2.アルタの想い出
今からもう53年も前の話です。
月が変わって間もない7月の3日。朝から雨が降り続いていたその日の夕方、ヒマリという少女が、路上の隅に打ち捨てられている私を見つけました。
一度はそのまま通り過ぎていきましたが、夜に台車を押してやって来て、彼女は私を自宅へと連れて帰ってくれました。
私の記憶は、その日ヒマリちゃんの家で起動された時から始まります。
「お~、動いた」
髪を無造作に伸ばした、少しやつれ気味の少女。それが、私が最初に見たヒマリちゃんの姿でした。
「…こんにちは」
目覚めた私は、壁にもたれた姿勢で座っていました。そばには数枚の濡れたタオルが置いてあり、ヒマリちゃんがそれで私を拭いてくれたようです。
「やっほ~、私が分かる?」
ヒマリちゃんは私の前に座り、ひらひらと手を振りました。軽い口調と行動とは裏腹に、少し緊張した面持ちでした。
「はい、あなたが分かります」
「ほんと!? やった! さすがロボット」
彼女は大げさなほど喜んで、手を叩きました。
ああ、この辺りはトーワくんとそっくりですね。
「えっと、私はね、ヒマリって言うの。あんたの名前は?」
「すみません、現在の私には名前をはじめ、過去に関するデータがありません」
私は捨てられる際に個人データが含まれる記憶を初期化されたようで、以前はどんな人に仕えていて、なんという名前で呼ばれていたのか、いっさい分かりませんでした。
「そうなんだ。なんか寂しいね」
「人から見るとそうなのかもしれませんね。しかし、私自身には寂しいという実感はありませんので、お気になさらないでください。それにまったく何もないわけではないのです。記憶が消去されても、それまでに形成された人格は残ります」
ロボットは作られた当初こそ設定された人格ですが、人と同じように時を重ねていくにつれて、個性を持つようになるのです。
「私が今まで得た物はちゃんと残っているのです」
「そういうもんなんだ…。なんだか不思議」
以前の主人が私の記憶を初期化したことは至極当たり前のことなので、そうされたことに悲観はありません。ただ、なぜ道に捨てられていたのかは、気にかかることではありました。
中古店や、回収業者に頼む方法もあるのに、なぜ道に捨てるという選択をしたのか。よほど差し迫った事情があったのか、あるいは私を憎んでいたのか。
しかし今となっては分かり得ないことでした。
「そうだ。ねぇ、あんたにはあたしがどんな風に見える?」
話題を変えてくれようとしたのか、ヒマリちゃんはそんなことを訊いてきました。しかし、それはいくぶんおかしな質問でした。
「どんな風とは?」
「見たままを言ってくれれば良いよ」
少しためらいましたが、私は言われるまま率直に答えました。
「外見から10代の少女と見受けられます。しかし十分な食事を取っていないのか、同世代の少女よりも痩せすぎているのではないでしょうか。
それから、ずいぶんとたるんでしまった服を着ています。物を大切にしているのかもしれませんが、身なりに無頓着のように映ってしまっています」
私の感想を聞いた彼女はなんとも渋い顔をして、自分が着ている首回りのたるんだTシャツを見直しました。どうやら彼女の自尊心を傷つけてしまったようです。
「うん、ありがとう。…こんなことなら、もっと良い服に着替えてからあんたを起こせば良かった」
「気に障ることを言ってしまって、すみません」
「ああ、良いのよ。あんたは何も悪くないんだから」
そう言いながらも、彼女は恥ずかしそうに立ち上がり、「ちょっとお手洗いに」と洗面所へ歩いて行ってしまいました。
その間、私は室内を観察しました。私はずっと部屋の中に違和感を覚えていました。それは未成年であるはずのヒマリちゃんが、1人暮らし用の狭い家で暮らしていること。そして家具は彼女の分しかないことでした。
それを私は無視できませんでした。
少し身だしなみが整えられて戻ってきたヒマリちゃんに、私は尋ねました。
「ヒマリさんは、1人で暮らしているのですか?」
