕はその言葉を飲み込んだ。


「レバーだ」


 理紅が言った。

 そう。

 目の前には見慣れたレバーがあった。金属の台座にの頂点に備え付けられた無骨なレバー。さっき引いたままの状態になっている。

「またレバーを押すの?」理紅がため息をつく。「頭がこんがらがってきたよ。最初にレバーを入れて、また戻して、また入れる。どうなるの?」

「でも、現実の世界でレバーを入れるのは、今回が初めてだよ。お経みたいな呪文みたいな、あのへんてこな言葉も聞こえなかったし」

「これで最後だといいな」

「これで最後だよ。たぶん、外に出られる。お経のやつの言ってることが、正しければね」

「あれ、誰なんだろうね?」

「さあ……神?」

 自分で言っておきながら、その答えは、とても斬新に感じられた。

 神。

 それについて、僕は今まで考えたこともなかった。

 神とは、僕たちにとって、世界を統べるコンピュータ・システムのことに他ならなかった。

 神とは、何だろう。

 これからの僕たちは、神のこと深く考えるようになる。そんな漠然とした予感があった。

「神か……」理紅が教え子の成長を喜ぶ先生みたいな目をした。「きみはやっぱりおもしろいね、ナノ」


 僕たちは台座に近づいた。

 僕が最初にレバーに手を置く。

 理紅もその上に手を重ねた。

「押すよ」と僕は確認する。「いい?」

「待って」

「なに?」僕は隣にいる理紅を見上げる。

 理紅は2秒くらい、僕を真剣な表情でみつめたあと、急に顔を近づけてきた。

 水色の髪が僕の頬を撫でる。

 唇と唇が触れあう。

 これは6秒くらい。

 理紅は目を閉じている。

 僕は無意識に、理紅の後ろの髪をひと束、握りしめていた。

 この行動は、霧川から受け継がれたものだ。

 理紅は顔を離して目を開いた。

 僕も理紅の髪から手を離す。

 少しのあいだ、僕たちは黙っていた。

「最初にね、ナノと会った日に」と理紅が言う。

「え?」

「私たち、手を繋いだでしょう」

「ああ、うん」

「あのとき、うつったと思うんだ」

「なにが」

「ナノの病気……エンドロームが、私に」

 理紅はまじめな顔だったから、僕は何も言わなかった。

「だけど、もし、本当は私には感染していなかったとしたら、良くないと思ってて。そのことがずっと心配だった。だから、確実に感染させようと思ったの。いま」

「そうだね」僕は頷く。「僕たちはこの世でたったふたりだけの、エンドローム患者になれたんだと思う」

 理紅は少しだけ微笑んだ。

 そして僕たちは、

 レバーを押した。



 老人のうなり声のようなものが聞こえた。全身の細胞が好き勝手に動き出しているような痒みを僕はおぼえる。地面が震動しているのだとわかった。微かな地鳴り。それは急激にボリュームを上げる。鼓膜が殴られているみたいな大きな鳴動だ。揺れ。轟音。僕たちは、ふたりしていつのまにか尻餅をついていた。

 自然と、天井を見上げる格好になる。

 暗い天井に一本の線が入った。

 見える範囲全体を、一刀両断にする光。

 劇的な変化だった。

 僕たちは座り込んだまま、口をぽかんと開けて見守ることしかできなかった。

 縦にひとすじの光る線は、少しずつその太さを増していく。


 天井が開くのだ。


 僕は直観的に理解した。

 天井が開いたら……。

 そこには、なにがある?


 空?


 映像でしか見たことのない空が、たぶん、そこにはある。自分の体の、すべての肉や内臓がうごめくほどの振動。まだ続いている。耳はすっかり麻痺してしまって、とっくにうるさいと感じることをやめている。空は開きつづけている。


 今までに浴びたことのないくらいの大量の光が、盛大に僕たちに降りそそいでいる。


 目をやられてしまうのではないかと心配になった。

 モグラが地上では視力を失うという話を僕は思い出している。

「僕たちはモグラのようなものかもね」

 とでも言えば、理紅は少し笑ってくれるかもしれない。

 でもそんな余裕はなかった。



 天井は完全に開かれていた。

 気づいたときにはすでに。



 僕たちはずいぶん長いこと放心していたようだった。

 腰が抜けていたのかもしれない。

 空は青かった。

 真っ青だ。

 見渡す限りに青い。

「怖いね」と理紅が囁いた。

 久しぶりに聞く理紅の声だった。

「怖い」と僕は答える。

 ほんとうに怖かった。

 空は、見ていると体の底から身震いしてしまうほどに怖い。

 正気を失ってしまいそうだった。

 青い空から視線をそらしたいのに、どうしてもそうすることができない。

 どこまで行っても空だから、視線をそらすことができないのだ。

 地上時代の人間は、こんなふうに、いつも空に監視されたような気分で生きていたのだろうか?

「空のほかに何もないから怖いのかな」理紅が言う。「虹って、今度いつ出るんだっけ?」

「決まってないんだよ。本物の空では」

「そうか」理紅は左手を頭上に伸ばした。「空には描けないな。何も」

 理紅の指はむなしく空中に円を描いた。

 理紅の水色の髪が激しくはためいて、隣に座る僕の耳に触れている。息が詰まるほどの風を自分たちが浴びていることに、僕はようやく気づいた。

 こんなに強い風は今まで一度も感じたことがない。

 なんとなく、自分たちが今まで過ごしてきた世界、つまり巨大な地下世界ごと、僕たちは空を飛んでいるのではないか、という発想が浮かんできた。


 ここは地下ではなく、空中に浮かぶ都市だったのではないか。


 これもただの妄想だろうか?


 間違ってはいないような気がする。

 ここのほかにも、同じような空中都市がどこかに存在するかもしれない。

 僕の胸は静かに高鳴りはじめている。


「外だね」とだけ僕は言った。

「どこに【終わり】があるの?」と理紅が言う。

「ないみたい」

「だったら私たちが見ている、これは何?」

「この世界じたいが方舟だったんだよ、きっと」僕は思いつくままにしゃべる。やはりこれも、かつてどこかで見たストーリー。でも、今までで最も大きな引用かもしれない。最も大きく、最も古い物語の引用。「もともとあった大きな世界から、基本的な部分をすっかり保存してしまうための方舟。それが僕たちが【地下】だと信じてきた世界だったんだ。動物園を見たときに気づくべきだった。僕たちは、冷凍された人間たちや、動物たちや、虫や、物語や、そのほかの文化や、システムやら何やらの、番人として選ばれたんだ。長い戦いの果てに」

「番人?」理紅が馬鹿にしたように笑う。「何もわかってないな」

「だったら何なの?」

 風が止んだ。

 理紅が僕に微笑みかける。

「アダムとイヴなんじゃない?」




(了)




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あなたのいない世界で 灰谷魚 @sakanasama

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