第31話 天使の血を飲む

「君は私と約束したんだよ。世界の最後を見届けるって。猫なんて、そんなものが近くにいたら世界は破滅しないよ。猫にはそういう力がある。どんな状況になっても自分ひとりだけ、しれっと生き残るようなさ。そんなずる賢い目をしてる。断言するよ。猫の近くにいたら、世界は滅ばない」


 いつかの理紅の言葉が夢の中で繰り返される。


 目が覚めると僕たちは自宅のベッドの中にいた。


 最後の戦いの途中で記憶が途絶えている。

 理紅もあまり憶えていないようだった。

 僕と理紅は、一緒に過ごすようになってから手に入れた、たくさんの感情や思想をいくつも失っていた。二度と取り戻すことはできない。

 最後に戦ったあの敵。

 どこかなつかしい感覚。

 あいつは、かつて僕が飼っていた猫の、なれの果ての姿だったのかもしれない。

 僕はそんなことを思いついて、でも結局、口に出すことはしなかった。

 僕たちはすっかり老け込んだ気分になっている。



 理紅と二人だけの、静かな生活がはじまった。

 敵が現れなくなったのだ。

 戦いは僕たちの手から失われた。

 これは進歩なのか、退行なのか。

 わからない。

 僕と理紅以外の人間は、すべて冷凍庫で凍っている。

 社会のシステムはほぼ正常に動き続けている。人がいないだけで。

 僕たちは何をなしたのだろう?

 あまりに利己的な衝動に、もったいぶった理屈を付随させていただけなのかもしれない。

 結果として僕たちは、この世界に死のウイルスが満ちるのを、ただ漫然と待ち続けている。



「そして誰もいなくなった」と理紅が言った。ソファにだらしなく寝そべったまま。

 最後の戦いから二週間ほどがすぎていた。

「僕たち以外はね」と僕はまるで無意味なことを言う。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の……か」理紅はため息をついた。「ねえ、私たちが見たかった終わりというのは、どこにあるの?」

 理紅は明らかに退屈している。

 理紅が退屈しているのを見ると、とても苦しい気持ちになる。

「そうだね、ひょっとしたら」と僕は言う。ほんの思いつきを、そのまましゃべってみる。「もう、この世界から出られるんじゃないかな。僕たちは」

「出る?」びっくりしたように理紅は身を起こす。「出るって?」

「この世界は、地上が何らかの理由で滅んだときに使用された地下シェルターだったはずだから……。一番上の階層の、その上に出口があるんじゃない? 普通に考えたらね」

「考えたこともなかったな……」理紅は驚いた顔のまま言う。

「自然な発想だと思うけど」

「言われてみれば、たしかに……」理紅は唇に指を当てて考え込む。「どうして今まで、誰もこのていどのことを思いつかなかったんだろう?」

「僕たちは、そのことを思いつくようには、できていなかったのかも」

「結局私たちって何なの?」

「さあね。妄想に妄想を積み重ねるのは、もうやめにしたはずだよ。ここは、過去の引用だけでつくられた世界なんだからね」

「ふん」と理紅は鼻を鳴らす。「それだって妄想じゃないか」

「今日、さっそく行ってみようよ」僕は努めて明るい声を出す。

「どこに?」

「世界の外に。そこで見られるかもしれないよ」

「終わりが?」と理紅。

「終わりが」と僕。



 僕たちはエレベータで行ける最も高い階層まであがってみることにした。

 ここには何度か来たことがある。観光名所なのだ。旧世界のように、見晴らしが良かったり、夜景というやつが見られたりはしないけど。

 ここはちょっとした広場と記念碑が設けられていて、その周囲にいくつかの商店があるだけ。もちろん、もう店員も客もいない。

 記念碑の奥は立ち入り禁止の区画になっている。とくに注意書きもないけれど、誰も規則を破ったりはしない。僕たちはそこに足を踏み入れてみる。なぜ今まで、一度も禁を犯そうとしなかったのだろう?