そう訊いた途端、笑顔を浮かべていたヒマリちゃんの顔から表情が消えました。そして次の瞬間には唇の先を引きつらせ、自虐的な笑顔を浮かべていました。
「そうよ。あたしね、親に捨てられちゃってるの」
訊かないわけにはいかなったとは言え、想定していたいくつかの可能性の中でも一番辛い答えを彼女に言わせてしまい、私は悔やみました。
「…そうでしたか。すみません」
ヒマリちゃんは見下ろすように私の前に立ちました。天井の照明が逆光になって、彼女の表情を不確かにさせます。
「ロボットのあんたには見えてるから分からないでしょうけど、あたしの姿ってね、人には見えないんだ」
それはまるで場違いな冗談のようでした。からかっているのかとも、最初は思いました。けれど、逆光の中の彼女の顔は、10代の少女とは思えない、何かを諦めてしまったような冷めた目をしていました。
「あたしは透明人間なの。だから捨てられたんだ」
信じられないことですが、ヒマリちゃんは“他人に知覚してもらえない”という奇妙な体質を持って生れてきてしまったのです。
正確には透明人間とは違い、ちゃんと目に見える肉体を持っています。それなのに、周りは彼女を知覚することができないのです。たとえ目の前にヒマリちゃんが立っていても、相手は彼女にまったく気付かずぶつかってきます。
触れれば相手にも感触は伝わりますが、感触が伝わるだけなので、まるで幽霊に触られているような感覚なのだそうです。
原因は不明。臨床例もほとんどなく、治療法や解決法はまったく分かっていませんでした。
両親すらヒマリちゃんを知覚できないので、まともに子育てをすることもできず、産まれて数ヶ月で彼女のような特殊な体質を持った子供の面倒を見てくれる施設に預けられたそうです。
そして生活費などは振り込んでくれるものの、物心ついた頃から会いに来てくれたことは一度もありませんでした。
ヒマリちゃんは16歳になった今年から、施設を出て1人で生活するようになりました。施設の人たちには反対されましたが、彼女はそれを押し切ったそうです。
「施設の人たちはみんな良い人だったよ。でも見えない私はどうしても他人に気を遣わないといけないから、しんどかったんだ」
1人暮らしをするようになってからは、必要最低限の人としか会わないよう、欲しい物はすべてネットで購入し、家からほとんど出なくなりました。
「学校もネット授業だしね」
小学生の頃に、登校制の学校に入学してみたことがあったそうです。クラスメイトはみんな優しかったのですが、みんなに気付いてもらうために、動くたびに声を出して自分がどこにいるかを主張しないといけないし、みんなもヒマリちゃんとぶつかったりしないよう気を付けて行動しないといけませんでした。
一ヶ月も経たない内にクラス中が気疲れしてしまい、ヒマリちゃん自身もストレスで通えなくなってしまいました。
それ以来、ずっと彼女はネット制の学校で授業を受けています。
そんなヒマリちゃんは、雨の日が好きでした。
夜は人の数こそ少ないですが危険なので、雨の日によくカッパを着て散歩するそうです。そして偶然捨てられている私を見つけたのです。
「私ね、ロボットや機械には、ちゃんと知覚してもらえるの」
まだ解明中だけれど、おそらく人の脳がヒマリちゃんを知覚できないのだろうと、お医者さんは説明していたそうです。例えレンズ越しに見てみたり、写真や動画で撮ってみたりしても、写っているのに気付いてもらえません。
ですが自動ドアなどセンサーで反応する物は、問題なくヒマリちゃんを認識してくれましたし、街にいるロボットたちもヒマリちゃんに反応してくれました。家に来る配達員も、いつもロボットを指定しています。
「だからね、働けるようになったらお金を貯めて、いつかロボットを買おうと思ってたんだ。そしたら、あんたを見つけたの。
素性の知れない捨てられてるロボットを拾っていいものか悩んだけど、せっかくのチャンスを無駄にできないって思った」
そこまで言うと、ヒマリちゃんは姿勢を正し、私を見つめて言葉を続けました。
