第23話 森に住む親子 ルトとルシカ

 ルシカが目覚めたのは,シンシア城の大火災から三日後のことだった。

 全く状況がつかめない,自分が生きている実感さえわかないルシカに,わかりやすく事態を説明してくれたのは,以前三の区印刷場で出会った男・・・ニックだった。

 ニックとともにいた男,ハミルが実は貴族であり,国王となる立場であること。自分はハミルに助けられ,このクリスタイン家の屋敷に運ばれたということ。重傷だった自分を看病しあらゆる手を尽くしてくれたのがまだ幼い少女だということ。

「この子が,君を助けた医術師のサマンナだ」

 そう紹介された少女は遠慮がちに頭をさげ,ルシカの身体の状態を診てくれた。

「あなたが,ルトさんの息子の・・・ルシカさんですね」

 ルシカの胸を横切る傷の具合を確認しながら,サマンナは小さな声で言う。ルシカは目をみはった。

「父さんを知っているんですか?」

 少女は無表情のまま,それでもどこか柔らかい表情でうなずいた。

「私は,あなたのお父さんにたくさん助けられました」

 そして,真っ直ぐな瞳でルシカを見つめた。

「ルシカさん。あなたのお父さん・・・ルトさんは,まだ生きています」

 その言葉にルシカは驚きに目を見開いた。







 ルトは広い野原でずっと眠っていた。

 優しい風に頬を撫でられ,ルトは目を覚ます。

(ここは・・・?)

 緑がどこまでも広がり,草や野花が揺れ,空は青く澄んでいた。

(綺麗だ)

 自分が今どんな状況に陥っているのかわからなかったが,ルトは純粋にそう思った。ルシカが描く絵に似ている,優しい風景だった。

(俺は,死んだのか)

 身体中の傷が消えている。あのリャオという少年に斬りつけられ,ルシカの目の前で死んだのか。そう思うと,やりきれなさがこみあげ,ルトは顔を歪めた。その時だった。

「ルト」

 名をよばれ,ルトは弾かれたように顔をあげる。いつの間にか,隣に一人の女性が座っていた。風にゆるやかな黒髪が波打つ。懐かしい甘い香り。

「ナリィ・・・」

 ルトが呆然とつぶやくと,ナリィは微笑んだ。ルトのよく知っている,どこか勝気な笑み。

「久しぶりね,ルト」

 ルトは唖然と彼女の顔を見つめていたが,すぐに納得した。自分は死んで,ナリィがいる場所に来ることができたのだ。愛しい人に会えたという喜びとともに,彼女に対する後ろめたさが溢れてきて,ルトはナリィから目をそらす。

「・・・ごめん」

 ナリィは大きな目を瞬かせた。

「なにが?」

 ルトはうつむいたまま,つぶやくように言う。

「俺は,ルシカを守れなかったよ」

 自分が殺されたあと,ルシカはどうなってしまっただろう。殺されるか,あるいはもっと酷い目にあっているかもしれない。何より,父である自分が死ぬところを間近で見せてしまった。

「君と,約束したのに」

 ナリィのぶんまで,ルシカを守る。そう決めていたのに。自分はルシカに何もしてやれなかった。それどころかとてもつらい目に遭わせてしまったのだ。

 顔をあげようとしない夫を見つめ,ナリィは優しく彼の髪を撫でる。

「そんなことないわ」

 ルトが思い詰めた瞳でナリィの方を見る。ナリィは安心されるように微笑んだ。

「あなたは私のぶんまで,親として精いっぱいのことをしてくれた」


――・・・さん


 ナリィの言葉に重なるようにして,誰かの声が聞こえた気がした。

「聞こえる?ルト」

 ナリィが立ち上がり,問う。ルトは困惑しながらもうなずいた。


――父さん





 ニックに肩をかしてもらいながら,ルシカは父がいるという部屋に案内された。あの庭で,リャオがルトを斬りルシカを連れ去ったあと,偶然そこを通りかかったサマンナが,すぐに応急処置をしてくれたらしい。そして,ルトを捜していたクリスタイン家の兵が二人を見つけ,彼を屋敷に運びこんだのだという。ルトが倒れていた位置がクリスタイン家の屋敷に近かったこと,ラウガの息のかかった兵は殆ど城中で放火の作業をしていたので,庭の見張りが少なかったことが幸いした。

