第25話 ファースト・ミッション
魚住幸恵は過去時警察に不忍池周辺の立ち入り禁止と安全確保を指示した後、脳内に計算プログラムを走らせている。
一〇両編成の車両の長さは約二〇〇メートル、連結部を入れて余裕を見れば二二〇メートルはある。それでも北西に二時の方向で日本列島のように弓なりに着地させれば陸地に直撃せず、水面に降りられるだろう。
瞬は着地間際に列車を浮上させて落下の衝撃を緩和するだろうが、五〇〇トンを超る重量を支えなが軟着陸するだけのサイを発動力が残ってはいまい。衝撃の程度によっては死者が出るおそれもあった。逆行による死者の変更はもっとも忌むべき事態であり、避けねばならない。
むちゃな発想だが、瞬の示唆したようにSF防壁で列車の下部全体をカバーするくらいしか魚住も対策を思いつかない。
SF防壁は、時空防壁を超微細(Super Fine)に展開して連結させる高度な技術だ。通常のガロア防壁と異なり、スポンジのような働きをして衝撃が吸収できるイメージで、実際、レスキューの現場でも多用されている。だが、車両幅約三メートルなら、底面積は一車両につき六〇平方メートル、全車両で周辺部も入れれば八〇〇平方メートルを着水時点で覆わねばならない。
微細な作業を想定するSFサイは本来、かくも広面積をカバーできる空間操作ではない。同時に大規模展開するにはどうすればいいか。理論的には簡単だ。時間操作で展開されたSF防壁を順行させていき、時間をそろえればいい。
「猿橋君、順次、全車両にSFサイを展開、粒度は荒くていいわ。犬山補佐は後ろ五車両、織機主査は前の五車両につき逐次、展開されたSFサイを後でいう目標時刻に順行させて」
――了解!
三人とも簡単に請けたが、現実には綱渡りに近い芸当だ。
「鯖江主任、不忍池の措置状況は?」
「十二組のカップルがいましたが、九組につき過去時警察がテレポート済みです」
警察所属のクロノスは実直な職人型が多い。電車の落下で爆破は生じないし、危険性は大きくない。夜間でボートが営業時間外だったのがせめてもの救いだ。
「みんな、いい? 目標時刻は二二時二〇分二〇秒。覚えやすいでしょ?
プラマイ三秒以内なら誤差はオーケー。これからエンハンサーに流すデータを参考にして。瞬はできるだけ軟着陸を、サルは意地でもSFサイを全下部に展開、若菜とサコは目標時刻に全部そろえて」
むちゃな指示だとはわかっている。だが、不可能ではない。あの四人なら。
魚住もいざとなれば現場に移動してテレポートするつもりだ。だが、全情報が集約される本部を離れれば、全体の状況を把握できなくなる。最後の最後にすべきだろう。
乗客を安全な場所にテレポートさせれば話は早いが、魚住が入るとしても二人のクロノスで千人近い乗客を安全に退避させるのは時間的に不可能だった。全員の命を救いたいなら、不時着のほうが確実だ。
†
――どこが、余裕なものか……。
織機砂子は空中列車の中で、感嘆と絶望の入り混じった気持ちで、朝香瞬を見ていた。
瞬はサイの大量発動で立っていられず、運転席に座っているが、額にはあぶら汗をかき、肩で息をするありさまだった。体中が震えている。体重の数倍のバーベルを持ち上げているような感覚ではないか。
瞬間的には可能でも、一千ガロアを超えるサイの発動は、何秒も維持し続けられるものではない。必ず息継ぎが必要だ。
瞬がやっている作業は単純だった。サイコキネシスで、五百トンくらいの質量に浮力をつけては一瞬休み、重力がかかると少し落下させて、再びサイを発動する。少しずつ降下させているわけだ。
さっき砂子は乗客に対してごく簡単に事情を説明したうえで、しっかりと手すり、つり革につかまり、揺れに備えるよう車内アナウンスをしたが、列車に乗っている人間からすれば、乱気流に巻き込まれた飛行機内にいる感覚だろう。空中列車の中で身動きとれないせいか、悲鳴はあがるが、幸いパニックにはなっていない。