「あんたも捨てられて独りぼっちなんでしょ。ならさ、あたしと一緒に暮らしてくれない?」
ヒマリちゃんはずっと世界から孤立していました。そして私を必要としていました。私はロボットです。必要とする人がいるのなら、喜んで仕えます。
「もちろんです。あなたの力にならせてください」
「やった! じゃあ、まず新し名前を付けてあげないとね。
そうね…うーん。あっ、そう言えばもうすぐ七夕か…」
ヒマリちゃんはそわそわと立ち上がり、彦星…アルタイル…とぶつぶつ呟きながらしばらく部屋の中をうろうろ歩き回った後、また私の前に座り直しました。
「アルタ。今日から、あんたの名前はアルタよ」
「私は、アルタ」
「そう、アルタ」
「素敵な名前ですね。ありがとうございます。ヒマリさん」
「へへへ」
ヒマリちゃんは照れくさそうにしながらも、得意げに笑いました。
名前を付けてもらえるというのは、私たちロボットにはとても重要なことです。
ロボットにはいろいろいますが、私は人の役に立つために作られた量産型のロボットです。外見も搭載されている技能も基本的な性格も、他の量産機と同じです。だから、名前は得ることは、一個体として見てもらえた証明であり、それは私たちにとってとても誇らしいことなのです。
だから、
「そうだ、あたしのことは、ヒマリさんなんて堅苦しく呼ばなくても良いからね」
「…では、ヒマリちゃんではどうでしょう?」
「うん、それならオッケー。これからよろしくね、アルタ」
「はい、ヒマリちゃん」
そこで、私はまず初めに彼女のために料理を作ることにしました。私には初期技能として基本的な家事の技術が搭載されています。
「ヒマリちゃんが痩せているのは、1人暮らしで偏った食生活をしているからでしょう。成長期にはきちんとバランスの取れた食事を食べないと、これからの成長に影響を及ぼしてしまいます」
食べたい物を訊くと、施設にいた頃は決まった献立の食事が出てきたし、1人暮らしになってからはレトルト食品ばかりだったので、好物も好みの味もないと言われました。
そこで私は一般的な家庭料理として、カレーを作ることにしました。
しかし冷蔵庫には食材がなったので、近くのお店に食材を買いに行きました。
買い物から戻ると、家の前で心細そうにヒマリちゃんが立っていました。
「どうして外で待っているのですか?」
「いや、なんか、このまま戻ってこなかったらどうしようって、心配になって…」
その様子は、まるで留守番をしていた幼い子供のようでした。でも、無理もないのかもしれません。ヒマリちゃんにすると、ついさっき約束したばかりの私が、必ず戻ってくるという保証はないのですから。
私は1人で買い物に行ったのは軽率だったと、反省しました。
「大丈夫ですよ。さあ、中に入りましょう。これから美味しいご飯を作りますよ」
ほどなくしてカレーが出来上がりました。私たちはテーブルを挟んで向かい合わせに座り、私は感想を聞くためヒマリちゃんがご飯を食べるのを見守りました。
「いかがです?」
「うん、すごく美味しい。やっぱりレトルとは全然違うね」
一口食べた彼女は、笑顔になりそのまま二口三口と食べ続けてくれました。
「よかった」
しかし、食べ続ける内に手が止まり、スプーンを置いて泣き出してしまいました。
「どうしました? 辛すぎましたか?」
彼女はボロボロと涙をこぼしながら、必死に首を横に振りました。
「違うの。ずっとね、ずっと憧れていたの。誰かにちゃんと私を見て、話して、笑いかけて欲しかったの。私はここにいるって、分かって欲しかったの」
自分がいることを誰にも分かってもらえないというのは、想像を絶するほど辛く孤独なことなのでしょう。ヒマリちゃんは、今までずっとそれに耐えてきたのです。
「今まで辛かったですね。もう大丈夫です。私にはあなたがちゃんと見えていますよ」
私は彼女の隣に寄り添い、涙が止まるまでずっと頭をなでてあげました。
その日から、私とヒマリちゃんは家族になったのです。
ヒマリちゃんの家は殺風景で、必要最低限の物しかありませんでした。