「手は尽くしましたが,かなり危ない状態です」

 サマンナが暗い声で言う。感情があまり表に出ない子だが,父のことを本気で心配してくれているのがルシカにもわかった。


 父は白く広い寝台に横たわっていた。


 痩せた上半身は服の代わりに包帯が巻かれ,胸から腹にかけてうっすらと赤が滲んでいる。顔は白く,呼吸をしているかもわからない。その姿は今この瞬間にも消えてしまいそうなほど儚く見えた。

「父さん・・・」

 ルシカはふらふらと父のもとに行き,すがりつくように寝台にしがみつく。

「意識が戻らないんです。どうしても・・・」

 サマンナの涙ぐんだ声が後ろから聞こえた。ルシカはルトの頬に触れる。冷たかった。

「父さん・・・!」

 せっかく会えたのに,ここで父が死んでしまったら,自分はどうすればいい?

 もう父を捜しにいくこともできない,絶対に手の届かない場所へいってしまう。

「父さん,父さん」

 父に話したいことがたくさんある。どうしても聞いてほしい気持ちがあるのに。

 ルシカは必死に父の名を呼び続けた。






「ルシカ?」

 ルトはつぶやいた。風にのって聞こえてくるこの声は,たしかにルシカのものだ。ナリィはうなずく。

「ルシカは,ちゃんと生きてる」

 その言葉がルトの胸に響いた。彼は驚きに目を見開く。

 ルシカが,生きている。

「・・・酷い目に遭っていないだろうか」

 思わず問うと,ナリィは困ったように眉を下げた。

「それは,自分の目で確かめてみて」

 ルトははっとする。ナリィの姿が,まわりの風景が,先より色あせていた。

「ナリィ・・・?」

 彼女は一歩後ろに下がり,ルトと距離をおく。

「ねえ,ルト。ここで,私とずっと一緒にいたい?」

 優しく吹く風が,二人の髪を揺らす。

 何の苦しみもなさそうな,穏やかで優しい楽園。

「それとも,ルシカのところへ戻る?」

 ルトは息をのんだ。

 このあたたかな場所で,愛する人と再びともに過ごすことができる。

 それは甘い誘惑だった。

 たった一人,自分が心から愛した女性のそばに,もう一度いたい。

(・・・だが)