もしかしたら瞬は、最初からこの事態を想定していたのではないか。だから、魚住の指示に従わず列車内にとどまり、綱渡りのサイを発動したのではないか。
砂子は魚住の指示通り、SF防壁を目標時刻に順行させるウォーミングアップに集中する。難しい命令だが、瞬のやっていることに比べれば簡単だ。若菜もやってのけるだろう。
魚住が設定した目標時刻は、当初求められた九〇秒などとっくに超えている。瞬は何も言わないが、砂子は意識の喪失だけが心配だった。
†
「時間は余裕を見てありますので、落ち着いて移動してください」
犬山若菜はポーカーフェイスで乗客にうそをついた。
瞬のサイで列車が夜空に飛び出したとき、若菜は猿橋のテレポートで何とか最後尾の一号車に飛び乗っていた。
猿橋に指示して一号車にサイを集中して空中に固定しているため、揺れはほとんどない。
一号車の乗客には適当にうその事情を説明し、二号車に移ってもらう。そうすれば猿橋のサイは使うが、本番でのサイ発動量が一両分、浮く。一号車の乗客数が比較的少なかったことから、若菜が現場判断で行った措置だ。
「ほな、アネさん。真ん中へんの車両に移りまひょか」
強がっているのか、猿橋の声は明るい。
本来、猿橋の得意とするSF防壁は部分展開を前提とする。これを一車両全体に展開できる瞬間があるとしても、一秒にも満たないはずだ。その一瞬をとらえて、SF防壁を目標時刻へ順行させていくしかなかった。ちなみに逆行中の逆行は激流に逆らうようなもので、結界を破るための膨大なサイを費消するため現実的でない。
遠方になるほど防壁展開は難しくなる。せめて中央の車両に陣取りたいのだろう。
「こちらA班。魚住課長、一号車の乗客の待避を完了。指示願います」
無線で本部に伝達する。すぐに魚住の声がした。
――ありがとう。……瞬、最後尾の車両は維持不要。その位置から落下させてもいいわ。ちょうど北池に落ちるから。残りの車両にだけサイを集中して。
さすがにスパコンは判断が早いうえに、豪胆だ。これで瞬の負担も十分の一だけ軽くなるはずだ。
若菜はすでに発動のウォーミングアップを済ませていた。攻撃型の時間操作士である若菜のサイは瞬発系が多く、どちらかといえば空間操作士のそれに近い。いざとなれば着水時点で乗客だけ数分後に順行させれば、強い衝撃を受けずに済むはずだ。
もっとも若菜は、車両の落下事故についてはそれほど心配していない。瞬なら高度を少しずつ下げながら、うまく落下させるだろう。負傷者は出ても、死者は出さない程度の軟着陸は、超一流のクロノスならできるはずだ。
若菜の心配はほかにあった。若菜が猿橋について、車両を移動する目的はもう一つあった。クロノスPである。
史実の事故発生時刻の数分前、プラットホームの一号車停止位置にいた若菜と猿橋は、一車両ぶん離れていても、肌でそれと感じられる強力なウェルズ反応に気づいた。若菜が酔っ払いのふりをし、予科生のカイロスたちと私服警官がごった返す中、オレンジ色の光とともに姿を現したクロノスは、痩せた虎が立ち上がったような長身の中年男だった。瞬との二度目のデートで目撃した天兵マーズに身体的特徴が酷似していた。
不審者を捕縛しようとした猿橋を止めたのは、クロノスPに太刀打ちできないと考えたからだ。
A班だけではマーズのパイロキネシスに対抗できない。だが、幸い史実のテロ行為に発火能力は用いられていなかったらしい。とにかく史実の事故発生を阻止した後、AB両班、さらには魚住も加えた五人のクロノスで、マーズを討滅するしかないと考えた。マーズの存在を本部に伝達すれば、パニックに陥る。まずは事故回避を優先したわけである。
だが、猿橋の怒鳴り声に気づいたのか、マーズはすぐにテレポートで姿を消した。その後の状況から判断すると、マーズはこの車内にいるとみていい。
マーズと正面から戦って勝てるとは思えない。だが、不意を突いて心臓か脳天を若菜自慢の≪時槍≫で貫けば、命は奪える。最低でも、すきを見て数分後に飛ばせれば、マーズの魔の手から逃れられると考えた。