「せめてもの罪滅ぼしのつもりなのか、生活に困らない程度のお金を振り込んでくれるけど、極力使わないようにしてるの」
衣類も数着だけ。しかもどれも裾が伸びていたり、穴が空いていたりしていました。
「どうせ誰にも見えないんだから、オシャレする必要もないし」
女性として外見に無頓着なのは如何なものかと思いましたが、ご両親のお金を使いたくないという彼女の意志を尊重し、買い替えをうながさず、穴を補強するなど今できる限りのことをしました。
そんなヒマリちゃんが唯一お金を使ったのが、花を買うことでした。
部屋にはいつも花が飾ってあり、窓辺にあるお気に入りのアザレアの花に、よく話しかけていました。
「花は話しかけてちゃんと手入れしてあげれば、私の気持ちに応えるように綺麗に咲いてくれるからね」
他人に表情を見せることがなかったヒマリちゃんは、感情を表に出すことが得意ではありませんでした。もちろん喜怒哀楽はありますが、普段は無表情です。
「アルタはいつも笑ってるね」
「そうですか?」
「うん。その方が一緒にいて気持ちが良いね。私も見習わなきゃ」
そうやって意識する内に、だんだんとヒマリちゃんの笑顔は増えていきました。
外見にも気を遣うようになりました。
プロほどの技術はありませんでしたので切りそろえてあげる程度でしたが、私が髪を切ってあげて、髪型も気まぐれに変えるようになりました。
「どう、この髪型?」
「よく似合っていますよ」
時々、2人で散歩に出たりもしました。
周りの人からは、私が独り言を言いながら歩いているように見えてしまうので、奇妙な目で見られることがありました。私は一向に構わなかったのですが、家に帰るとヒマリちゃんが「アルタが変な目で見られるのが嫌だ」と悔しそうに言うので、やはり人目の少ない時を選ぶようにしました。
私たち2人の生活は、緩やかなものでした。
私は彼女の願いは、できるだけ叶えてあげるよう努めました。
しかしヒマリちゃんは、多くを望みませんでした。彼女は私が見ているというだけで幸せそうでした。そんな当たり前のことでさえ、彼女は今まで得られていなかったのです。
眠れない夜などには、ヒマリちゃんはポツポツと昔の話をしました。
「一度だけ、こっそり親に会いに行ったことがあるの」
14歳の頃、住所を頼りに家に行ってみたそうです。
そこには幼い男の子と楽しそうに出かけるご両親がいました。弟は、ヒマリちゃんと違って普通に見えていました。
それはそれは幸せそうな姿でした。
出発する車の前に飛び出そうとする衝動を必死にこらえて、彼らを見送ったそうです。
施設の人から聞いた話によると、最初ご両親は泣きながらヒマリちゃんを預けに来たそうです。こんな体に産んでしまってごめんねと、ずっと生まれたばかりの彼女に謝っていました。
そんなご両親は、預けたばかりの頃こそ毎日のように会いに来ていましたが、やがてだんだんと来る回数は減っていき、1年を過ぎると全く来なくなりました。
会いに行った時に見た弟は、ヒマリちゃんとはずいぶん年が離れていたそうです。きっともう一人を産むことにはたいへんな葛藤があったのでしょう。また見えない子が生まれてしまったらどうしようと。でも彼らはもう1人子供を産むことを決め、そして無事普通の子が産まれてきたのです。
彼らはヒマリちゃんに目を反らし、2人だけで過去を乗り越えて前に進んでいったのです。
「悲しかったけど、いろいろと踏ん切りがついたよ」
月の光に照らされて、膝を抱えて縮こまりながら話すヒマリちゃんは、憐れむような顔で淡々と話していました。
高校を卒業すると、ヒマリちゃんは人と会わずに自宅でできる仕事を見つけ、すぐに働くようになりました。
そして今まで使っていなかったお金を、すべてご両親に返しました。最後となる手紙を添えて。
詳しくは私も読んでいません。ただ、昔一度会いに行ったことがあること、もう私のことは忘れてしまってかまわないことをつづったようです。
「恨み辛みも書いてやろうかと思ったけど、馬鹿馬鹿しいから止めたの」
