参 死神の鋏

「どうしたの、宇吹さん!?」

 玄関が開き、知った顔が現れた。先ほど別れたばかりの比良坂桜汰だ。彼は差してきた傘を畳みながら、へたり込んで真っ青になっている遠和を見下ろして目を丸くした。

「あ……ひ、比良坂くん、どうして?」

「やっぱり物騒だし、ちゃんと家まで帰れたか心配になって追っかけてきたんだ。勝手に玄関あけてごめんね。でもなんか音がしたから」

 桜汰はそう言ってはにかみながら短髪を掻いた。

 遠和の心臓が喉から飛び出てきそうなほど脈打っていた。なんとか靴箱に捕まってずりずりと立ち上がり、ヘタレた両足に活をいれる。

「それでどうしたの? そんなところで座り込んじゃって……」

「に、二階に、誰かいるみたいなのっ」

 普段学校で被っているひとを寄せ付けない仮面を脱ぎ捨て、遠和は恥を忍んで桜汰に言った。震える声と指で二階の暗がりを示すと、桜汰は眉を潜めて暗がりを睨んだ。

「……宇吹さんのお母さんじゃないの?」

「わ、わからない。靴があるから帰ってるはずなんだけど……。でも、母さんだったとしら様子がおかしいの。電気もつけてないし、うちのお母さん、家から帰ってきたら真っ先にリビングのテレビをつけるんだけど……それもついてないし」

「……そっか」

 桜汰は頷き、靴を脱いで廊下へ上がった。

「じゃ、俺が少し上がって確かめてくるよ。宇吹さんはそこで待ってて」

「で、でも」

「大丈夫だって。じゃ、宇吹さんはそこで待っててね。あ、何かあったら逃げてもいいよ?」

 桜汰はくすくす笑ってから遠和を勇気づかせるように頷き、階段を上がっていく。と、と、と、靴下を履いた彼の足音が軽やかに階下に響く。

 遠和は暗がりへ消えていく彼の背を見つめながら、傘のグリップを手の肌が白くなるくらいきつく握りしめていた。

 ぶうう、ぶうう。

 ポケットの中でスマートフォンが振動する。慌てて引っ張りだし、発信者の名前を見て息を呑んだ。母からの電話だ。

「も……もしもし、お母さん?」

『……』

 返事はない。代わりに帰ってきたのは沈黙だった。

「お母さん……? ね、ねえ、二階にいるの? お母さんってばっ!」

『……』

 一縷の望みに縋るように、遠和は必死に母へと声をかける。遠和は不意に、電話口の向こう側から、遠く響く声が聞こえていることに気づいた。

『誰かいませんかー。お邪魔してますー、宇吹さんのクラスメイトです』

 この声は桜汰だ。つい先程二階へ上がっていったばかりの彼の声が、電話口から聞こえて来ている。

 ならばこの電話は、二階からかかっていることになる。桜汰はこの電話主のすぐ近くにいるのだ。

「……っ、お母さんじゃないなら誰なの!? なんとか言いなさいよ!?」

『……くっ、くっ、ぐっ』

 たまらず叫んだ遠和の悲鳴に近い叫び。それに対して帰ってきたのは、喉の奥を鳴らすような、独特の笑い声だった。低くて、じっとりと湿った不気味な笑い。母ではない、これはもう確定的だった。