下方で、大きな水しぶきの音がした。二号車の連結部分が壊れ、重力で一号車が落ちた音だ。巨大な水柱が上がっているに違いない。
揺れがいったん収まった車内を歩く間も、空中列車の床からは小刻みな振動が伝わってくる。
(瞬一郎君が、がんばっている……)
若菜は、無事にミッションが終了したら、瞬を抱きしめてキスをしてやろうと思った。そのためにはマーズを討滅せねばなるまいが。
車内では乗客たちが震えながら手すりに必死で捕まっている。無辜の人々を守らねばならない。
若菜は猿橋に続いて、第三号車に入る。
瞬時に見渡す。……中に、異様に長身の男は……いなかった。
†
「落ち着いて隣の車両にお移りください。しっかりとつり革、手すりをお持ちください」
織機砂子は微笑みながら、運転室のある一〇号車の乗客を隣の九号車に誘導した。ウォーミングアップは本来、精神を集中させて行うが、一流のクロノスはあらゆる場面でサイを貯めていく訓練を積んでいる。
「こちらB班。一〇号車内の乗客の待避を完了。一〇号車にSF防壁の展開不要です。わたしが朝香君を守ります」
なぜだろう、瞬を守るという宣言に心がときめきを覚えている。
――了解。
無線から魚住の声がした。
――朝香君、現在位置から南西方向に、二七〇メートル。そのまま、バックする感じね。まず、不忍池の上に飛ばしてくれる?
魚住は気軽に指示を出しているが、並みのクロノスには、とうてい不可能な技術だ。
――その後、調整、しましょ
極度の緊張のせいか、魚住の声が微かに震えている。
集中を切らせないために、せめて、砂子が通訳することにした。豪胆なスパコンでさえ、冷静になり切れない危機状態といっていい。
「了解です」
瞬は眼を閉じたまま、軽くうなずくと、やがて眼を見開いた。
列車が蒼光に包まれる。やがて、光が消えた。
砂子が、窓の外を見ると、景色がすこし変わっている。
――お見事! 目視だけど、安全確認は終了済み。ゆっくり下して
瞬は眼を閉じて、小さくうなずく。砂子が伝える。
「了解です」
高度が下がっていく。飛行機で乱気流に遭った時のような浮遊感が連続する。その程度の落下にとどめていられるのは奇跡に近いのだが。
――約十秒後の目標時刻にSF防壁を展開。カウントダウンに入ります。
泉のカウントダウンが開始された。
……四
……三
……二
……一
カウントが終わり、砂子が最後のSF防壁を順行させた時――
――不忍池にウェルズ反応! 数十の時間防壁を確認! いずれも一〇ウェルズを超えています!
――計画中止! 瞬、列車を緊急浮上、急いで!
砂子の目の前で、瞬が両手を広げ、唸り声をあげて、サイを展開する。たしかな浮遊感があった。数十メートルは上がったろうか。
魚住の舌打ちが無線ごしに聞こえた。
砂子は窓の外から、下を見た。無数の時間防壁が、不忍池を埋め尽くすように展開されていた。地雷原だ。これに衝突すれば、異なる時間に列車も人も試算して飛ばされる。クッションの役割を果たすSF防壁は繊細なだけにガロア数値は低い。まして空間防壁ガロアより強力な時間防壁ウェルズに接触すれば、すぐに破られる。剣山に着地するようなもので、列車は数百に砕け折れるに違いない。
若菜と砂子が時間をかければ地雷原の撤去は可能だが、時間的に不可能だった。
敵は不忍池への不時着を読んでいたのか。いや、列車内に乗っているなら、容易に知り得たはずだ。
空中列車の不時着先など、街のど真ん中にあるだろうか。砂子は必死で考えを巡らせた。
――泉、いちばん近い軍鉄の線路のデータを瞬に送って。多少のけがは仕方ないわ。
衝突を避けるため不忍池まで飛んでしまったが、なるほど車両を線路に戻せば話が早い。今は緊急停止ですべての列車が止まっている。可能なはずだ。
突然、車両の窓から明るい光が差し込んだ。
泉の悲鳴が上がる。
――パイロキネシスです! 車両が炎に包まれています!