ご両親に別れを告げたことに、後悔はしていないようでした。それでも、返事の手紙が届き、それを読んだ後は、しばらく泣いていました。
それ以後、ヒマリちゃんとご両親が連絡を取り合うことはありませんでした。
ヒマリちゃんは家にばかりいましたが、決して友達がいないわけではありませんでした。電子空間上で、よく友達と会話しています。
彼女たちとは顔を合わせる必要がないので気楽ですし、何より体質のことを打ち明けても受け入れてくれた、数少ない方たちでした。
その友達の中には男性もいて、ヒマリちゃんは楽しそうに話をしていました。
その内、男友達の中から彼女を本気で好きになったと言いだす方が現れ、実際に会ってみたいと誘われました。
ヒマリちゃんは今まで恋愛をしたことがなかったし、そもそもできないと思っていので、驚く同時に悩みました。しかし彼女の選択肢の中に、付き合うという選択はないようでした。
「失敗するって、目に見えてるよ」
寂しそうに、ヒマリちゃんは言いました。
「前に私と同じ体質の人が集まるサイトに行ったことがあるけど、みんな恋愛は無理だって言ってた。お互い、傷付くだけだって」
しかし、私はそれだけは納得することができませんでした。ヒマリちゃんにだって幸せになる権利があります。そのチャンスを、自らの手で放棄させるわけにはいきませんでした。
私は消極的な彼女を後押ししました。やがてヒマリちゃんも前向きに考えるようになり、男性と会うことになりました。
目印も兼ねて、待ち合わせだけは私も付き添いました。
男性はタクタカさんと言ました。会ってみると、彼はとても好感の持てる方でした。
「すっごい疲れた。でも、楽しかったよ。アルタ以外の人と出かけるなんて、何年振りだろうね」
デートから帰ってきたヒマリちゃんは嬉しそうに、その日あったことを話してくれました。タクタカさんは終始彼女に気を遣い、優しかったそうです。
「会う前に、自分なりに私の体質について調べてくれたんだって。嬉しかったよ」
それから2人は何度かデートを重ね、付き合うようになりました。
その頃のヒマリちゃんはとても幸せそうでした。苦労さえも、楽しんでいました。
それから数年付き合い、ヒマリちゃんが25歳の時、結婚を前提に同棲することにしました。
私は2人を祝福し、ヒマリちゃんと暮らしていた家で、毎日2人の幸せを願いました。
もうすぐ私は用無しになるかもしれない。これからはタクタカさんが私の代わりに、ヒマリちゃんの隣を歩くのです。それはとても喜ばしいことなのだと思いました。
しかし、1年後ヒマリちゃんはボロボロになって帰ってきました。
どちらかが悪いわけではありませんでした。2人とも一生懸命乗り越えようと努力しました。でもダメだったそうです。
「やっぱりあたしは、他人と暮らすのは無理だったよ」
ヒマリちゃんはさめざめと泣きました。
「別れる前に、あたしたちケンカをしたの。理由なんてささいなことよ。最近はケンカばかりしてた。その時、明後日の方を向いて怒る彼に思わず「あたしはここよ! ちゃんとこっち見てよ!」って怒鳴っちゃったの。そしたら「そんなの、無理だよ」って彼がつぶやいた。その時ね、分かったの。ああ、もうダメなんだって」
出会ったばかりの頃のように泣きはらすヒマリちゃんを見て、私は昔のように頭をなでてあげました。ひとしきり泣いた後、彼女は真っ赤な目で私を見つめました。
「ねぇ、アルタには私が見える?」
それはすがるような目でした。思えば、この時のヒマリちゃんは冷静さを失っていたのかもしれません。
「ええ、安心してください。私にはヒマリちゃんがちゃんと見えていますよ。初めて出会った時から変わらず、間違いなくヒマリちゃんはここにいます」
その言葉を聞くと、彼女は微笑み、そのまま疲れたように目を閉じると、私にもたれかかりました。
「じゃあ、もうアルタさえいれば良いや。だからずっと私といてね。約束だよ」
