死 殺人鬼VS殺人鬼
ああ、死んだ。
遠和は悲鳴も忘れ、眼前の死神を凝視していた。鼻息が顔にかかるほど近い。微かに腐臭のようなすえた臭いがした。
鋏がぴたりと首筋にあてがわれる。玄関ドアの曇りガラスから僅かに入り込む光を浴びて、その重厚な刃はぬらぬらと輝いている。この鋏で何人もの人間を殺してきたのだろう、この殺人鬼は。
「ど……して……」
どうして殺されなきゃならないの。どうして殺すの。どうしてそんなに、愉しそうなの。
「に、にんげん殺すの、たのしいから」
殺人鬼はにやりと歯と歯茎を剥き出しにして笑みを作る。引きつった、作り慣れていない笑みだった。
ぎぎき。鋏が閉じていく。その刃の間にある遠和の首を断ち切るために。
「っ」
遠和は最後の瞬間、きつく目を閉じた。祈る神様もいない遠和が最後の瞬間に思い浮かべたのは――
(比良坂くんごめんなさいわたしのせいでごめんなさい)
――自分の巻き添えで殺された桜汰への謝罪だった。
「わかるよ、気持ちは。たのしいよね、殺すの」
めぎゃッ!
鈍いものが肉を食い破るような音がした。続いて、どうぅんっ、と大きなものが壁に激突していく音と衝撃。ぱぱ、と熱くて生臭い液体が、きつく目を閉じていた遠和の顔に降り注ぐ。
「ダメだよ宇吹さん。なんで逃げないの? 玄関すぐそこにあるんだから、逃げないと殺されちゃうよ」
目を開いた遠和の視界に飛び込んできたのは、カーボンファイバー製の斧を片手に笑う桜汰の姿だった。黒く肉厚な斧からは鮮血と肉片が混じりあった粘着質なものがとろりと滴り落ちている。半分に千切れていたはずの首は何事もなかったように繋がっているが、肌や服についた血糊はそのままだ。確かに彼は首を切られ、そして死んだはずなのに。
「う……あ……い、いきてた……の?」
「うん、まあね。取り敢えずそこでじっとしてて。こいつを殺してから話そうか」
桜汰は人懐っこい笑みを浮かべながら、明らかに異常な雰囲気を身に纏っていた。まるでケーキやプレゼントを前にした幼い子どものような無垢な悦びを笑顔から溢れさせているのに、そのどんぐり眼の双眸からは冷酷な狩人あるいは捕食者の殺意を滲ませているように感じられた。
ぎきき。じゃきん!
遠和は息を飲む。壁にへばりついていたはずの死神が、亡霊のように気配を消して桜汰の背後に忍び寄っていたのだ。大きな鋏が再び桜汰の首を切断せんと迫り来る。
「おっと」
桜汰は素早く膝を追ってしゃがみ込む。ちり、と首の代わりに桜汰の頭頂部の髪が僅かに切断され、ぱらぱらと空を舞って闇に溶け込んでいく。
桜汰は左手で血塗れの床に手をつき、ぐるんと身体を回転させて回し蹴りを放つ。その何たる威力か! 風切り音すら聴こえてくるほど鋭い一閃は、死神の左足をやすやすと砕き、メキメキと骨を破壊して、ぶちぶちと肉を破裂させた。左足にグロテスクな肉の花を咲かせた死神は、血の混じったあぶくと涎を吐き散らして、がむしゃらに鋏を振り回す。
ぎぃいんっ! 死神の鋏を桜汰は斧で捌く。火花が散るほどの重い衝撃を響かせながら、二人の殺人鬼はもつれあい、斬りつけ合う。
死神と桜汰の剣閃はしばらくの間互角に続いたが、やがて差がつき始めた。左足を引きずって時折自らの流した血に足を取られる死神は、だくだくと額から脂汗を噴出させて息を切らしている。振るわれる鋏からは先程までの軽快さは失せておて、今では鈍重で覚束ない。
対する桜汰は軽やかで鋭い動きだ。むしろその体捌きのキレはどんどん快調になっている。エンジンが温まり、アクセルが踏み込まれていくように、桜汰の振るう斧は死神の鋏を弾き、なおかつ彼のレインコートを引き裂いて肉をずたずたに千切っては血の花を咲かせた。