蟹江を死なせた、あの「無駄に背の高い男」の仕業ではないか。だが砂子の心は怒りよりもむしろ絶望に支配されていた。
絶望する砂子の傍で、低い声がした。
「課長、隅田川までの距離は?」
無線の向こうで、魚住が息を呑む気配が分かった。
――エンハンサーに位置データを送ったわ。東南東に二・五キロ以上、距離があるけど、やってくれる? 私も他に方法を思いつかないから。
「了解です」
砂子は驚嘆しながら瞬を見た。
瞬が発動限界をとっくに超えている様子は、一目瞭然だった。いつかエレベータ前で力尽きて倒れていた瞬の姿を想い起こした。瞬は毎日限界まで鍛錬することで、発動限界を一ミリガロアずつでも高め続けていたに違いない。
この若者はあきらめるという言葉を知らないのか。
もう何度目だろう、全車両を蒼光が包んでいく。
フェードアウトした後に、車窓からはスカイツリーが間近に見えた。
突然がくんと衝撃があり、急速に落下する嫌な降下感が砂子を襲った。
瞬が運転席に突っ伏している。過剰発動で気を失っているようだ。
「朝香君!」
砂子が必死で揺り起こすと、瞬が意識を取り戻し、燃え盛る列車はふわりと空中に止まった。
――課長、着水地点を航行中の船舶が四隻あります!
数瞬の間をおいて魚住の声がした。
――最下流の一隻に即時停止命令を発令。目標時刻を二二時二五分二五秒に変更して、さっきと同様にSF防壁を展開。数分程度なら燃えてもだいじょうぶだから、火は放っておくのよ。軟着陸に集中して。
――課長、それでも他の二隻は離脱不可能ですが。
――私がこれからテレポートして、退避させるわ。後は無線で。みんな、よろしくね。
瞬の顔面は蒼白だ。とっくに発動限界を超えているが、全精力で巨大な質量を支えている。
どうすればいい……。
砂子は瞬の震える身体を祈るように見つめながら、決心した。砂子も限界までサイを発動して、列車を支えればいい。
――こちらB班織機。私は朝香君のバックアップに回ります。若菜先輩、SF防壁の順次展開、全部、お任せします!
――A班犬山、了解。
砂子はプラチナ色の光壁を展開した。
「朝香君、わたしが列車の時間凍結をすれば、もう少し時間を稼げるわ。あなたは休んで」
≪時間凍結≫は膨大な差異を費消する時間操作だが、ウォーミングアップは済んでいる。砂子の力なら瞬に十数秒程度の休息を与えられそうだった。
だが、想像を絶する重量だった。時間と空間で操作は違うが、存在が持つエネルギーを保持する意味では同じ作業だ。瞬はこれほどのサイ発動に黙って耐えていたのか。
瞬は袖で額をぬぐうと、大きく息をついた。
「助かったよ、限界が近かったからね……」
「朝香君はもうとっくに発動限界を超えているはずなのに、なぜまだ展開ができるの?」
「技術課の山さんに一時的にエンハンサーを返してもらっているんだけど、疲れ方が違う気がするんだ。あの人、ほとんど無言だから、説明はなかったけどね」
砂子は小さく笑ったが、もう気が遠くなりそうだった。
「ごめん……お願い」
「了解」
時間凍結が終わると、サイコキネシスにタッチする。約十数秒ごとに交代するが、過重負担のため、交代間隔が短くなっていく。
†
炎に包まれた車内の温度が急上昇している。
「二号車の皆様は、三号車にお移りください。まだ時間は十分にあります」
犬山若菜は、不忍池への不時着が失敗するや、三号車以下の切り離しに着手していた。もともと一号車の落下を見た乗客は危険を察知し、生き延びようと車体が安定する度に二号車から三号車に移っていた。若菜はこの心理と行動を利用しつつ、時間防壁でパニックを阻止しながら、四号車に乗客を退避させていた。
「こちらA班。四号車への移動を完了。三号車以下の乗客はすべて退避済みです」
――瞬、そのまま落下させて。私が受け止めて、移動させるから。
魚住はすでに隅田川河畔にテレポートしている。スパコンなら適切に処理してくれるだろう。