 侵入者のチェック機能はもう反応しなくなっていたから、たやすく立ち入ることができた。

 禁止区域といっても、まっすぐの何もない通路が続いているだけだ。でも、なんとなく恐ろしくて、僕たちは身を寄せ合って進む。

 ほんの5分ほど歩いたところで、もう行き止まりだった。

 エレベータが設置されている。何の変哲もない、4、5人乗ればいっぱいになってしまうような小さくて古い型のエレベータだ。

 雰囲気にのまれているのかもしれないけど、ものすごいオーラのようなものを感じる。 

 だけど僕たちは迷わずそれに乗り込む。さらに上の階層に向かう。

 ここからは完全な未知の領域だ。

 期待と不安。なんてものを感じる暇もなく、意外な早さでエレベータが停止した。

 扉が開いて、僕たちはエレベータから排出される。

 そこにはまた通路。

 さっきと同じように5分ほど歩いく。突き当たりにエレベータ。また上昇。また通路。またエレベータ。上昇。通路。エレベータ……。

「なんだか本格的に、夢の中にいるみたいな気分になってきたよ」狭いエレベータの中で理紅が言った。「戦えば戦うほど深い階層に潜って行った私たちが、今度は上を目指している。上と下……これって、もっとも基本的な物語の要素だよね」

 だけど今度の上昇はなかなか終わらない。時間はずいぶん過ぎている。この上昇は終わらないのかもしれない。かすかな恐怖が僕たちの心に芽生えはじめる。


「どうする? このままエレベータが止まらなかったら」


 理紅が言った。僕と手をつないでいる。子供扱いはずっと変わらない。

「止まらなかったら、この中で過ごすしかないよ」

「何とかして扉を開けようとか思わない?」

「僕たちの力では無理だよ」

「こんなところで生きていけると思う?」

「思わない」

「寂しくて、退屈で、きっと、気が狂ってしまう。いや……、そうなるまえにきっと、私たち……」

「殺し合ってしまうね」

「冷凍庫の人たちみたいに」


 その瞬間、

 また僕たちは、

 何かに気づいた。




『……増大しつづける韜晦に一顧だに与えることのない刀身、反重力、その精華、空論によって決定づけられる相貌、機知、、食欲、邪智姦佞、または散りばめられた無尽蔵の毒気、その終焉、甘き蛾眉、に、含まれた夢、に……』




 僕たちは再び、あの景色の中に立ちつくしていた。

 死後の世界のような寂寞とした空間。地面には砂利。目の前には黒い金属のかたまり。そのてっぺんに据え付けられたレバー。

 レバーは前回、僕たちが引き起こした状態のままだ。

「最初にレバーを押して……」理紅が思い出すような目つきで言う。「次に来たとき、また戻したんだよね?」

「そうだよ。説明を聞いていなかった?」

「説明って?」

「さっきの……お経みたいなやつ」

「ああ……そうか。思い出した」

「そう。さっさとレバーを押そう。ここは寒い」

「まったくね。サービス業ってものがわかってないよ」

「サービス業なの、この世界って?」

「サービス業なんだよ、たぶんね」


 僕と理紅は手を重ねて、レバーを、

 引いた。




 ■□□


 たった74人の天使に世界はすっかり滅ぼされてしまった。


 今はもうその天使たちはいないのだけど、気まぐれに降りてくる野良の天使に見つかって殺されないように、私たちは縮こまって暮らしている。

 野良といっても、向こうから見ればこっちのほうが野良だろう。天使たちは100人の人間を選別して、それ以外の人間は絶滅させたつもりでいるのだから。

 街も、森も、川も、空も、好き放題に散らかされた世界。

 私は同い年の男の子のエオルと、ひとつ年上の女の子であるミセの3人で暮らしている。

 というか、身を寄せ合って天使の攻撃から逃れているうちに、そうなった。

 エオルは、ミセのお母さんが100人の中に選ばれた思っている。

 何の証拠もないのに。

 ミセのお母さんがとてもきれいだったからだ。

 きれいとか汚いで選んでるんじゃないんだと私は思う。でもエオルには、というか男の子には、そういったことが決定的にわからないみたいだ。

 そもそも、100人の人間だけが天使の国で生き延びているというのは単なる噂だし、ミセの母親がその100人に含まれているというのもまた噂。

 砂上の楼閣

 その蜃気楼

 みたいなあいまいな話だ。

 だけどエオルはミセに「お母さんを取り返してやるぜ」とか鼻息も荒く、毎日のようにしつこく宣言している。それがエオルの大義名分ってやつなのだ。ミセのそばにいるための。

 ミセも母親に似てきれいだ。

 なんにもできないくせに。


 それで目下のところ、エオルは野良の天使を殺して、その血を飲むということを目標にしている。

 天使の血を飲むと永遠の命を得られるという、まことしやかな噂があるのだ。

 この話だって何の信憑性もない。

 私は100パーセント嘘だと思ってる。

 けど、ほとんどの人は信じ切っているみたいだ。

 砂上の楼閣

 その蜃気楼

 そんな夢を見たよ!