「――比良坂くんっっ、すぐ逃げてっ! はやく、はやくにげてえっっっ!」

 遠和はスマートフォンを掲げたまま、階段へ向けて裂帛の悲鳴を上げた。握りしめたスマートフォンから自分の声がくぐもって響く。やはりすぐ近くにいるのだ。

「『え、どうしたのー宇吹さーん?』」

 スマートフォンの通話口と二階の遠くから、桜汰の間延びした声が同時に響いた。

「いいからっ、はやく降りてきてっ! 走ってっ!」

 とっとっとっとっ、靴下の足音がして、桜汰が軽やかな足取りで階段の暗がりから顔を出した。桜汰は薄闇の中で戸惑ったような表情を浮かべた。

「宇吹さん。お母さん居ないみたいだよ」

「そんなのいいから、はやくここから出ましょう! ね、はやくっ!」

 一刻も早くここから離れたい遠和は頭上の桜汰を急かすが、桜汰は首を傾げながらゆっくりと階段を降り始めた。

「なんでそんなに焦ってるの? 出るってここが宇吹さんの家なのに」

「なんでもいいからっ、ここからで――」

 遠和は、桜汰の背後に黒い影を見た。その影は、薄闇の中で合っても鈍く輝く二枚の鉄の刃を振りかざしている。ああ、それはたぶん、大きな鋏。二枚の分厚い鉄を研いで重ねあわせたそれは、まるで肉食獣が獲物を前に牙を剥くかのように勢いよく開かれた。そして桜汰の首筋に充てがわれて――

「比良坂くんっ!」

「え」

 遠和が叫び、桜汰が首を背後へ向けた。


 ばちんっ。


 ふしゅうっ、と空気が抜けるような音が聴こえた。

 遠和は目を見開く。桜汰の首は、半分に避けていた。もう半分の皮膚でかろうじで繋がっている頭が、ぶらんと人形のようにぶれた。

 桜汰の身体はぐらりと揺れ、瞬間、裂けた首の皮膚から覗く血管が血をだくだくと噴出させ、壁や階段を赤黒く濡らしていった。桜汰はビクビクと痙攣しながら白目を剥き、血を吸った靴下がズルリと階段を滑らせて、彼の身体を強かに廊下まで転がり落とす。

「あ……ひ……あ……」

 階段から勢いをそのままに転がり落ちた桜汰の身体は、まるで奇妙なモニュメントのようだった。投げ出された手や足が糸の切れた操り人形のようで、滑稽で不気味だ。

 遠和の喉は痙攣して切れ切れなうめき声を漏らすだけで、悲鳴を上げることが出来なかった。握りしめていた傘のグリップが汗で滑り落ち、からん、と無感動な音を立てる。

「や……あ……ひぃ……」

 ぎし、ぎし、ぱちゃ、ぎし、ぱちゃ。

 二階の暗がりから、長靴を履いた足が降りてくる。それは桜汰の流した血を水たまりで遊ぶ子供のように踏みつけた。

 血塗れの鋏を携えているのは、血に濡れて真っ赤なレインコートを着た背の高い男だった。まだ若く、そして病的なまでに痩せていて、一切の日光を拒否してきたかのように白い肌をしている。痩せすぎて落ち窪んだ双眸は、病的な容姿には不釣り合いなほどギラギラと肉欲的な光を宿していた。

 まるで、死神。脳裏に鎌を携えた骸骨の姿が浮かぶ。この男は、死神だ。

 私は、今日、ここでこの男に殺されるのだ。

「っぐ、く、ぐっ」

 喉の奥を鳴らして、死神は笑う。階段から降り立った死神はレインコートの前ボタンを開いて懐からペーパーウエスを取り出すと、血に濡れた鋏を愛しげに拭きあげた。血の赤がこすり取られて、ぬらぬらとした脂ぎった刃が輝きを取り戻す。

 ペーパーウエスを投げ捨てると、死神はゆっくりと遠和を見据えた。

「……見つけた」

「……え……?」

「みつけた見つけたぼくが一番だみつけたくっ、ぐ、くっ、っぐ、ぐひっ」

 シャキっ、死神は嬌笑を浮かべながら、鋏を開いて遠和へ向けた。

 ああ、殺される。逃げなきゃ。でも、――足が動かない。外は直ぐそこなのに、役に立たないふくらはぎに遠和は爪を立てた。

 ばしゃ、ぎし、ぱしゃ、ぎし。

 血の水たまりを楽しげに踏みしだき、床を軋ませながら、レインコートの死神は遠和のもとへにじり寄る。

 あと十歩……あと五歩……あと一歩。

「くっぐっ、くっ――しんじゃえ」

 死神の鋏が、遠和の首を捉えた。



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