四号車までに姿はなかったが、列車を炎で包んだ者はクロノスPであろう。
さらに五号車に移すの時間的にも人数的にも無理だ。四号車の最後尾のドア付近は危ない。ドアが開けば落ちる。若菜が乗客を退避させようとすると、車両が反動で持ち上がる浮遊感があった。
二号車、三号車の連結部分が重力で切れ、落下していく。これでSF防壁の展開は四~九号車にまで減った。重量も少なくなっている。軟着陸の成功確率は上がったはずだ。
「アネさん、そろそろSF行きまっせ」
「了解」
砂子が抜けたぶん、車両数はむしろ増えている。猿橋が展開を完成させる時点をとらえ、目標時刻を狙って順行させていく。パイロキネシスの火でSF防壁が傷つくため、さらに順行操作はきわどい作業になっていた。
最後の四号車にSF防壁を展開し終えた時、猿橋はうつぶせに倒れた。無理もない。過剰発動で意識を消失したのだろう。立派だった。しばらく休めばいい。
若菜は無事にSF防壁の順行作業を終えた。
泉のカウントダウンが始まり、終わろうとしたとき、無線ごしに悲鳴が聞こえた。
――隅田川着地地点に、ガロア反応! 数十の空間防壁です! いずれも三〇〇ガロアを超えています!
もう打つ手はない。
魚住の声がした。
――私はひとつでも多く敵の防壁を壊していく。動けるクロノスは、下部にできるかぎり防壁を展開して。瞬と砂子はできるだけ粘ってから、着水して。クロノスには限界点での離脱を命じます。
ガロア防壁の地雷を踏まずに不時着することは不可能だ。死者が出るだろう。だが、史実よりは多少ましな数値になるかも知れない。
高度が下がっていく。あと数メートルで、敵のガロア防壁に接触する。SF防壁は目標時刻に発動された後、消えていた。列車の炎はますます燃え盛っていた。早く着水して火を消さねば焼死するだろう。だがこのまま着水すれば、列車も乗客も四散する。
このような場合、退避できるクロノスは、単独の脱出が義務付けられている。それが、魚住の言った「限界点での離脱」の意味だった。乗客を見捨てて自分たちだけ助かるわけだ。いちおう終末回避のためと正当化されてはいる合法行為だが。
若菜は隣の五号車にウェルズ反応を感じ取った。
きっと見やると、マーズがいた。役目を果たしたとみて、逆行を終え、帰還したのだろう。
内務省は臨機応変に対応してきたが、敵のほう一枚上手だ。敵には相当強力な時流解釈士が味方しているに違いない。テロの成否は今や、逆行後の救済の可否にかかっている。敵も逆行ミッションの阻止に全力を注いでいるようだ。だが敵とは誰なのだ? 反政府組織≪昴≫なのか。それとも……。
†
織機砂子はごく自然に、狭い運転室の小さな運転席で、瞬に寄り添うように座っていた。
死者が二百人以下なら逆行した意味があったといえるだろうか。命を奪われる人は入れ替わるわけだが、運不運の問題なのだろうか。
「あの数のガロア防壁を無効化するには、何時間かかかるだろう。もうフルマラソンを二度やらされた気分だし、さすがにもう限界だな」
「……無理なら……仕方ないわ……替わって」
砂子は時間凍結を終え、サイコキネシスにバトンタッチする。あと数回が限度だろうか。
「……織機さんは、全員を助けたいんだろ?」
砂子は唇を噛んだ。何度そう言い聞かせて、失敗してきたことか。
「一万ガロアもあれば、不時着できると思うんだ。僕は前に、君にそっくりの恋人と二人で、一万ガロアを出したことがある。クロノスは心を通い合わせれば、サイを統合できるんだ。成功させたのは、ガロア同士の場合だけどね……」
サイ発動中の瞬は苦しげだが、恋人にささやくような声だった。砂子は瞬の一人称、「僕」に愛おしさを覚えた。
忘却の日の前、砂子は誰かを心から愛していたはずだった砂子が誤った空間操作で恋人を殺してしまった記憶に封印されているが、そのころの愛の温もりとときめきだけは心が覚えていた。