 しめつけるような胸の痛みを感じながらも,ルトはうなずいた。

「もし,まだ戻ることができるなら,俺は戻りたい。ルシカのもとに」

 自分はルシカの父親であり,仕事のパートナーなのだ。あの子のそばにいたい。あの子とともに生きたい。それは自分の責任であり,望みだった。

 ナリィの顔に,安堵の色が浮かぶ。

「そう言ってくれてよかった」

 彼女が堪えきれないというように,こちらにかけよりルトに抱きついた。ルトも腕をまわし,強く抱き返す。

「ルト,ごめんね。ルシカをよろしくね」

 今にも消えそうな声で,ナリィがささやいた。ルトはうなずく。

「ああ」

 腕の中の彼女のぬくもりが,消えていくのがわかった。ルトは目を閉じて,最後までそのぬくもり,感触を身体に刻みつける。


 たとえ遠く離れても,自分達はまた会える。


 再びここを訪れるとき,彼女に恥じることのないよう,精一杯生きよう。自分の物語を綴り続けよう。ルシカのことを守り続けよう。

 ルトの思いが彼女に伝わったのか,彼女は最後にルトの耳元でつぶやいた。

――ありがとう








 目を開けると,そこにはルシカがいた。涙をためた,まだ幼さが残る瞳で,こちらを見つめている。

 ルシカが,無事に目の前にいる。

「・・・ルシカ」

 うまく声がでなかった。かすれた音で名を呼ぶと,ルシカがくしゃくしゃに顔を歪ませる。

「父さん」

 やっと会えた。ルシカはそう思った。ようやく,ちゃんと父を見つけることができた。

 父さんは,ここにいてくれる。

「・・・ただいま」

 ルトがすこし笑ってそう言った。震える手をのばして,ルシカの頭を撫でてくれる。

 そうだ。自分はずっと,その言葉を聞きたかった。今まで何度も何度もかわされたやりとり。その言葉を聞くために,自分はここまで来れたのだ。

 ルシカも泣きながら微笑んだ。

「おかえり,父さん」








                  *






「そんなことがあったのかよ」

 ルトから話を聞き終え,バルはそうつぶやいたきり言葉を失った。身体の力が抜けて,思わず背もたれによりかかる。

「ああ」

 苦笑している弟・・・ルトはうなずいて,バル特製の茶を一口すすった。


 ルトとルシカが帰ってきたのは,三日前の夕時だった。

 二人がバルの家を訪れたとき,バルは驚き,安堵と喜びで二人をかき抱き大声で泣いた。今思い返すと恥ずかしいのだが,それくらい安心したのだ。二人がいなくなって約二ヶ月。こちらがどれほど心配したか。

 二人が戻ってきてから三日間は,ばたばたしていてゆっくり話す時間もなかったが,今日の夜ようやく余裕ができて,眠ったルシカを見守ったルトがこのバルの家に訪れたのである。

 ルトもルシカも以前より痩せて,どこか疲れたような悟ったような顔をしていた。ルトの背中には一面に火傷の痕があり,胸から腹にかけての切り傷が生々しく残っている,見るも無惨な身体になっていた。二人とも,「心配かけてごめん」と何度も謝ってきたが,謝るくらいなら最初から無謀なことはしないでほしい。

(まあ,ちゃんと帰ってきたから,許してやろう)

 バルはそう思いながら茶をすすった。一人で飲むよりずっと美味い。

「しかし,王都からここまで,その身体でよく戻って来れたな」

 バルが言うと,ルトは首を横にふった。

「王家の人が,森の前まで馬車で送ってくれたんだ」

 ルトが目覚めてから,二人は二週間近くクリスタイン家の屋敷で療養させてもらった。だが,その間ついに,屋敷の主・・・ハミルに会うことはできなかった。そのかわり,何かと世話をやいてくれるニックが国の近況をこまめに教えてくれた。

 城が燃え,ラウガが死んだことで王家が根絶やしになり,国中が混乱しているということ。ハミルが正当な王位継承者であることを主張しても,最初は誰も信じず,ハミルが城に放火したのではないかという疑いまでかけられた。

 だが,ルシカの証言により,ピルトの森にある巨大な死の施設の存在が明るみになり,それを機にラウガの残虐な行為が明かされつつある。ハミルも元々多くの人望を集めていたため,そのハミルを新たな王として迎え入れようとしている人々も多くいるとのことだった。

「あの施設に閉じ込められていた人たちは,みんな保護したよ。・・・それでも,何千という途方もない数の人が亡くなってしまった」

 ニックの言葉を,ルシカは痛ましいような苦しそうな表情で聞いていた。

 今までクリスタイン家と足並みをそろえてきた御三家やその他クリスタイン家が王家となることをよく思わない人々との話し合い,かけひきは続いており,状況は混乱したままだが,希望もあった。

 それは,ラージニアとの交流だった。ラージニア国王,クロア・シャングランが亡くなり,その一人娘であるナターラ・シャングランがラージニア初の女王となった。

 彼女はシンシアとの有効な関係作りをのぞみ,ハミルもまたそれに応えて,活発に交流が行われていた。

 ラウガの手によって連れ去られ,利用され殺されたラージニアの人々の問題についても,シンシア側の謝罪と多額の賠償金によって一区切りつけることができた。

「苦しみ死んでいった人々のことを思うと,胸が痛んでなりません。シンシア王国が犯した残虐な行為は,決して許すことのできるものではありません。・・・ですが,だからこそ私たちは手をとりあって歩んでいかなくてはならないのです。互いを憎み合っていては,いつまで経ってもこのような悲劇がくり返されるでしょう。――我がラージニアとシンシア,国民を守るため,ともに助け合っていきましょう」

 ナターラ女王は涼やかな声でそう言って,ハミルに手を差し出した。ハミルは迷うことなくその手を強く握ったという。

 混乱し不安定な日々が続いているが,それでも確かに国は良き方向へ向かっているようだった。

 



