弐 暗い家

 放課後、雨が降り始めた。6月の梅雨の盛りに傘を忘れるような生徒はいない。遠和は飾りっけのない青い傘を広げ、じっとりと陰鬱な雨空の下に踏み出す。

「宇吹さんの家、同じ方向だったんだね」

 少し後ろから、クラスメイトの少年が遠和に話しかける。

 短めの黒髪、やや丸顔でどんぐり眼、人懐っこそうな笑み、平均的な体つきとやや小柄な身長。それが比良坂桜汰ひらさかおうたという少年だ。こうやって一緒に帰るほど親しい間柄ではない。そもそも同じクラスではあるが、まともに話したことも無かった。

 クラスの中ではそれほど目立つ人間ではないが、敵も作らない性格のようだ。男女問わず人懐っこく喋っていて、よく回る表情や口、やや小柄な体躯が小動物を思わせる。遠和の苦手なタイプの人間だ。

「ココらへんってバスがないから、歩くと遠いよね。あ、俺普段は原付きなんだけど、雨の日は乗れないからさ」

「……そう」

「原付きの免許とったばかりのころさー、っても先月なんだけどね。雨の日にかっぱ来て学校行ったら校門のところですっ転んじゃって。それから雨の日は絶対乗るなって生徒指導の岡村に言われてさー」

「……へえ」

 桜汰の口はよく回った。露骨に鬱陶しがっている遠和の顔色も読まず、雨空には似つかわしくないほど、からからと。

 ――おしゃべりな男だ。遠和はそっけなく返しながら、内心ため息をついていた。

 教師が一人殺されて緊急職員会議の結果、保護者が迎えに来れる生徒以外は集団下校するように指示された。少なくとも一人での登下校は禁止され、住居が近いもの同士で行動するように厳命されたのだ。

 登校は出勤する父の車に一緒に乗せてもらうとして、これからしばらく間、このおしゃべりな少年と下校しなくてはならない。遠和はひどく陰鬱な気分になった。

 遠和の家は住宅街から少し外れた郊外にある。このあたりには民家は少なく、バスも通らない。今は徒歩通学だが、梅雨が開けたら必ず自転車を買ってもらおう。

「それにしても怖いね。先生、いいひとだったのに」

 桜汰はそう言いながら、少しだけ表情を曇らせた。

 殺された数学教師の人格なんて編入したばかりの遠和は知らないし、興味もなかった。殺されたことは可哀想だが、それだけだ。それ以上の気持ちにはならない。自分よりも付き合いの長かったはずのクラスメイトたちも似たり寄ったりの反応だった、桜汰以外は。

「……いいひとかどうかなんて、関係ないのよ。異常者ひとごろしにはね」

「うん……まあ、そうなんだろうけど」

 遠和の皮肉混じりの言葉に、桜汰は眉尻を下げて言葉を濁す。ようやくおとなしくなった。遠和は少しだけ溜飲が下がる思いだった。


 しばらくの間、二人は黙々と歩いた。雨が傘のナイロンにぶつかって弾ける、ぱつぱつぱつ、という音だけがあたりに響く。

 寂れたアパートの前に差し掛かり、桜汰は顔を上げた。

「あ、ここが俺の家」

「そう。それじゃあ」

 遠和は立ち止まらずそのまま歩き去るが、後ろから慌てて桜汰が駆け寄ってきた。

「あ、待ってよ、宇吹さんの家まで送るから」

「いいわよ、すぐ近くだもの」

「ダメだって、女の子ひとりじゃ危ないよ」

 遠和は思い切り顔を顰めた。

 殺された教師は中年の男だ。それなら女の子であろうと男の子であろうと危ないはずだ。一人では危ないというのなら、もし犯人が今二人に襲いかかってきたとして、この少年は遠和を助けてくれるのか? ひとりで逃げ出してしまうのではないか?