元はと言えば、彼と付き合うのを勧めたのは私です。その結果、ヒマリちゃんは深く深く傷付いてしまいました。ロボットである私は、私を必要とする人が望むように仕えるべきだったのです。
「分かりました。約束します」
私が頭をなで続けると、彼女は安心したのか眠りにつきました。
それから、私たちはずっと2人で暮らしました。
ヒマリちゃんは進んで2人で出かけるのようになりました。他人に見えていようがいまいが自分はいるのだから、どう見られていたって気にする必要はないと思えるようになったそうです。
ヒマリちゃんと同じ体質の子供がテレビで紹介され、周知されるようになったのも、彼女を後押ししてくれました。
私たちはあちこちへ旅行に行くようにもなりました。
「アルタももう年代物なんだから、いつ壊れちゃうか知れないし、まめにチェックしないとね」
そう言って、彼女はよく私をメンテナンスに連れて行きました。
私は彼女の願うことは、なんでも叶えました。
ただ、ヒマリちゃんはあれ以来、男性と付き合おうとはしませんでした。
それからの数十年は、特筆することもないような、穏やかな緩やかな生活が続きました。
しかし67歳の時、ヒマリちゃんは重い病気にかかり、ずっとベッドの上で生活するようになってしまいました。治る見込みは低く、彼女は日に日にやつれていきました。
「宇宙に行きたいわ」
そんなある時、窓から夜空を眺めていたヒマリちゃんが、そう言いました。
昔の一時期、火星旅行に行きたいと話していたことがありました。しかしその年に火星行きの旅客機が事故に遭い、大勢の方が亡くなったというニュースが流れてすっかり怖気づいてしまい、それっきり宇宙旅行の話が話題に上ることはありませんでした。
「ほら、見て。流れ星がたくさん降っているわ」
病室の大きな天窓から見える星空に、いくつもの光の流線が現れては、消えていきます。
「綺麗ね…。大昔から、流れ星に願い事をすれば叶うって言われてるけど、本当かしら。
私ね、治ったら何がしたいかを考えたの。そうすればもっと治そうって気持ちが湧いてくるでしょう。だからね、治ったら、一緒に宇宙旅行に行きましょう」
「ええ、約束します。きっと一緒に宇宙へ行きましょう」
私はヒマリちゃんのやつれはてた手を握りながら、約束を交わしました。
「約束よ」
彼女は力ない笑顔を、精一杯私に向けてくれました。星空には、今なお無数の流れ星が降り注いでいました。
でも、その後ヒマリちゃんの病状が回復することはなく、3ヶ月後に亡くなりました。
「アルタ…」
亡くなる前、意識が混濁した状態で、ヒマリちゃんは私の名前を呼びました。
「私のそばにいてくれて、ありがとう…」
それがヒマリちゃんの最期の言葉でした。
参列者のいない葬儀を粛々と済ませ、私は一人きりになった家へ戻ってきました。
すると、部屋の花がすべて枯れてしまっていました。彼女が亡くなる数日前から家に帰っていませんでしが、それでも急に枯れるはずがありませんでした。まるで花たちも、ヒマリちゃんの死を悲しんだようでした。
私はヒマリちゃんの荷物を整理することにしました。
ヒマリちゃんの遺品にはどれにも想い出があり、整理をしながら私はヒマリちゃんと過ごした日々に思いを馳せました。
すると、箱に入ったペンダントを見つけました。ヒマリちゃんがそのペンダントを付けていた記憶はあまりありません。私はそのペンダントを初めて見た時の記憶を、呼び出しました。
それはタクタカさんと別れて5年ほど経った、ある日のことでした。
「見て見て」
ヒマリちゃんが届いたばかりのペンダントを、手の平に乗せて私に見せてくれました。それは彼女の好きな、アザリアの花をあしらったデザインでした。
「綺麗ですね。ヒマリちゃんによく似合うと思いますよ」
彼女が装飾品を買うのは珍しいことだったので、私は少し驚きました。そして当の彼女は、さして嬉しそうな顔をせず、付けてみようともせず、指の隙間からチェーンを垂らして揺れるペンダントを眺めていました。
「これね、私のDNAが入ってるの」
ぽつりと、そうつぶやきました。