この目の前の青年こそが、かつて砂子が愛した恋人ではないのか。
「僕ひとりじゃ無理だけど、君とふたりなら、まだみんなを救えるかも知れない」
「どうやれば、できるの?」
「その時は……」
「……どうすれば、できたの?」
「僕たちはずっと抱き合ってキスをしていた。恋人同士だったから……」
砂子は瞬を自分のほうに向かせると腕の中に身体を預け、首筋に手を回した。自分でも驚くほどの積極さだった。砂子は自分の行為だとは思えなかった。
瞬の蒼く光る瞳が、砂子の目の前にあった。
「最後の準備はあなたから、して……」
「四号車から順次、最大出力の光壁を展開しながら、一両ずつ下していく。いいね?」
砂子はうなずいたが、眼を閉じなかった。
瞬が唇を重ね合わせてきた。砂子は唇を吸い返した。
普段と同じように精神を集中させて、サイを展開する。いつもとは全然様子が違う。
ふたりは虹色の光のカーテンに包まれている。
唇は塞がれていて、言葉はない。が、ふたりの心が通い合っているせいか、サイの発動はひとりでやっているようにスムーズだ。
†
魚住はサイの発動を止めると、虹色のカーテンにくるまれた四号車が静かに着水する様子を唖然としながら眺めていた。
――時空統合壁を確認! 一・七アインシュタインを計測しています!
空間防壁ガロアを無効化するアインシュタインの光のカーテンが隅田川におろされていく。
瞬と砂子が追い詰められて力を合わせ、二人で天翔のクロノスとなった瞬間だった。
――いける。
魚住は今回のミッションだけではない。終末回避も夢ではなかった。
瞬と砂子の共同作業で五号車、六号車が次々と着水していく。指示しておいた救急消防隊が救出活動を開始している。
七号車、八号車、作業に慣れてきたのか、ジグザグを作りながら、列車が隅田川に着水した。
だが、九号車をきれいに着水させた時、虹色のカーテンがゆらぎ、ふっと消えた。
†
「ファースト・ミッション完了だね」
織機砂子は、自分を抱きしめていた瞬の腕の力が消えていくのを感じた。
「でも、ごめん、砂子さん。力が、尽きたみたいだ……」
瞬はよほど内務省での初仕事を成功させたかったのだろう。乗客を助け終えたとわかると、最後の心の支えがなくなったらしい。
ふたりを覆っていた虹色のカーテンが消え、急速な降下感がふたりを襲った。
砂子は瞬を夢中で抱きしめた。それ以外に思いつく行動はなかった。
列車がガロア防壁に次々と激突し、四散していく。
ふたりは川の水を浴びてびしょぬれになった。無線も吹き飛ばされていて、連絡が取れない。
オレンジ色のガロア防壁を間近に感じた砂子は、とっさに時間を凍結させた。
「朝香君。さっき、わたしを下の名前で呼んだよね?」
瞬は砂子に微笑むが、半ば意識を消失した様子だった。
「そうだったかな……」
「瞬君、最後にテレポート、できない? そうすれば助かるわ」
「……ごめん、もう、無理みたいだ」
瞬は最後の一滴まで全精力を使い切ったのだろう
瞬といっしょに死ぬのなら、それで構わない気がした。初めての気分だった。
「……プラチナ色に輝いている君の瞳は、最高にきれいだった」
瞬は静かに目を閉じた。
「わたし……瞬君を誤解していたんじゃない。ずっと誤解なんてしていなかった。わたしが誤解していたのはわたし自身……。わたしは瞬君を最初から……好きだったんだ……」
砂子は、生きたい。どうしても生きたいと思った。
砂子は瞬に顔を近づけると唇を重ね合わせた。
最後の力で精いっぱい時を順行させる。そのころには誰かがこのあたりのガロア防壁を除去してくれているはずだ。
砂子は強いプラチナ色の光に、瞬と自分を包み込んだ。
天翔のクロノス ◆100万ガロアの防壁 白川通 @tshirakawa
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