 余計なお世話よ。遠和は喉まで出かかった言葉を理性で飲み込み、代わりにため息を吐いた。

「すぐそこだって言ってるじゃない。私のことはいいから、比良坂くんも風邪ひくから早く家に入りなさい」

「でも……」

「いいからっ。……心配してくれるのはありがたいけど、必要以上に関わらないで」

 桜汰が口を開く前に、遠和は歩きを早めた。殆ど競歩に近い速度だ。長い入院生活ですっかり鈍った遠和の心臓はすぐに悲鳴をあげて息を切らす。

 路地を曲がってから、遠和はちらりと振り返った。桜汰の姿は無くなっていた。

 これじゃまるで私が逃げたみたいじゃない。息を整えながら、遠和はイライラと頭を振った。


 家に帰り着き、遠和は鍵を取り出してから気づいた。鍵が開いていて、チェーンもかかっていない。

 母がパートからもう帰って来ているのだろうか。やや神経質なところがある母がチェーンもかけないなんて珍しいが……。

「……ただいま。お母さん、もう帰ってきてるの?」

 バサバサと雨を払った傘を傘立てに突き刺し、遠和は家に入った。

 家の中は薄暗い。雨空のせいで日光がほとんど入らないからだ。外から響く雨の音が、妙に耳についた。

 母がパートの際に履いていく靴が置いてある。雨に濡れていてまだ乾いていない。やはりもう帰ってきているようだ。

 遠和はローファーを脱いで愛用しているスリッパに履き替え、リビングとキッチンを覗いた。

「お母さん、帰ってるんでしょ?」

 リビングのテレビは沈黙したままで、ローテーブルにはお茶もお菓子も見当たらない。キッチンには火の気がなく、夕食の支度の様子も伺えない。母の城ともいえるこの二箇所に母の痕跡が見当たらず、遠和は不安を感じた。

「……お母さん?」

 母を呼ぶ声が微かに震える。

 ドチャっ。

「っ……」

 不意に二階のどこかで、何かが床に落ちる音がした。硬くて、けれど粘着質で湿り気のある音だった。

 ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、きし。

 次いで足音がした。床が重みに耐えかねて軋む音。痩せ気味の母ではこんな音はしない。


 ――首を切られて殺されてたんだって――


 教室で聞こえた誰かの言葉が遠和の背筋を冷たく舐める。寒気に震える自分の体を抱きしめながら、脳裏につい数分前まで余計なお世話と思っていた桜汰の顔が思い浮かんだ。――やっぱり一緒についてきてもらえばよかったかも……。

「っ……はぁ……」

 遠和は両手で口を塞ぎ、足音を殺して玄関まで引き返す。そして先ほどまで雨から身を守ってくれていた傘を、今度は身を守るための武器として掴んだ。プラスチック樹脂とアルミの骨で出来たそれは武器として振るうには頼りないが、素手よりは幾分かマシだ。

 二階に誰かがいるのは確かだ。だが、母が家に帰ってきている可能性も高い。確かめなければいけない一方で、今すぐこの家から逃げ出すべきだと、頭の一部の冷静な箇所が警報を鳴らしている。

 未知の恐怖が金縛りのように遠和を縛り付ける。遠和は玄関に突っ立って傘を握りしめたまま、二階へ続く階段を凝視していた。

 二階へ続く階段は、雨空の暗闇に沈んでいる。窓から入る光量が少なくて、じっと目を凝らしてもなにも見えない。

 母は二階にいるのだろうか。

 それとも、違う人間がいるのだろうか。

 ――はぁ。はぁ。

 整えたばかりの呼吸が乱れる。

 怖くてたまらない。

 慣れたはずの家が、今は見知らぬ顔をしているようだ。


 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしたらいい。


 と、そこに……。

 ピンポーン。

「ひっ」

 玄関のチャイムの音が響いた。遠和は飛び上がらんばかりに驚き、どたっ、と玄関マットに尻もちをつく。

 いつからそこに居たのか。玄関ドアに嵌めこまれた曇りガラスに、何者かの影が映り込んでいる。影はじっと遠和を見つめているようだ。

 遠和は立ち上がることも出来ず、玄関の影を食い入るように見つめていた。





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