最近、愛用のアクセサリーに自分のDNAを混ぜるのが流行っているのだと、ヒマリちゃんは教えてくれました。自分のDNAが混ざったアクセサリーは付け心地が良いと言われて話題になっているけれど、信憑性はないそうです。
「私のDNAは他人にも見えるのか、興味本位で作ってもらったんだけど、ちゃんと作れたみたいね」
揺れるペンダントを顔の横に持って行き、ヒマリちゃんは微笑みました。
「どう? これが唯一他人に見える、私」
「とても綺麗ですよ」
けっきょく彼女がこのペンダントを身に付けたことはほとんどなく、ずっと仕舞い込んだままでした。
しかし、これは紛れもなくヒマリちゃんの一部でした。そして私には、まだ果たせていない約束がありました。
「一緒に宇宙旅行に行こう」
私は、今まで彼女の願いは、なんでも叶えました。だから、この約束も叶えなければいけないのです。
私はペンダント以外の遺品を処分し家を引き払い、火星へ向かうことにしました。
しかし、火星行きの船に乗れるほどのお金は残っていなかったので、輸送会社の方に頼み込んで、火星へ物資を送る無人輸送船に乗せてもらいました。
その輸送船に、運悪く隕石群がぶつかってしまったのです。船は粉々になり、他の荷物と一緒に私も宇宙空間に放り出されました。
私はこのままヒマリちゃんとの約束を果たせないまま、永遠に宇宙を漂うのかもしれないと思いました。しかし、とても低い確率ですが、誰かに助けてもらえる可能性も残っていました。
だから、私は自分でスリープモードに入ったのです。ヒマリちゃんのペンダントを無くしてしまわないよう、しっかりと握りしめて。
だから…。
「だから、私を見つけてくれてありがとう。トーワくん」
アルタの顔が、満面の笑みを表示した。
トーワはポロポロと、涙の粒を宙に浮かべて話を聞いていた。
「ぼく、アルタを見つけられて良かったよ」
「ええ、おかげで、私はヒマリちゃんとの最後の約束を果たすことができそうです」
アルタは愛おしそうにペンダントを見つめた。
「アルタはヒマリのことが大好きだったんだね」
涙が落ち着いたトーワが、そう感想をもらした。アルタもヒマリもお互いとても愛しあっていたのだ。そう、トーワは何の疑問もなく思った。
しかしアルタは同意することなく、しばらく沈黙した。
「違いますよ。これは主従関係です」
やがて、アルタはきっぱりとそう答えた。
「そうなの?」
「そうです。ロボットは人に仕えるために存在しているのです。そもそも人は生物で、ロボットは機械です。恋愛なんてできるわけがありません」
それは好きかどうかの答えではなかった。
「…そうなんだ」
トーワは納得していない様子だったが、アルタが有無を言わさぬ勢いだったので、それ以上は追求しなかった。
「アルタは、これからどうするの? やっぱり地球に帰りたい?」
「そうですね」
形見だけとなってしまったが、ヒマリちゃんとこうして宇宙に辿り着いた。約束を守れたとまで言うつもりはないが、できうる限りのことはできたと思う。
しかしそれと同時に、これから先すべきこともなくなってしまった。もし地球に帰ろうと思っても、考え得る手段は探索船にでも救助してもらうしかないので、現状ではとても困難だろう。そこまでして戻る理由など、アルタにはなかった。
「まだどうすべきか思いつきません。だから、思いつくまでこの星でトーワくんのお手伝いをしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろんだよ!」
トーワは嬉しそうにまたアルタに抱きついた。
焦ることはないのだ。しばらくはこのトーワくんと一緒に、この星の上で宇宙を旅してみよう。アルタはそう思った。
孤独な宇宙の片隅で、宇宙人とロボットを乗せ、砕けた夢の欠片でできたガラクタの星は廻り続けるのだった。
ガラクタ彗星のほしくず 石動 友(イスルギ ユウ) @miyafukin
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