ハニーラテ
楢崎硝花
第1話
待ちきれず、火を点す。席に座るなり人差し指と中指に挟んだ煙草を胸一杯に吸い込んで、その人はようやく、虫が落ち着いたとでも言いたげに椅子に沈み込んだ。トレーに載るのはホットコーヒー。飲めやしないのに、一番安いからといつもそれを頼む。現に、指先は口元と灰皿を行き来するばかりで、カップに触れる気配など微塵もない。
対する私はカフェラテ。赤いストローにルージュを移しながら、お行儀悪く頬杖をついて対面のその人を眺めた。眉間にはしわが寄っている。黒のコートの襟がよれていて、タイはしていない。面白みのない白いワイシャツ。朝にはパリッと伸びていたそれも、1日の終わりには疲れを吸って台無し。
なにより、せっかくの待ち合わせに遅刻した挙句、酷い仏頂面で現れ、謝罪もなしに「煙草」と地の底を這うような声でのたまう、この人は最低。
細長いグラスに、溶けた氷が薄い水の層を作る。灰皿の黒に白いの紙筒が何本か押し付けられて、さてもういいかしら、と声をかけることにした。
「落ち着いた?」
「・・・・・・うん」
うん、だって。眉の間に縦筋が入ってて、口の端が歪んでいるのは気のせいというわけだ。
薄まったミルクの味ほど酷いものはない。さてもう一杯、と席を立つと、ひらりと薄いコートを引かれた。指先から紙筒が消えている。灰皿に死んだ草の燃えかすだけが残っていて、見上げるその人の眉間から不細工なしわが消えていた。消えた代わりに、手入れ知らず、生えっぱなしの太い眉がハの字を作る。
「ごめん。いいよ」
「よかった」
出よう、という言葉に頷いて、手のひらを向ける。不思議な顔をして自分の手を置く、この人は本当に駄目。垂れた耳にお手までして、そうまでして犬に成り下がりたいのなら、いくらでもさせてあげるわよ。
「鞄よ、カバン。手はいらない」
「あ、あっ。ごめん」
お財布とスマホくらいしか入らない小さな鞄を、慌てて取り上げる男の姿は少し滑稽だ。冷めたコーヒーがなみなみ残ったまま、トレーを返すのを見届けて、私は悪戯心たっぷりに指先を伸ばした。大学でも剣道をしていたというその人の手の皮は硬く、ふしくれだって男臭い。それを、柔らかな桃をなぞるかのように撫で上げる。びくり、と背を震わせた男は、正真正銘唇を歪めて、こちらをねめつけた。
「くすぐったい」
「文句を言う権利、今の貴方にはないわね」
だって私、久しぶりにデートできるからって、新しいスカートをおろして、ピンヒールのパンプスも念入りに磨いたの。昨日の夜は豆乳の入浴剤を入れて、パックだって1枚1000円の高級なのを使ったわ。トリートメントもいつもよりとっても丁寧に染み込ませて、ボディクリームは体の隅々まで塗り込んだ。
ビューラーであげたまつ毛、陶器みたいな肌に、匂い起こるような淡い桃色のチーク、アイシャドウは緑で視線を眩しく、口紅はもちろん赤。ルージュ、新しいのに変えたの。とっても発色がよくて、つやつやしてるでしょ。
「う、ごめん」
「いいわよ、わかってたし。行きましょ、予約に間に合わなくなっちゃう」
「あっ、予約!す、過ぎてないの?」
「馬鹿ねぇ」
週末、それも月末。忙しくならないわけがないのに、デートしようだなんて誘って。残業というよりは、迫る待ち合わせ時間にイライラして、間に合わないことがわかって、もっと機嫌を損ねる。私が煙草嫌いなんてことも忘れて、自分勝手に、そのくせ他力本願に吸いたいって言い出すことくらいわかっていた。
だからこそ、行きたいお店も予約も私がして、待ち合わせからたっぷり1時間は余裕をみている。
「全部、予定通りです」
「ごめんなさい・・・・・・」
「だから、わかってたことだからいいのよ。本当に、早く行こう?」
手を引いた。店を出る間際、ふっと紫煙の香りが近づく。
「優しくする、めいっぱい」
「じゃ、お店まで連れていってくださる?」
「うん、りょーかい」
かしこまりました、くらいの洒落た返しもない。ルージュを直す暇もなく、紳士は意気揚々と歩き出す。行き先を知っているのだろうか。
「百貨店の、13階ね」
「あれ、駅ビルじゃないの」
違うわよ。言葉は飲み込んで、可愛らしく、ふふふと笑ってみせた。
ハニーラテ 楢崎硝花 @yuk1h1
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