「ふううううっっ! ぐ、くう、ぶううあぁああがあああああああああっっ!」
死神が苛立ちと焦燥と怒りの混じった咆哮を上げる。ぎち、と鉄の刃を鋏として繋いでいた金具が外れ、鋏は分解されて二振りの刃と化す。
「へえ、それ外れるんだ」
桜汰はほんの数歩下がって間合いを図りながら、くすくすと愉快そうに笑って言い放つ。
「でもダメだよ。殺人鬼が自分の
桜汰はそれだけ言うと、顔に貼り付けていた笑みを消した。人懐っこい笑みが消えて無表情になった彼は、まるで機械のように無機質で、仮面よりも仮面らしい。遠和はもはや死神よりも桜汰の方が恐ろしく感じていた。
「ぶああああっっ、ぎういいおあああああああっっ! じねっ、じねよ、じんでぐれよおおおおおおお!」
分割された刃を両手で振り回し、駄々っ子のように叫び泣きながら、死神は血の水たまりを跳ねちらして桜汰に迫った。刃が分割されたことで鈍重さは消えて速度は上がっていたが、桜汰はこともなくその刃を捌き切り、返す斧で死神の鼻をこそげ取った。
ぷしょっ、削ぎ落とされた鼻が、血を撒き散らしながら天井へぴったりと張り付き、ほんの少し間が開いてから床に落ちてきた。
桜汰は切り取った鼻を血でぐっしょり濡れた靴下を履いた足で踏みつける。くぐもった湿り気のある音を立てて、鼻は潰れた。
「あ、ば、ばぁ、ばぁがっ……!」
死神は右手の刃を取り落とした。ぺたぺたと己の顔を撫で回し失くなった鼻を顔の上で探しながら、震えて怯えた声を上げる。
もはや死神は、明らかに桜汰に恐怖を感じていた。
「あ、ば……あ……」
「……………………」
ズリズリと後退りを始める死神。桜汰は無言で躙り寄り、肉片の滴る斧を振り被る。
ぱっ、と死神が突如としてレインコートを翻す。鼻を探していた右手を伸ばし、玄関でへたり込んで殺し合いを観戦していた遠和へと迫る。
「ひっ……」
こっちに来る。遠和は鼻の失くなり血と涙でぐしょぐしょのおぞましい形相の死神に恐怖を感じて息を飲んだ。逃げ出したいが、未だに腰に力が入らない。
「おばえ、ひどじち……っ!?」
ぱか。
まるで竹を割ったかのような音がした、ような気がした。遠和と死神の視線が、死神の伸ばした右手に注がれる。
死神の右腕は、肘より少し下のところで消えてなくなっていた。切り取られたレインコートから、じわ、と血が一瞬だけ滲み出すと、せきを切ったかのように血が噴出した。
「ああああがああああああああああああああああああああっっ! でっ、ぅえ、ぅでえええええええええええええええええっっっ!」
「これのこと?」
泣き叫ぶ死神の肩をぽん、と桜汰が叩く。より正確には、桜汰が持った死神の切り取られた右腕が、だが。
桜汰は死神の腕をぷらぷらと玩具を弄ぶように振り回す。切り取られたばかりの、レインコートを着た右腕。桜汰はそれを死神に差し出すと、無表情から一転して満面の笑みを浮かべた。
「ちょっと借りただけだよ、そんなに泣かないで。まるで俺が苛めっ子みたいじゃないか。はい、返すよ。もう失くさないようにね」
今、この瞬間に完全に勝敗は決した。死神は右手が千切れても未だに握りしめていた左手の刃を床に落とし、呆然とした表情のまま桜汰の笑みを凝視していた。遠和は、どちらが死神だったかわからなくなった。
「あ……おば……ぇ……なに……?」
死神だった男が、問う。
「俺? 俺はね」
死神となった男が、斧を振り上げながら答えた。
「殺人鬼専門の、殺人鬼だよ」
そうして、死神は斧を振り下ろす。
どちゃっ。
まるで、雨水をたっぷり吸った泥に石を落としたかのような、そんな湿った音がした。
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