「そうか」

 納得したようにバルがうなずき,二人の間にしばし沈黙がおちた。ルトは闇が広がる窓の外を見つめながら,ふとサマンナのことを思い出す。

 ラウガの配下で暗躍していた兵たちは皆牢に入れられたが,彼女はただの医術師見習いとして,捕まることはなかったのだ。彼女は最後まで身体を診てくれ,ルトとルシカが王宮を去るとき,見送りに来てくれた。

「君は,これからどうするんだ?」

 ルトが尋ねると,彼女は少しはにかんだ。

「・・・父がむかし働いていた診療場に行ってみようと思って。ここに来るまで働かせてもらっていたから,もう一度雇ってもらえないか頼んでみようと思います」

 そう語ったサマンナの表情は柔らかく穏やかだった。ルトは微笑む。

「そうか・・・。――サマンナには,本当に世話になったよ。ありがとう」

 すると彼女は首をふった。

「お礼を言うのは,私の方です。・・・ありがとうございました」

 感情を押し込め,無表情で話していた頃の面影はもうそこにはなかった。年相応の穏やかで聡明な少女だった。





 バルの家を出たあと,帰路につきながら,ルトはポケットの中に一通の手紙を入れっぱなしにしていたことに気がついた。

 それは,ハミルからの手紙だった。王宮を出るとき,袋にぎっしりつまった礼金とこの手紙をニックが渡してくれたのだ。手紙は便箋三枚にわたって綴られており,多忙な中で自分とルシカのためにこれをしたためてくれたのだと思うと,彼の人柄の良さがうかがえた。

 手紙には,ルトやルシカに対する礼が丁寧に書かれており,国の状況,そしてラウガのことも綴られていた。

 迫害された民族の生き残り。ラージニアを,人間を憎み滅ぼそうとしていた男。多くの人を傷つけ殺した張本人。

 今思い返すとラウガの瞳にはどこか悲しい色が漂っていたような気がした。

 炎の中で,あの男は何を思って死んでいったのだろう。

 おこがましい考えかもしれないが,自分の物語やルシカの絵で彼の心を少しでも救うことはできなかったのだろうか。






――あの茶髪の少年は,“僕はルシカの友達です”ってはっきりと言っていたよ

 ルシカは寝台に寝ころがりながら,ハミルの手紙に書かれていたことを思い出していた。

 リャオが十年近くラウガに仕え,多くの人々を殺してきたこと,ラウガのすぐ側にリャオのものとおぼしき焼死体があったことを,ルシカはその手紙で知った。

 きっと,自分とリャオは互いに出会うはずのない存在だったのだろう。それでも,ルシカとリャオはともに旅をし,多くの時間を過ごした。

 それは,ルシカにとって何にも代えがたいものだった。

(リャオも,そう思ってくれていたのかな)

