伍 アクサガ
宇吹遠和の母は、二階で首を切断されて殺されていた。首のない死体は寝室のベッドの上に寝かされていて、切断された首は母愛用のルームランナーのベルトコンベアの上に無造作に転がされていた。
あの後のことは、あまり覚えていない。レインコートの死神を殺した後、桜汰が携帯電話で呼んだ謎の集団が、あっという間に母と死神の死体を片付けて事件の痕跡を綺麗さっぱりと消してしまった。五人ほどの彼らは一様に黒い上下のツナギ、もしくはスーツ姿で、マスクをしているものをいた。
母だった二つに別れた肉片が銀色の袋に押し込まれて搬出されていくのを、遠和はぼんやりと眺めていた。あまりにも大きすぎた衝撃と恐怖が、遠和の感情を麻痺させてしまったのだろう。
死体や血の海を一時間足らずで片付けた謎の集団は、虚ろな視線でじっと見つめる遠和の方を見向きもしない。無駄話も無ければ人間的な感情を見せることもなく、淡々と仕事を済ませて宇吹家を後にした。びしゃしゃ、と雨音に混じって車のタイヤが水を弾く音がした。
遠和はリビングのソファーに膝を抱えて座り込み、貝のように口を噤んでいた。雨の音に混じって、バスルームからざあざあとシャワーの音が聴こえてくる。
やがて、平坂桜汰がリビングへ戻ってきた。
「明かりつけないの?」
桜汰は断りもなく、ぱちん、とリビングのライトのスイッチを入れる。ぱ、ぱ、ぱ、と何度か点滅してから蛍光灯が光でリビングを満たした。
彼は学校指定のジャージのズボンを履き、上半身は飾りっけのない白いシャツを着ていた。短髪だからか、髪は乾かさず水滴がちらちらとリビングの蛍光灯に照らされて光っている。
桜汰は首にかけたタオルでガシガシと頭を拭いながら、抱えた膝に顔を埋める遠和を見下ろした。
「……宇吹さん、そろそろ元気だしなよ」
「……」
「お母さんは残念だったけど、君は生きてるじゃないか。生き延びれたんだ。それだけで十分じゃない」
「……私も、殺すの?」
顔を埋めたまま、遠和は囁く。
桜汰は肩を竦め、苦笑を浮かべた。
「なんで?」
「だって、殺したじゃない。あの、鋏の……。私、目撃者だし。……口封じ、するんでしょ」
「しないよ。だって、宇吹さんは俺のターゲットじゃないし……。それにたとえ宇吹さんが警察に駆け込んでも無意味だよ。もう死体はない。あの鋏男の死体も、宇吹さんのお母さんの死体もね」
「……」
遠和は僅かに顔を上げ、ちらりと桜汰の様子を盗み見た。
桜汰は勝手に冷蔵庫から持ちだした一リットルパックの牛乳に直に口をつけ、喉を鳴らして飲み始めた。
「……ねえ、あなたは、なんなの?」
「ん? 俺? 言ったでしょ、殺人鬼専門の殺人鬼だって」
「化物なの?」
「結構ストレートだよね、宇吹さんって」
「だって、首切れてたじゃない。あんなの、普通死んでる……」
「うん、普通死んでるよね。でも死なないんだ、俺は。
桜汰は顎にたれた牛乳の筋を腕で拭うと、立ち上がり、廊下へ繋がるドアを開けた。それから数分して、息を切らしながら何かを引きずってきた。
それは、あの殺人鬼の獲物。鋏を構成する一対の刃の片方だ。ぐるぐると布が巻かれていてフローリングの床を傷つけることはないが、それにしては重そうだ。鋏が床を擦れるたびにキシキシと板が鳴いた。
「ひっ」
遠和は息を飲み、身を縮めた。やっぱり、私を殺すつもりなんだ――!
「別になにもしないよ」
桜汰は人懐っこく笑いながら首を振る。けれど遠和はその笑顔が作り物でしかないことを目の当たりにしたのだ、信じられるはずがない。
「これ、ものすごく重いんだ。片方だけでも、多分三十キロはあるんじゃないかな。二つ合わせたら六十キロを超える。こんな重たいもの、あの鋏男はよく持てたよね、しかもあんな軽々と」
そう言われて遠和はようやく違和感を感じた。あんなヒョロリとした痩せぎすの身体で、こんな重いものをどうやって持っていたのか。ただ持ち上げるだけでも苦労するようなシロモノを、わざわざ殺人の凶器に使っていたのはなぜなのか。
それと同時に、目の前の少年に対しても改めて疑問が浮かんだ。彼は斧を使ってこの鋏と打ち合っていたのだ。振り下ろされるだけで腕が折れてしまいそうな重量と、互角以上に渡り合っていた。
「俺たち殺人鬼は、異常なんだ」
桜汰は言う。
「まあ殺人鬼ってだけで十分異常なんだって自覚はしてるけどね。でも、それ以上におかしいのは、この世界を変質させてしまう力があること」
「変質……?」
「うん。簡単にいうと、異常な怪力とか、回復力とかだね。俺は、殺人鬼を相手にするときだけ、異常な怪力が出るんだ。そいつらから受けた傷も直ぐ治るし、殺されたって生き返る。多分あのハサミ男は、鋏を手にしてる時か、もしくは雨の日だけ怪力が出せるのかも? あいつの殺人はいつも雨の日だったみたいだし。まあ、もう殺しちゃったから訊けないんだけどね」
「なにそれ……ほんとに、洋画とかに出てくる殺人鬼みたいじゃない……」
「あはは、そうだね。……俺たち殺人鬼は、それぞれ逆らえない衝動を抱えている。人を殺したい衝動。それが、アクサガ」
「
「うん。欲求とも言える。普通のひとが、美味しいものを食べたい、かっこいい服が欲しい、えらくなりたい。そんなふうに抱えてる小さな欲求。俺たち殺人鬼は、それが歪んでる。宇吹さん、俺はね――殺人鬼どもを、殺して、めちゃくちゃな肉片にして、殺して、バラして、潰して、殺して殺して殺したいんだ。ただ、それだけが俺の性なんだ」
遠和は抱えていた膝を降ろして、ソファーに座り直す。そして改めて桜汰を見上げた。
彼のどんぐりのような双眸が、爛々と殺意で輝いている。獲物を想い涎をすする肉食獣のように、彼は腹の中で殺意を湛えているのだ。
桜汰は遠和の視線に気づくと、すっと殺意を隠して微笑を浮かべた。知らない人間から見れば、ごく普通の少年にしか見えないだろう。
殺人鬼専門の殺人鬼は、言う。
「俺が殺したいのは殺人鬼だけ。だから宇吹さんは殺さないよ。……それに、宇吹さんには大事な用があるし」
「……用?」
「うん。宇吹さんはこれからしばらくの間、いろんな殺人鬼に狙われるからね」
「……え」
「大丈夫。ちゃんと守ってあげる。だって、宇吹さんは――」
――餌にはちょうどいいからね。
殺人鬼はそう言って、再び人懐っこく笑った。
殺人鬼よりアイをこめて カカオ猫 @kakaoneko
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