 みたいな話。

 妄想の上に妄想を重ねたみたいな。


 ただし、もしこの話が本当だったとしても、天使を殺すなんて、それこそ100パーセント不可能だ。

 どんなに屈強な男が、どんなにすごい武器を持っていたとしても、天使に傷ひとつ付けることはできないと思う。

 それほど天使の戦闘能力は圧倒的なのだ。


 ところが。

 ところがところが。


 エオルが私を壊れた工場に呼び出した。

 壊れた工場、といっても、この世界のものはすべて壊れているのだから、壊れた、なんて単語は省くべきだ。

 まあそんな理屈はさておき。



 □■□



 ぼろぼろの廃工場。

 その地下。

 ランタンで照らされた薄暗い室内。

 壁ぎわに、目をらんらんと輝かせたエオルが立っている。

 ミセもすぐそばにいるけど、エオルとは対照的にすっかり青ざめてしまっている。

 ミセは弱っていればいるほど美しく見える。

 元気なら元気で、みんなを魅了する笑顔を見せることができるのだけど。

 ほんと、得な奴。

 まあ、それは今はどうでもいい。

 この部屋にいるのは私たちだけじゃなかった。

 傷つき、両手両脚を縛られ、床に倒れている、

 天使が1匹。


「どうしたの、これ!」私はつい大声を出してしまう。

「静かにしろよ」エオルは妙に格好を付けたしぐさで前髪をかき上げる。「見りゃわかるだろ。天使だよ」

「死んでるの……?」

「死んでる」

 エオルの歯切れの良い言葉。

 沈黙。

 そしてなぜかミセのすすり泣きが聞こえる。

「なんで泣いてるの、ミセ」とエオルが聞いた。その声の、ちょっとわざとらしく鼻にかかった感じに、私はむかついてしまう。

「だって……」

 ミセは両手で顔を覆った。白い手を長い金髪が隠している。腕には青白い血管が浮き出ている。

 私でも見とれてしまうくらいにミセはきれいだ。

 エオルがミセに近づき、その髪を撫でた。ちょっと近づきすぎだと思う。

「もう死んでるんだ、怖がる必要はないよ」

「あんたが殺したの?」私はあえて太い声を出す。

「ああ」エオルは視線だけを私によこす。「もともと死にかけてたんだ。死にかけた状態で天から落ちてきた。俺は最後の一撃をくれてやっただけだよ」

「どうすんの、これ」

「どうって、決まってるだろ……」ミセの肩をそっと抱き、さすりながらエオルは答えた。「血を飲むんだよ」

 ミセが小さく悲鳴を上げる。

 私はミセに近づき、エオルから引きはがす。

 そしてミセを私のほうに抱き寄せると、その頭と背中に手を回した。

 ミセは私の腕の中で泣いている。

 ほんと、何の役にも立たない奴だ。

「血なんて飲んでどうするの」私はエオルを睨んだ。

「永遠の命を手に入れるのさ」

「あんなの信じてるの? 馬鹿じゃないの?」

「馬鹿でも阿呆でもかまわないよ。永遠の命が手に入るならね。お前たちが飲まないって言うなら、俺だけが天使の恩恵を受けることになるけど?」

「永遠の命なんて手に入れてどうするの」

「わかりきったことだ。天使を皆殺しにする」

「そんなの、できっこない」

「できるさ。なぜなら、かつて天使の血を飲んだ人間は1人も存在しない。俺が人類で最初の永遠の命を手に入れるんだ。だから。誰にも為しえなかったことでも、俺になら可能になる。単純な結論だろ」

「天使の血を飲んだ人間がひとりもいないのに、どうして永遠の命が手に入るってわかるのよ」

「人間が天使の血を飲めば、永遠の命が手に入る。そう決まっているからさ」エオルの目に暗い輝きが走る。「天使ってのは、そういうふうにつくられているんだ。そういう設定でこの世界に存在している」

 いつからエオルはこんな妄想に取り憑かれてしまったのだろう?