 父も自分も,彼に斬りつけられながらも生き残った。きっとリャオなら,自分達の息の根を確実にとめていたはずなのに。

 きっと手加減をしてくれたのだ,と父は言っていた。心のどこかで,ルトとルシカを殺すことをためらっていたのだと。

 そうであってほしい,とルシカも思った。


――絵だって素晴らしいよ。特にこの,秋の花畑の絵が好きだ

――じゃあさ,ぐちゃぐちゃでもいいから話してよ。思ってること,話してるうちに頭の中整理されるもんだし

――君は絶対にお父さんを見つけ出すんだ


 ルシカ。


 自分の名を呼んで,笑ってくれたリャオも,主に従い多くの人の命を奪ったリャオも,自分は忘れない。

 ルシカは天井を見上げる。何年も見てきた自分の家の天井がとても懐かしく感じる。

 旅に出てから,三ヶ月もたっていないのに,なんて濃密で長い時間を過ごしたのだろう。

 ルシカはこの三日間ずっと,父に言おうと思って言えずにいたことがある。今日こそ言おうとルシカは寝台に入っても眠らずにいた。

 遠慮がちに扉が開く音がして,ルシカはゆっくりと起き上がった。



 ルトが家に戻ると,階段からルシカがおりてくるのが見えた。

「起きていたのか」

 少し驚いて声をかけると,ルシカは小さくうなずいた。

 ルシカはしばらく見ないうちに少し背が伸びた。帰ってきてから長かった髪をばっさりと切り,ぱっと見では別人のように思えてしまう。

「父さん,あのね,聞いてほしい話があるんだ」

 ルシカが少し緊張した面持ちで言った。なんだが,声も少し低くなったような気がした。

「どうした?」

 ルシカは階段の前に立ったまま,まっすぐにルトの方を見つめている。

「・・・父さん,俺,もうトレラ・アーレベルクをやめようと思うんだ」

 ルトは虚を突かれ目を見開いた。ルシカは困ったようにうつむく。必死に言葉を選んでいるときの顔だった。

 ルトが物語を書き,ルシカが絵を描く。二人で一人の絵本作家,トレラ・アーレベルク。

「俺,ずっと父さんの物語に絵をつけるのが大好きだったんだ。ほんとにもう一生,父さんの物語に絵をつけて,トレラとして生きていこうって思ってた」


――これからは,もっとたくさんの本を作ろうね,父さん

 いつかのルシカの言葉が,ルトの耳の奥に響く。


「でも,父さんを捜して旅をしていて思ったんだ。俺は誰かのために,絵を描いていきたいんだって」


――俺は,自分の思うままに絵を描くことしかできないや。誰かのためとか,考えたことなかった


「たくさんの人と出会って,たくさんのものを見て,いろんなことを思った。人と関わるのが初めて楽しいって思ったんだ。俺の絵を見て喜んでくれる人達と出会って,俺はこういう人達のために絵を描いていきたいんだって」

 ルシカは震えながらも,父から目をそらさなかった。

「俺,もう一度旅に出ようと思うんだ。もっとたくさんのものを見て,たくさんの人に会いたい。そして,絵を描きたいんだ。自分が思ったこと,感じたこと・・・誰かのために,絵を描いていきたいんだ」

 ルシカはそこで言葉をきった。彼はルトの返事を待っている。ルトは何も言えなかった。ただじっと,ルシカを見つめていた。

 誰とも遊べず,友達もつくれず,ただ絵を描き続けていたルシカ。

 自分で自分を閉じ込め,人との関わりを避けていたルシカ。

――父さん,俺ってどこか変なのかな?

 自分に自信を持てず,絵を描くことで自分を守っていたルシカが,自分の意志で,自分の足で森の向こうへ歩み出そうとしている。


 ああ,ナリィ。


 ルトは心の中で,愛する妻に語りかけた。

 この子は,いつの間にこんなに大きくなったんだろう。大きくなってしまったんだろう。

 もう,自分が守る必要もないくらいに。

「俺が」

 ルトは泣きそうになるのをこらえて言った。

「反対すると思ったか?」

 ルシカが少し目を見はる。ルトは微笑んだ。

「帰ってきたとき,どんな絵を見せてくれるのか,楽しみにしているよ」

 そう言うと,ルシカの瞳から涙がこぼれた。ルシカは泣きながらうなずいた。

「ありがとう,父さん」

 ルトが物語を書き,ルシカが絵を描く。二人は絵本作家だった。ナリィが死んでから,二人はそうやって互いを支え合ってきた。

 これからもルトは物語を書き続けるし,ルシカも絵を描き続ける。

 今度は自分だけの物語を。自分だけの絵を。




 朝日をあびて家の前に立つと,父を捜しに旅立った日のことを思い出した。

 あの時は不安で,心細くて,恐かった。

 だが今は,後ろをふり返れば父と伯父がいてくれる。

 ここには帰る場所があり,森の向こうには自分を迎え入れてくれる人がいる。

 そして,絵を描き続けたいという,自分だけの夢がある。

「気をつけてな,ルシカ!」

 バルがルシカの肩をつかんでぶんぶんふった。ルシカは「大丈夫だよ」と笑った。

「いつでも帰っておいで」

 ルトが静かな声で言う。その顔には優しい笑みが浮かんでいた。こんな自分を一人で旅に出すなんて,きっと不安だろうに,父も伯父も自分を信じて見送ってくれる。

「行ってきます」

 たくさん出会ったものたち。これから出会うものたち。

 自分はこれからも,描き続けよう。


 新しい朝,新しい光に向かって,ルシカは一歩踏み出した。

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ルシカ―絵を描く旅人― @harumasiki

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