 私は慄然とした。

 エオルは倒れている天使に平然と近づき、しゃがみこむと、腰から愛用の短刀を抜いた。

 ランタンの光を反射して、それはぎらりと不気味に輝く。

「安心しろ」エオルはこちらを見ない。「お前たちの分も、ちゃんと用意する」

 エオルは何の躊躇もなく短刀を天使に突き立てる。

 天使の血が噴き出す。

 死んでいるのに、血って噴き出すか?

 この天使はまだ生きてるんじゃないだろうか。

 ミセが私の胸で震えて泣いている。

 ミセの髪に顔を埋めて、私はその匂いをかいだ。

 誰だって虜にしてしまう、とても自然な良い香り。細いからだ。重たい睫毛。月光のように鈍い輝きを放つ肌。

 どうしてミセだけがすべてを備えているのだろう?

 エオルとミセが、こそこそ付きあっているのを私は知っている。

 天使がいますぐ蘇って、私たち3人を惨殺してくれたら良いのに。と私は思う。


 □□■


 エオルは工場の棚から汚れた3つのビーカーを取り出して、そこ3人分の天使の血を注いだ。

 私もミセも、結局それを手にしている。

 天使の血はとても魅惑的な匂いを部屋中に漂わせていた。

 そのことがすでに恐ろしい。

「乾杯でもするか?」とエオルが笑う。

「馬鹿言わないでよ」と私はたしなめた。

 ミセは何も言わずうつむいている。

 こいつは何か気の利いたことを言ったことが一度もない。

 ただきれいなだけだ。

 だけど、途轍もなくきれいなのだ。

 私は心の中のどうしようもない破壊衝動を必死でこらえる。

「飲んだら死ぬかもよ」と私は言った。

「なるほど」とエオルは感心した声を出す。「死、っていうのは、永遠の命、の言い換えなのかもしれないね」

「服毒自殺ってわけね」

「ははは」と明るくエオルは笑った。

 私は呆れた。こいつは自分が死ぬなんてこと、生まれてから今まで一度も考えたことがないのだ。

 そして天使の血を飲めば確実に永遠の命が手に入ると信じ切っている。

「仕方ないな」と私は言った。

「お、飲む気になった?」とエオルの嬉しそうな顔。

「私が、あんたのやることに付きあわないことが、今まで一度でもあった?」と私は言う。

 結局私はエオルの言いなりになってしまう。

 そういう女。

 そういう女としてこの世界に設定されたのだ。

 エオルに永遠の片思いをするために生まれてきた女。

 ため息しか出ない。

「ミセもいいよな?」とエオルが聞くと、ミセはうつむいたまま、黙って頷いた。

「よし、じゃあみんな、天使の血を掲げろ」エオルが真剣な表情になる。「我々3人の、永遠の命と、天使たちへの復讐を誓って。乾杯!」

「かんぱーい」と力なく言う私。

 エオルが天使の血を飲んだ。

 私も天使の血を飲んだ。

 むせかえるような強い匂いとは裏腹に、味はまるでしない。

 視界の隅でエオルが倒れた。

 ほらね、言わんこっちゃない。

 私も気分が悪くなって、壁に寄りかかる。

 同時に私は、世界の終焉を見たくてたまらなくなる。

 世界が終わるって、どういうことだ?

 意味がわからない。

 意味はわからないけど、

 終わりが見たい。

 終わりが見たい。

 終わりが。


 ミセは天使の血を飲まなかった。

 ほらね。こいつはそういう奴だよ。

 ただきれいなだけの、悪魔みたいな女なんだ。

 私はちょっと笑ってしまう。

 そこで私の意識は途切れた。



 □□□  ■



 僕と理紅の意識が戻ったとき、ちょうどエレベータが止まった。

 わずかの振動。

 そして静寂。

 僕と理紅は顔を見合わせる。

 僕たちは眠っていたのだろうか?

 夢の余韻がたしかに胸に満ちている。

 でも、どこからが夢だったのだろう?


 エレベータがゆっくりと開く。



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